第2話
――ああ、これは夢だ。
見慣れた景色に、嗅ぎなれた空気に、そう悟る。
果たして――この夢を見るのは何度目であろう。もはや数えるのもやめてしまった。
「真白! 早く、早く行くぞ!」
声音も。調子も。含まれた感情さえも飽きるほど。自らの意志に反し勝手に動く小さな体の中で、真白はただただ傍観する。
まるで写影機を前にしているかのような。展開も結果も分かりきったつまらない三文芝居。
ただ、感覚に訴えかけるものだけが、いやにリアルで。
「待って……はやいよお、」
「早く!」
空には何もない。本来朱であるはずのそこにあるのは、どこまでも沈みそうな、深い深い闇の蓋。遥か彼方まで続く田園の間を、幼い子供が走る。
ここは、真白の故郷。秋の国の中でも端に位置する、農作で食いつなぐ人々の村。
数年前に捨ててきた、懐かしき里だ。
そして――これは、その数年前の記憶の再生。
このあと、彼らは、
「……!」
眩しい光に目を射られたと思った瞬間、真白は現実に浮上した。
天井のしみ。視界の端をちらつく翡翠色のカーテン。さわさわと腕をくすぐる薄青のシーツ。
自室だ。そう認識して、真白は肺に溜まっていた酸素を長々と吐き出した。
また、あの夢だ。何年前だったか――もう風化してしまって風に浚われていきそうな古くのこと。まだこの世界のことも、あの村の外のことさえまともに理解していなかった時分のことだ。
今年に入ってからというもの、ほぼ毎日あの夢を見る。それまでは年に一度か二度、本当に稀だったというのに、奇妙なことだ。
そろそろ里帰りしろというメッセージなのだろうか。学院に入ってから、一度も顔を見せていない。
「……真白ちゃん?」
おずおずと掛けられた声に、床を見下ろすと、おさげ髪が特徴的な女の子、蜜柑がすっかり身支度を整えてこちらを見上げていた。
いくら官営で権威ある学院とはいえ、学生寮が一人一室などということはない。大抵が二人部屋、たまに三人部屋もある。真白の場合、この少々引っ込み思案な蜜柑がルームメイト、二段ベッドの下段の住民だ。
彼女とは特段親しいというわけではないが、同室である縁で割と話す方だ。とはいえ真白は少々女子の中では浮いた存在だし、蜜柑は引っ込み思案で臆病な性質だから、寮外で関わることはそう多くはない。
「おはよう。今日は起きるのが早いんだね。朝礼は今日だったっけ」
「う、ううん。朝礼は来週だよ」
「そっか。じゃあ、一限にテストでもあったかな」
「え、ううん、無い。あのね、真白ちゃん」
細い指を忙しなく絡ませて、蜜柑は眉を八の字に下げ、上目遣いに真白を見た。
「あのね、今、もう二限なの」
「……………………え?」
「だから、もう二限が始まっちゃったの。……起こしたんだけど、その、……ごめんね?」
つまり。
とんでもなく寝坊をした。
「…………」
「……あの、真白ちゃん?」
「………………」
「だ、大丈夫?」
「……ああ、うん。大丈夫」
いっそこのまま休んでしまおうか、なんて思っていたことをおくびにも出さず、真白はひらひらと手を振った。
「もしかして、蜜柑さんはわざわざ起こしに来てくれたのかい」
「あ、うん。藤原先生が起こしてこいって」
いらぬことを。
一瞬にして眉間にしわが数本刻まれたのを見て、蜜柑は慌てて弁解した。
「あ、あのね、藤原先生は真白ちゃんのことを思って」
「そんなわけないよ。あいつ、わたしをネチネチネチネチいじめるのが楽しいんだ。遅刻なんて格好の的だしね」
強い口調で蜜柑の言を遮り、真白はボフンとベッドに舞い戻った。
ああ、授業が藤原担当だと知った途端に行く気がなくなった。蜜柑には悪いけれど、今日はサボろう。そうしよう。
そんな思考はやはり看破されてしまったらしい。
「もしかして、休むの?」
「うん。行きたくない」
「だ、ダメだよ。単位危ないんじゃないの?」
「うっ」
それを言われると痛い。ここぞと思ったかは知らないが、蜜柑は更に言葉を重ねる。
「真白ちゃん、火曜日はよく休むから。藤原先生以外の授業も、結構危ないと思う……」
「だって」
火曜日に限って、藤原の授業が二つもあるのだ。行く気もなくなる。
「そうだ。今日は調理実習だよ。楽しそうだよね」
「……むう」
「献立は、ホワイトシチューだよ。真白ちゃん、シチュー系好きでしょう」
「……うん」
「真白ちゃん、料理上手だし、いてくれると助かるなあ」
「蜜柑さんも上手だよ」
「あ、ありがとう。でも……その、あの班、真白ちゃん以外に話す人、いないし……」
「…………ううううう! 行く!」
そんな、消え入りそうな涙声で言われて尚首を横に振るなんてできるものか。血を吐く思いで決断すれば、蜜柑は今にも泣き出しそうな顔をぱっと輝かせた。
「ありがとう!」
「……うう。お礼を言われるようなことじゃないよ……」
そもそも寝坊するのが、遅刻するのが、ズル休みしようとするのがいけないことなのだ。こちらこそ、こんなどうしようもない人間を助けようとしてくれてありがとうである。
とはいえ、喜び勇んで行く、なんてことにはならない。
これでもかと後ろ髪を引っ張られながらも、ゆるゆると支度をして、蜜柑と共に寮を出た。
それにしても、よくもまあこんな時間まで寝ていられたものだ。学生としてのサイクルが身に染み付いていると思っていたのだが。
もはや達観した心持ちで、のんびりと歩を進める。蜜柑も急かす気はないのか、二人並んで、傍から見たら散歩のようだ。実際こんなにゆっくりしている余裕はないはずだが、本気でサボろうとしていた真白が急ぐはずもない。
――正直。このまま二限をすっぽかし、藤原以外の授業を受けようか、という気もなくはない。というか、多分にある。とはいえ単位が危ういのも然りだ。かといって――ここまで盛大に遅刻しているのだ、あの藤原が平常点をくれるとは思えないし、行ったところで嫌味を聞きに行くだけかと思うと気が重い。
学習棟が見えてきた。どこからか、国語教師の朗読が聞こえる。
「…………」
ちらと、蜜柑を横目で盗み見る。
おとなしすぎて、決して目立たない子なのだが、頭はいい。そのためなのか、教師の信頼篤く、同室である真白の世話を押し付けられているのだ。申し訳ないという気持ちもあることにはある。
ここは彼女への日ごろの感謝も含め、素直に従うとしよう。
どこの教室も、当然ながら授業をしているから、廊下はシンと静まり返っている。その静謐を足音で乱すのは少々背徳感があって気後れする。
背徳に喜悦するほど、真白はひねくれているつもりはない。
もうすぐ教室だ。わずかに歩が鈍ったのが自分でも分かる。
ええい、なるようになれ。入室早々何を言おうか、言われるか。そんなことはもうどうでもいい。結局悪いのは自分なのだから、甘んじて受け入れようではないか。いい加減大人になれ。
そう自身に暗示をかけながら、取っ手に手を伸ばしたとき、学院中に、いやさ国中にとも思うほどの単音が、辺りを引き裂いた。
人間の警戒心を否応なしに揺さぶる、喚起音。
「サイレン……?」
驚きの声を上げると同時に、あちこちから一斉に教師たちが飛び出してきた。皆一様に、憔悴の色を浮かべている。
その内の一人――藤原が、目の前にいた真白に目を止めた。
「あ、あの」
「さっさと教室に入れ」
軽蔑しきった表情で嫌味を言われるかと思いきや、真白の言を遮って出てきたのは、その一言だけだった。面食らった真白が動くよりも早く、藤原は苛立ちと焦りを隠せない足取りで、他の教師たちと情報交換を始める。
誰も彼も、決して喜ばしくはない感情に浮き足立っている。
「真白ちゃん、教室入ろ?」
鳴り止まないサイレン。聞き取りづらい彼らの会話に耳を澄ませていた真白の袖を、蜜柑がそっと引く。その誘いに従って、教室に入った。
「あ、真白!」
室内は案の定ざわめいていた。おろおろと辺りを見回す者。不安を紛らわせるように級友と言葉を交わす者。平静を装う者。その中で、やはり不安そうに両手を組み合わせて所在なげに立つ沙那が、真白を見て、どこかほっとした表情を浮かべて声を上げる。そのまま駆け寄ろうとして、ふと蜜柑に目を止めた。
「あ……じゃ、じゃあね、真白ちゃん」
「うん。ありがとう、蜜柑さん」
軽く会釈をして、蜜柑は自分の席に向かっていく。
その背を、沙那は厳しい目で見ていた。
実のところ、二人はあまり仲がよろしくない。否、蜜柑としてはそういうつもりはないのだろうが、いかんせん、沙那が彼女のことを快く思っていないのだ。曰く、
「何を考えているか分からない」
だそうである。真白としては、その意見もよく分からない。蜜柑は、少々物怖じしすぎるきらいはあるが、決して悪い子ではないと思う。
沙那は、すっと真白に視線を戻すと、その肩に手を置いた。
「真白、今まで何してたの。もう二限だよ」
「あはは……寝てた」
「寝てた、って……」
ガク、と沙那は大きく肩を落とした。そんなに呆れられたって、寝坊したのだから仕方ない。
「……早く寝ないからよ。どーせ昨日、難しい本でも読み耽ってたんでしょ」
「読んでないよ。昨夜は帰ってすぐに寝たからね。大体難しい本は好きじゃない」
「そーでした。じゃ、藤原センセの部屋の前で何時間も立ち往生してた?」
「む。馬鹿にしているね? 残念、藤原はすぐにクリアして、それからまっすぐ――」
否、決してまっすぐではなかったはず。だって、研究棟を出てから、
――何をしていたのだっけ?
