第3話
「ラグナロク、だって……!」
「うそ……ただの御伽噺じゃ……」
「それじゃ、戦争……?」
「遂に……」
刹那にして、動揺が喧騒を纏って伝染する。講堂内を満たしていくさざめきを、今度は誰も止めようとはしなかった。
動揺するのは想像の範囲内、ということか。ひとしきり揺らしておいた方が得策だとでもいうのだろうか。
いや、それにしても――。
「ねえ、ヨシ」
「ヨシって言うな。なンだよ」
背をちょんと突付いて振り向かせた善は、あまり驚いてはいないようだった。
「あのさ、質問があるんだけど」
前置きに善は少し考えて、もしかして、と眉をひそめた。
「『ラグナロクって、何?』ってか?」
「すごい。どうして分かったんだい?」
「いや……お前なあ……まじかよ」
「何が?」
どうしてそんなに呆れた顔をしているのだろう。きょとんと首を傾げた真白に、善は心底呆れたように、深々とため息をついた。
「な、なんだい。ヨシも知らないの?」
「知ってるよ馬鹿! むしろ知らない方がどうかしてる。お前、創世記、知らないのか?」
「…………興味なくて」
「じゃあ、ドラマでも漫画でも演劇でもいい、『四華闘紀』は?」
「し、しか……? ごめん、分からない」
「…………あのなあ……。じゃ、じゃあ、御伽噺の『ミハシラ物語』は? 知ってるよな」
ああ、と真白は手を叩いた。
「それは聞いたことがある。確か四人の神様がそれぞれの国のために戦って……ん? ミハシラ?」
「そう、それだ。それが現実の話で、これから、いや、昨日のあれから、その戦いが始まってるんだって話だよ」
「え、いや……でも」
しかしそれは、ただの御伽噺だ。愛国心を育てるために誰かが作ったフィクションだ。だってそうだろう、現実に神様がいて、炎やら氷やらを操って戦うなんて、そんなのあるはずが――。
――炎?
「静粛に。これから、恐れ多くも我らがミハシラ様から、生徒諸君、そして国民全体に、お言葉を賜る。姿勢を正して静聴するように。……では、ミハシラ様」
再度の注意喚起に壇上を見る。学院長は舞台袖に会釈すると、その場をすっと退いた。
そして、濃紅の幕から姿を現したのは――
「クっ……!」
「こんにちは……じゃなくて、おはようかな。ボクが、秋のミハシラの、クレナイです。よろしくねー」
――下ろしたてのような白。絡みつく茨をそのまま縫い付けたような緻密な金の装飾。それらに負けず彩りを放つ真紅の髪。
そして、ビイドロを思わせる透明な、碧眼。
屈託ない笑みでひらひらと手を振る”神”は、確かに、クレナイと、そう名乗った。
「ちょ、ヨシ、ヨシ!」
「なンだよ、うるさいな! 静かにしろよ」
「いやだってあれ! うそ、クレナイがミハシラって!」
「昨日お前が言ってた、助けてくれた人だろ? つうかミハシラ様を呼び捨てにすンなよ」
「え……えええ?」
声を潜めて話したが、しんと静まり返った中では目立ってしまう。しかし周りの目を気にする余裕はなく、真白は戸惑いの表情で、壇上の恩人を見上げた。
クレナイが、御伽噺に出てくる、いわゆる神様だと。到底信じられない。
だけど――あのとき、彼が炎を出したのを、確かに目撃している。そして何より、彼自身が、「ミハシラ」だと名乗っている。
もはや疑いようもない。でも。疑問符と一緒に逆接ばかりが浮かんでくる。
本当に――本当に、君がミハシラなのか?
混乱した頭でただその顔を見つめる。
と、
「あ……」
ふと、クレナイと目が合った。ニコリ、彼は破顔する。
彼は確かに、昨日の彼だ。そう確信する。漸く、脳が理解までに至り、納得に一歩踏み出した。
クレナイはすっと真白から視線を外し、一通り人々を見回した後、顔をしかめた。
「……えー……っと。ね、学院長さん。あと何話したらいい?」
「は……できれば、国民に激励を頂きたく存じます」
「激励? あー、そーゆーの苦手なんだよなー……コホン。ええと、さっき学院長さんが言ったように、ラグナロクが始まってしまいました。ラグナロク、については、各自調べてくださいね。……うーん。ボクも、というか、ボクが頑張らないといけないんですけど、この通り、ちょっと頼りない感じでして。あはは。いやでも、これはどうしようもない問題でね、ボクとしては年齢相応に、付け髭でもつけて今日のこの会に臨もうかと思ったんですけど、学院長さんに止められちゃって」
「……ごほん。ミハシラ様?」
「おっとっと。まあ数百年以上も生きててこんななので、温かい目で見守ってください。……でも、命は粗末にしないでくださいね。以上……こんな感じでいい?」
「……ありがとうございました」
――間違いなく、クレナイだった。人を引き込む明るさも、場を和ませる雰囲気も、ノリの軽さも、紛れも無く彼だった。
生徒もマスコミも、そして教師も、皆唖然としている。恐らく、想像していたミハシラ像との相違に戸惑っているのだろう。ラグナロクとかミハシラとか、ぼんやりとした知識しかない真白でさえ、まさかと思ったくらいだ。善の言うように常識であるならば彼らの衝撃は如何ほどのものか、想像に難くない。まさか、あれだけ年若い見た目で、話し方も軽くて、話が途中で脱線して、時折学院長に確認を求めるような神様がどこにいよう。目の前にいるのである。
そんな場の雰囲気にクレナイは面白そうに笑んで、再び舞台の中心に立った学院長の脇に下がった。
「皆、誠心誠意、ミハシラ様のお力となるように。ミハシラ様は、我ら秋の国民のために戦って下さる。我らも、命を懸けてお仕えしなくてはならない」
「いや、だから、命は懸けないでって」
「本日から、世界規模での戦争が始まる。否、昨日から始まっている。我らは出鼻を挫かれたが、勝敗はまだ決していない。国民が一体となり、ミハシラ様の道を妨げるものを排除せねばならない」
「…………」
厳粛に紡がれる言。いつしか講堂は緊迫と、そして戦意に張り詰めていた。
真白は正直戸惑っていた。戦争。戦争といえば想起するのは「死」だ。
誰だって死にたくない。殺すことも、簡単に言うけれど、想像さえ易くない。
――だけれども、既に戦は始まっている。
どうしようもなく、逃れようもなく。始められてしまっている。それを昨日、真白たち学院の人間はまざまざと見せ付けられた。
ならば。「生きる」ために戦うしかないのなら。
この手に、武器を握るべきなのか。
周囲を見回す。誰もが決意を終わらせたのか、ただ前を見つめている。
もはやミハシラの人間性など眼中に無い。国民は、ミハシラという概念だけを見つめていた。
自分たちを「守る」存在を。
「秋の国民よ! ミハシラ様のため、国のため、そして我ら自身の繁栄と安寧のため、死力を尽くし、戦おうではないか!」
学院長の喊声に、一瞬の静寂。それから、おおおお、と応の声が講堂に満ちる。それは、自分自身だけでなく、お互いを鼓舞するものだった。
死への恐怖。殺への畏怖。それは上から分厚い絵の具で塗り潰される。
死なない。そう思わなければ、戦えなどしない。
死なないからこそ、戦う。とんでもない矛盾は、しかしこの現状で立つ唯一の”理屈”だ。
――戦争が始まる。
ラグナロクの仕組みは、よく分かっていない。後で調べないといけない。
だが、今の真白には、一つの事実だけでよかった。
沙那の、同級生の仇を討つ。
ただ、それだけで、いい。その思いだけを胸に、真白は皆と声を合わせ、腕を振り上げた。
「…………」
その様子を、一人、クレナイだけが、冷めた目で見ていた。
カツン。杖の音が響く。高まった戦意はそのままに、再三やってきた静謐は熱に満ちている。
学院長はぐるりと生徒全体を見回し、それからクレナイに目配せした。
「……代々、ミハシラ様が目覚められた折には、日々のお世話や仕事の補佐をし申し上げる世話役――守護者をつけることとなっている。今回の場合それは、ミハシラ様の御身を守護する、重大な役が主眼となる。その守護者を、生徒諸君から選びたいと思う」
波のように生まれ消える騒。その潮騒は不安でなく期待から成っていた。それだけ、ミハシラの守護者というのが、名誉ある役目なのだろう。生徒の中でも優秀な成績を修める者は、自分が選ばれるのではと目を輝かせているようだった。
しかし、真白に言わせれば、それだけ死に近くなるということだ。ミハシラは確かに強い。それは真白自身が保証する。しかし、他国のミハシラもまた強いはずだ。言ってしまえば、剣でなく盾。ラグナロクにおける守護者に求められることといえば、それだ。
クレナイは――きっと、盾にしようとはしないだろう。だが、周りはどうだろう。学院長は、枢密院は。きっと命に代えてもお守りしろとでも言うに違いない。そんなのは、正直真っ平ごめんだった。
もっとも、罷り間違っても自分が選ばれることはない。真白はほとんど他人事のように事の成り行きを見守っていた。
「な、なあ、誰が選ばれるのかな」
善が興奮した表情で話しかけてくる。対する真白はといえば、冷め切っていた。
「さあね。トップクラスの優等生だと思うよ」
「だよなー……くそっ俺ももうちょい頭よかったらなー!」
「……キミは、そんなに死にたいのかい?」
思わず、疑問が口をついて出ていた。善は、目を丸くして、
「はあ? バッカ、死にたくないから戦うンだろ?」
「でも、ミハシラの……ミハシラ様、の近くにいるってことは、より危険に近くなるってことだよ」
「……それでも、ミハシラ様のために死ねるンなら、いいかなあ」
度し難い。どうしてそこまで、ミハシラに陶酔できるのだろう。誰かのために死ねる、だなんて、真白にはどうにも賛成しかねる考えだった。
それが、家族や、恋人だというならともかく。相手は、結局のところ、赤の他人だ。
そんな思考が表情に出ていたらしい。善は分かりやすく顔をしかめた。
「……お前は、ラグナロクとかミハシラ様について全っ然知らないから、分からないンだ。勉強したら、お前も変わるよ」
「……だといいけどね」
皮肉を零しつつ、周りを見渡す。
きっと――周りにいる皆、善と同じ考えなのだろう。目の輝きを見れば分かる。
それは、心酔、洗脳とでも言うのではないだろうか。
ただの御伽噺に、それだけの魔力があるとでもいうのか。
――沙那は。もし沙那が生きていたら、どう思うのだろう。やはり、彼らと同じなのだろうか。
「守護者は、最優秀クラスの一組の中でも、特に成績のよい者から――」
「あー、それなんだけどね学院長」
学院長の言を遮ったのは、静観していたクレナイだった。ミハシラの直々の言葉とあって、全ての視線がそちらへ集まる。クレナイは少し居心地悪そうに苦笑した。
「守護者って、必要かなあ。ボク、今までも守護者つけるの断ってきたんだよね。正直、不要じゃない?」
「しかし、そういう決まりごとです。それに、いざというときにミハシラ様をお守りするには、常にお傍近くに控える者がいなくてはいけません」
「決まり、ね……。けど、その守護者がボクより強いならともかく、そんな人がいるようには思えないな。むしろボクがその子を守るようになるんじゃ、本末転倒だよ」
ごもっとも。やはりクレナイはそう考えるだろう、真白は密かに頷く。
しかし学院長は、それもやはりというべきか、想像通りの言葉を発した。
「それについては、返す言葉もございません。しかし……貴方様の剣となることだけが、守る術ではありません」
「……ふうん?」
「盾、としての有用性は、彼らの目を見れば、お分かりいただけるでしょう」
その言葉を聞いて――慄く目は、真白には、見つけられなかった。
クレナイは、しかし生徒たちを確認することはなく、
「……成程ね」
全てを了解していたであろうに、それで初めて得心したかのように頷いた。
「ならさ」
「はい」
「せめてボクに選ばせてくれない? 守る云々はともかく、傍にいるんじゃ、気が合う子じゃないとね」
「……仰せのままに」
少し渋い顔をした学院長だが、逆らう気はないのだろう。彼の生徒たちは遍く「盾」としての有用性はあるらしいから、誰であろうと構わない、ということだ。恭しく礼をし、手に持っていた分厚い冊子を手渡した。名簿だろう。きっと生徒全員の顔と名前、成績などが載っているに違いない。
あんなものを見ても、気が合うかどうか分からないだろうに。呆れた目で見守る中、クレナイは受け取った冊子にろくに目も通さず閉じて生徒たちを見た。ほとんどの生徒たちが、自分を選んでもらおうと背筋を伸ばし彼を見つめる。
熱心なことだ。目の前でぴんと張られた善の背にちょっかいでもかけてやりたくなる。
「うーん……じゃあねー……」
早く選んでくれないだろうか。正直もう寮に帰りたい。ラグナロクについて調べて、それから、沙那の仇を討つために特訓しないといけないのだ。昨日みたいに、怯えて守ってもらうだけじゃいけない。
それじゃ、大切なものを、守れない。
「よしっ。じゃあ、あの子にする!」
明朗な声に、やっと決まったかと顔を上げれば――
「え……」
パチリ、と。クレナイの綺麗な蒼の双眸と、かち合った。
「えー……っと? 真白ちゃん? だっけ。あの子あの子、銀髪の、ほら、あそこにいる」
「し、しかし、その者は六組の」
「なぁに? ボクの決定を覆すわけ?」
「っいえ、そのようなことは。……ほれ、そこの君。早くこちらへ」
「……はあ? え、ええっと」
一体、何が、どうなっているのか。混乱の極みにある真白の頭を、善がぱしっとひっぱたいた。
「痛っ」
「は、早く行けよぉ! 別に、悔しくなんか、ないンだからなあ!」
「な、何泣いてるんだいヨシ」
「ヨシって言うな馬鹿ああぁ」
お決まりの文句を言いながらも、善はよよと泣き崩れてしまった。対応に困る真白を、壇上では学院長が呼んでいる。教師陣も早く行けと言わんばかりに見てくるし、生徒たちに至っては、
「なんで、六組が……」
「凡人のくせに……」
いわれもない僻みを囁く。理由ならこちらが訊きたい、そんなにやりたいなら代わってやる、と言いたいのだが、
