第1話
――変わることなく、この空は赤い。
夕暮れを運命付けられたこの国を覆うは橙。紅葉を彩る赤光は生まれてからこの方変わることなく、いい加減に嫌気も差してこようというもの。
とはいえ、いつ見ても、美しいと思う。それは畢竟、美しいからであろう。寝て目覚めて寝て目覚めて。そのプロセスの何処に於いても変化のない黄昏の空は、どこまでも優しい色だ。
さりとて、これ以外の空を知っているわけではない。一度だってこの国を出たことがない。でも、きっと、この空は何処よりも美しい。そう胸を張って言えてしまうのは、住む土地故の贔屓目だろう。
真白は、学院の渡り廊下で呆と立ち尽くし、黄金の光に見入っていた。
「まーしろっ」
突然、背中を軽い衝撃が襲う。見れば、栗色の髪をおしゃれにウェーブさせた少女が立っていた。
「沙那。どうしたんだい」
「どうしたんだい、じゃないよ。真白こそ、こんなとこで立ち止まってどしたの?」
こてんと首を傾げる仕草は、同性の真白から見ても可愛い。幼い頃から男子に交じって、おままごとや人形遊びよりも冒険に勤しんでいた真白には、到底たどり着けない境地だ、と密かに羨んでいる女の子らしさに、真白は小さく息をついた。
それを誤解したか、沙那はむうと唇を尖らせた。
「あ、なに? 今、呆れた?」
「いや、違う違う。可愛いな、と思ってね」
「やだ。照れるじゃない」
言われ慣れている言葉だろうに、頬を染めて素直に賛辞を受け取るその純粋さは紛れも無く美徳だろう。それこそは真白が彼女を真に信頼を置く所以であり、忌憚なく関われる理由だった。
思えば、彼女との縁も長い。虫取り探検チャンバラと、およそ親の望む女性性に見向きもしなかった幼少期より、彼女の存在は真白の認識範囲内にあった。そして唯一、少女の園に立ち入ることを望まれず望みもしなかった真白に笑顔で声を掛けた女の子でもある。
あの時から細々と繋いできた縁は今日へと至り、真白が素を見せられるただ一つの平穏となっていた。
「それで、どうかしたの。何かいた?」
「ううん、ちょっとね。……空、綺麗だなと思って見てたんだ」
そう言えば、案の定、彼女は目を丸くした。当然だ。彼女とてこの国に育った者。十余年に渡ってただの一度も変化を見せなかったそれに対しての賞賛は、戸惑いを齎すに相違ないものであろう。
「綺麗? まあ、綺麗っちゃ綺麗だけど……今更?」
「そう、今更。今更だけど、それでも見るのは、やっぱり綺麗だからだよ」
「……ふうん?」
分かったような分からないような返事をして、沙那はまた首を傾げた。
――夕暮れの国、秋。世界樹の枝に支えられた三つの国の内一つ。暑くもなく寒くもなく、彩と果実に恵まれたこの国は、枢密院を中心に成立している。
国家の中枢たる枢密院。その下に配置された、最大の国立学院。それがここだ。いわゆるエリート校というものだが、貴族制を随分昔に見直してからは、純粋に実力だけでその生徒を選考している。はてさてその実態は、と考えるのは下衆の勘繰り、探ったところで人知れず消されるのがオチ、とは影から影へささめかれる噂だ。
学院、と冠した学校はここだけ。それだけ国家でも重要な部分を担うのだ。すなわち、国家を支える人材の育成、それこそが学院の存在意義なのである。
そんな優秀校の生徒に名を連ねる真白は、決して勉強が好きなわけではなかったが、要領の良さが幸いした。十あるクラスの真ん中、六組に属する二十人の中でも中の中。良すぎず悪すぎず、一番良い位置を保っているとも言える。
凡人の真白と対称的に、沙那は一組の成績上位者だ。しかも、学院のマドンナ。天は二物を与えるのである。
生来から言葉数が少ないためか少々表現の足りない真白の性質をよく理解しているのだろう。マドンナは適当に納得して、それよりも、と手を叩いた。
「真白、藤原センセが呼んでたよ」
「え、藤原?」
「そ。こーんなおっかない顔して、真白はどこ行ったー! って。早く行ったほうがいいよ」
「うわ……」
思わず顔をしかめた真白に、沙那は楽しそうな笑い声を上げた。
藤原とは、学院の教師の一人で、主に社会の分野を担当する。その幅は昨今の時事問題から過去の思想・文化・歴史に渡り、軍事にまで詳しく、それゆえに生徒の戦闘技術や戦術知識の教鞭を執るのも彼であった。