「真白?」
「…………あ、えっと」
真白は、ふるふると頭を振った。
昨夜はなぜか記憶が判然としない。特に研究棟を出てからが、砂嵐に巻かれたかのように拡散する。
とはいえそれもよくあることだ。大した変化のない漫然であるが故に、埋もれてしまうのも仕様が無い。
けれど。何かが、脳を引っかく。
黙りこくってしまった真白に、沙那が声を掛けようとして、
サイレンの合間に入ったノイズに、全員がスピーカーを見上げた。
『学院内に、不審者が乱入。学院内に不審者が乱入。速やかに避難を開始してください。繰り返します……』
平静を装いながらも焦りを隠しきれないアナウンスに、教室中の不安と喧騒が一層高まった。
「不審者?」
「うそ……どういうこと? 学院って、警備がかなり厳重なんじゃ」
「と、とりあえず逃げないと」
「でも、どこに? だって、不審者が……!」
そう、不審者が中に入ってきたというのなら、迂闊に出れば遭遇する危険だってある。それを考えれば、訓練で身に染み付いた避難とはいえ、易々とは動けない。
しかし、それを押してでも避難させなければならないほどの事態だとでもいうのだろうか。
「真白……」
顔面蒼白になった沙那が、小さく、でも強く真白の袖を握る。
その細くしなやかな手は、震えていた。
「……大丈夫」
何の根拠もないけれど。
自然、そんな言葉を紡いでいた。
「大丈夫だよ。うちの先生は、戦闘訓練なんてするくらいだから、強いし。学院は重要機関だから、国もすぐ動いてくれる。大体、そんな危険なヤツが入ってくるもんか。精々変態くらいだよ。大丈夫、大したことにはならないさ」
大丈夫。その一言ばかり繰り返す。
まるで、自分に言い聞かせるように。
その効果があったのかなかったのか、沙那は依然白い顔のまま、しかし、ぎこちなくも笑みを浮かべてみせた。
「そう、だよね……。うん、そうだよね。不安になってちゃ、ダメだよね」
その笑みに、真白自身の不安が溶かされていくのが分かった。
自分自身、不安で不安で仕方がなかったのだと、それで初めて気がつく。
きっと、この顔も、沙那と鏡写しのように蒼白だろう。
でも、何とかなる。そう心の中で繰り返す。何も、戦争が始まるというのではない。不審者といっても、どうせ、マスクマンとか、猥褻な人とか、そんなものだろう――。
とりあえず、逃げよう。沙那の手をぎゅっと握って、そう言おうとした時、
轟音が、建物を揺らした。
教科書に文房具、何でもかんでも軒並み滑り落ち、天井からはパラパラと埃が落ちてくる。あまりの衝撃に、立っていられない。真白は、沙那から手を離して尻餅をついてしまった。
一瞬。誰もが呆然として、しんと静まり返った。
一体何が起こった。そんな当然起こるべき疑問も凍り付く。
一拍ののち、誰かが上げた悲鳴が瞬く間に伝播した。
混乱が、金縛りを解き皆の足を動かす。誰もが我先にとドアへ駆け寄り、押し合いへし合いしながら廊下へと飛び出していく。もはや、どこに不審者がいるか、なんて恐怖は消え去ってしまったらしい。否、むしろ、不審者というワードと、この危うく死ぬところだった事態が必然的であるとしか考えられない故の恐慌か。
それはどこの教室も同じようで、廊下に出たとしても動くに動けない。結局、混乱の極みにある生徒と、落ち着かせようとする教師たちとで大混雑だった。
真白はなんとか立ち上がり、沙那を探した。ドアへ走る人波の向こうに、見慣れた栗色の髪が見えた。
「沙那、大丈夫かい? とりあえずわたしたちも―――」
言葉は、そこで途切れた。
無音。狂乱で騒がしい周囲が瞬時に遠ざかっていく。
「さ、な」
――親友の、
笑顔の似合う、羨ましくも思った可愛らしい顔は、
真っ赤な血に、塗れていた。
「――ぎゃっ」
「ヒィッ」
あちこちで短い悲鳴が上がり、すぐ後に物が倒れる音が響く。それに交じって、何か金属が風を切る音も聞こえる。
けれど、真白は、沙那から目を離せずにいた。
ぼんやりと、焦点の合わない目をこちらに――否、どこかを見ているようでいてどこをも見えていない目が、ぐるりと回って。
沙那の体はゆっくりと傾いだ。
「――沙那っ!」
反射的に手を伸ばし、床に倒れこむ前に抱きとめる。しかし、
「ひ、」
がくり、と。半分に裂けた首が口をぱっかり開いて、本来ありえない角度まで頭が落ちる。
それは、暴力的なまでに、彼女の死を真白の胸にぶつけた。
――ああ、
ああ、どうして。
どうして、沙那が、死ななきゃならない。
どうして、こんな――!
「危ない!」
誰かが叫んだ。その声が意識に触れるよりも早く、真白の体は横ざまに吹き飛んだ。
「ぐっ、……う、」
したたかに壁に叩きつけられ、一時の呼吸困難に陥る。
一体何が起こった。体の痛みに顔をしかめつつ起き上がり、見ると、
「…………!」
そこには、異様な風体の男がいた。
いや、男かどうかも怪しい。フードを目深に被り、口元をマスクで覆っているため顔が分からない。その上、民族衣装のような布の多い服を着ていて、体格から判断することもできない。
ただ、およそこの国の人間でないこと、そして、この場において味方でないことは分かった。
おそらく――刺客、そう呼ばれるものだろう。無造作に引っさげた刃からは、まだ色味を失わない赤が滴っている。
こいつが、沙那を。腹の底から赤黒い何かが渦を巻いて湧いてくるが、衝動に任せて動くには、刺客から発せられる殺気は重厚にすぎた。さっき蹴飛ばされたためかジンと疼く腹を押さえ、じりじりと距離をとる。
こいつは、不味い。直感がそう告げている。次にどんな動きをとるかも、目的さえも判じ得ない。わずかに後退していく真白を隠れた目で見下ろしたまま、ぴくりとも動こうとしない。
何かを待っているのか。命乞いか、抵抗か、それとも。
読めない。一番の恐怖だ。
真白はちらと沙那に――その体に目をやって、一言、ごめんねと心の中で呟いて。
刹那、床を蹴った。
瞬時に相手も動き出す。その反射速度は想像を超えていた。
「くっ――!」
窓へ。廊下には人が犇いている。ここは二階だから、無傷では済まないだろう。
それでも、ここでこいつに殺されるくらいなら。
「やあ!」
「……!」
振り向きざまに、手近にあった教科書を投げつける。刺客はそれを難なく退けると、刃を振った。刃先が真白の服の裾を捉え、皮膚に届かず振り切れる。その一瞬の隙を好機と見て、椅子を蹴り送ると、さすがに避け切れなかったのか、往生した。
よし、これなら――!
「――あ、」
視界の隅に、立ちすくむ蜜柑。まだ逃げていなかったのか、否、それよりも。
もし、今、自分がここから飛び降りれば。
当然の如く、次に狙われるのは――――。
わずかに、足が緩んだ。
それがいけなかった。
「、うあっ!」
「ま、真白ちゃん!」
足首を掴まれ、一息に床に引き倒される。頬をしたたかに打ち付け、その衝撃で犬歯が唇に引っかかり鮮血が散る。それらの痛みに反応する間もなく、首筋にひやりとしたものが触れた。
――殺される。状況を瞬時に理解して、体が強張る。
呼吸音が耳元でする。平生ではありえない速度で脈打っているはずなのに、動悸はどんどん遠ざかって、ただ息を吸い吐く、そんな生きている証拠だけが残った。
先程までの怒りは、憎悪はどこへいったのか。
怖い。
それだけが、頭蓋を支配する。
死がどんなものかなんて、今まで真剣に考えたこともなかった。
こんなにも、死は、怖い。
勢いをつけるためか、わずかに刃が引かれる。
来る。一瞬で目の前が絶望で塗りつぶされる。喘ぐように開いた口からは、何も出てこない。
まもなく訪れるであろう終わりへの恐怖に、真白は目を閉じることも忘れ、ただ固まっていた。
そして―――肉を断つ音。
「、ぎゃああ!」
その悲鳴は、自分の喉から、ではなく。
「はー、危なかった。もし欲張って唐揚げまで頼んでたら、確実に間に合わなかったよ」
そんな間延びした、如何にもこの場にそぐわない声と同じく、上方から聞こえてきた。
痛みはない。さっきまですぐそこにあったはずの刃も見えない。
そろそろと上を見上げてみると、
「き、貴様……まさか……!」
「あれ、ボクのこと知ってる? 困っちゃうなあ、有名人って、さ!」
「ぐああっ!」
朱の髪を持つ、無邪気に笑う青年と、装束を血に染めた刺客。
そして刺客の肩を貫き壁へ縫い付ける、長槍。その握りは、青年の手の中にある。
青年はぐっと槍をより深く打ち込むと、その笑顔を刺客の脂汗が浮かんだ顔に近づけた。そして、漸う口を開く。
「――このまま去るなら、見逃してもいい」
「な、に?」
「おとなしくどこかへ行ってくれるなら、殺さないよってこと」
青年の申し出に、刺客は心底信じられないものを見たような顔をした。
これには、真白も耳を疑った。
この状況で見逃すだなんて、何を言っているのか。逃がしたら、また誰かを殺すに決まっている。
沙那を、殺したのに、見逃すなんて。
刺客は、案の定と言うべきか、その提案を鼻で吹き飛ばした。
「ふざけるな。我ら夏の戦士、情けなど受けぬ」
夏。それは、友国の名だ。
まさか、夏の国が攻めてきたのか。この惨状を生んだのが友国だというのか。
思索を巡らせる真白の上で、青年が残念そうに息を吐いた。
「情け、ね。……まあ、死を取引するキミ自身がそう望むなら、仕方ないよね。うん、バイバイ」
そう、至極残念そうな声音であっさりと別れを口にして、穂先を抜き一分の迷いもなく喉笛に突き立てた。