「え、守護者の子も紹介するの? うわー、めんど……いや何でもない。真白ちゃーん、悪いけど、こっち来てくれるかなー?」
この事態を引き起こした渦中の人物から大声で名前を呼ばれては、逃げるわけにもいかなかった。
つまり、守護者に選ばれた、ということだ。何故か、などと考えたところで分からない。平々凡々な頭脳ではミハシラ様の崇高なお考えを推し量ることなどできるはずもない。辞退は――できないか。ともかくも、クレナイに直に申し立てるしかないのだろう。
とりあえず、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかなかった。こういう、皆の注目を集めるようなことには慣れていない。無駄だと知りつつも、なるべく体を縮め、足早に舞台へと向かった。
壇上に上がった真白に、クレナイは、
「あはは、ごめんねー真白ちゃん。まさかこんなことになるとは思わなくてさ」
と、全く申し訳なくなさそうに笑った。無性に蹴飛ばしたい衝動に駆られる。しかし、できない。できるわけがない。むしろ、どう言葉を返していいのかさえ、分からなくなってしまった。
「……いや……ええと、その」
「そこの。真白といったか。こちらへ」
「あ、は、はい」
学院長に手招きされ、マイクが置かれた台の前へと立つ。
ここからは、講堂全体がよく見渡せる。嫉妬と羨望の目で見上げる生徒たちも、厳しくも優しい目で見つめる教師たちも、シャッターを切るマスコミも、否応なしに一望できた。
あのカメラは、もしかして、生中継だろうか。故郷の皆が見ているかもしれない。いやそれ以前に、十中八九全国中継だろう。今、全国民に姿を晒していると思うと、恥ずかしくて頭が沸騰しそうだった。
「彼女が、ミハシラ様に直々に選ばれ、守護者となりました。これ以上の名誉はありますまい。さ、何か一言」
「え、わ、わたしが?」
「君以外に誰が言う。守護者としての意気込みを語りなさい」
「は、はあ……」
そんなもの、これっぽっちもない。
こういうことは、本当に、苦手なのに。どうしてこんなところに立って、フラッシュを焚かれているのだろう。お前のせいだとクレナイに目を向ければ、
「がんばれー」
そんな呑気かつ無責任な応援を、清々しい笑顔で送ってくれた。
決めた。後でこれでもかと責めてやる。
真白は腹を括って、深呼吸した。
「正直、何故わたしが選ばれたのかは、分かりませんが……ミハシラ様を、精一杯、お守りする所存です。頑張り、ます」
口からでまかせ、というのではないけれど――実感が湧かないということ以上に、たとえば今前に座っている彼らのように、使命感などというものは、欠片も持ち合わせてはいない。
一拍置いて、教師たちから拍手が起こる。それが講堂中に広がり、はちきれんばかりになった。
早く舞台から降りたい。そんな一心で、生徒たちを見ることもできず、ひたすら台を凝視する。そんな真白の肩を、ぽんと叩く手があった。
「あ……クレ、ナイ」
舞台の端の方にいたクレナイが、いつの間にかすぐ傍に来ていた。周りのことを忘れ、普通に名を呼び捨ててしまった真白に、クレナイは小さく口端を上げて片目をつぶった。
「学院長さん、まだ何かしなきゃいけないことある?」
「いいえ、ミハシラ様のお手を煩わせるようなことは何もありません」
「そう。じゃあもう帰っていい? この子とも少し話したいし」
「……分かりました。諸君、ミハシラ様はお疲れのため、辞去される。盛大な拍手を以てお見送りするように。……それでは、ミハシラ様、どうぞ。君も行きなさい」
「じゃあねー」
「あ……は、はい」
すたすたと何の気負いなく歩き出したクレナイに慌てて従い、舞台袖に入る。そこには講堂の裏口があるのだ。
「真白ちゃん、こっち」
てっきり裏口から出るものだと思っていた真白は、クレナイが手招きする方が全く違う方向なのに首を傾げた。
「そっちに行ったら戻ってしまうよ」
「いいのいいの、秘密の抜け道ー」
先まで二人がいた舞台を、中幕で挟んだ後ろ側は、ただの壁しかない。こんなところにいってどうするのか。問おうとした真白を、唇に人差し指を立てて制し、クレナイは、壁のちょうど中央辺りに手を当てた。
刹那、クレナイの掌から光が溢れる。それは幾筋もの軌跡となり、一つの紋章を描き出した。
「わ……」
光の紋章が完成した途端、壁に真四角の亀裂が走り、何もないはずの向こう側に開いた。
隠し扉だ。唖然とする真白を促し、クレナイは中へ入っていく。
続いて中に入った途端、鼓膜を圧迫するほどだった拍手の音が、掻き消えたように聞こえなくなった。
「すごいでしょ、これ。学院ができた頃からあるんだよ」
「え、でも、学院の創立は、千年以上も前だよね。そんな昔から、こんな技術が?」
「技術、かあ。これはほとんど人智を超えたものだよ。ミハシラの力があって初めて成り立つ。……というか、この施設有りき、と言った方がいいかもね」
「……ここが最初にあって、それからここを囲むように学院を作った、ということ?」
「そうそう。それ以前から、国の事業として特権階級に限り英才教育は行われてきたんだけど、こんな風に機関として成立したのはその頃。ボクが――生まれた後かな」
「クレナイが? でも、ミハシラって、要するに神様みたいなものだろう? ミハシラが国を作るんじゃないの?」
「……今はそんな風に教えてるの?」
「あ、いや……わたしは御伽噺しか知らないし、それも曖昧だから、わたしが間違ってるのかも」
「うーん、まだ目覚めて二日だから教育内容を調べてないんだけど、実際のところは違うんだよ。ま、追々ね」
中は暗い。十メートルほどの長く細い廊下の向こうに淡い光が見えるが、それ以外の光源はない。迷いなく進んでいくクレナイからなるべく離れないようにして続いた。
「……クレナイ」
「うん?」
「本当に、キミが、ミハシラなの?」
「あはは、信じられない?」
「……うん、正直。でも、納得できる部分も、ある」
暗闇の中、クレナイが苦笑したのが分かった。
「間違いなく、ボクがミハシラだよ。残念ながら、ね」
「……残念?」
それ以上クレナイは口を開かず、真白もそうするのがいいように思えて、黙々と足を動かす。
ほどなくして、開けた場所に出た。
「……ここは……?」
「目覚めの間――ミハシラが眠り、目覚める場所だよ」
部屋自体は六角形で、横にまっすぐ半分に区切った向こう側は、澄んだ水が湛えられている。風もないのにたぷたぷと揺れる波が、部屋を照らす燈の光を反射し、壁や天井に不思議な揺らめきを与えていた。
だが、どこか、聖池自体が淡い光を放っているように思えるのは、気のせいだろうか。
引かれるようにして、クレナイから離れて池に近づく。水が綺麗だからか、底が意外に浅いのが容易に見て取れた。
「この池、浅いけど広いね。なんだか、何かあるはずのものが無いみたいな、奇妙な空間というか……」
「――ふむ」
感心したような声を漏らし、クレナイは真白の隣に立った。
「真白ちゃんって、意外に感覚が鋭いんだね」
「……意外ってなんだい」
「あはは、そこは流してほしいなあ。この池には――そうだ、真白ちゃん、初めて会った場所覚えてる?」
「……校舎の横の、蓮池?」
「そうそう。あの池は、ここを模したものでさ。ここには、それはもう巨大な蓮があったんだよ。妙にすかすかしてるのはそのせい」
「巨大な蓮?」
巨大、と言うからには、この池をまるごと覆うくらいはあったのだろうか。そんなものがこの世に、なんてのは、考えたところで無駄だと分かっている。何せ隣に、現実離れが形を成したような男がいるのだ。
「その蓮はどこにいったの?」
「消えちゃった」
「消えた? そんなに簡単になくなるものなのかい」
「まさか。役目を終えたから、蓮自身が消えることを選んだんだよ」
よく分からない。そんな思いがそのまま表情に出ていたのだろう。クレナイは可笑しそうに笑った。
「さて――真白ちゃん、あんまり知らないんだよね? ボクらや、ラグナロクのこと」
「……恥ずかしながら」
「まあー……何言ってるんだか全然分かりません、って顔してたの、キミくらいだもんねえ」
「み、見てたの?」
そんなに顔に出ていたとは。今更ながら、恥ずかしい。
「そりゃあ。知ってる子はキミだけだもん」
「……もしかして、だから、わたしを守護者に選んだの?」
「あ、そうだね、それも話さないとだめか……んー。先にミハシラについて話してからでいい? その方が分かりやすいと思うよ」
そう言われれば、返す言葉もない。真白が頷くのを見て、クレナイは、ごめんね、と眉を下げた。
「――創世神話は、知ってるかな」
ゆらゆら揺らめく水面。触れれば冷たそうだが、なぜか、何の温度も感じないようにも思える。確かめる気にはなれず、それに続く短い階に腰掛け、クレナイの問いに首を横に振った。
「原初には、濁った水たまりがあった。それは海と呼ばれるんだけどね、全ての生命の源であり、いずれ帰り着く先と言われている。その海に、小さな芽が生えた。それは瞬く間に大きくなり、世界樹となった。これは――キミもさすがに知ってるよね?」
「うん。その世界樹の三本の枝にそれぞれ、夏・秋・冬の国があるんだろう?」
「そうそう。でもそれはもう少し先の話。世界樹の頂上には、怖い怪鳥が棲んでいてね。ニーズフォルって言ったかな。世界樹を荒らすんだよ。しかも海の方には、ニーズヘッグっていう竜もいて、根っこをかじるんだ。海に住む原初の三女神は、自分たちは海を離れられないから、四人の戦士を作り出し、ニーズフォルを退治に行かせた」
クレナイは床に寝転がり、淡々と説明する。高価な服だろうに、粗雑に扱っては学院長に怒られるのではないだろうか。関係ないことをぼんやりと考える。
「途中ニーズヘッグが邪魔したりして、色々苦難はあったけど、四人はめでたくニーズフォルを倒した。四人は自分たちの故郷、海へと凱旋しようとして――帰れなかった」
「え、なんで?」
「三女神が、ニーズヘッグの退治に失敗したんだ。かろうじて生きてはいたけど、肝心のニーズヘッグは悠々としている。だから女神たちは仕方なく、ニーズヘッグを海から追い出すために、毒を撒き散らした。それが、瘴気だ。肉体を持つものは著しい損害を受ける。ニーズヘッグは海を逃れ空に舞い上がり、今も、国の下の方の空にはいるって話」
「瘴気……じゃあ、女神も危ないんじゃ?」
それは大丈夫、とクレナイは笑った。
「女神は幽体だからね。いくらなんでも、自分をも犠牲にはしないさ」
「そっか……」
「説明を続けるね。瘴気のせいで、戦士たちは海に帰れない。仕方なく、樹の上の方で生きていくことにした。とはいえ、それまで三女神の庇護の下、何の苦しみもなく生きていた戦士たちは、自分たちだけで生きていくことができなかった。樹は生長しすぎていてね、上の方まで三女神の力が及ばないんだ。結局彼らは死に、その魂は海へと帰還した。三女神は、彼らをむざむざ死なせてしまったことを悲しんだ。そうして、その魂に報いるため、新たな役目を授けたんだ」
ひょい、とクレナイは起き上がる。そうして、中空に白い手袋で覆われた掌を差し出した。
「クレナイ?」
「見て」
上向けた掌。そこに――何の前触れもなく、炎が出現した。それは瞬く間に膨れ上がり、ぱっと弾ける。
「これ、は……?」
炎の繭の中には、真紅に輝く、花があった。
菱形の花弁を四片組み合わせ、それを幾重にも重ねた花。とろりと光が流れる様は、硝子細工のように硬質に見えて、だが、息をしているかのような、生気のようなものを感じる。目には見えない、鼓動のようなものが胸を強く打って――そう、これは、畏怖だ。この花に秘められた神性に、途方もない通力に、真白は畏怖していた。
クレナイがぎゅっと拳を握れば、花は跡形もなく消えた。室内に充満していた、気道を圧迫する重圧がふっと掻き消えて、詰まっていた息を吐き出し呼吸を繰り返す。その様子に、ごめんごめん、とクレナイは申し訳なさそうに笑った。
「今のが、ミハシラの正体」
「え……?」
「三女神は、戦士たちに、樹の上の方の平安を司るという役目を与えた。だけど彼らの肉体は滅びてしまっているし、あったところで、また死んでしまう。だから、世界樹の花として、命を芽吹かせた。さっきのが、その花。そうして彼らは、火を、氷を、風を、……その全てを上手く混ぜ合わせ中和する力を司った。それが、ミハシラの本来の意味。ここまではオーケー?」
「う、うん……」
「樹の上の方は、生物が暮らしていける理想的な空間となった。だから三女神は、新たな命を生み出し、そこに住まわせた。犬、猫、鳥、蛇、虫、その他諸々……それから人。そこには多分、未だ空を飛ぶニーズヘッグへの牽制もあったんだろうけど。色んな生物が樹の幹や枝に住まい、春夏秋冬、四つの国が作られた。ミハシラたちは、そんな生命の営みを見守っていた。……ところが。悲劇は起きた」
「悲劇?」
「ミハシラは強大な力を持っている。人々はそれを奪い合い、争い……ほとんど壊滅的になった。ミハシラは、所詮花だからね。自分たちで動くことはできないんだ。それぞれの力を”司る”だけで、行使するわけじゃない。悪用する人の手に落ち、力を使われれば、抗うことはできない。だから彼らは……肉体を得ることを選んだ」
「肉体を、得る?」
それが、もしかして、クレナイたちなのだろうか。見つめる真白に、クレナイは小さく微笑んだ。
「とはいえ、三女神にお願いして作ってもらう、わけじゃない。自分たちが信頼できる人間を、依り代にするんだ」
「依り代?」
「そう。一つの体の中で、体の元の持ち主と、ミハシラとが共存する。それが、ボクたちミハシラ。今じゃ、人も花もミハシラって呼んでたらややこしいから、人がミハシラ、花の方は、花晶って呼んでるね。花に、水晶の晶」
つまり――今の花が、ミハシラで。それがクレナイという人間の中に入って、ミハシラになる、ということか。