元々が軍出身ということもあってか、藤原の性状は、厳格に尽きる。何でもかんでも四角四面、杓子定規に枠に収め、教育的指導に手段を選ばないこの男を、真白はどうも好きになれなかった。
「なんで……?」
「さあ。演習には参加してたよね」
「うん。基本、演習は休まないようにしてるから。それに、このところサボタージュの発作は起きてない」
まるで病気か何かのような言い草だが、結局のところは突発的な無気力症候群というか、反発精神とか、とにかく子供じみたオブラートである。そんな真白の”発作”を承知済みの沙那は特段反応することも指摘することもなく、
「呼び出しをすっぽかしたとか」
「ここ一週間はアイツと話してない。話しかけられてもない」
元より生徒との不必要な交わりなど言語道断という男である。そんな藤原と、藤原嫌いの真白が話すはずもなかった。
うーん、と沙那は顎に細い指を添えた。
「課題とか出されてた?」
「いや、そんな覚えは…………あ」
そういえば。
「航空機の操縦に関するレポート、出してない……」
「あーあー」
愕然と呟く真白に、親友は容赦なく、どこかからかうように呆れの声を上げた。
――要するに。完全なる、真白の落ち度である。いくら教師が気に食わないとはいえ、ことこの件に関しては藤原に向ける如何なる負の感情も的の外れたものであった。
先述のとおり、藤原とは厳格が肉を得たような存在だ。故に、あらかじめ定められた期日を守らぬ者には容赦のない鉄槌が下る。それが肉体的暴力なら、些かの非難はあれ、他人に厳しい分自分にも厳しい男故に耐えられようものを、この男、それだけでなくねちねちねちねちと嫌味ったらしく言葉で追い詰めてくるのである。女の嫉妬か、と言いたくなるような蛇のごとき粘着質を、かつてサボタージュを発動させた折の叱責を受けてからことに嫌っているのだ。
確かに、悪いのは自分である。それは理解している。だからといって、「己が責任故に」と全てを呑み込めるほどに大人でもなければ、傀儡でもなかった。
後悔と不安と嫌悪に顔を歪ませた真白に、沙那はしかし些かの疑念を吐露した。
「そんなに嫌いかなあ、藤原センセ。あたしは別に、嫌いじゃないけど」
「大嫌い。自分が一番正しいって思ってるし。しつこいし」
「そうかなあ……」
「沙那は、一度も怒られたことないからそう言えるんだ」
「真白は、何度も怒られるようなことするからそう言うんだよ」
言い回しを利用して返された言葉にぐうの音も出ない。ごもっとも。う、と言葉に詰まった真白の肩をくるりと反転させ、沙那はぽんと背を押した。
「ほら、行ってきなよ。早くしないともっと怒られ……って、レポート無きゃ意味ないか」
「レポートはもう書き上げてる。出してないだけ」
「何それ、ちゃんと出しとけばこうならずに済んだんじゃない」
「……近づくのが嫌だったんだよ」
憮然と呟いた真白に、沙那は今度こそ心底から呆れてぐるりと目を回した。
「そんなだから……怒られるんでしょ! もう」
「…………」
いや全く、至極真っ当なご意見である。しかしそれすら素直に受け取れぬほどに、真白の藤原への感情は捻じ曲がっていた。
とはいえそれで見逃すほど沙那は優しくも、また残酷でもない。先よりも強く友人の背を押し、促した。
「ほら。レポート持って行って来なさい」
「えー……一人で?」
「バカ。一人に決まってるでしょ」
「そんなご無体な」
「獅子は千尋の谷に我が子を突き落とすのよ。さっさと行く!」
半ば突き飛ばされるように押し出された真白には、肩から提げた鞄にずっと鎮座ましましていたレポートを本来渡るべきところに持って行く以外の選択肢はなかった。
教師陣には個室が与えられる。というのも、学院の中で職務に就く以上各々は確かに社会の隷ではあるものの、それはそれぞれの利害が国の求める「未来の人材の育成」に際して発生するプロセスと大なり小なり一致しているが故であり、その本懐は教育でなく己の研究に尽きる。なればこそ国は、学院という最高峰の教育機関に各々の研究室を構えるための資金やスペースを確保し提供しているのだ。教師からすれば、研究にかける時間は削られるものの、目的への資金も場所も与えられ何より社会での体面を保てるとあってはその要請を断る道理もない。断る者は余程の変わり者であろう。過去には数人いたそうだが、いやはやどうして、そのような者の名は研究の分野に於いて聞き及んだ試しがない。要するに、学院は世に憚る生徒と共に研究者も輩出している、ということであった。