ぐじ、と肉を抉る音を響かせ、槍が引き抜かれる。引きずられるようにして鮮血が噴出した。
浴びてしまう。思わず目を閉じた真白に、ふわりと布が被さってきて、降り注ぐ返り血から守った。
それはよく見ると、白いマントだった。緻密な装飾が施された、下ろしたてのような白。
昨夜、あの人が纏っていたような――――
「あ……!」
そう。そうだ。昨日、学院の学習棟内で、見知らぬ人と出会ったのだ。
そして、その人は、
「大丈夫?」
気遣うように、呼気を溶かすようにして問いながら、右手を差し伸べてきた。
その姿は、昨日の神秘的な色彩を残すものの、より近くに――言うなれば、同じ次元に確実に存在していると、そう思えるほどに、近く見えた。
心配そうに翳る双碧。その色合いに、見知らぬ人という条件から発生すべき警戒は全く消えうせた。
真白がおずおずと白い手袋に包まれたその手を取ると、存外強い力で引っ張り上げられた。踵が床につく。そのまま自立しようとするが、膝に力が入らなかった。
「おっと」
がくん、と膝からくず折れる寸前で、青年に抱きとめられた。
見た目は優男なのに、支える腕はしっかりとして固い。そんなことを、頭のどこかでぼんやりと考えた。
「大丈夫、じゃないよね。無理もないか。……ちょっと、そこに座ろう。ね」
肩を抱かれ、近くの椅子に誘導される。促されるままに腰を下ろせば、言いも知れぬ疲労がどっとのしかかってきた。
先ほどまで見知ったクラスメイトが授業を受けていた教室は、今やあまりにも空虚だった。敵もいない。あるのはいくつかの死骸。意志を持って動いているのは、真白と青年だけだった。
――沙那。刺客。迫る死。命の恩人。
いろんなことがこの短時間にありすぎて、頭がこんがらがっていた。
座り込んで呆然とする真白の前にしゃがみこんだ青年は、あれ、と目を丸くした。
「キミ……」
「?」
「や、なんでもない。ところであちらの彼女はおともだち?」
ふるふると首を振って、指差した先には、蜜柑が座り込んでぐったりと壁にもたれかかっていた。
「蜜柑さん!」
慌てて立ち上がろうとした真白を制し、青年は蜜柑の傍に寄った。脈を確かめてから、こちらに軽く微笑みかける。無事なようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
それから――沙那へと、目を移す。
開かれた目は虚空を見つめている。表情には何の翳りもなくて、この騒乱を知らないかのようだ。まだ生きていて、むくっと起き上がって「真白、もう、今日もサボって!」なんて小言を言ってきてもおかしくないとさえ思える。
――そうか。彼女の小言は、声は、もう聞けないのか。
その事実をぼんやりと考えて、じわりと視界が滲み始めた。
「……その子、キミの友達?」
不意に掛けられた声にただ頷く。青年は近くの席に蜜柑を座らせると、沙那のそばにしゃがみこんだ。
手を合わせて、何事かを口中で呟き、彼女の瞼をそっと下ろさせる。それから投げ出されたままの手を胸の前で組ませ、刺客の服を少し千切ると、沙那の首の傷に巻いた。
本当に、ただ眠っているだけかのようだ。
ほろり、と。一粒涙が流れると、もう止まらなかった。
声もなく、ただただ涙を流し続ける。青年はそんな真白に視線を向けて、目をそらし、ただそばに立った。
数分か、数時間か。ずっと、真白の涙が枯れるまで、ただ、立っていた。
泣き止む頃には、床を壁を伝って響いてくる物々しい音も、断続的になっていた。
青年は無言で真白にハンカチを手渡すと、その顔を見ないまま、部屋を出て行こうとする。その靴が敷居を跨ごうとしたのを見て、芯が痛んで茫漠としていた頭が一気に覚醒する。真白は慌ててその裾を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「どうかした?」
「ここに、置いていくつもりかい?」
正直、もう一度襲われたら、生き残る自信はない。まして気絶したままの蜜柑もいる。そんな殺生な、という思いを込めて青年を見ると、彼は教室中をぐるりと見回して、ふーむ、と顎に手を添えた。
「それもそっか」
ほっとしたのも束の間、
「でもボク、これから敵をやっつけに行くんだけど、それでもついてくる?」
「え、」
「キミを守りながら、っていうのはちょっときついな。けっこう入り込んでるみたいだし、多分、怪我させちゃうよ」
「……それは」
「それに、そこの女の子を一人置き去りにするの?」
「………………」
反論の余地がどこにもない。
う、と言葉に詰まった真白を見て、青年は困ったように笑んだ。
「……ベストは、キミが彼女をつれて逃げてくれることなんだけど」
窺うような沈黙に、ぶんぶんと首を横に振る。どこにさっきのような刺客がいるか分からないし、そもそも蜜柑を抱えて走るのも無理だ。いくら小柄な彼女とはいえ女の子一人、真白とても蜜柑とそう体格は違わない。
うーん、と青年は腕を組んだ。槍を握っていた右腕の袖についた血が、左袖にも移った。
その間も、どこかあちこちで何かが壊れるような音がしている。
どうして、こんなことに。一体何が起こっているのだろう。
昨日まで平和そのものだった学院。それが、ほんの数十分で、この有様だ。
――夏の戦士。刺客はそう言った。
この惨劇を引き起こしたのは、夏の国。だが、夏・秋・冬の三国は、それぞれに協定を結んで、友好関係にあったはずだ。
考えれば考えるほど、わけが分からない。だが、これだけは確実だ。
夏は、沙那の仇。すなわち、敵だ。
「…………うん、仕方ない、か」
しばし考え込んでいた青年は、ふうと息をついてそう呟いた。それに思索を止めて顔を上げる。
青年は徐に、ぐったりとして動かない蜜柑を背負い、左手だけで支えた。
「とりあえず、校舎から出よう。ついてこれるよね?」
「え……え、と」
真白がおずおずと頷くのを見てとるや、青年はニコリと微笑んで、
「うひゃ」
「よし。じゃ、敵は何とかするから、ガンバローね」
真白の頭を、幼い子供にするみたいにわしゃわしゃと撫でた。女の子にするにしては乱暴だ。
少々、いやだいぶ、複雑である。
しかしそんな異議申し立てをする暇もなく、青年は動き出した。開いたままのドアにぴたっと張り付き、廊下を窺う。
真白は沙那のそばにしゃがみこんだ。
「……ごめん。先に行くけど、必ず、迎えに来るから」
もはや用を為さない耳にそう囁く。数秒黙祷してから、青年に続いた。
あれほど人が溢れていた廊下も、今や、生きている人は誰もいない。逃げ遅れたのか、ぽつりぽつりと死体が投げ出されている。
真白は思わず顔を背けた。
その先には、命の恩人の横顔。
「あの……」
「うん?」
「昨夜、会った……よね」
ふと、青年はこちらを一瞥した。そして、一度ぱちりと瞬く。それを肯定ととった真白は、問いを重ねた。
「名前は、何ていうの?」
「名前?」
必要なのか、と言外に込められた響きに、真白は確と頷いた。
「命を預けるんだ。キミのことを、名前だけでも知っておかないと不安だよ」
果たしてそれだけだったのかは、真白自身にも分からない。
ただ、青年はそれだけで満足したのか、つと口端を吊り上げて――
「クレナイ」
「、え?」
「よし、行くよ!」
勢いよく飛び出した。
廊下の死体には、知った顔もちらほらある。昨日までは、普通に、他愛ない言葉を交わしていた。
まさか、翌日には命を落とすことになるだなんて、思いもしなかったろう。
「…………っ!」
真白はくっと唇を噛み、クレナイが背負う蜜柑の背中だけを注視し、走った。
隣の教室の前にいた、先の者と同じ服装の刺客が、真白たちに気がついて武器を向ける。クレナイは蜜柑を抱えながら軽やかに蹴り飛ばし、壁に激突して気絶した刺客をそのままに、出口を目指して走る。
次々に、クレナイは刺客たちを倒していく。その強さは目を見張るほどだった。相手に攻撃する暇も与えず距離を詰め、のしていく。否、ただ単純に強いというだけではない。戦いに慣れている。
授業で戦闘訓練を受けてきた真白だが、ここまでの手練を見たことはついぞない。
「……っつ、強いんだね!」
「まあ、それが取り柄というか、そうじゃなきゃ存在意義がないからねー。よっと」
「それは、どういう意味っ?」
「んー? そのままの、っと、意味だけど? はいはいどいてねー」
「存在意義って、ちょっと大仰じゃないかい?」
「そんなことも、ない。その内分かるよ、キミにも」
「……ねえ、君、一体――」
何者なの、と続くはずだった言葉は、突如立ち止まったクレナイの手に遮られた。
ここはまだ二階の長い廊下の途中、外までは少し遠い。どうしたの、と問おうとした真白は、前方のそれに気がついて、くっと息を詰めた。
右腕を横に伸ばし、真白を背に庇うようにして立つクレナイの視線の先には、
「あら、その服。随分と高貴な方のお出ましのようね」
長い髪を肩に流した、妙齢の女性がいた。
世の女性皆がうらやむような、柔らかなラインを描く肢体を包む白いスーツには、赤い血が飛び散っている。彼女が持つ、その細腕には似合わない大斧も、べっとりと濡れていた。
一瞬で、敵と知れる。真白はほとんど無意識に、クレナイに借りたまま羽織っていたマントを握り締めた。
惨状の中、妖艶という言葉が形を成したような笑みを浮かべる女性に、クレナイは、真白を背に隠したまま、しかし、警戒など微塵もしていないかのように、にこりと破顔した。
「こんにちは、お姉さん。キミも夏の人?」