なら、クレナイは、元はただの人間の男の子だった、のだろう。なんだか想像がつかなかった。
「体を得た四人のミハシラは、器と協力し、争いを収めた。そして、それぞれは、今までのように世界樹に咲いて生きるのではなく、枝にできた土地に、人間たちが作った四つの国に分かれて暮らすことにした。……ミハシラは、言ったと思うけど、強い力を持っている。それを宿した人間も当然、その強い力を行使することができるし、何より、年を取ることがなくなる。不老になるんだ。そんなミハシラたちを、人々は神として崇め、国の象徴として祀った」
「じゃあ、クレナイは、そんな昔からずうっと生きてるのかい?」
「長生きでしょ」
ふふ、とクレナイは冗談めかして笑う。その笑みは無邪気で、とてもあの学院長の何倍も生を重ねた先達には思えなかった。
「この国の盛衰を、クレナイはずっと見てきたんだね」
「そうでも、ない」
そう言って足を組み替えたクレナイの口調に、真白はどこか違和感を覚えた。だがそれが何なのか掴めぬまま、クレナイは語りだした。
「如何に不老と言えど、元は人間だ。ミハシラの、尋常じゃない力によって生かされているにしても、その肉体にはいずれガタが来る。だからミハシラたちは、何度か長い――数百年単位の眠りにつくんだ。寿命をできるだけ延ばすためにね。眠るときは、ここにあった蓮華の中で眠る。目覚める時期は、一定じゃない。眠る時期もね。でも一度、何の因果か、全てのミハシラが覚醒する時がある。そのときが、ラグナロクの始まりなんだよ」
「……結局、ラグナロクとは何なんだい?」
「それは――」
不意に、言葉が途中で消える。不思議に思ってクレナイを見ると、
「……クレナイ?」
彼はじっと、こちらを見ていた。
まるで、目を通して心を見透かすかのような。その性状を推し量るかのような。
そのまっすぐな目に耐え切れなくて、真白は目を逸らしてしまった。
「……それは、自分で調べてくれるかな」
「え?」
突然の拒絶に驚いて、視線を戻す。クレナイは、困ったように眉を下げていた。
「実は――ボク、あんまり、上手に説明できる自信ないんだよね」
「……ええ?」
そんな馬鹿な。さっきまで、それに昨日だって、丁寧に説明をしてくれていたではないか。困惑する真白に、クレナイは、だってね、と人差し指を立てた。
「昨日、ボク、結界の話をキミにしたと思うけど、十全に理解できた?」
「え……と、」
「今までの話だって、概念の話じゃなく事実の話だから理解はできたと思うけど、ミハシラの力の説明のとき、あんまり表情が芳しくなかったよね」
「あ、いや、それは……その」
「それって多分、ボクの説明がいけなかったんだろうなって思うと……ラグナロクの話は難しいから、自信無くなっちゃって……」
はあ、とクレナイはうなだれる。これはつまり、理解力の無い自分がいけないのではないか。もしかして、さっきじっと見つめてたのは、本当に理解しているのかどうか量っていたのだろうか。
罪悪感、の三文字が、どんと真白の肩にのしかかった。
「そ、それは、クレナイのせいじゃないよ。ただわたしが馬鹿なだけで」
「学院に入学したんだ、そんなことあるわけないよ。それに比べてボクは、学が無いから……ごめんね真白ちゃん、こんな頼りないミハシラで」
「いやだから……分かった、自分で調べるから、そんなに落ち込まないでくれ」
「真白ちゃんは優しいね……」
俯けていた顔を小さく上げ、クレナイは弱々しい笑みを浮かべた。だがそれも、すぐにため息で消えてしまう。相当沈んでいるらしい。
困った。こういう、人の気持ちを慮るだとかそういうのは苦手なのだ。
ここは――下手に慰めるよりも、話題を変えてみよう。どうせ創世神話やラグナロクについては、自分で調べれば分かることだ。
真白は努めて明るい声を出した。
「あのさ、クレナイ。どうしてわたしを守護者に選んだのか、聞いてもいいかい?」
「ああ……そっか、気になるよね」
クレナイが漸く顔をまともに上げてくれた。どうやら気持ちを切り替えてくれたらしいとほっとする。
彼は両手を背後について、重心を後ろに移した。青の双眸が天井を仰いで、幾度か瞬いた。
「うーん。名簿だけじゃ人となりが分からないし、だったら知っているキミがいいなって思ったのもある」
「も? 他にもあるのかい」
「……キミは、ミハシラやラグナロクについてあまり知らなかった。いや、それを責めるっていうんじゃないよ? でも、あの場にいた中で、それはキミくらいだったと思う。守護者を決めるときだって、諦めというよりも、どうでもいいというか、選ばれたくないっていう思いもあったでしょ?」
「そ、そんなに分かりやすかったかな」
「あはは、やっぱり。それでも選んだボクは鬼だよねー」
それにしても、舞台と真白の距離はそう短くはなかった。あんな距離でよくそこまで見えたものだ。
「ああでも、誤解はしないでほしい。君が嫌だったからとかじゃなくて……その、死ぬ危険性も高くなると思ったし、盾になれと学院長や枢密院から言われるだろうというのも予想できたから、それが嫌だと思って」
「そう! それ!」
突然クレナイが大声を上げて言を遮った。その声の大きさに思わずびくっと飛び跳ねてしまう。対するクレナイは、それには気付かない様子で、嬉しそうに笑って真白の頭を乱暴に撫でた。
「うわっちょっ」
「それだよボクが求めてたのは! いやー、さすが真白ちゃん。さすがボク!」
「ちょ、ちょっと、どういうことか分からないんだけどっ……というか、やめてくれ……!」
「あ、ああ、ごめんごめん」
漸く解放されたものの、髪がぼさぼさだ。あまり気にしないタチとはいえ、これでも一応女の子である。手櫛で整えつつ睨めば、クレナイは、ごめんってー、と両手を合わせて謝った。
「昨日から、全く……やんちゃ盛りの男子じゃないんだよ」
「そうだよね、真白ちゃんは可愛い女の子だもんね」
「かっ……」
思わぬ言葉にかあっと頬が熱くなる。そんな言葉、今まで、親と沙那以外に言われたことがない。むしろ、お前女の子だったのかくらいの返しを予想して身構えていたというのに、反則だ。
「真白ちゃん? 顔真っ赤だけど」
「なっなんでもない! 全然!」
「? ああ、もしかして褒められ慣れてない?」
この反応を見る限り、からかったというわけではないらしい。余計に恥ずかしくなるではないか。頬がこれでもかというほど熱い。
「……どうせ、犬とか猫とかに言うのとおんなじ意味合いなんだろうけどさ」
「真白ちゃん?」
「独り言。それで、求めてたってどういうこと?」
「ああ、それはね、……キミの知り合いにもいなかった? ミハシラ様のためなら命も惜しくないーって言う子」
そう言われてすぐに思いついたのは善だ。しかし、あの場の雰囲気からして、皆がそのように思っていても不思議ではない。
真白には、理解できない。だから選ばれたのだろうか。
そういうのあんまり嬉しくないんだよね、とクレナイは苦笑した。
「そんなの重いだけじゃない。正直そんな立派な男でもないし。守護者って言うからには、長い間一緒にいなきゃいけないわけでしょ? 常日頃そんな態度でいられたら、肩が凝っちゃう。それに、そういう手合いは、命大事にって言っても耳を貸さないから」
「そういえば、命は粗末にしないでって言っていたね」
「うん。……ボクはさ、おかたい貴族の出でも、軍にいたわけでもない。その辺にいた何の取り柄もない子供だった。忠誠とか、自己犠牲とか、そういうカタいのは苦手だし、それに」
「……それに?」
ふ、とクレナイの目に、淡い光が宿って揺れた。
「……生きることに執着してたから、今こうしてここにいるんだし、さ。二十にもならない若い子が、死んでもいいなんて、口にしてほしくないよ」
――何か、重い事情があるのだろう。
それを、訊く気にはなれなかった。
「大体、急に戦争って言われて、すぐに受容できるのが分からない。皆、死にたくないって思わないのかな」
「それは……」
違う。死にたくない。
だから、戦う。
そうするしかないと、明確に、ありありと、見せ付けられている。
「それだけ、昨日のことが、衝撃的だったんだ」
「だったらなおのこと、死を忌避するんじゃないの?」
「……難しいから、分からないけれど。逃げられないって、分かってるから」
クレナイが、ふっと目を伏せる。睫毛が頬に影を落として、憂いを浮き立たせた。
「本当なら、キミたちを巻き込むべきじゃないのに」
「仕方ないよ。他の国と違って軍隊はそこまで大きくないし、兵役もないから。軍学校でもあるこの学院に入った以上、有事に戦うことを承服したようなものだ」
「キミも?」
思わず、言葉に詰まった。
それだけで全て見抜いたのか、クレナイは小さく苦笑する。
「……だけど、戦うよ。わたしも」
「死ぬのが怖いのに」
「だからだよ。何もせずにいたら、死ぬからだ。……昨日みたいに」
強く言った真白に、クレナイは言葉を失う。それから、目を伏せた。
正直、舞台に立ったときは、クレナイに直々に辞退する旨を言おうと思っていた。けれど、彼の考えを聞くと、そんな気は無くなってしまった。
決して考えなしに選んだわけではないと、分かってはいた。
彼は、国民のことを、学生のことを、考えてくれている。失いたくないと思ってくれている。
その命を、守ろうとしてくれている。
ミハシラであるということが、どういうことか、正確には分からない。分かるはずもない。だけれど、守護者などとは比べられないほど重圧のかかることであろう。当然だ。国、命、未来、全てをその肩に背負うのだから。
その役を代わることも、半分こすることもできない。ならば、キミがいいと選ばれてしまったからには、その期待に応えよう。彼に寄りかかるのではなく、犠牲になるのではなく、支える存在になろう。そう思ったのだ。
ミハシラだからではない、他ならぬ彼の役に立ち、国の皆の命を守る手助けができるのなら、それは真白にとって、この上ない名誉で、誇らしいことだと思えた。
「君の言うとおり、わたしは弱い。命を捨ててもいいとは思えない。だけど、だからこそ、努力する。生きて、君の役に立てるようになるよ」
「……真白ちゃん」
「これから、よろしく」
微笑みかけた真白に、クレナイは何故か、苦しそうに瞳を揺らして、背けた。
静寂が、支配する。
この部屋は、水が音を吸収してでもいるのか、落ち着かないくらいに静かだ。もし自分一人でいたら、まるで、世界に自分だけがいるような、果てない不安に苛まれるだろう。
ここは講堂に繋がっているのに、音は全く聞こえてこない。集会はもう終わっただろうか。これからのこと、自分は何も聞いていないけれど、いいのだろうか。
「――ねえ真白ちゃん。昨日会った女の人のこと、覚えてる?」
ぽつりと。落ちるようなクレナイの声が静寂を壊す。
そう問われ、頭の中で豪炎が巻き起こる。そう――クレナイを、自分とは違うものだとはっきり感じたあのときのことだ。こくりと頷く。
クレナイの顔からは、先までの気安い笑みが消えていた。ただじっと水面を――その先にある何かを見つめている。
「あの人は、いわば、真白ちゃんと同じ立場の人間だよ」
「……どういうこと?」
「守護者――夏のミハシラの傍近くに控え守る者。夏の国は、男女関係無く国民全員が武術を学び、その腕によって地位が決まる。あの女性もかなりの手練だから選ばれたんだろうね」
確かに、彼女はどこか掴み所がないようにも思えたが、どんな所作にも隙が無かった。昨日の短い戦闘でも、見ているだけなのに一歩も動けないほど圧倒された。
次は、こちらからも仕掛けなくてはいけない。だが、あれほど強そうな女性が傍についているミハシラを倒すことなどできるのか。否――彼女から、クレナイを守ることができるのだろうか。
「……ごめん。不安にさせちゃったかな」
申し訳なさそうな声にクレナイを見れば、どこか痛みをこらえるような表情で真白を見ていた。
「怖ければ、隠れているといい。逃げたらいい。いくらボクでも、守るには限界がある。そうしてもらえると、助かるな」
「そういうわけにはいかないよ。わたしは、足手まといで、役立たずかもしれないけど、守護者なんだから。言っただろう、わたしも戦うって」
「けど、死ぬのは怖い」
何度も繰り返し繰り返されたその言葉が、今度は強く胸を叩く。
応も否も言えなかった。
「確かに、守護者に選んでしまったのはボクだけれど、ボクがキミに求めてるのは、戦うことでもボクを守ることでも、まして死ぬことでもないよ」
その、真白を気遣ってであろう言葉に、何故だか、酷く動揺した。
「……じゃあ、キミは、何を求めているの?」
その問いに、クレナイは一つ瞬いて、
「…………」
何も答えなかった。
それで、分かってしまった。
「何も、求めてない?」
「……生きててくれたら、それでいい」
――それはつまり、何も望んでいないのと同義だということに、気付いているのだろうか。
これがたとえば、彼が恋人などというものであったら、その望みは輝かしいものだろう。でも違う。守護者を選ばなくてはいけなかったから、一番ましそうな、言うことを聞きそうな人。そんな間に合わせ。
命を捨てることを望まない。危険に飛び込むことも求めない。――その代わり、彼に対するアプローチの何物をも望まない。
「…………わたしは」
そうじゃない。そうではないのだ。
死ぬのは怖い。死にたくない。だからといって、震えて逃げる臆病者になりたくはない。
できることはする。それは自分が生きるためだから。
彼の役に立ちたい。それは紛れも無く真白自身の情動だから。
だのに――それすら取り上げようというのだ。
彼女「だけ」ができる守護者としての戦いを、させまいというのだ。
恐怖も、不安も。覚悟さえ無意味だということだ。守護者という埋めなくてはいけない枠に名前を入れるだけの、お飾りなのだから。
どうにも、釈然としなかった。