さて彼らの研究室は、生徒の学習施設や寮とは別の棟に集められている。教師達は生徒のように学院で寝食することを義務付けられてはいないが、本質が研究者である彼らは研究と共に生き研究と共に死ぬような、研究が伴侶とでも言うべき者たちである。研究室に住まう者が大半を占めるが故に、この棟には台所やら風呂やらなにやら、最低限の生活には困らない程度の設備が増築されていた。
とはいえやはり寝食を忘れてしまうのか部屋にこもりきりの彼らには、自室以外の明かりに気を向ける余裕も甲斐性もない。何故か窓のない廊下は薄暗く、おざなりな電灯が間隔を空けて廊下を静かに照らすが故に隅に凝った闇は、いくつかの怪談が囁かれるほどに濃い。
そんなホラー話に戦々恐々とするような繊細さを生憎持ち合わせない真白は、違った意味で足を重くしていた。
「………やだなあ………」
誰もいない暗い廊下で、ぽつりと一人、呟いてみる。それに返す声はなし。当然である、誰もいないのだから。
何も、一人ぼっちが嫌なのではない。そんな脆弱はとうの昔に捨て去った。今彼女の心を挫こうというのは、唯一つ、先に待ち受ける強敵との遭遇であった。
何が嫌いって、わざわざ言葉に表すのも億劫なほどに嫌い。恐らくは全身全霊での嫌悪であるからこそ、もはや理性では捉えきれぬのだ。感覚を文字に写すは難儀、とすれば文字の音声化もまた至難の業。
そもそも、嫌いな点を列挙するということは、彼奴の嫌なところをまず記憶の内に現出させねばならない。そんな自虐行為は頼まれてもごめんだった。
というほどに苦手な相手の元へ向かう真白の足は、進む度に遅くなる。沙那に送り出されてから既に何刻か。それでも止まるわけにはいかないのが、生徒という厄介な立場である。そしてサボタージュという固有スキルとは別に保持する真面目さもあった。
ずりずりと遅々たる歩みは、やがて避けようもなく、目的地へとその主を運ぶ。
はたして三階に上がった真白は、見たくもない名をドアに貼られたネームプレートに発見した。
『藤原』……。
来てしまった、と怖気づく足と乖離して、手はそのドアを叩く。
――もしこれで彼が出てこなければ。それを名目に、今日のところは出さないという選択肢を取れるのでは。
そんな淡い期待も虚しく、一枚板の向こうから繊維をすり抜けて届いた声は、紛れもなく藤原の声であった。
「――失礼します」
如何な相手でも礼節は怠りなく。それが嫌いな相手ともなれば尚更。そんな信念がサボタージュや課題未提出とは対極にあるとは考えもせず、真白は慇懃にドアを開いた。
開けた途端に押し寄せる古い匂い。ずらりと立ち並んだ資料の放つそれはいつまで経っても慣れない。それが藤原の所有する物品のものだと考えるだけで刺激臭並の嫌悪感が苛むが、ここまで来て挫けるのは悔しいし、無駄足だ。真白は鉄のような足を漸う動かし、室内へ一歩踏み入れた。
「真白か」
「レポートの提出のためお訪ねしました。これです」
目を合わせることなく紙束を差し出した真白に、藤原はふっと小さく息を吐いた。
「期日を過ぎている、ということを自覚しているか」
「申し訳ありません」
「謝罪しろと言っているんじゃない。自覚しているかと訊いている。貴様は言葉も理解できないのか」
「……先ほど友人に言われるまで失念しておりました。申し訳ありません」
嘘ではない。事実、藤原が担当する直近の授業でレポートの提出を渋ってから今しがたまで忘れていた。
謝罪を重ねながら腰を折る。内心では舌を出していた。
必要以上の言葉を交わしたくないからまず謝罪を先に持ってきたというに、そのような言い方はないだろう。最後の一言が余計である。相手の神経を逆撫でするような言動、対人に関してはこいつは頭が悪い、というのは真白に持ちうる唯一の藤原の貶し方だった。
頭を下げたまま動かない真白に、藤原は今度は大きくため息をついた。
「…………もういい。下がれ」
「……は?」
「下がれと言った。理解できないか」
「いえ、その」
――それだけ?