「ええそうよ、高貴な坊や。よく分かったわね」
「夏の人は口が軽いようだから。ふふ」
「あらあら……教育し直さないと」そこで女性はつと、面白がるように片眉を上げた。「なあんて言っても、もうとっくに死んじゃってるんでしょ?」
語頭と語尾を伸ばす独特の口調は、その艶を一層際立たせる。だが同時に、同輩の死を何とも思わぬ残酷ささえもが浮き彫りになった。
理解しがたい境地だ。否、したくもない。眉をひそめたが、声を上げることは憚られた。
――この国最大の教育機関とは見る影もない、惨澹たる戦場。あちこちに打ち棄てられた、何の罪もない学生たち。その中で、血塗れた凶器を手に笑む二人。
その間に漂う、緊迫でありながら怠惰な、されど迂闊に触れれば心の臓まで一気に斬りおろされそうな妙の空気。
ひとえに。彼らとは何もかもが違いすぎると、体の奥底にある本能に触れる以前、肌が感じ取っているが故に。
「うん。殺せっていうから、お望みどおりにね」
立場。思想。力量。そんな表面的なものではない。
「情けはいらぬ、って? 莫迦よねえ、ほんと。死んだら何もかも終わりだっていうのに。そうは思わない、血染めの外套に縋るお嬢ちゃん?」
或いはそう、それらを形成せしめる根源そのものが。
こんな状況で、平和を叫ぶつもりはない。宙ぶらりんの平等を謳うつもりも毛頭ない。敵は敵、友の仇、倒すべきもの。――さは思えど。彼らのように、まるで、ちょっとそこまで買出しに行くような、自らがその渦の中心にいながら全く他人事のような、そんな調子で、人の生き死にを、生殺与奪を語るなんて。
「あらまあ。ダメねえ、軟弱で。全く豊穣は堕落しか齎さないわ」
「平和は決して悪いことではないと思うけどね」
「ばぁか。この因果律の中にいて平和だなんて、仮初もいいところじゃない。終わりの確定した平和への傾倒は真罪悪だわ」
「……うん、そうだね。平行線だ」
もはや歩み寄れる差異ではない。視認さえもままならぬ、決定的な次元という隔たり。理解しようなどと、既に傲慢ともいえる。
「でも、ねえ。普通逆じゃない? 坊やこそ守られる側のはずよねえ」
「……その認識は、間違っているな」
「あらそう? おかしいわね、アタシはそう教わってきたのだけど」
「ボク”ら”は、国のために戦う。キミたちはそう教えられているはずだよね」
「――アハハ! そうね、そうだったわ。勝者は繁栄を還元するのだものね」
違いすぎることに対して抱く恐怖以前に。自らが今ここにある事実すらも、疑いたくなる。
何を言っているのか分からない。何をしようとしているのか分からない。
どうしてわたしがこんなことに、なんて。考えても詮無い、さっき封印したはずの疑念が鎌首を擡げる。
――全て。全て、夢なんじゃないかと。願望がすり替わった希望的観測の極致にさえも到達する現実逃避。それがどれだけ愚かなことかは、わざわざ提起しなくとも分かっている。――仮に、そんな逃げを打たないにしても。
今の今まで隣にあった存在が、こんな状況でたった一つ、縋れる腕が、銀幕の内の仮想存在に思えた。
真白は、足元がガラガラと崩れて、奈落に吸い込まれていくような感覚に陥った。
「――――大丈夫」
不意に耳朶に触れた囁き。それに顔を上げれば、
「大丈夫だよ、真白ちゃん。キミは、ボクが守るから」
命を預けると決めた、どこまでも澄んだ湖を切り取る碧眼に、自分が映っていた。
「う、ん。分かった」
理由はなく。ただ、じわりと、四肢の末端にまで広がった不思議な暖かさに、真白は頷いた。
「よかった」
そう言って。クレナイが見せた笑みは、先まで女性に向けていたものとは全く違う彩りを持っていた。
そこで初めて、さっきまでの彼のそれは、あまりに無機質で、言ってしまえば、笑みではなくただ口元の歪みに過ぎなかったのだと知った。
違わない。彼は、同じだ。同じ、人間だ。
「……なんだか妬けちゃうわね。あーあ、アタシもそんなこと言われてみたい」
言葉とは裏腹に、女性の口ぶりは楽しげだった。
「キミの”ご主人様”に?」
「やだ、まるでアタシが飼い犬みたいじゃない」
「間違ってはないよね? 守護者さん」
守護者。初めて聞くワードに、真白はクレナイを見たが、彼は既に真白を視界に入れていなかった。
「キミは見た目によらず、随分と尽くすタイプみたいだね。開戦直後から、単身敵地に乗り込むなんてさ」
「人を見た目で判断しちゃいけないのよ、坊や」
「これは失礼。でも、少なくとも、忠誠心は無いよね。……うーん、これ以上追及すると野暮かな」
「――フフ。見かけによらず情に聡いのねえ」
「……そんなに朴念仁に見えるかなあ」
そんな、何気ない風を装ったやりとりの間に、女性は至極ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。無造作に下げられた大斧の先が、がりがりと床を削っていく。
その無機質で暴力的な音が、真白の不安を煽る。だが、もう心は決めていた。
臆すまい。大丈夫。クレナイがいる。
大丈夫。これは、魔法の言葉だ。
ぐっと唇を引き結んで、ともすれば震えそうになる膝を奮い立たせた。
クレナイは女性の言に応じながらも、無駄のない動作で蜜柑を降ろし、真白に託した。下がるよう手で合図し、いつの間にか消えていた長槍を虚空から取り出す。しゃら、と金属が触れ合う音が、半壊の廊下に響く。それを機に、女性は漸く足を止めた。
お互いの射程に入らない距離で対峙する二人の口元は、弧を描いている。しかし、空気はピリピリと産毛を焦がすほど張り詰めていた。
懐の探り合いはもう終わり。あとは、死合うだけだ。
真白が充分に距離をとったのを確認してから、クレナイは口を開いた。
「ねえ、お姉さん。よければ、お名前。聞かせてもらえる?」
槍の穂先が、どこからの攻撃にも対応できる位置に留まっている。対して大斧は、未だ床に着いたままだった。
この女性は、強い。真白でさえ、そう直感的に悟った。
或いはクレナイには、何か別のものも見えているのだろうか。
「教えてほしいなら、坊やが先に名乗りなさいな」
「……んー。そうだな、いいよ。クレナイっていうんだ、よろしくね」
「ふうん。いかにも秋らしい名前ね」
大して興味もなさそうに言った女性は、ふと、真白に目をやった。
「…………?」
一瞬。不思議な光が、その瞳に翻った。だが、もしかしたら、気のせいかもしれない。瞬きの内に、それは跡形もなく消えてしまっていた。
ゆるり、と、女性の翠玉の双眸が動く。ひたとクレナイをまっすぐ見据えた刹那、ずっと口元にあった笑みから、愉悦が失せた。
否、或いは――その色彩を全く違えてしまったのか。
「…………うふふ。残念、おしえてあーげない」
そう、ささめいた刹那。
火花が、散った。
「……!」
大斧が空気を断ち切る、音は聞こえる。しかしその軌道は肉眼では捉えられない。
対して朱槍がそれを的確に弾いているのが虚空に咲く曼珠沙華と、遅ればせて響く打突音で分かる。
不可視の戟。確かに有るのに視認を許されないそれは、常人を超えた速さに起因するものだった。
「――へえ。速いね」
咲き誇る花の中で。
「……、貴方こそ」
クレナイと女性は、対立する表情を浮かべていた。
苦楽。唯一真白にも見えるそれが、戦況を判断させる。
明らかに、クレナイが彼女を上回っている。
それを理解できないのは、強者ではない。クレナイに格段に劣るとはいえ強者の部類に入る女性は、チッと舌を打ち一際強く打ち合って、その反動で距離を取った。
目視五メートル。着地したと思った刹那、その姿が掻き消える。
自然のものでも、まして人の動きが齎す余波でもない、恣意的な迅風が、頬を掠める。
クレナイが、一歩足を引くのが見えた。
――瞬間。一体何があったのか、真白には理解できなかった。
閃光が煌いたと思った途端、クレナイの体が前触れなく、猛々しい豪炎に包まれた。認識できたのは、唯それだけだ。
「――――っ!」
声にならない悲鳴を上げる。凍りついた腕から、蜜柑がずるりと床に落ちた。
熱風が髪を嬲る。小さく爆ぜる火花が肌を焼いて、その炎が幻でもなんでもないことを悟った。
「クレナイ!」
足に根が生えたかのように、その場から動くことができない。唯一機能する喉で、真白は彼の名を叫んだ。
炎は瞬く間に球状に広がり、真白に届く前に四散する。
そこには――
「……意外。あんなに重そうなの、軽々と振るなんて」
どこか感心したように呟いて、クレナイが傷一つ負わない姿で立っていた。
その姿を見た途端、膝から力が抜ける。膝小僧を思い切り床に打ち付けた痛みも感じないくらいに、真白は自失していた。
さっきのがなんだったのか、なんて考える余裕もなく。衝撃と安堵とがその性質に似合わない怒涛のような波撃で襲い掛かってきて、頭の中が綺麗さっぱり空白だ。
クレナイはそんな真白の様子には気がつかず、ふむ、と首を傾ける。
「いないなあ……逃げられちゃったかな。…………うーん、そっか。でも見当たらないね……ま、死ぬ気は毛頭無かったんだろうし、いい見極めなんじゃない」
きょろきょろと辺りを見回しつつ、独り言を呟く。漸く現実に戻って、長々と息を吐いた真白は、その仕草で初めて、女性の姿がどこにもないことに気がついた。
「あれ……」
もしかして、今の炎で。けれど、それらしきものはない。クレナイも、逃げられたと言っていた。
――まだ、どこかにいて。わたしたちを、狙っている?