そのもやもやを、彼には、吐き出せなかった。
「そろそろ出ようか。多分、もう集会も終わってるよ。教室に戻った方がいい」
「……分かった」
「ボクの部屋は、学習棟の一階の一番奥。開かずの間って呼ばれてるんだったかな。そこにいなかったら、大体ここか食堂か……書庫にいるよ。じゃあ……学習棟までは一緒に行こっか」
そろそろこの堅苦しい服脱ぎたいしね、と肩を回すクレナイの背に続く。
聖池を振り返る。来たときよりもずっと、美しくて、触れがたくて――虚ろなものに見えた。
思ったとおり、集会は既に閉会となり、講堂には誰もいなかった。
誰もいない敷地内を歩き、学習棟の一階でクレナイと別れた後、教室へと向かう。
足は、重い。教室に入ったときの皆の反応が思われて、というのもある。だが一番の要因は、クレナイとのことだった。
守護者という立場になった以上、実質的にミハシラに一番近い距離にいるということ。なのに、実際は、すごく、すごく遠い場所にいる。彼が求めているのは、傍にいて支えてくれる存在じゃない。学院長や枢密院に対し、「守護者をつける」という約定を守る、ただそれだけのものだった。
下手に難しい仕事だとか、重たい責任を押し付けられるより、ずっと楽だ。そう自分に言い聞かせているし、実際その通りだと思う。学院の中に閉じこもって隠れていれば、死ぬ可能性だって低くなるだろう。それはミハシラ直々に許されたこと。働かないことが働くこととは、なんという好条件だろうか。
なのに、なぜか。これでいいのかと、囁く声があるのだ。
「真白」
二階への階段に足をかけたところで、呼び止める声があった。振り向くとそこには、
「ふ、藤原……先生」
「……フン」
いかめしい顔を、眉間にしわを寄せて余計にしかつめらしくした、天敵がいた。
藤原は何も言わず近づいてきて、隣に立った。何の用だろうか。軽く身構えて見上げる真白を、厳しい目で見下ろしてくる。
「まさか、貴様が選ばれるとはな」
「……わたしも驚いてます」
「辞退した方が身のためではないか? 身の丈に合わない責務は、自らだけでなく周りにも悪影響を及ぼす。傍迷惑なことにな」
「…………できればそうしたいところですけど、クレナイ、様が、直々に指名されたので、わたしにはどうしようも」
「物好きなことだ。あのような軽薄な男が、国の未来を一身に背負うミハシラとは、嘆かわしい」
それに、返す言葉はない。正直それは、大なり小なりほとんどの国民が思っていることだろう。
だけど――コイツに言われるのは、酷く、癇に障った。
「……そういうことは、このような場所で仰るべきではないのでは?」
「ほう? だが国民の総意ではないか?」
「ミハシラは、元は人間だと聞きました。人間の肉体を花晶が借り受けることにより、ミハシラとして成立するのだ、と。クレナイ、様は、見ればまだお若い。子供の時分に神たれと求められ、国を背負えと強いられる……その上に性状さえ国民の求めるミハシラ像に合わせよというのは、少々可哀想ではありませんか?」
言いながら、真白は驚いていた。自分が、つい最近会ったばかりで、さっき距離を感じたばかりの男に、こんなことを考えていたなどと、全く自覚していなかった。否、実際のところ、思考として確立していなかった。勝手にすらすらと唇から言葉が流れ出していた。
それが藤原への対抗心からのものとしても、多分、心のどこか奥深いところで構築していた情であったことに、違いはないだろう。
藤原は黙って聞いていたが、真白が言い終わると同時に、ふんと鼻を鳴らした。
「……貴様、ミハシラやラグナロクについて、まともな知識を持っていないだろう。あのミハシラは、既に千年以上生きている。その間に、ミハシラらしい立ち居振る舞いの一つも覚えるべきではないか。会得できていない辺り、愚鈍としか表しようがない」
「……っ」
「国は、ミハシラのためにあるのではない。国民もまた然り。創世のときはいざ知らず、ラグナロクというシステムの中では、ミハシラが、国のためにある。そこを忘れるな。……可哀想などと、道具に情を抱いてどうする」
それを聞いた瞬間、赤黒い煙が体内に噴出する。真白は我を忘れて食って掛かった。
「それはいくらなんでも言いすぎだ、不敬にも程がある! ミハシラを、いやそれ以前に、人を道具呼ばわりするなど、あなたはそれでも教師か!」
「馬鹿が。あれは人ではない。であれば神か? まさか。神と呼べる存在は海に住まう三女神のみ。国を栄光に、繁栄に導く、そんな存在が道具でなくてなんだという」
「――っこの、」
「そもそも、今まであの小僧が何をした? これまでの数え切れない戦乱の中で、あれが一度でも役に立ったことがあるか? ただ目覚め、神として崇め奉られ悠々と息をしていただけではないか。戦火から国を、人々を守ったのは誰だ。軍だ。人間だ。ミハシラではない。ただ一度、国を巻き込んで兄弟喧嘩すればいいだけのミハシラが鳴り物入りで迎えられ、軍人は平和になれば人殺し扱い。こんな不当なことがあるか。……それが真実役に立つというなら認めもしよう。だが、なんだあのザマは。襲撃者を駆逐、だと? そんなのはやって当たり前だ。襲撃を未然に防ぐこともできず、死傷者多数とは、ほとほと呆れた。使えぬ道具に敬意を表す必要がどこにある」
息もつかせず語った藤原に、真白は言葉を失っていた。
恐らく――これがこの男の本心。軍人から転向した彼だからこその意見。国を守って「きた」軍と、時が来るまで「待っていた」だけのミハシラとの、扱いの差。それに対する憤慨が、クレナイ自身の性状も相俟って、ミハシラへのほとんど憎悪にすら近い蔑視になっている。
真白は、藤原に言い返すだけの言葉を、持っていなかった。
藤原は、急速に昇った血を下げるように頭を振り、一度きつく真白を睨んでから、階段を上り始めた。
「ミハシラとは、一線を置け。道具の盾になるなど、馬鹿馬鹿しい。自分の命は自分のために使うものだということを、そのまるで使い物にならない脳みそに刻み込んでおけ」
「使い物に、って……!」
「フン、間違ってはいまい?」
嘲笑だけを肩越しに寄越す。
道具。その考えには賛同できない。だけど彼の憤慨にも、納得はできる。しかしだからといって、クレナイの尊厳を貶めるような言葉を吐いていい理由にはならない。
だが――襲撃の「鎮圧」ではなくて、「予防」であればと、それは確かだ。
反駁は喉で引っかかり言葉にならず消える。一瞥に留めて踊り場に足を乗せた藤原は、しかし、わずかに瞠目して立ち止まった。
「……おや。誰かと思えば、貴方だったか」
「……笹緒」
笹緒が、上階から下りて来ていたのだ。
今日も相変わらず、ろくに洗っていない白衣に、いかにも適当に束ねた長髪と、よく言って自然体、悪く言って雑な格好をしている。
究極のマイペースとも揶揄される彼女は、藤原との相性は真白以上に悪かったはずだ。
案の定、藤原は笹緒を見るなり眉間に幾本も皺を刻んだ。
「笹緒。貴様は講堂で本部の設営をしているはずだが、何故ここにいる」
「これは異なことを。だからこれから行こうとしているのではないか」
「先まで講堂で集会があった。何故、貴様は、上階から下りてくる」
「上階にいたからだろう?」
堂々巡りだ。一向に発展しない会話に藤原のフラストレーションが山と積もっていくのが分かる。
一方の笹緒は、きょとんとする表情が演技でなければ、全ての返事が本気なのだろう。
集会に参加していなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。壇上に上がる際、真白は確かに彼女を見た。彼女ほど奇抜な人間は、見間違えるはずがない。
これ以上の押し問答は時間の無駄だと早々に悟ったのか、藤原は盛大に舌打ちして、笹緒の横を通り抜けようとする。
その耳に滑り込ませるように、笹緒は火の点いていない煙草の隙間から声を発した。
「ミハシラに、随分と私怨を抱いていらっしゃる様子」
「……なに?」
「しかしそれは彼女にぶつけるべきものではありますまい。本人に面と向かって言えぬ臆病の発露か」
「っ! 貴様……!」
侮辱されて激昂した藤原は、しかし、笹緒の温度の無い一瞥に喉を引き攣らせる。笹緒は鷹揚に首を回すと、けだるげに歩を再開した。
「貴方の考えを否定するつもりはない。素直さが多分に必要だとは思うがね…………さ、行かれよ。貴方の生徒が待っているぞ」
藤原は笹緒を強く睨みつけ、あっという間に上がっていった。
その背を、真白は呆然と見送っていた。それから足音に我に返り、笹緒を見る。
弁護してくれたのだろうか。いつも無表情で、朴訥とした口調で、掴み所のない人だが、あれだけ他人に言葉を重ねる姿は初めて見た。
笹緒の考えが、読めない。
笹緒は真白と同じ段で止まると、見る者に冷たい印象を与える切れ長の目で、真白をじっと見つめた。
「……教室に行かなくていいのか? ホームルームしかないから、六組全員が雁首を長くして揃えつつ君を待っていると思うぞ」
「今、行くところです」
「そうか、それは失敬。……顔色は悪くないが、どうかしたのか」
そういうとき、「顔色が悪いが、どうした」というのが普通ではないだろうか。とは思うものの、顔色が別段悪くないのならそう言うしかないか、と思い直した。
「別に、特には何も」
「……そうか」
笹緒は頷き、また階段を下り始める。
「ところで君、名は何だったか」
「……は?」
一昨日会ったときは、名乗らなくても知ってくれていたはずだが。思わず振り向くと、笹緒は五段下で立ち止まり見上げていた。とりあえず名乗ると、そうか、とまるで今初めて知ったかのように笹緒は煙草の先を揺らした。
笹緒は白衣のポケットからマッチを取り出し、煙草に火をつけた。ふう、と鋭く煙を吐く姿は様になっている。
「……なあ、真白。戯れに付き合ってくれ」
「はい?」
「君がもし、ミハシラに選ばれたらどうする?」
唐突な問いに、息を止める。
笹緒の目は、真剣だった。
「突然目の前に花晶が現れてこう言う。『あなたは力を得る代わりに年をとることができなくなる。また、時が来たら、国のために、顔も知らない強い奴らと殺し合わなくてはならない。どうか引き受けてほしい』……さあ、どうする?」
「…………」
――暗い。空には太陽も赤もなく、闇だけが覆い被さっている。
誰かに手を引かれて走りついた先、舞い降りる一輪の花。
花は語る。「どうか――――」
言葉が、ぽろりと零れ落ちた。
「……引き受け、ないです」
「どうして?」
「わたしは……力なんか、いらない。普通に生きて、普通に死にたい。殺し合うなんて怖いし、……誰かのためになんて、重すぎて……」
「……そう、それが普通だ。一瞬は、特別に憧れて魅力を感じるかもしれない。それで恙無く生きていけるのならそれでもいいかもしれない。だけど、殺し合うことが前提なんだ。人間である内は身近にも感じなかった死を手に取るんだ。それに……何万何億といる人間の中で特別になっても、絆を結んだ相手は自分を待たずに老いて、死んでいく。なんて孤独だろうな」
もしかしたら、特別に憧れる人の方が多いのだろう。自分みたいに、普通が一番だなんて常日頃から思っているのは、少ないのではないだろうか。或いはそう思っているように思いたいだけで、心のどこかでは、特別を求めているのではないだろうか。
だが、そういう人でも、人間でなくなるということをよくよく考えてみたら、きっとその要求を受け入れないのではないか。結局求める特別なんてのは、世界ではなくて、人間という枠内での特別だ。俯瞰からの風景は綺麗で、矮小で、心地いいのかもしれない。だがそれは、隔離であるということにいつしか気付く。俯瞰からの風景と自分の立脚する場所とは別世界だと気がつく。それに事前から思い至らないほど、人間は馬鹿じゃない。
――だけど。そうしたら。
「……笹緒先生」
「なんだ?」
「それなら、それが普通なら、どうしてクレナイは……ミハシラたちは、受け入れたんでしょう?」
笹緒はその問いに片目を眇め、暫くの間、答えあぐねているようだった。波のように揺らめく目の色が、その躊躇は、答えを探しているのではなく、答えていいものかということに躓くものだと、語っていた。
「……さて、な」
結局、言わないことにしたらしい。白々しさをあえて残してはぐらかし、笹緒は真白に背を向けた。
「藤原は……いや、藤原だけではない。ほとんどの国民が、それを考えていない。ミハシラ殿ではなく、ミハシラしか見ていないからな」
道具。神。どちらに評しても、それは畢竟、概念を認めているに過ぎない。
「折角守護者になったんだ。君だけは、彼を見てみてもいいんじゃないか?」
それだけ言い残して、笹緒は歩き去っていく。その背は常の通り、どこか気だるそうで、だけれど毅然とした不変の意志を感じさせる。
彼女が見えなくなってから、真白も歩を再開した。
絆を結んだ相手は、自分を置いて死んでいく。そう、笹緒は言った。
クレナイは元は普通の人間だった。当然、家族や友人がいたはずだ。――今は、もういない。
国民は、彼のミハシラとしての概念しか見ていない。
孤独だ。
「……っ」
それは、親友を失ったばかりの真白にとって、とても恐ろしく冷たい言葉だった。
クレナイは、孤独だ。
……クレナイにとって、孤独とは、何なのだろうか。
『君だけは、彼を見てみてもいいんじゃないか?』
笹緒の言葉が脳裏に木霊する。
それくらいならば、許されるだろうか。
ハリボテの守護者にも。
「……嫌だ」
それだけでは、嫌だ。
ハリボテなんて、嫌だ。
それでは、「真白」は、何処にもいないではないか。
他でもない「真白」として、守護者でありたい。
漸く六組の教室に着く。物思いに沈んだまま、引き戸を開けた。
その瞬間、幾重にも重なる破裂音が、真白の鼓膜を裂いた。
「うわっ……!」
「真白くん! 待ちかねたよ、今までどうしていたんだい?」
「は……」