途端に恐怖が背筋を駆け抜けて、真白は胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。
大丈夫。クレナイがいる。クレナイは強い。そう、目を閉じて自分に言い聞かせる。
「…………真白ちゃん?」
驚いたような声に瞼を上げれば、クレナイがこちらを見て目を丸くしていた。タタッと駆け寄ってきて、しゃがみこむ。
「もしかして、どこか怪我した? 痛い? 大丈夫?」
「あ……えと」
「まさか、ボクの火で火傷した? 痛いのどこかな」
矢継ぎ早に繰り出される質問に喉が詰まって、うまく返答できない。とにかく頭を大げさなほど横に振って、クレナイを制止する。
「大丈夫、びっくりしただけ。怪我はないんだ」
「……びっくり?」
「その……急に、火が」
クレナイは合点がいったように、ああ、と声を上げてから、少し顔をしかめた。
「あれはー……まあ、ボクの特技というかなんというか」
「と、特技?」
「ん、そうそう。そっか、びっくりさせちゃったか。ごめんね」
「いや……」
アルコールを使って、火を吹く真似をする人を見たことはあるけれど、あんな風に全身に纏うようになんてできるものだろうか。もっと違う方法を使ったのだろうか。
いまいち信じきれない表情で見る真白に、クレナイは苦笑して、
「わっ」
また、頭を撫でた。
けれど、今度は優しく、慰撫するような。だけどそれだけじゃなく、元気付けるようにも思える。
「怪我、本当に無いの?」
そう問う声音は、まるで肉親のように、心に近く触れるもので。
「……うん、無い。大丈夫」
そんな、舌足らずな返事になってしまった。
「そっか。……よかった」
心底安堵したように呟いて、クレナイは優しく微笑んだ。
――まるで。
幼い頃、どこかへいなくなってしまった、年の離れた兄のようだ、と。
否、きっと兄は、こんな風であったろう、と。
「……真白ちゃん? ボクの顔に何かついてる?」
「――え、あ、いや……なんでも、ないよ」
「? そう」
心配そうに覗き込むクレナイに重ねていた、否いっそ彼を足掛かりに形成した、靄のような兄の面影を、頭を振って払う。
「……そろそろ行こうか。さっきの人がどこにいるか分からないし。……立てる?」
「あ、うん」
二本の足で立脚すれば、少しだけふらついたが、問題はない。気遣わしげな表情を浮かべたクレナイに軽く笑んでみせれば、大丈夫だと判断したのか、再び蜜柑を抱えて進行方向につまさきを向けた。
「…………」
そのまま、動こうとしない。
「……クレナイ?」
どうかしたのかと声を掛ければ、うーん、と悩む吐息が返ってきた。
「真白ちゃん」
「うん?」
「キミ、運動神経はいい方?」
「なんだい薮から棒に……まあ、取り柄は、運動くらいしか無いと言っても、過言ではないけど」
こんな状況で、一体何なのか。刺客が襲ってはこないかと辺りを見回す真白に、クレナイはいやいや、と首を振った。
「相対的にじゃなくてさ」
「そんなの、自分じゃ分からないよ。……成績はいい方だったよ」
君ほど動けはしないけど、と付け加えれば、また、うーん、と唸る。一体何を考えているのだろう。
ふと、クレナイが、廊下の窓を見た。
等間隔に配置された窓ガラスのほとんどが無残に割れている。一応強化ガラスだったのだが、それも実際の襲撃には役に立たなかったらしい。
想像が、ついた。
「クレナイ、まさかとは思うけど」
「多分、そのまさかだとは思うけど、何だと思ったの?」
「……窓から飛び降りるとか、言わないよね」
するとクレナイは、あの蓮池のように透明な、彼の衣のように清白な笑みを浮かべてみせた。
ただ、それだけ。
「いや、ちょっと待ってくれ。確かにここは二階だけど、そこらの建物の二階と一緒にしてもらっては困る。学院はいちいち天井が高いんだ、普通の建物の三階くらいはあるよ」
「三階くらいなら大丈夫だよ。死にはしないから」
「いや、いやいやいや。それはそうかもしれないけど、打ち所が悪ければ死ぬこともある」
ん、とクレナイは首をかしげた。
「でも、成績良かったんでしょ?」
「それとこれとは、」
「今の学院のカリキュラムはあんまり知らないけど、戦闘訓練はされてるよね。当然、飛空挺からの降下もやったでしょ」
「やっ……たけど、ロープがあったし、こんなに高くは……」
「え、うそ。これより低いところから着地できるようになったって、何の役にも立たないじゃん。じゃあ、脱出訓練は?」
「脱出? 何から?」
建物からだろうか。生憎、授業での戦闘訓練といえば、陸地での対人戦闘と、飛空挺の操縦や整備くらいである。実際に使用することなどあるまいと、真面目に受けない生徒もちらほらいた。
そんな現状にクレナイは、信じられない、と呆然と頭を振った。
「なにそれ、今時はそんなゆとり教育なの? うわー……あの人の言ってたことも納得だなあ。そんななら、この有様も納得がいくけど……」
「今時って……」
クレナイとて、在学生と同じ年代だと思う。存外若作りなのだろうか。
どう見積もっても、二十代が限界だ。
「でも、ちょっと待って。担当してるの、軍からの天下りでしょ?」
藤原のことである。つい眉間にしわが寄ってしまった。
「……よく知ってるね」
「ほとんど伝統だからね。……あーそう……戦練の方も、軍じゃなくて枢密院が決めるようになっちゃったのかな……」
戦練とは、戦闘訓練の略である。とはいえ、昨今その略称は使われない。BTと略されるのがほとんどである。
あーあ、と、嘆かわしいと言わんばかりにクレナイは顔を歪める。ガシガシと頭を掻いて悩んでいた彼だが、でもねえ、と息をついた。
「まださっきの人も、校内にいるみたいだよ。ここで一気に外に出た方が、キミとこの子のためだと思うけど」
「そ、外も同じだろう。結局同じ敷地内なんだし」
「ん、グラウンドまで行けば安全だよ。結界張ってあるし……キミたちを逃がしたら、ボクも心置きなく、だから」
そういえば、クレナイは最初、敵を倒しに行くつもりだったのだ。それが、真白たちがいたから、こうして逃がすのを最優先にしてくれた。
それに、殺されるか否かの状況だったとはいえ、一度は、窓から飛び降りることを決意したはず。
だけど――。
「……怖い?」
「…………正直」
死は、怖い。痛いのだって、怖い。
「うん、そっか」
だけど。
「でも、それしかない……んでしょ」
「……今のところのベスト、ってとこかな。もっと早くそうしてればよかったけどね」
「じゃあ、大丈夫。ちゃんと、やる」
もしまたあの女性に出くわせば、多分、ここから飛び降りるよりも危険だ。彼の言うとおり、蜜柑のことも考えれば、律儀に刺客のいる屋内を通っていくよりは、こちらの方が安全かもしれない。
それに何より。これ以上、足手まといになりたくなかった。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる真白に、そっか、とクレナイは頷いた。
「手、貸して」
「? うん」
言われるまま手を差し出せば、そのままぐいと強く引っ張られた。
「、うわあっ」
「おっとっと、暴れないでよ」
「わっ、え、え?」
体勢を崩してクレナイにぶつかる寸前、ひょいと体が浮いて、気がつけば、彼の肩に上半身を預けるようにして、抱え上げられていた。
左には蜜柑、右には真白。小柄とはいえ二人も抱えるなんて、見かけによらず力持ちらしい、とどこか乖離した頭でぼんやりと考える自分がいた。現状を把握しきれていない真白を他所に、クレナイは教室側の壁に寄る。
「じゃー行くよー」
「え、行くってどこに……わっちょっと待」
「ジャーンピーングやっほーい」
それはそれは楽しそうな掛け声と必死の悲鳴が折り重なり、夕焼け空を突き抜けて、消えた。
*
――果たして、あのときの自らの情動を、如何にして解したものやら。
破壊し尽され、教えを授ける場としてのアイデンティティを全く失ってしまった部屋の中、ぼんやりと座り込んで思い返すは、あの刹那。
学院のありきたりな制服を纏い、彼女のような平民が本来触れることも許されないような、金銭なんて卑俗で量れない壮麗荘厳な外套を握り締めた少女。
どこかで見たような、なんて、ありもしない既視感。その理由は、想像はつくけれど、理解のしがたい邪推。
「――…………」
恐らくは。これは本当に、なんの根拠もない空想でしかないけれど。きっと、あの子が秋の守護者に選ばれるのだろう。
そうすれば、また会うことになる。戦うことになる。
あの方とも。
「……だからって、どうということもないわ」
だって、それが自身の、我らの使命。
こんな因果の元に生まれ落ちたからには、泣いて叫んだってどうしようもない運命なのだから。
それをきっと、この国の者は誰一人として理解していない。唐突に瓦解した漫然たる平和に拘泥して溺死する。こんな、温もりに浸りすぎて根っこから腐り落ちた国に、負ける道理などあるものか。
――ただ一つ。心配事があるとすれば。
「あの方は、まだ、若い」
聞いてみたことはないけれど、もしかしたら自分と同じくらいなのではないだろうか。それは、大きなハンデだ。普通彼らのような者は、数百年数千年を疾うに経てから黄昏を迎えるもの。秋の彼も、一度機会があって見かけた冬も、器そのものの限界はとっくに超えていた。だが、あの方にその綻びは見出せない。
彼らのような達観も。諦念も。覚悟と見紛う意思の喪失も。
人形めいた虚無すら、きっと、持っていない。そうあるように装っているだけ。そう教育されたから。他の者たちのような、自然に欠け落ち崩れ風に浚われたのではない、まるで無いかのようにペンキで塗りたくっただけ。
或いは――そんなところに、
「……馬鹿馬鹿しい」
嗚呼真馬鹿馬鹿しい。もうあの方は人ではない。否、そも初めて会う前から人を棄てていた。だから、人であるこの身など。
駒でいい。手足でいい。切り離せる尻尾でいいのだ。
大斧の一振りでは殺しきれなかった炎で顕わになった、胸に刻印された夏の守護者であることを表す刺青をそっと撫でて、徐に、立ち上がった。
*
「………………」
「…………大丈夫?」
「………………うん、まあ」
正直に言って、気持ち悪かったし怖かった。抱えられているとはいえ、落ち着かない姿勢で落下するのは心臓に良くない。落下の最中、これからは学院の二階からでも飛び降りれるようになろうと、よく分からない決意をしたくらいだ。
いつまでもへたり込んではいられない。真白はくらくらと視界を揺らす眩暈を振り払い、立ち上がった。
「クレナイ。これからどこに?」
「とりあえずグラウンドに行こう。あそこなら安全だ」
そういえば、さっきもそんなことを言っていた。結界が張ってあるかららしいが、
「……結界って、何?」
そもそもそこである。剣と魔法のファンタジーじゃあるまいし、何か物理的な壁とか、そういうものだろうか。
しかし、既に歩き出していたクレナイは足も止めず、
「結界は、結界だけど」
何の解決にもならない応えで肩をすくめた。
「それじゃ分からないよ」
「って言われてもなあ。説明が難しいし、見た方が分かりやすいよ」
「……本当に安全なのかい?」
小走りで追いついた真白に、クレナイは眉を下げて苦笑した。