教室中の黒板やら机やらなにやらを割らんばかりの拍手の中、興奮した面持ちで話しかけてきたのは、教壇に立つ六組担任教師、河合だった。主に文学の分野を研究する、穏やかな気性の年若い男性だ。二枚目だとかで、女子生徒には割と人気があると聞く。
河合は入り口に立ち尽くした真白を教壇まで誘った。
「いやあ、まさか、うちのクラスから守護者が選ばれるなんてねえ! しかも、ミハシラ様直々のご指名だ。担任の僕も鼻が高いよ」
「は、はあ……」
「もしかして真白くん、ミハシラ様と知り合いだったのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
「そうかそうか、でもめでたいことだよ。真白くんはこれから忙しくなると思うけど、応援しているから、頑張ってくれよ! ほら皆、もっと拍手拍手!」
「ああもういいです、席に行っていいですか?」
「いやあーそれにしても、ミハシラ様が気さくな方でよかったねえ! 実は僕ら教師は、ミハシラ様が目覚められた一昨日にもう会ってたんだけど、それはもう驚いたよ。いやね、前回あの方が目覚められたときの学院長が残したらしい資料がさ、戦乱で紛失しちゃっててね、肝心のミハシラ様についての情報がまるで無くてさー。蓋を開けてみたらびっくり、見た目がお若いのは仕方なくても、明るいの一言じゃ片付けられない性格だろ? いや悪いってんじゃないさ、いいことだよ」
「……先生、席に戻っても?」
「うん? ああ、いいよ。それでね、藤原先生なんかはもう怒っちゃってさあ。もっとしゃっきりせんか! って、まあ本人にはさすがに言えないみたいだけど。あれ、もしかして皆も、あんな人で大丈夫かなあ、とか不安に思ってる? だーいじょーぶ! 実はすっごく強いんだよ。昨日僕逃げ遅れてさあ、殺されそうになったんだけど、ミハシラ様が助けてくれたんだ。そのときの槍捌きといったら! まるで伝説の戦士のようだったよ! いや、本人がそもそも生ける伝説なんだった。それに……」
学院の教師は、本当に、人の話を聞かない。それは彼らが教師を本職としているのではないというのもあるけれど、ひとえに、変わり者ばかりなのだろう。天才と何とかは紙一重、とはよく言ったものだ。拍手は鳴り止んだのに止まらないクレナイ武勇伝にげんなりしつつ、席に戻る。
「ね、ね、真白さん」
隣の女子が、声を潜めて話しかけてきた。名前は何だったか、生憎思い出せない。彼女の目は、好奇心に輝いていた。
「ミハシラ様って、どんな方だった?」
「どんなって……先生が話してるので合ってるよ」
「そうじゃなくってー、もっとこう、リアルに! かっこいいとか、そうじゃないとか。二人で話し合ってみた感じとかさ」
自分だって実際に見ているくせに、それ以上の説明が必要なのだろうか。面倒だな、と思うが、仕方ないことかもしれない。これから先、クレナイがまた彼らの前に姿を現すとも限らないのだし、自分の命を預ける相手なのだから、できるだけ詳しく知っておきたいという気持ちも、分からないでもなかった。
「かっこいい……かどうかは、よく分からないけど」
「えーっなんで? 真白さんの感想でいいんだよ」
「と言われても。河合先生くらいじゃない?」
「へえー……それじゃ結構かっこいいんじゃん?」
かなり適当に答えたつもりだが、それで彼女は納得したようだった。実際河合先生がかっこいいのかどうかも、真白にはよく分からない。
「それでそれで? 性格とか、どう?」
「まあ、明るくて……優しいと思うよ」
「優しい! 大事だよねそれ!」
「……掴み所が、ないかな。いつも笑ってるから、正直何考えてるのか、分からない」
「ミステリアスかー。うーん、いいかも」
何がいいのだろう。段々この問答の意味が違うような気がしてきた。
「でもさあ、河合先生の言うとおり、あたしたち、鼻が高いよ」
彼女は不意に遠くを見るような目でそう言った。思わず顔をまじまじと見つめた真白に、照れくさそうに笑う。
「だってさ、どーせ一組の子が選ばれるんだろうなって思ってたから。そしたら真白さんが選ばれたでしょ? なんだか、ざまあみろ! って感じ」
「ざまあみろ、って……」
「……ね、知ってる? 昨日の襲撃でさ、一組と二組には、ほとんど犠牲者出てないんだって」
それは初耳だ。首を横に振った真白に、彼女は声を一段と潜め、不快そうな表情で続けた。
「一、二組は優秀クラスでしょ? 先生たちも、あそこだけはって一番に逃がしたらしいの。それに、避難経路に一番近いのってあっちだしね」
「そういえば、そうだね」
「そんなこと聞いちゃうとさ、やっぱり、気分悪いじゃん。おんなじ命なのに、出来のよさで分けられちゃうだなんてさ……うちのクラスは、こんなに少なくなっちゃったのに……」
彼女につられて見回す。荒れた教室に、かつてそうだったように机が整然と並べられているけれど、それを使う生徒は、半分くらいは、減っているだろうか。これが一組や二組では、空いた机がほとんど無いのだろう。
彼女の言うことは、もっともだ。勉強ができるかできないか、そんな些細なことで生死まで決まるなど、許されるわけがない。
だが――それが世の中というものなのかもしれないと、そんな風に諦念を抱く自分もいた。
「…………」
一組――そう、沙那は一組だ。彼女の机には、誰か、花でも手向けてくれているだろうか。彼女も、六組の教室にいたばっかりに犠牲になって――。
「……あれ?」
「どうかした? 真白さん」
「いや……沙那っていたでしょ? 一組の」
「ああ……マドンナね。確か、死……亡くなった、んだよね」
女子はばつが悪そうな顔をして言い直す。真白と沙那が仲がよかったのを気にしたのだろう。悪態をついていても、死者に対する敬意は忘れてなどいないのだ。真白は、次からはちゃんと名前を覚えておこうと決心した。
「うん、だけど……彼女はどうしてこの教室にいたんだろう。あの授業は、合同授業じゃないのに」
すると彼女は、なんだそんなこと、と笑った。
「教科書借りに来てたんだよ」
「教科書?」
「そうそう、忘れちゃったんだって。授業始まってから来たから、藤原先生は嫌そーな顔してたけどね。真白さんに借りに来たみたいだけど、真白さんいなかったもんね」
「あ、あの日は……寝坊して」
「あはは、やっぱり。で、帰ろうとしたときにサイレンが鳴って……って、いうこと」
「……そっか……」
なら――もし寝坊しなくて、一限から来ていれば、沙那は六組に来ずに済んだのだろうか。二限が始まる前に教科書を借りに来て、それからは一組を離れることなく、襲撃のときに真っ先に逃げられていたのだろうか。
本当に、後悔しても、し足りない。
「……よーし皆! そろそろ、これからについて話すから、よーく聞いてね!」
「あ、河合先生の長話が終わったみたい」
名も知らぬ彼女に促されて前を向く。河合は何が楽しいのか、にこにこと笑いながら黒板に文字を書き始めた。
「授業は休講、学院内では戦闘訓練や飛行訓練など、実戦に即した訓練を行うよ。学習棟は主に、軍からの派遣師団の駐屯地になる。講堂は臨時の軍事本部になるよ。お偉いさんとかミハシラ様とかが詰めて話し合うんだって。もっとも枢密院の方で、大臣とか軍の最高司令とかが本格的に話し合うみたいだから、ほとんどミハシラ様に伝えるだけみたいだけどね。まあ要するに……僕らは訓練しつつ、出動命令が出るまで待つって感じかな」
「先生、自分たちが戦うのは、敵国の兵士なんですよね? 実際どのようにして戦うのか、その辺りの予測はついているのですか?」
「んー、まあ、主に戦闘機での空中戦だよ。地続きならいいけど、枝と枝じゃあね。それで、戦闘機で敵国に砲撃……はまあ現実的じゃないな。多分その前に撃墜されてしまう。僕らがするのはあくまで、ミハシラ様の援護。ミハシラ様が敵のミハシラと戦えるようお膳立てするのが役目だ。邪魔してくる兵士をなぎ倒し、或いは敵国に忍び込んで情報を集めたり、忍び込んできた敵を倒したり。まあそんなところ? 僕そういうの専門じゃないからなー」
「作戦が始まるのはいつですか?」
「さあー、多分明日辺りに本部が開くから、まだ分かんないなあ。ごめんねー」
「明日は、何時にどこに集まればいいのでしょう」
「明日? 明日はー……朝の九時にグラウンド集合だね。早速戦闘訓練だよー」
河合の口ぶりは、まるでゲームのことでも話しているかのようだ。だけれどこれは紛れもなく、現実の話だ。
戦争が、始まる。
真白はぎゅっと両拳を握り締めた。
死ぬのは、怖い。だけど、沙那の仇を取るのだと決めた。逃げないと、決めた。
クレナイの役に立つと、決めた。
わたしはわたしの意志で戦う。
「ホームルームはこんなものかなー。この後は、そだ、皆で遺書を書くんだった。これから紙を配るから、一緒に配布するプリントに従って遺書を書いてねー。書けた人から提出して、解散。寮に直帰するもよし、ミハシラ様の部屋に突撃訪問するもよし。あ、そうだ真白くん、君は最後まで残っててくれるかな。伝えないといけないことが色々あるから」
「……分かりました」
遺書を書くなんて縁起でもない、などと言う人は誰もいない。誰もが、命を落とす可能性があることを充分に分かっていて、腹を決めている。
この様子を見たら、クレナイはきっと、悲しそうに、だけど諦めたように笑うのだろう。ふと考えて――それが彼の計算ずくだなんて、思いたくもなかった。
*
ミハシラのために特別にあつらえたという部屋は、無駄に、と言いたくなるほど広かった。
白い壁、白い床、白い調度品。そこに金の細かい装飾とは、ミハシラとしての礼服とコンセプトを合わせているところが憎い。せっかく、部屋ではラフな格好で伸び伸びできると思ったのに、礼服以外の格好ではあまりにアンバランスではないか。
「……って、そんなこと気にしなくてもいいか」
適当なくせに妙なところにこだわる自分の性格には、正直呆れている。やれやれと頭を振り、邪魔なマントだけは椅子に放り出して、礼服のまま大きなベッドに飛び込んだ。
――思えば、今までだってずっとこの部屋があてがわれてきた。なのに初めて来たみたいな気分になるのは、多分、何度も繰り返して修繕しているからなのだろう。三百年経っているというのにヒビ一つ見当たらず埃もないのだから、余程気合を入れて手入れしてきたと見える。
重いだけだ、そんなもの。この手には、何も返せないのに。
鈴蘭をモチーフにした電灯。機械技術を適度に取り入れ、決してそれに染まろうとはしない秋の国は、いっそ理想的な国かもしれない。どちらかといえば形骸化した文明よりも、人の手が加わらない自然の方が好ましい。そう考えるのは多分、古い人間だからだろう。
こんな見た目をしていたって、結局、古臭い時代に生まれ、育ち、何の因果か今に至った、置いてけぼりの迷子だ。人間だった頃を思い返して浮かぶのは、いつも、緑溢れる山。四角四面の機械箱はどこにもない。
――もう、あの時代に戻ることはできない。まだラグナロクが始まっていないのならば可能性はあったかもしれないが……もはや考えるだけ無駄だ。
……それでも。クレナイには、夢があった。
叶うともしれぬ、果てない夢。それがくだらない残骸と成り果てるまで、刻限が迫る。
刻一刻と。
「ねー、アキ。あの子さあ、どう思う?」
傍から見れば、見えない何かと話しているように見えるだろう。それは実際間違った認識ではないけれど、正確ではない。
花晶には、人格がある。元々花晶は、生身の肉体で動きニーズフォルと戦った戦士なのだから当然だ。魂に帰したとはいえ、三女神はその人格をきちんと花にも継承してくれたのである。
言ってしまえば二重人格のようなもの。一つの体に魂が二つ宿っているのだから、考えてみれば当たり前の結果なのだった。
もっとも、花晶の声はミハシラ自身にしか聞こえない。なのにミハシラの声は、口に出さなければ花晶に伝わらないのだから理不尽なものだと、常々思う。
『如何、とは』
「だからー、……うーん、アキの純粋な感想というか、意見を聞きたかったんだけど」
『不要』
「けど、ミハシラはキミとボクの二人合わせてだよ? キミにも無関係じゃないんだからさ、聞かせてくれてもいいじゃない」
『…………』
「あらら、黙っちゃった」
秋の花晶――アキは、端的に言えば気難しい。長い付き合いだけれど、彼の性状を未だ把握し切れていない。
ただ、その堅苦しくて古風な言い方に、優しさを隠していることは知っている。だから、彼のことは、手放しがたい友人だと思っている。
そう言うと彼はいつも、「愚考也」と言って戒める。それは罪悪感から来るのだということも、もう、知っていた。
「可愛かったなとか、純粋だなあとか、どうでもいいとかさ」
『……愚か』
「それは――頭脳のことではない、んだよね」
確認じみた問いに、応えはない。それで肯定である、と判断するほど彼は浅くはない。肯否のどちらに傾くかを相手に任せるのが常であって、表情のないそれの判断を、今でもたまに誤る。
「愚か……愚か、かあ。ボクにはよく分からないなあ」
『……汝と似ている』
「そう? ふうん……それも、よく分かんないな。ていうかアキ、意外に見てるんだね」
『…………』
「……ボクが興味持たなさ過ぎるだけか」
どうでもいい、と言っては、彼女に失礼だろうか。だが、守護者だろうがそうでなかろうが、彼女が学院の生徒で、秋の国民で、いずれは兵士として死出の途に出ることは、他の誰とも変わらない。否、むしろ己の横着故に守護者を選んだがために、彼女の死の確率が大幅に上がったと言っていい。
もし彼女が、言ったとおりに学院で隠れていてくれるのなら、学院自体が大型爆弾にやられでもしない限りは、最後まで生き残ることだろう。だが、それは恐らく、ない。
――戦うよ。わたしも――
「……っ」
生きて。生きる決意をしてなお、クレナイの役に立ってみせると彼女は言った。力強い、琥珀の瞳で言い切った。
――何故?
クレナイには分からない。何故、死を恐れて戦いを志向できるのか。
戦わなければ死ぬ、それは真実でありまた真実ではない。ラグナロクとは畢竟ミハシラの戦い、目を閉じ耳を塞いで蹲っていても、自分以外の誰かが主導して戦いを終わらせてくれるのだ。
自ら戦いを選んだ自分が恐れを押して戦う。それは至極真っ当だ。だが、彼らは選べもせず、押し付けられたものを受け取らされたに過ぎない。本来、彼らは戦わなくてもいい。隠れているべきなのだ。
そうすればいい。そうしてほしいと、彼女だけではない、学生皆に望んだ。
彼女も含めて、誰もがそれを拒絶した。
若い命は、圧倒的に片や死へと傾きやすい天秤に自ら乗った。その意味を、彼らは、本当に理解しているのだろうか。
戦いとは正義の鍔迫り合いではない。命のやり取りではない。死の上に張られたロープの上での押し相撲であると、知っているのだろうか。
『不知故に』
「――……そう。そっか。そうだよね」
クレナイは、そっと頷いた。それから立てた膝に額を押し付ける。
瞼の裏に、生きた命と、死んだ命が交互に浮かんで消えた。
「アキ。ボクは……誰も、死なせたくないよ。だって、死なせないために一人戦ってるんだ。当然だろ?」
『……』
「……なのに。どうして、ボクの手は、こんなに小さいんだろう」
死は、怖いものだ。それをクレナイは身をもって知っている。
異変に気がついて急行したときの、凄惨たる有様に動揺した鼓動のぶれを、覚えている。
守れない。それは、彼が神となる前から、孤独より何より恐れることだった。
――つまるところが、彼女でなくてはならない理由などなかった。あのとき教室に取り残されたのが彼女でなくても、きっと同じように行動しただろう。同じことを言い、同じことを話し、同じ表情を向けただろう。生徒で、秋の国民で、敵でない限りは。ただ、他に比べて行動を共にするのに楽そうだったから、それだけの理由だ。
だからとて。彼女を危険に陥らせたいという思いは毛頭無い。むしろ、選んでしまったがために、何よりも守らなくてはならないと心に刻んだ。
選択で生まれた膿は、自ら取り除く。それが選択者の責務だ。
それでも。身に余る力を持っても、人の身でしかない自分には、自分一人の命だけで手一杯だとでもいうのか。
なら、何のための、力なのか。
――言われたまま力を振るうことが、最善なのか。
『クレナイ』
「うん?」
『……汝は――迷うか』
「……何に?」
その問いにも、彼は応えない。こうなっては、彼はもう何も言わないだろう。早々に諦めて、目を閉じた。
明日から、忙しくなる。あの様子では、夏の国が再び攻めてくるのもそう遠くないだろう。冬の国とて、未だ動向が掴めていないが、放っておくわけにもいくまい。内偵を放たなければいけないだろう。
もっともその辺りは、枢密院が手配するはずだ。
自分に課せられた役目は一つだけ。自分に課した役割も一つだけだ。国がどう動こうと、関係ない。
――ただ、己が望みを現実にするだけ。
「…………」
ふと、取り留めのない思索が落ちて消える。
死に怯えながら立ち向かう目は、昔の自分にもあっただろうか、と。
*
自室に戻ると、そこには先客がいた。
「あれ――蜜柑さん。もう大丈夫なのかい?」
「う、うん。真白ちゃんも、無事でよかった……」
先客というよりは、本来的にはこの部屋の住人だった。趣味のいい椅子に腰掛けてたおやかに微笑む姿は、まだどこかやつれているようだったが、目覚めてよかった。教室にはいなかったから、さっきまで保健室にいたのだろうか。本調子、というわけではないようだ。
真白はベッドの下にしまっていた大きな旅行カバンを引きずり出しながら、蜜柑に話しかけた。
「これからのこと、聞いた?」
「うん……保健室の先生が教えてくれた。ラグナロクが……始まるって」
「……蜜柑さん、ラグナロクとかミハシラとか、知ってた?」
蜜柑は、きょとんとして首を傾げた。
「え? う、うん、勿論」
「そ……そっか、そうだよね。勿論、か……」
やはり自分が知らなさすぎただけらしい。結局ラグナロクについては自分で調べてくれと、ミハシラ自身に言われたのだった。明日、図書館は開くだろうか。本を借りて勉強しなくてはならない。
「わ、私、御伽噺とか神話とか好き、なんだ。だから、ラグナロクは……怖いけど、ミハシラ様には会ってみたいな」
「そっか、集会には行ってないんだっけ。部屋に行けば会えると思うよ。河合先生もいいって言ってたしね」
「ほ、ホント? 行ってみようかな……。真白ちゃん、一緒に、行ってくれない……?」
「ああ、いいよ、そのつもりだから。ちょっと待っててくれるかな……。……神話かあ……全っ然興味なかったからなあ……」
善には、「興味あってもなくても常識だ」と言われそうだ。
寮に持ち込んでいる荷物は少ない。服や趣味の物以外の生活用品は、全て学院から支給されるからだ。服にしても、学院内における生活では制服が絶対だから数が少ない。特段趣味もない。さほど時間も掛からずに、荷物をまとめられてしまった。
「……真白ちゃん、何してるの?」
疑問の形を取っているけれど、その表情には不安が差している。どじな部分があっても聡明な彼女のこと、真白の一連の動作を見るだけで、既に答えは弾き出しているのだろう。
その表情に罪悪感を覚えるが、しかし、どうしようもなかった。
「部屋を、移ることになったんだ」
「そ……そんな、急に? どうして」
「それはー……」
――ホームルームが終わり人がいなくなった教室で、真白は河合に一枚のプリントと、徽章を渡された。
徽章は、秋の国の紋章――秋の守護者であることを表すものらしい。常に身に着けておかなければいけない。
そしてプリントには、守護者としてのこれからのことが書いてあった。
「まず、部屋の移動だね。学習棟と学生寮は遠いからさ、ミハシラ様の部屋近くに移動だよ。本来なら同室が望ましいけど、さすがに女の子じゃそうもいかなくてさー。その辺り、おカタイ偉いさんも分かってるんだなあ、意外だよ。そーれーかーらー、基本的にはミハシラ様と行動を共にしてもらう。ラグナロクの最中でなければただの世話役なんだから、そういう仕事も勿論あるよ。身支度とかかな? 必要ないと思うけどねー。あーでも、君は学生でもあるから、戦闘訓練には参加。加えて特別訓練もあるな。大変だねー。あと色々書いてあるけど、読んどいて。僕らじゃなくって、ミハシラ様とちゃーんと話して決めた方がいいと思うよ。じゃ、用事はこれだけ。お疲れー」
簡単にかいつまめば、河合の言うとおりのことが書いてある。
よって今、荷物をまとめて、部屋を去るところなのだった。
蜜柑には、何故だか、友達が多くない。同室ということからの縁であるが、彼女が自分に懐いてくれているのは分かっている。ショックを隠せない様子に、誰が悪いわけではないけれど、胸が痛んだ。
けれど、守護者になった、ということを、正直に話すのは躊躇われた。蜜柑は嫉妬心を抱いたり僻んだりするような人ではないと思うけれど、正直、反応が予測できなかった。
「……こればっかりは、上からの命令だから」
そう、誤魔化すことしかできなかった。
「そろそろ行こうか……あ、ねえ蜜柑さん。ラグナロクとかミハシラについての本とか、持ってない?」
「え……あ、あるけど……色々」
「借りてもいいかな? できるだけ詳しくて……簡単なの。ちゃんと返すからさ」
その要求に、顔を曇らせていた蜜柑は、くすりと笑った。
「詳しくて簡単って、結構、難しいね」
「あ、あはは……ごめん」
「ううん、大丈夫。この辺りが……いいかな。はい」
「ありがとう」
貸してくれたのは、文庫本が二冊と、ハードカバーのものが一冊。前者は『創世記』と『四華闘記』、後者は『図解・ミハシラ物語』だった。図解本はありがたい。丁寧にカバンに入れて、一緒に部屋を出た。
「確か、学習棟の一階だったはずだよ」
「学習棟、なの? でも、結構、ボロボロだって聞いたけど……」
「……言われてみれば確かに。でもまあ、一番奥だって言ってたから、大丈夫なんじゃないかな。ミハシラの……ミハシラ様の部屋なんだから、厳重に守ってるだろうし」
ついついミハシラと呼び捨ててしまうけれど、人前では敬称を付けたほうがいいのだろう。研究者ならばともかくただの学生だから、不敬罪だとか言われたら言い返せない。
同様に、クレナイにも敬称を付けたり、敬語を使ったりしないといけないのだろう。
「…………」
正直、面倒だった。せめてクレナイが、敬語を使いたくなるような厳格な雰囲気の持ち主だったらよかったのに。むしろ、「敬語とか堅苦しいからやめてよ!」とか言われそうだ。
「あー……目に浮かぶ」
「え?」
「いや、独り言」
思えば、昨日もこうして、二人で寮を出て学習棟に向かった。同じ道筋を辿っているのに、状況は全く違う。
たった一日を境に、この世界は平和を捨ててしまった。
襲撃は主に学習棟だったが、寮や塀にも少なからず破損がある。あちこちに残骸があって、まさに別世界のようだった。
「ねえ、真白ちゃん。真白ちゃんは、ミハシラ様に会ったことがある?」
「ああ、まあ、一応ね。集会にも来たし」
「そうなんだ……私、集会のときはまだ寝てたから……。どんな人だった?」
「どんな、って――」
会えば分かる、なんてすげなく言い返すのも可哀想だ。とはいえ、たとえば何を訊きたいのか分からない。ホームルームのときのように、その性状を知りたいのか、はたまた容姿か。両方だとしたら、説明が面倒だった。
「……私たちのこと、守ってくれるのかなあ」
「あ……」
ミハシラは、国の、国民の未来を担う。国民はミハシラがラグナロクを勝ち抜けるようサポートする。そんなことは抜きにして、結局個人感情に立ち返ってみれば、死ぬか生きるか、それが根幹だった。
勝利するか否かは、全てミハシラにかかっている。言ってしまえばミハシラは武器であり心臓だ。相手の心臓であるミハシラを貫けるのは、武器たるミハシラだけ。
自分たちの生死は、当然の如く、ミハシラ次第なのだった。
守る、という言い方は少々語弊がある。だけれど結局はそういうことだ。「生きられる」のは「守られた」ということで、「死ぬ」のは「守られなかった」と、当人にしてみれば同義なのだ。
性状とか、容姿とか。そんなものを差し置いて、何よりも大事なのは、生死だった。
「……守って、くれるよ」
そう、心から信じている。
誰が何と言っても、キミを守ると言ってくれたあの力強い笑みを、死んでもいいなんて言って欲しくないと言ったあの瞳を、真白は、信じている。
だからこそ。そんな彼だからこそ、役に立ちたいと思ったのだから。
「そう、かな」
「そうだよ。命は粗末にするなって、言ってたしさ。優しい人だもん」
そう。優しい。
優しすぎて、遠い。
「……そっか。よかった……」
心底安心したように微笑む蜜柑に、沈む心が温まって思わず頬が緩む。
彼女が……心優しい彼女が、死ぬことも、ましてその手を汚すこともなければいい。なんて難しい願いだろうと、自分でも思う。だけれど、願わずにはいられなかった。
学習棟の一階に至る。その最奥、常から暗く人も寄り付かない廊下を行くと、そこにミハシラの部屋がある。
……はずなのだが、今は、その部屋が見えない。
「人、いっぱいだね……」
「大人気だね。アイドルの出待ちみたいだ」
「……行ったことあるの?」
「えっないない、ないよ。物のたとえというか……ただの思いつきっていうか」
それにしたって、人が多すぎやしないか。廊下から溢れんばかりだ。近づけもしない。
確か、守護者としてあてがわれた部屋も、この廊下の奥にあるはずだ。これでは蜜柑をクレナイに会わせるどころか、部屋に入ることも、引いては寝ることもできないではないか。迷惑極まりない……と思うのは、創世記すらろくに読んだことのない弊害だろう。
ここまで生徒が押し寄せてくるのも、致し方ないこと。ミハシラという存在がいかに尊敬されているかは、これまでで本当に、嫌と言うほど、分かっている。
とはいえ――ため息をつくくらいは、許してほしい。
「長いこと、待ちぼうけになりそうだね」
「うん……真白ちゃん、ごめんね? 付き合わせちゃって……」
「いや、大丈夫。わたしもここに来る予定だったからさ」
それにしてもこの長蛇、いつになったらどいてくれるやら。クレナイが何か言ってくれは……しないだろう。あちらからもこちらが見えないだろうし、そもそも、自分に会いに来た生徒を無下に帰すような人ではない。
「……お、真白やん。何してんの?」