「まあ、今のところは」
「今のところは? それって、」
「結界っていうのはね」
ひらり、落ちる葉が頬を掠める。それが血に見えて思わず立ち止まった真白を、クレナイは待たない。
「空間を遮断するものなんだ。物理的であろうが精神的であろうが、目的も手段もなんであれ、空間と空間を分断するもの。分断する以上は、結界自体が、隔てられた界と界を結ぶものだ。塀も、壁も、立ち入り禁止の立て札、人が寄り付かなくなる噂、その存在を気にも留めない概念操作、犬や猫のマーキング。対象や程度の差こそあれ、遍く結界だよ。キミはKEEP OUTの黄色いテープが貼ってあるところに入りたいと思う?」
首を横に振る。
「じゃあ、オバケが出ることで有名な廃病院、もしくは、ビルとビルの間にある、看板も何もない寂れた建物は?」
それも、否。
「勿論、そういうとこにあえて踏み込もうという人は少なからずいるだろうね。つまり、程度の問題なんだ。それ自体が持つ結界としての効果の程度と同時に、遮断する目的の程度。KEEP OUTには踏み入らせたくないという確固とした理由・目的が存在し、実際文にも色にもしてるけど、オバケ云々の噂には”踏み入らせたくない”ではなく実体験、話の種、余興。むしろそこから、入らせまいという意識が表れる。寂れた建物なんかは、どっちつかずだね。存在の秘匿のためにあえてそこに住まうならば、概念操作が行われることもあるけど、事実、自身とは何の関係もなく興奮材料の無いところに行こうという人はそういない。家だってそう、犯罪行為を働くのでなければ、知らない家に、あるいはその玄関口に立とうとも思わないでしょ。言ってしまえばドアも壁も窓も塀も、犯罪者を入れさせないための結界だ」
「……でも、グラウンドにはそんなものはないよ」
「そりゃあね。学院の門が受け入れる者を拒む理由など無いからさ。ここのグラウンドに張ってある結界は、さっき述べたもののどれでもない。もっと曖昧な、だけど絶対的なものだよ。……多分、簡単には信じてもらえないだろうけど」
「曖昧で、絶対的な……? どういうものなんだい?」
クレナイは、ちらりと真白に目だけ向けて、
「対象を締め出すものではない。究極目的は守護、不可視。重層的に要素を組み合わせた……そしてそれ以外を完全に排除する、あらゆる物理手段によって破壊することの叶わない方法」
刹那。自嘲的ともとれる笑みを翻した。
「次元をずらしたんだ」
――その意味は、真白には、よく分からない。だけど、
「春のほど強いものじゃないけどね……それに実際問題、この世界に確立した別次元なんてものは存在しないから、意識レベルの次元の差異だ。普通の人間が感知できない次元を構築して重ねる。そこに、”何も無い”という先入観を与え、視覚が後押しする。グラウンドなんて開けた場所は、暗殺者は嫌う。狙い放題だからね。敬遠する、第三の結界。入ろうと思えば入れるし、入ってしまえば同次元に存在するわけだから、何の意味も持たなくなる。だけど入ろうとも思わない。だって何も無いんだから」
およそ真白の持つ常識とやらで測れるものではないということだけは、よく分かった。
「……その……」
話に区切りがついたのを見計らい口を開く。
「うん?」
「丁寧に説明してもらったのは分かるし、申し訳ないとも思うんだけど、全然、分からない……」
正直に申し立てれば、クレナイは一つ瞬いたかと思うと、次の瞬間、弾けるように笑い出した。
先まで感じていた、たとえば高貴さ。たとえば冷酷。遠大、強靭、そのどれも、今の彼とは程遠い。――まるで玉虫色、刹那に移り変わる極彩色の、ふわふわとした雲のような浮遊感そのもののような。
とはいえ。腹を抱えるほどに笑われ、うっすらと涙まで浮かべられては、些かならず、気も悪くしようというものだ。
「そんなに笑うようなことかい」
「い、いや、あんまり正直に、心底申し訳なさそうに言うものだから……ふ、はははっ」
「簡単には信じてもらえない、って自分で言ってたくせに」
「信じるのと理解するのは、全くもって別物だよ」
「わ、分かってるそれくらい!」
「あはは、キミは本当に、感情豊かだなあ」
それを言うならクレナイだって。文句はしかし口には出さず、睨むに留める。
クレナイは漸く笑いを収め、涙を拭いつつ、うーん、と首を捻った。
「ま、次元の構築という点で既に人智を超えてるからねー。とはいえ、”普通の人間には”だから、普通じゃない人間には丸見えなんだ。グラウンドなんて大きくて開けた場所じゃあ、いくら先入観があったって、視界には入る。一網打尽だね」
「そ、それじゃあ全然安全じゃないじゃないか!」
「あれ、真白ちゃんには、普通じゃない人間に心当たりがあるの?」
そう問われて、ぐっと言葉に詰まった。そもそも普通じゃないとは何なのか。真白自身の常識に照らし合わせるならば、刺客だって普通じゃない。だがそういう”普通”ではなく、たとえば幽霊を見るとか、超能力だとか、そういう”普通じゃない”ということなのだろう。
そう――具体的には、クレナイか。
クレナイをじっと見れば、彼は少し驚いたような顔をしてから、
「ふふ。正解」
にっこりと笑った。
「え?」
「ボクみたいなヤツには見えてしまう。でもまあ、緒戦だし、宣戦布告が目的だろうから、ヤツは出てこないと踏んでるよ」
「ヤツ……?」
その疑問に答えることなく、クレナイはそこで話を終わらせた。
否、或いは、そこで終わらせるより他なかった、と言うべきか。
「ミ、ミミミミミ、ミハシラ様ぁっ!!」
見えてきたグラウンドから、こけつまろびつ、泡を食って中年男性が走ってきたのだ。
「お、あれは……」
「教頭先生だよ。あだ名は、ごま塩むすび」
「……酷いね、キミたち」
普段のんびりぼんやりしている姿からは想像もつかない全速力で、教頭は駆けてくる。どこに刺客がいるかもしれないという恐怖がそうさせるのだろうか。しかし、そんな非常にあってさえ、見知った彼の姿に、真白は漸く、現実に戻ってこられたような気がした。気の早いことだが、「助かった」という実感さえも、胸中に溢れる。思わず涙が出そうになって、慌てて目をこすった。
「お怪我は、お怪我はありませんかっ!」
ぶつかる寸前で急停止した教頭は、動転した口で問うより先にクレナイの体に触れ、確かめている。クレナイはにこりと微笑んで、その手を押し返した。
「うん、大丈夫。あ、この子、よろしく。気失ってるから」
「あ、ああ、はい!」
「それから、こっちの子も。危うく殺されかけたから、メンタルケアもね」
「か、かしこまりましたっ! ささ、こっちへ来なさい」
蜜柑を受け取った教頭の手招きに従い、グラウンドへと歩き出す。
ふと何気なく振り向けば、クレナイはその場を動かず、真白たちを見送っていた。
「来ないの?」
「うん? ああ……言わなかったっけ、ボクのホントの目的」
そう言われて思い出すのは、教室。クレナイは、真白たちを置いて行こうとした。
彼は、そう――真白たちを助けに来たのではなく、敵を排除しに来たのだった。
真白たちが安全な場所に避難した以上は、彼は本来の目的に取り掛かれるのだ。
だけど――
「一人じゃ、危ないよ」
彼の強さは知っている。だが刺客の手ごわさも身に沁みて分かっているし、特にあの、廊下で会った女性は、危険だと直感が告げていた。
だがクレナイは、微笑んで肩をすくめる。その動作だけで、彼が意志を変えることはないと分かった。
危険に飛び込むことも。一人で赴くことも。――難しい説明の中で少しだけ理解できた内の一つ、結界の弱点を突かれないためだ。
攻撃は最大の防御という。もっともだけど、でもそれは、攻撃する者が上回っているか、或いは、トカゲの尻尾である場合のみだ。
この場合クレナイは、どっちなのだろう。
いずれにせよ。真白がついて行ったところで、逆に足を引っ張るだけだ。
だから、せめて、
「……気をつけて」
そう言うほか、なかった。
だけど、
「ありがとう」
そう言って笑った彼に、逆に励まされたような気分になったのは、きっと、気のせいではないだろう。
それからは振り向かず、ただグラウンドを目指す。漸く内部が見える距離に至ったが、誰もいない。しかし、クレナイの説明を信じるならば、普通の人間である真白には見えないということで、すなわち、真白が普通であるという証明というわけだろう。
「……あの、教頭先生」
「なんだね」
「ミハシラって、何ですか?」
すると教頭は、大きく嘆息した。相当呆れられているようだ。
「そんなことも知らないのかね君は!」
「は、はあ……すみません」
そんなことを言われても、知らないものは知らない。妙に開き直った気持ちで教頭の応えを待てば、彼は暫く逡巡したのち、
「明日には分かる」
それだけ言って、黙ってしまった。
「…………」
まあ、明日に分かるのなら、それでいいか。正直――思考するのも億劫だ。大分疲労が溜まっているのかもしれない。
三段の短い階段を上り、グラウンドの黄色い砂に足を乗せれば、
「、わ……」
まるで映像が切り替わったかのように、そこには、避難訓練のときと同じく地面に座る生徒たちと、周りに立つ教師陣が出現した。
クレナイの話は真実だった、ということだ。半ば信じられない思いでグラウンドを見渡す。
避難訓練のときに比べ、生徒数は格段に少ない。全校生徒は四百人だが、精々三百くらいだろうか。その三百人も、殺されたのだろう友人を惜しんで泣くものや、ぼんやり虚空を見つめるもの、立てた膝に顔を埋めるもの――昨日までの溌剌はどこにもない。在るのは悲哀、焦燥、恐怖、絶望、そんな重苦しく気道を塞ぐ感情ばかりだ。
一体どうして。その一言が、グラウンドに結実した集団思考と言って相違ない。
自分のクラスの列に入ると、人数の少なさがすぐに見て取れた。半分は優にいない。学院で特に親しいのは、沙那くらいだったけれど――それでも、クラスメートの名や顔、大体の性格くらいは知っている。
――悔しい。心を占めるのは、悲しみよりもそんな感情だ。
多分。クレナイという、仇を討つための力を知っているから。そして彼が今、仇を討ってくれているのを知っているから。
『このまま去るなら、見逃してもいい』
その言葉がふと脳内に響いて、思考がぶれる。
彼は――何故、あんなことを言ったのか。否、それだけじゃない。真白と一緒に外へ逃げているときだって、彼は敵を殺しはしなかった。それは単純に、とどめを刺す余裕がなかったからなのかと思っていたが、その言葉を思い返してみれば違うのかもしれない。
殺人に抵抗を抱いていない彼が、何故、敵を逃がそうとしたのか。それが秋の国の人間だというなら、説明をつけられなくもない。だが、刺客は夏の国の人間だと、刺客自身が言っていた。
ここ数百年、長く続いた冷戦は終結し、夏・秋・冬の三国間の関係は良好だった。使節団も頻繁に行き来し、貿易だって行っている。各々が支えあわなければ生きていけない世界だ、それは当然の理。戦乱の時代の反省から、不可侵条約も結んでいるというのに。
先に破ったのはあちらだ。なれば、こちらが遠慮する理由などどこにあろう。関係性の修復など、望むべくもないのだから。
だのに――彼は、どうして。
彼は今、本当に、仇を討ってくれている?