列の最後尾にいた男子生徒がこちらに気付き、話しかけてくる。確か、蘇芳といったか。善と仲がいい男子の一人で、クラスメートだ。真白も時々話すことがある。どこの地方の生まれか知らないが、不思議な訛りが特徴的だ。
「いや、あっちに用があってね」
「お、早速お仕事か? ええなー、守護者様は。ミハシラ様にいつでも会えるんやろ」
「会えるというか、会わなくてはいけないというか。あと、別に仕事ではないよ。これからの部屋があっちなんだ」
「そうか。まあでも、こら通さなあかんな。おいお前らー、守護者様がお通りやぞー!」
「様って……」
そこまで大層なものではない。
蘇芳の一言で、前方にずらりと並んだ頭という頭が軒並みこちらを向く。一拍置いて、海を割るようにザアッと道が開けられた。圧巻だ。
「ほら真白、行って来いや」
「あ……えっと、ありがとう」
「どーいたしまして。ジュース一本で堪忍したるわ」
「それ何だかわたしが悪いことしたみたいだなあ。行こう、蜜柑さん」
「う、うん……」
これは、いわば花道か。祝われているわけでもないのに通る花道は、なかなか、いやかなり、気まずいものだと初めて知った。
蜜柑は守護者ではないわけだが、ちゃんとついてきているだろうか。軽く振り向けば、
「…………?」
背中に寄り添うようにして、ついてきていた。しかし、どこか浮かない顔をしている。
どうかしたのだろうか。気になるが、ここで訊くべきではないと思い直し、前を向く。
廊下の突き当たりに一つ部屋がある。そこが、守護者の部屋だ。角を左に曲がった行き止まりにあるのがクレナイの部屋。ドアは、開放されていて、長蛇は中へと続いている。握手会でもしているのだろうか。
「とりあえず、一度部屋に入ってもいいかな。荷物置きたいし」
「うん……」
やはりどこか憂鬱そうな蜜柑を連れ、あてがわれた部屋に入る。
「うわ……」
部屋は、無駄に広かった。
壁も、床も、調度品も白。それらには細かな金色の装飾が上品にあしらわれていて、どこか、クレナイが着ていた服を思わせる。ベッドも大きくてふかふかしていそうだし、カーテンもカーペットも、何もかも清潔な高級感を持っている。いかにも、場違い、だった。
「……似合わないよなあ、こういうの」
ぼやきつつ、カバンをテーブルに置く。広げるのは、後でもいいだろう。今はとにかく、蜜柑をクレナイの所へ連れて行くのが先決だ。守護者特権で順番抜かしくらいできるだろう。
「それじゃ蜜柑さん――」
「あの、真白ちゃん」
行こうか、と続けるはずだった言葉は、意を決したように口を開いた蜜柑に遮られる。普段人の言葉を遮ることはしないのに、と驚く真白を置き去りにして、蜜柑は続けた。
「しゅ、守護者って……何か、訊いてもいい?」
「……あー、えっと……」
言いづらくてはぐらかしていた。もはや誤魔化すわけにもいかない。
「まあ、世話役、みたいなものかなあ」
「お世話、するの? ミハシラ様を?」
「うん……多分」
そういうことを、学院長も河合も言っていたはず。
蜜柑は、うーん、と考え込むように口元に手を添えた。
「でも……守護者っていうからには、お守りするんじゃないのかな」
「まあ、それが主眼らしいけど、正直クレナイの、……クレナイ様の方が強いからね。所詮わたしに求められてるのは、いざって時の盾、らしいよ」
「そんなの……!」
盾、という言葉に珍しく声を荒げた蜜柑だったが、すぐに口を閉ざしてしまった。
彼女も分かっているのだろう。戦いの場において、守る側が守られる側よりも弱い場合、そうするしかないということに。
「でも……そんなの、やだよ……」
「蜜柑さん?」
「だって、それって、……真白ちゃんが一番危険だってことじゃない? 盾、なんて……私……!」
必死に言い募る彼女の目は、今にも洪水を起こしそうなほどに揺れている。それを見たら、何も言えなくなってしまった。
「ねえ、真白ちゃん。辞退は、できないのかな?」
「それは……無理だよ。それにわたしが辞めても、誰か他の人がやらなきゃいけないことだ」
「でも、真白ちゃんは危険じゃなくなるでしょ? それなら、」
「蜜柑さん。そこから先は、言っちゃダメだよ」
その人が無事ならたとえ誰がその憂き目に遭ったとしても。それは、まこと人間らしい思考だろう。だけど、決して、言ってはいけない言葉だ。
否定するつもりはない。もし真白とて、沙那や、蜜柑が自分の立場だとしたら、同じことを考えただろう。けれど、それは胸に秘めておくべき感情だ。外に放ってはいけない強い言葉だ。
きっと、いつか――いや言ったすぐ後にでも、後悔する。自分にはこんな部分があったのかと嫌悪する。それが優しい蜜柑なら尚更のことだ。
そしてそれが、自身に向かう内はいいけれど――いずれ、外部にも牙を剥きかねない、荒々しさをも持つものだから。
彼女の目を強く見据えて、首を横に振る。蜜柑はすぐに目を逸らして、俯いた。
すすり泣く声が聞こえる。――泣かせてしまった。非が何処にあれ、涙というのは、罪悪感を否応なしに喚起する。
「……大丈夫だよ、まだ死ぬって決まったわけじゃないし。クレナイだって、盾なんかにするつもりはないって言ってたから」
「……ホント……?」
「うん。ほら、会いに行こう? 元々そのために来たんだからさ」
背を優しくさすって促せば、蜜柑は漸く顔を上げて、涙を拭いながら、涙で真っ赤な顔を綻ばせた。
「友達にこんなに思われて、わたしは幸せだなあ」
「私も、真白ちゃんが友達で、幸せだよ?」
「あ、あはは……照れるな……」
この様子を見たら、沙那はきっと顔をしかめるのだろう。二人を仲直りさせられなかったことが心残りだ。
部屋を出ると、やはり廊下ではまだ生徒が大勢犇いていた。なんとなく人数が増えた気さえする。これではクレナイとて気詰まりだろう。
「ごめん、ちょっと通してくれるかな……失礼」
謝りつつ人ごみを抜ける。開放されたままのドアから、するりとクレナイの部屋に滑り込んだ。
「……ふう。あれ、蜜柑さん?」
「…………ま、真白ちゃーん……」
「あっ埋もれてる……」
なんとなくそんな気はしていたが、案の定、人ごみをするする抜けていくのは苦手らしい。部屋の直前でこんがらがっていた彼女を引っ張り出すと、綺麗な髪が幾分乱れていた。
「あーあ」
「えへへ……ありがとう」
改めて部屋を見てみると、内装自体は先ほどの部屋とほぼ同じだった。ただ、一回りか二回りくらい大きい。とはいえ何人もの生徒が、伝説のミハシラと会うために入り込んでいるから、これくらいがちょうどいいようにも思えた。
「……あれ、真白ちゃん?」
緊張してガチガチに固まった男子生徒の応対をしていたクレナイが、ふと視線を動かして真白たちに気が付いた。真白は、片手を上げようとして――小さく会釈する。いけない、ついラフな対応をしてしまう。二人のときならいざ知らず、周りに多くの生徒がいるときにそれはまずい。
クレナイはひらひらと手を振って、目の前の生徒に視線を戻す。それからまた、真白を見た。
「…………?」
なんだろう、何か用だろうか。もしかして、今は構ってられないから後にしてくれ、だろうか。それなら仕方がない。蜜柑には悪いが、並んでもらうことにしよう。
「あっ待って待って真白ちゃん!」
蜜柑を促して部屋を出ようとすると、大声で呼び止められた。振り向くと、ちょいちょいと手招きする動作の後、両手を合わせた。何のハンドサインなのだろう。
「蜜柑さん、悪いけど、ちょっとここで待っててくれるかな」
「う、うん」
小走りで駆け寄ると、クレナイは幾分疲れた笑みを見せた。
「やあ真白ちゃん、来てくれると思ってたよ」
「は、……はあ……。何か御用ですか?」
「う、うわあ。真白ちゃんが敬語使ってる……」
失礼な。敬語くらい使える。確かに、初対面のときも敬語を使わなかった気がするが、それは、不審者だと思ったからだ。
などとはさすがに言えず、ただ黙る。それだけで不満を汲んだらしい、クレナイは、ごめんごめんと悪びれずに笑った。
「いやー……さすがのボクも、百人立て続けに相手するとさ……」
こそっと耳打ちされた言葉に合点がいく。これからまだ百は優に控えていると思うと気が滅入って仕方ないのだろう。
とはいえ、それくらい自分で言ってほしいものだ。ちらと黒目だけで訴えれば、お願い、と拝まれてしまった。
「……あの、皆さん。誠に申し訳ないのですが、ミハシラ様は少々お疲れのご様子。また日を改めてお越しいただけませんか?」
それほど長くはないのに何度か噛みそうになったが、なんとか言い切った。
生徒たちは不満の声を漏らしていたが、ミハシラの意思とあれば従わないわけにもいかない。不承不承ながら、ぞろぞろと帰っていく。
「皆ごめんねー。また明日、……時間帯を工夫して、来てくれると嬉しいな」
クレナイも甲斐甲斐しく、入り口に立って見送っている。あそこまでされては、去らないという選択をとれるはずもなかった。
ほどなくして、廊下はすっかり元の静けさを取り戻した。
「……はあー。廊下にまだあんなにいたんだ……」
「ここまで来るのが大変でした」
「だろうねー。あのまま全員に会ってたら、ボク確実に途中で落ちてたよ」
「……そんなお疲れのところ申し訳ないんですが、あと一人だけ、お願いできませんか?」
「え?」
ドアにしがみつくようにして、廊下にかつての混雑ぶりを想起していたクレナイがくるりと振り返る。その青い双眸が一度真白を捉えて、すぐにその後ろの蜜柑に向いた。
「あっ……あの、あの、私……」
「あーキミ!」
「えっ?」
顔を真っ赤にしてどもる蜜柑に、クレナイは顔を輝かせてぽんと手を打つ。どうやら蜜柑のことを覚えているらしい。きょとんとする蜜柑に、彼が抱えて校舎から連れ出してくれたことを説明しようとした矢先、
「…………どっかで会ったことあるんだけどなー?」
「え……」
腕を組んで首を捻るものだから、大げさに肩を滑らせてしまった。
「……いや、あの……教室で、わたしと一緒にいた子です。気を失っていて、クレナイ様が抱えて下さった」
「あー……あ? あ、ああ、うん、覚えてる覚えてる。大丈夫」
「……本当に覚えてます?」
「やだな、ちゃんと覚えてるよ。ていうか真白ちゃん、敬語はやめてくれないかな。なんか、肩凝っちゃいそう」
「はあ……」
本当の本当に覚えているのだろうか。反応を見る限り怪しいが、本人が覚えていると言うのだからいいだろう。追及するのも可哀想だ。
背後で置いてけぼりになっていた蜜柑を押し出し、クレナイと対面させる。蜜柑はすぐに顔を伏せてしまった。相変わらず人見知りだ。
「あはは、嫌われちゃった?」
「そっ、そんなこと、ないです! わ、私、ずっと、ミハシラ様にお会いしたいって思ってて!」
「うーん、そっか。あ、そこ座って。今お茶淹れるから」
「い、いえ、わたしが淹れますから」
「敬語」
「あ……い、淹れるから、クレナイも座っててくれ」
「ふふ。じゃ、お願い」
部屋の隅に設けられた小さなキッチンで湯を沸かす。本格的に料理をすることは想定されていないサイズだが、それにしても綺麗だ。ほとんどインテリアといっても過言ではない。だが設備は最新型だ。火が出ない、真っ平らのコンロである。水道はお湯まで出てくるし、浄水器は後から付けるタイプではなく元から浄水済みだ。断言しよう、絶対、使うところを間違えている。
ちらと二人を窺えば、テーブルを挟んで二つのソファに向かい合い、無言で座っている。
蜜柑は、緊張で頭の中が真っ白。クレナイは、ガチガチに固まった蜜柑に気兼ねしてか、声を掛けあぐねている。といったところだろうか。クレナイのことだからすぐに蜜柑の緊張も解いてしまうだろうと思っていたのだけれど、意外だ。
「あの、二人とも。お茶……緑茶でいい? コーヒーとか紅茶にする?」
「あー……面倒じゃなければ、コーヒーがいいな」
「分かった。蜜柑さんは?」
返事がない。余程緊張しているらしい。
「……彼女、いつも何飲んでるの?」
「さ、さあ……部屋では、紅茶かなあ?」
「じゃあ、紅茶で……いいんじゃないかな」
クレナイもかなり困っているようだ。早く淹れて、助太刀に行かないと。
とはいえ、まさかお湯がこちらの都合でいつもより早く沸いてくれるということはない。じりじりと待つ間、背後の沈黙が痛かった。
「……インスタントだけど」
「わ、ありがとー。大丈夫だよ、ボク庶民派だから」
「それは……よかった」
そしてやはり、蜜柑の反応はない。大丈夫だろうか。座ったまま気絶は、さすがにしていないだろうが、心配だ。
「……蜜柑さん?」
「はうっ」
肩に手を置いただけで、数センチ飛び上がった。
「紅茶、パックだけど、良かったら飲んで」
「あ、あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
どちらのソファに座ったものか暫く悩んで、結局、蜜柑の方に座った。こっちの方が蜜柑が心強いだろうと思ったのだ。
口火を切ったのは、クレナイだった。
「それで……キミのお名前は?」
「へ、……え、ええと、蜜柑……です」
「そう。蜜柑ちゃん。おいし……可愛い名前だね」
「い、いいえそんなっ」
今、美味しそうな名前って言おうとした。思わず見つめると、そ知らぬ顔をされてしまった。蜜柑が気付かなかったからいいものの、失礼極まりない。
ミカンは確か、完全に輸入に頼った高級品だったはず。ということは、もう食べられないのか。一度だけ、何かの機会で食べたことがある。味は酸っぱい、としか覚えていないが、それでも少し寂しい。
そしてまた、静寂が落ちる。さすがのクレナイも、コーヒーを啜りつつ、困り果てた様子で、ちらちらと蜜柑を窺っている。
ここは、自分の出番だろう。努めて優しく話しかける。
「蜜柑さん。何か、言うこととか、ある?」
「あ……えっと、その……」
暫くもごもごと言いあぐねた後、意を決したかのように、蜜柑はきっと顔を上げた。
「あの、お、お訊きしたいことがあるんです!」
「う、うん、何?」
急に声を大きくした蜜柑にクレナイは驚いたようだったが、これぞ好機と、姿勢を正した。
「その……い、色々、あるんです」
「答えられることなら、いいよ」
「……ひ、一つ目、なんですけど……ミハシラ様は、元々は普通の、私たちと同じ、人間でいらしたんですよね? それで……どうして、ミハシラになることを決意されたんですか?」
「……うーん、そこ来ちゃうかあ」
それは、真白も気になっていたことだ。蜜柑と一緒になって身を乗り出す。
クレナイは背もたれに背を預けると、そうだなあ、と首を傾けた。
「キミなら、ミハシラになれと言われたら、どうする?」
「わ……分かりません。迷う、とは思います……」
「そっか。ボクは、……迷わなかったな」
「どうして?」
思わず口を挟んでしまったが、蜜柑も訊きたいようだった。クレナイはちょっとだけ苦笑すると、コーヒーを一口、口に含んだ。
「ボクと、キミたちとは違う。キミたちのように、真面目に勉強して、難関の学院に入って、将来有望と言われるような幼少時代じゃなかった。それでは、答えにならない?」
つまり、彼は、特別に憧れて、特別を選んでしまったと、そういうことだろうか。
そんな風には――思えない。千年という歳月が、彼自身を成長させたのだろうか。
「今は、その選択を、どのように思われてますか?」
「あはは、なんだかインタビューみたいだね。そうだなあ……後悔は、してない……かな。あの時こちらを選んだからこそ、今があるしね。悪いことばかりでも、なかったから」
「……そう、ですか」
蜜柑は神妙に頷いて、少ししてから、また質問した。
「じゃあ、えっと、二つ目……です。ミハシラ様は、他の国のミハシラに、お会いしたことはありますか?」
「ボクは……無い、かな。いや……夏のミハシラには会ったことがある。だけどそれは先代だよ」
「先代? ミハシラに先代も当代もあるのかい?」
「まあ、花晶自体には無いけどね。ミハシラだって、不老ではあるけれど不死じゃない。致命傷を負えば死ぬ。その時は、新たな器を選ぶんだ。原因は、知らないけど、夏のミハシラはもう別の人に変わってるはずだよ」
「へえ……」
てっきり、不死なのかと思っていた。けれど確かに、不死であれば殺し合うという前提自体成り立たないし、守護者も必要ない。
「そうですか……どのような方なのか、興味があったんですけれど」
「ん……器じゃなくて、花晶の人格なら答えてあげられなくもないけど……」
「本当ですか! ぜひ、お聞きしたい、です」
花晶に人格というものがあるのか。真白にはまずそこからである。とはいえ口に出したら馬鹿には、されないと思うけれど、クレナイに苦笑されそうだから、やめておいた。いかにも知ってましたという風を装っておこう。
二重人格、のようなものなのだろうか。ぼんやりと想像するけれど、二重人格でも、そういう人に会ったこともない真白には、いまいち分からなかった。
「まずアキ……ああ、花晶たちのことは、国と同じ名前で呼んでるんだけど、アキは無口だな。たまに喋ったかと思うと言葉少なだし、聞き返しても答えてくれないし、よく馬鹿にされるし。いまいち何考えてるか分からないんだよねー」
「は、はあ……」
クレナイの口ぶりだと、上手くやれていないような気がする。大丈夫なのだろうか。
「で、ここからはアキからの又聞きなんだけど。ええっと……フユは、…………高飛車なお姫様タイプだってさ」
無口という割には想像しやすい情報を提供してくれる。もしかして、クレナイが分かりやすく言い換えてくれているのだろうか。
「ナツは…………難しい言葉使わないでよ……うーん、真面目、かな? 堅物らしいよ」
「それでは、春の花晶は、どういう……?」
「ハル、は……あれ? アキ? おーい…………黙っちゃった。ごめんね、情報源が口を閉ざしちゃったから、分からないや」
「あ、いえ、大丈夫です」
そう言って蜜柑は笑うけれど、正直、気になる。あと一人くらい教えてくれてもいいだろうに。アキというのは、気難しい御仁のようだ。
「じゃあ……最後、なんですけど」
「はいはい、なんでしょう」
「……どうして、真白ちゃんを、守護者に選んだんですか?」
思わず蜜柑を見る。彼女の横顔は、いつもの臆病な色は残っていたけれど、真剣に、クレナイを見据えていた。
クレナイはちらと真白を一瞥して、蜜柑の視線を受け止める。それから暫く、無言でじっと見つめた。そうして漸う、にっこりと、破顔した。
「ふうん。キミは、そういう人なんだ。……何か、ご不満?」
「……クレナイ?」
その言い方が、どこか棘があるように思えて、つい名を呼ぶ。けれどクレナイは、微笑んだまま蜜柑から目を逸らさない。蜜柑も、くっと唇を噛んで、見返した。
「……はい」
「そう。それは――いや、ここはキミの顔を立てて、よしておこうか。そうだなあ……どんな理由があればキミは納得するのかな?」
「…………」
「きっとどんな理由でも、真白ちゃんである限り、納得しないんだろうね。それなら、この質問に意味はないんじゃない?」
「あ、あります。だって、納得するしないじゃなくて、私は知りたいんです」
「キミが質問する意味じゃない。ボクが、キミの、その質問に、答える意味がない。伝わらなかったかな?」
「……っ」
そんな突き放す言い方はあんまりだ。真白は見かねて立ち上がった。
「ちょっとクレナイ、急にどうしてそんなに喧嘩腰なんだい? 蜜柑さんは、わたしのことを心配して、」
「真白ちゃん。質問しているのは彼女で、それに答か黙何れかを以て応えるのはボクだよ。キミが口を挟む余地はどこにもない、あってはならない。違う?」
言い返せない。ぐ、と言葉に詰まった真白にクレナイは目も向けず、ただ蜜柑を見つめる。蜜柑は、暫しの間の後、遂に耐え切れずに目を逸らした。
「ねえ蜜柑ちゃん。ボクからも質問してもいいかな」
「……はい」
「キミは、ミハシラのために命をも捨てようと思う?」
その問いに、蜜柑は少し考えて、首を横に振った。そっか、とクレナイは笑う。
「もしボクが、真白ちゃんより先にキミと出会って話していたら、キミを選んでいたかもしれないな」
「え……?」
「でも、まあ――すぐにこっちからごめんなさいしたかもね。ボクは嫌ーな奴だからさ、鏡を見るのは嫌いなんだ」
その言葉の意味は、真白にはよく分からない。だが、蜜柑には、分かったらしい。今にも泣きそうな、だが何かをこらえるような、複雑な表情で俯いている。その様子を、クレナイはただ見ている。
真白は、何も言えなかった。言葉が見つからなかった。――感情のままに反駁しても、何の意味もない。この問答自体を理解できていないからだ。
理詰めではないくせに、完全に感情で自律することができない中途半端。いっそどちらかに偏っていれば楽なのに。
暫くの沈黙。蜜柑は徐に紅茶を飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとう、ございました。失礼します」
「うん、バイバイ」
「あ、蜜柑さん、送るよ」
「大丈夫……またね、真白ちゃん」
儚げな笑みを残して、蜜柑は出て行く。その背が、廊下を曲がって見えなくなっても、真白は暫く部屋の入り口に立ち尽くしていた。
「自覚あるんだ。無いよりはましか……あっても直す気が無いのか。それはそれで嫌だなあ」
独白に振り向くと、クレナイは何事もなかったかのような顔をしてコーヒーを飲んでいる。
「……クレナイ。さっきはどうして、あんなことを言ったんだい?」
「ん? あんなことって?」
「質問に答える意味がないとか、すぐにごめんなさいしたかも、とか。彼女に失礼だよ」
するとクレナイは、ぐるりと目を回して、呆れたようにため息をついた。
「失礼、ねえ……」
「蜜柑さんは、守護者になったら危険だからって、わたしのことを気遣ってくれたんだ。それなのに……酷いよ、あんな言い方」
「真白ちゃんさあ、騙されやすそうとか馬鹿正直とか、言われたことない?」
「っそ、それは、関係ないだろう」
「あるよ……なんでかなあ、真白ちゃんは賢いはずなのに鈍感だなあ。それ、命取りだよ?」
「……ワケの分からないことばかり言わないでくれ」
「それはボクの台詞」
全くもって、彼の言いたいことが分からない。どういうことか説明してほしいと言い募ろうとした真白を遮るようにクレナイは立ち上がり背を向ける。その手には、マグカップが二つ握られている。
「あ、洗い物ならわたしが」
「いいよ、これくらいできる。箸より重い物を持ったことがございませんの、なんて箱入りじゃあるまいし、身の回りのことは自分でするよ」
「……でもそれじゃあ、わたしの仕事がないよ」
彼の剣にも、盾にもなれず、世話役としての責務さえ果たせないとあっては、さすがに居た堪れない。しかしクレナイは、肩越しにちょっとだけ振り向いて、苦笑した。
「それでいいんじゃない?」
「あ…………」
水音が会話を断絶する。それ以上は何も聞かないというかのようで、真白は口を噤んだ。
――そうじゃなくて。確かに面倒は嫌いだけれど、それはこんな風に、何もするなと取り上げられることを望んでいるのではなくて。
部屋を見回す。元より物が少ない部屋だというのもあるけれど、テーブルも、ベッドも、人がいた痕跡というのが見当たらないほどに整然としている。椅子にマントが掛けてあるくらいで、それも無造作ながら適当ではなく、初めからそこにあったかのように自然だ。
本当に、何もできない。まともに話し相手にだってなれない。――だったら、守護者じゃない方が幾分ましだ。
否定されても、役に立ってみせる。数時間前はあったはずの雄々しい気概が、水を掛けられたかのようにしぼんでいく。
「……あのさ真白ちゃん」
不意に声を掛けられて、いつの間にか下を向いていた顔を上げる。クレナイはキッチンに寄りかかり、洗い終わったマグカップを拭いつつ言った。
「愛情の反対は無関心。その通りだと思う。だけどじゃあ、憎しみの反対は全体何なんだって思ったことはない?」
「……急に、何?」
「……その答えは、今でも分からないけれどね。そう、キミがもし、心底憎い相手がいて、けれどそれを感づかれたくないとき、どんな表情をする?」
質問の意図がよく分からない。けれど何かしら答えないことには、それを教えてくれることもないだろう。真白は目を閉じて想像してみた。
――目の前には、沙那を殺した、あの刺客。だけど自分は、彼には憎しみを感づかれてはならない。そんなとき、
「…………笑う、かな」
クレナイは、その答えに満足したのか否か、小さく口の端を持ち上げた。
「そうだね、ボクもそうするかも。けれど笑顔というのは、それだけじゃない。たとえば怪我をして、たとえば何かを失って、傍にいる誰かを心配させまいとするとき、人は笑うものだ。笑顔が隠すのはね、憎悪もだけれど、一番は痛苦だよ。それから恐怖もあるのかな? まあ、恐怖の高まりのあまり笑い出してしまうこともあるようだけれど……」
「ねえ、それが一体何なんだい? そろそろ教えてくれてもいいだろう」
「……じゃあね、真白ちゃん。臆病が隠すものは、何か分かる?」
ふと、クレナイはドアへと目をやった。その唇が、皮肉な笑みを形作る。
「凶暴性だよ」
カチャン。乾いたカップを置く音が、虚ろに響いた。
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