「……おい、真白」
「――あ、え?」
ささやかな呼びかけに、思考から浮上する。いつの間にか沈んでいた顔を上げれば、前に座っていたらしい善が難しい顔でこちらを見ていた。
無事だったのか。ほっと胸を撫で下ろす。
彼の顔には無論のこと、疲れたような色も、級友の死に痛む色もあったけれど、持ち前の気丈さか、瞳の強い光だけは失っていなかった。
「お前、さっきまで校舎の中にいたのか?」
「……うん。そういうヨシは、先に逃げてたのかい」
「ああ、まあ、足だけは速いから……じゃなくて。もしかして、あの変な奴らに襲われたのか?」
「…………うん」
「……よく、無事だったなあ」
その声には、心から労わる音があった。赤くなった鼻を見せないよう俯くと、制服のスカートに赤い色が付いていた。
「……助けて、もらったから」
「え? でも、誰に?」
何と答えたものやら。言葉に窮してしまう。名前を言っても分からないだろうし、そもそも、彼が何なのかは、真白自身全く知らないのだった。
――ああ、そういえば。
「ミハシラ様、って、教頭が言ってたよ」
「ミハシラぁ?」
素っ頓狂な声を上げた善に、真白は気づかれぬようにため息をついた。やはり知らないか。そう思って善をちらと見て、思わず目を疑った。
「み、ミハシラって、あのミハシラ様か?」
善は、さっきまで青白かった頬を紅潮させ、目をキラキラと輝かせていたのだ。
どのだ、とツッコミを入れる前に、真白はその表情に図らずも引いてしまった。
しかし何やら興奮状態にある善には関係ないらしい。突然ガシッと肩を掴まれ、小さく悲鳴を上げてしまった。
「どんな方だった!」
「へっ」
「女か、男か! どんな顔だ? 厳格な感じか? うあーオレも会いたかったー!」
「…………」
状況を忘れて騒ぐ善は、まるでアイドルのファンのようである。どう対処したらいいのか分からない。周りに助けを求めて見回したが、皆自分たちの不安や悲哀を慰撫するのに精一杯なようだった。
結局、ミハシラって何なのだろう。こんな状況に陥っても、その名を聞けばこんなに興奮できるものなのだろうか。釈然としない気持ちは、しかし善に伝わることはなく、
「なあ、どんな人だったんだよ!」
その人物像を答えるしかないようだった。
「……えーと、男」
「おお!」
「赤毛で……背はまあ高くて」
「うん!」
「…………フランク?」
「フランク?」
厳格、とはとても言えない。少なくとも真白に対する時のクレナイは、その言葉で表せるように思う。
敵に対する時は毅然、怜悧。でもどこか、どうしても、力を抜いているような節もあって。
――彼の性状を表すのに、言葉ほど不自由なものはない。
「……それ、ホントにミハシラ様なンかあ?」
どうやらフランクというだけで、クレナイを表すことはできなかったらしい。かと言って他に何か尽くせる言葉も思いつかなかった。いずれにしても、フランクなミハシラは善の好みではなかったらしい。一転して訝しげな目を向けてくる善を押し戻し、ため息をついた。
「知らないよ。大体何なんだい、ミハシラって」
あと、いくらそのミハシラが好きだからって、今は慎むべきだと思う。
そう続けようとして、
「おっ……お前、ミハシラ様を知らないのか?」
愕然とした表情に、口を閉じてしまった。
「はーっ今時そんな奴がいるなんて……」
「……悪かったね。よければご教授願えないかい」
「いいぜ。いいか、ミハシラ様ってのはな――」
そのときだった。
「……あ、あー。マイクテス、マイクテス。ごほん」
短い雑音の後、年若い学院長補佐がマイクで話し始めた。多くの生徒が顔を上げ、静聴の姿勢を見せる。学院長はそれに満足したように一つ頷いた。
「えー、生徒諸君。学院を襲撃した不審者は、喜ばしいことに全員駆逐された、と先ほど報告があった。よって、これで解散とする。速やかに自室へ戻り、よく休むように。以上」
雑音を最後に口上が終わる。あまりに短い文句に、暫く全員呆然としていた。それから一様に顔を見合わせ、戸惑いが伝染していく。その中で一人、勇気ある女子生徒が手を挙げた。
「先生、説明を求めます。一体、学院に何が起こったのですか」
「それはこちらも鋭意調査中だ。以上」
「では今回の事を収めたのは一体誰なのですか」
「それも調査中だ。明日の集会でまとめて発表する。今日は早く帰りなさい。以上」
「先生――」
「以上!」
無理矢理問答を断ち切る態度も如何なものか。しかし、教師たちとて憔悴しているのが分かる。何せ急に仕事場が、それも国の中枢近くに位置する学院が、正体不明の連中に襲われた上、死傷者多数となれば、落ち着けというのも酷な話だ。
発言した生徒もそれは理解しているのだろう。納得がいかない顔をしながらも、唇を噛んで引き下がった。
善もそれを見て、神妙な顔つきになった。
「……うちのクラスも、何人か……」
「…………」
沙那の、凄惨ながら穏やかな死に顔が蘇り、ちくり、胸が痛む。
だけど――何故だろう。涙が、もう、出てきてくれない。
真白の表情から何かを読み取ったのか、善が何か言おうとして、やめた。
それから数十分。示し合わせたように雨が降り出すまで、動こうとする者はおらず、教師たちもまた、無理に帰そうとはしなかった。
自室に引き上げてからというもの、取るものも手につかず、ただベッドに横になった。
蜜柑はいない。目覚めたのかどうかも知らないけれど、きっと医務室で寝ているのだろう。そんなことをぼんやりと考えつつ、開け放した窓の向こうに視線を投げる。
相も変らぬ黄昏。不変の空が、こんなに憎くなったことは初めてだ。
体は、酷く疲れている。心も休息を欲している。だのに、こんな日に限って、睡魔はこの枕元を避けて通っているかのように一向に訪れてくれない。
時計の針が夜を告げても、目も意識も冴えたまま。
「――…………」
ずっと、ずっと。沙那の笑顔が、声が、――最期が、瞼をスクリーンに再生される。
真白とは全然違って。その違いに憧れて。多分その差異にお互い惹かれた、大事な親友。
彼女には、何だって話せた。昨夜のこと――クレナイとの出会いだって、彼女に聞いてもらいたかった。
だのに、彼女はいない。もう、どこにもいない。訳も分からないまま首を掻っ切られて、殺されてしまった。
――あたしね、真白が羨ましいんだ。初めて会ったそのときから、ずっと、羨ましいって思ってた。
その理由を訊いても、彼女は教えてくれなかった。いつかあたしが死ぬときに教えるねなんて冗談めかして笑って、縁起でもないと怒ったものだ。
理由を教えてくれることなく、彼女は、逝ってしまった。
嗚呼全体、彼女が何をしたというのだろう。殺されていい理由なんて、――誰にだってないはずなのに。
そんなどこか矛盾した思索をぐるぐると巡らせて、まんじりともしないまま、気がついたら日付をまたごうとしていた。
「…………ハア」
明日も学校がある。さすがに授業はしないだろうが、集会をすると言っていた。
風呂に入らなければ。
けれど――動く気には、どうしてもなれなかった。
もう一つため息を。これではいけないと、分かっているのに。
「ため息つくと、幸せ逃げちゃうよ?」
そう、その古い言い回しも、よく沙那が言っていた――
「はっ?」
今の、声は。
枕から顔を上げると、
「こんばんは、真白ちゃん」
開けていたカーテンが風に踊る向こう、空を切り取る窓辺に、あの青年が、クレナイが、佇んでいた。
教師を通して返してもらったあのマントは羽織っていない。血で濡れているからだろう。マントと同じ純白の、軍服に似た衣装は、彼自身の鮮やかな色彩を際立たせる。
黄金の光を背負って微笑む姿は、昨夜と同じように、神がかったようで。
――とはいえ。それはそれ、これはこれ、である。
「…………あの」
「うん?」
「ここがどこか、知っているんだよね?」
クレナイは一拍置いてから、それがどうしたと言わんばかりに首を傾けて一言。
「……キミの部屋?」
なるほど。よくよく分かっていないらしい。
真白は枕を掴んで、徐に振り上げた。
その動作だけで何をする気か分かったらしい。クレナイは笑顔をビシリと固まらせた。
「わ、ちょっ、待」
「女子寮は、男子禁制!」
「うひゃぁっ!」
ブン、と枕は赤毛を掠めて虚空へ飛んでいく。さすがと言うべきか、身を捩じらせて避けたらしいクレナイは、指先でそれをとらまえた。その動きでバランスを崩したのか、ぶんぶんと腕を振って体勢を整えると、ふう、と長く息を吐いた。
人間、本当にそんな漫画みたいな動きでバランスを取り戻せるのか。別のところに感嘆してしまった。
「あ、危なかった……。もう、落ちたらどうするのさ。ボクじゃなかったら死んじゃうよ?」
「死なないんなら落ちればいいのに」
「うわー……うわー。聞きました? 命の恩人に向かってこの態度ですよ?」
「誰に向かって言ってるんだい? ……その、助けてもらったことは、感謝している、けど! 仮にも女子の部屋で、今は夜中なんだから、もう少し考えるべきだと思うな」
「え」
クレナイは目を丸くして、自分の足を見下ろしてから、また真白を見た。
「窓枠ならギリギリOKかと思ったんだけど」
「………………いや、OKじゃないでしょ」
「ありゃ」
全くの考えなしではなかったらしい。なんとなく気が抜けてしまって、それ以上追い出す気は失せてしまった。
それにしてもまあ、これが自分の命の恩人で、引いては学院の救世主だとは。にわかには信じがたいが、しかし、実際自分の目で確かめている以上疑いようもない事実であった。
「ハイ枕」
「どーも……」
そんな真白の胸中も知らず、クレナイは足を外に投げ出す形で窓枠に腰掛けた。
「それで……キミの様子を見に来たんだけど、まあ……元気そうだね」
そう言うクレナイの声音には、安堵の色が見え隠れしていた。
「わたしの様子? ……何故?」
「何故って……気になったから? あんなことがあった後だしね」
「…………」
「それは全員同じだって思ってる? 言っておくけれど、キミと全く同じ状況を経験した人はいないよ。友人を殺された人は多くいても、校舎に取り残され、敵を殺す様を目の当たりにし、敵を退けつつ同級生の死体を踏み越え校舎を脱出したのはキミくらい。キミの置かれた状況、経験が他と比べてとみに異常であるということは、忘れない方がいい。キミ自身の、精神のためにね」
そこでふと、クレナイは、目に柔らかい光を宿した。
「……キミはもう少し、自分に甘えを許すべきだよ。普通の女の子なんだから」
――甘えを、許す?
そんなことは、わたしには、できない。だって、
だって、なんだっけ?
「でも、ちゃんと反応できるくらいには元気みたいだから、安心したよ」
急に明るくなったクレナイの声に、僅かな滞留を見せた疑念がふわりと崩れる。
その代わりに残ったのは、乾いた失望だった。
そう、クレナイは屈託なく笑うけど。
どこか、体と心が乖離しているような感覚が、ずっと続いている。これを、元気だと、言える? あまりに馬鹿馬鹿しくて、笑えもしない。
真白は枕を握ったまま、何も言えずに俯いた。
「……空元気もね、元気の内だよ」
そう、水のようにするりと胸に滑り込んだ言葉に、真白は顔を上げた。
クレナイは、困った子供を見るような、酷く優しい表情で。
ぱちくりと目をしばたたかせた真白に、クレナイはそれ以上言葉を重ねることなく、ニコリと破顔して、
「じゃ、ま、もうおいとまするね」
「え、あっ」
ぐっと窓枠を押し、足から階下へと落ちて行った。
「うそ……!」
慌てて下を覗き込むが、
「あれ……」
そこには、誰もいなかった。午前零時すぎの光が落ちているだけ。あの目立つ赤毛も、白い服も、残滓さえ見当たらない。
落ちてしまえとは言ったけれど、本当に落ちてしまうなどとは思っていなかった。
無事着地して走って行ったにしても、速すぎやしないか。それ以前に、落ちても死なないとは言っていたけれど、真白の部屋は五階――四階はないので実質的には四階である――だから、正直、怪我なしに済む高さではない。
けれど、彼なら大丈夫という、曖昧な信頼もあった。
まあ、大丈夫なんだろう。校舎二階から飛び降りるときだって、高所からの降下は全然平気だと匂わしていた。あっさりと心配を棄てて、顔を引っ込めた。
というよりも、どうやってここまで上ったのか、という方が気になる。けれど、考えても無駄だろう。彼は色々型破りだ。
クレナイのいなくなった室内はシンと静まり返って、暗い。彼はまるでとびきり明るい光源だ。
「………………」
――空元気もね、元気の内だよ――
元気、なのだろうか。わたしは。
沙那が死んだのに?
急に、苦いものが腹からせり上がってきた。
――わたしは、なんて薄情なんだろう。大切な友人が殺されたのに、守ってあげられなかったのに、一緒に死ぬことさえできないのに、元気を失うことさえもできないなんて。
自己嫌悪に泣きたくなる。でも、涙はもう枯れていた。
鬱々とした心を置き去りにして、時間はただただ、朝へと向かっていく。
*
学院の講堂は、およそ学生のために作られたものとしては巨大に過ぎる。
それもそのはず、この学院は、ただ学業や戦闘訓練のみを主としているわけではないからだ。
本来は、我らミハシラの休息の地、そして目覚めの地。
平生は壁と同化した大扉に隠された向こう側、奥殿には、神々しさすら捨ててどこまでも透き通った聖池がある。そこには、人一人優に包み込めそうな巨大な蓮華が、かつては浮いていた。いつもは口を固く閉ざしている花は今は無い。秋のミハシラが――この身が覚醒した途端に、光の粒と散ってしまった。
それは、つまり。兄弟の中で自分が最後に目覚めたということ。すなわち、始まりで。すなわち、終わり。畢竟、後戻りはできないのだ。
後戻り、したいとは思わない。
ただ、誰も見ようとしない先へと進みたい。
「――ミハシラ様」
「うん?」
揺らめく水面に、声は不安定に跳ね返る。振り向くと、四角く切り取られた光の中、学院長が立っていた。
曲がった腰を杖で支える老人。前目覚めたときにいた学院長――その人は女性であったが――の面影を色濃く残している。懐かしさに思わず目を細めた。
「明日、貴方様のお目覚めを、国中に知らしめたく存じます」
「国中? あの講堂にそんなに入るの?」
「いえ。通信機器を用います」
「へえ……時代は進歩してるなあ。ま、あれから三百年だし、当然か」
あの頃は、国の中で群雄割拠の時代だった。今みたいに、上空を戦闘機が飛んだり日夜警報が鳴ったりしていない状況など考えられなかった。
もっとも。今度は、他国を相手にそうなるのだ。
「つきましては」
戦乱を知らない老爺の声は、恐怖か、緊張か、はたまた何か、震えを抑えていた。
「ミハシラ様にも、ご出席いただきたく」
「うん、いいよ。前に出てちょろっと挨拶すればいいんだよね」
学院長は、黙然と頷いた。その様は確かに、構成員以外で唯一枢密院への立ち入りを許される、学院のトップとしての威厳を持ち合わせている。とはいえ――平和に飽和した子供であることに、この目を通せば、変わりは無い。
「――ミハシラ様」
「ん?」
「貴方様は本当に、わが国に栄光を齎す、ミハシラ様なのですか?」
――――もはや言われ慣れた。
自分でも、国の未来を背負う存在としては”軽い”性格であると自覚している。それが特段作戦ということはない。こういう男だっただけの話だ。
とはいえ、ミハシラというのは選ばれるものだ。元よりそれとして生まれてくるのではないし、まして、ミハシラとしての義務を果たすのは後にも先にも一度きり。ミハシラとしての自己が形成されるはずもない。そもそも、一体どういった偶像が求められているのか、それすら知らない。
もっとも。少々頼りなさを覚えられるのも、致し方ないと諦めてはいるけれど。
「――試してみる?」
――人として生まれ、神となってからの数百年。その積み重ねは、決して無駄ではない。
長者としての威厳とか、世の渡り方とか、自分の作り方とか。精々七十歳そこそこの子供と、比ぶべくもない。
学院長はハッと息を呑んで、にわかにがくりと膝を折った。
「も、申し訳ありません! 決して、決して、貴方様をお疑い申し上げているわけでは」
「うん、分かってる。……明日だよね。覚えとくよ」
学院長は漸う立ち上がり、恭しく礼をして出て行く。
――淡い光を放つ水面に映る、幼さを残す貌。
寿命を失ったその瞬間を切り取った。
軽く見られるのは仕方ない。どう背伸びしたって、結局肉体は子供なのだから。
顎をなぞれば、年頃を過ぎた男ならあるであろうチリチリとした感触は、全く触れない。
「…………付け髭でもつけてみるかなあ」
*
その日は、寮からまっすぐ講堂へと集められた。
グラウンドのように開けた場所でなく、四方を壁に囲われた場所に集まってみれば、改めて人数が少なからず減っていることがよく分かる。講堂内の空気すら冷え冷えと湿っていて、沈鬱な静けさを湛えていた。
「……お、真白」
先日はミハシラに大興奮していた善も、今日ばかりは神妙な面持ちだ。
「やっぱり……昨日のことで集められたンだろうな」
「だろうね」
真白の気持ちは幾分落ち着いていた。否、もはや起伏を失ったといってもいいかもしれない。現実を現実として”受け入れた”のではなく、ただ”眺めるしか”ない。そんな境地。――自暴自棄。外に向かう行為としてでなく、内に向かう虚無。いずれにせよ破壊行為であることに変わりない。
そんな真白の、いやに平坦な声は、些か妙に聞こえたかもしれない。善は少しだけ眉をひそめたようだったが、思い過ごしだとでも解したのだろう。特に追及することもなく、ふと、憚るように辺りを見回した。
「……物々しい報道陣だね」
「ああ……」
壁際にではあるが、ずらりと並んだカメラ、カメラ。控えるマスコミはいずれも正装であり、彼らが持つ世間一般的なイメージとは異なった、ピリピリとした空気を纏っている。
なるほど確かに、国家の重要機関である学院が、正体不明の輩に襲われたとあっては格好の的だろう。
しかし、
「気分ワリーな……」
当事者にしてみれば、放っておいて欲しい、というのが本音だ。だからといってそれを表に出すことはしない。世の中の仕組みだとかいうことではなく、これは紛れも無く国全体の問題だと分かっているからだ。
夏の国――本当に彼らが攻めてきたのだとしたならば。
と、そのとき、カン、と木と木がぶつかり合う音が講堂前方で破裂した。顔を上げれば、壇上に学院長が杖をついて立っていた。
普段、彼を目にすることはない。学院という機関の構成員の中で唯一枢密院に入ることを許される彼は、普通の学校における「校長」とは一線を画する。大雑把に言って学校の経営を司るのが校長なのなら、それは副学院長や教頭の役目。彼は、言ってしまえば、枢密院と学院との橋渡し役だ。
教育方針も、内容も、何もかも枢密院が決める。それを学院長が拝受し、学院内に決定事項を下ろす。副学院長や教頭がそれを実践するためのシステムを組み直し、各教員に伝達する。学院長なんてのは、ほとんど象徴に近いものなのだった。
だから、こうした集会の場であっても、彼が出席するのは入学式と卒業式くらいのものなのに。それほど、今回の事態が重いということだろう。当然である。
背が曲がった学院長のために副学院長がマイクの位置を整えている間、学院長は、鋭い猛禽類のような目で、講堂全体を睨むように見回していた。
杖の音からこちら、講堂内には啜り泣きすら無い。ひんやりした息苦しい静寂は、漸う破られた。
「……諸君。昨日は、誠に残念だった。突然の襲撃に、いくつもの尊い命が犠牲になってしまった。生徒諸君も、やり切れない思いで胸が満たされていることと思う。……本日は、かの襲撃について判明したこと、そして、我々のこれからについて話をするため、こうして集会を開いた次第だ」
固唾を呑む音が幾重にも重なり響く。それがより一層空気を張り詰めさせた。
「昨日学院を襲った者たち……彼らは、夏の国の刺客であることが分かった」
にわかにざわめきが広がる。生徒たちも、マスコミたちも、信じられないと顔を見合わせ、驚きを言葉に漏らしていた。静寂を促す声も、消えては生まれる波紋に掻き消されていく。
当たり前だ。つい一昨日までは友好な関係の下、物資だけでなく人と人とのやりとりも行っていた国にとあれば、驚くのも無理からぬ話。むしろ驚かない方がどうかしていると言える。
「……?」
ふと、真白は妙なことに気がついた。
講堂の左端、壇上に近いところに並ぶ教師陣に、驚いた様子が見られない。もしや、先に聞かされていたのか。
いや、しかし――昨日、サイレンが鳴り教室から出てきた彼らは、
「静粛に」
決して、大きな声ではない。鞭打つような語気でもない。ただ、彼の持つ雰囲気のせいか。
学院長の発した一言が、再び水面を静めた。
さすが、と言うべきか。込み合う人と人との間をすり抜け端から端まで行き届いた言葉が、皆の口を塞ぐ。
学院長は再び、ぐるりと講堂内を見渡した後、厳かに言った。
「一昨日――我が国のミハシラが目覚められた。三百年の歳月、固く鎖されていた瞼を開いて、かのお方が申されたことを、恐れながら私が、ここに代弁しよう」
カツン。杖を一つ。
「角笛は鳴らされた――ラグナロクの始まりだ」
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