あっさりと手渡された解放に拍子抜けした余り、真白は顔を上げた。
姿を見かければ会わぬよう遠回りするほどに敬遠する男は、もはやこちらを見ていない。否むしろ、背を向けてさえいた。真白が提出したレポートを脇に無造作に置き、先までページを捲っていた資料に没頭している。
いつもならば。期日を守らない者がどうの、そんなだからお前はどうの、そもそも教育を授けてもらっている身でどうのと一時間に渡って説教が続くのに。初めての例外に呆気にとられて、真白は暫くその場を動けずにいた。
「……まだ何か用か」
億劫そうに掛けられた言葉にはっと我に返る。相変わらず藤原の目は資料から外れていないが、その声音から、部屋に留まったままの存在を疎んでいることは明らかであった。
――理由はどうでもいい。早々に解放されるというのならそれに越したことはない。むしろ何処からか降って湧いたこの僥倖に感謝して、無用な説教を被る前に辞すとしよう。
真白はすぐさま身を翻し、辞去の挨拶もそこそこに廊下へ飛び出した。
数分前と変わりなく暗く寒い廊下。しかしその様相は、心なしか華やかだ。
何も真白が藤原の部屋にいる間に改装されたとか装飾が追加されたとかいうわけではない。ただ単純に、重荷を落とした真白の精神状態が視覚情報にハイライトを加えているだけだ。
あれほど歩を鈍らせた藤原の叱責も、これといってその名を冠するほどのものではなかった。不愉快な言葉を頂戴はしたが、それとてまた目的を異とするものだ。何より、真白の経験からいって、これは異常であった。
これまで一度たりとて、藤原の粘着質な説教がなされなかったことはない。それはそれだけのことを真白がなしてきたということだがそれはさておいて、藤原の最も嫌う”違反”の一つたる「期日破り」に対しあれだけとは、拍子抜けもいいところである。
喜びや安堵を感じるより前に真白の胸に去来したのは、不可解だった。
たまたま、平生ではありえぬほどに機嫌が良かったのだろうか。否、そのような様子はなかった。憎らしいほどにいつもどおり、孤立を好む軍人崩れだ。
であれば、何か他に抱えるものがあったか。生徒の期日破りがその短気に火を点けぬほどの。
諸々を考えても答えは見つからない。そもそも、藤原のことを心に留めるような義理もなかった。真白はふるふると頭を振って、出口につま先を向けた。
一つ。二つ。階段を下る。棟そのものの扉へ繋がるまっすぐなこの廊下を抜ければもう外だ。既に課外たるこの時間、一直線に寮に戻ってシャワーを浴びよう。心なしか足を速めたとき、
「――ぎゃっ」
短い悲鳴と、音と認識しえぬほどに身近な爆音と、判断不可能な爆風に襲いくる残骸。果たしてそのどれが真白の直感を刺激したかは定かではない。
超人的な直感で無意識に飛び退いた真白の目の前を、すさまじい勢いで木の板が横切った。
そのまま板は、本来あった地点とは逆側の壁にめり込む。しかしその惨状を認識するより先に、真白は床に転げていた。
無理もない。内部の如何なる衝撃にも耐えうるよう措置を施された研究室の扉を吹き飛ばすほどの衝撃と爆風、外にいたとはいえ生身の人間が立っていられるわけがない。怪我もなくただ床に引き倒された程度で済んだのはひとえに、危機回避能力の賜物といえよう。
なんとか上体を起こし、白煙を吐き出す部屋の口を呆然と見る真白の頭は混乱していた。
一体何が。その一言に尽きる。
やがてその密度を薄くし始めた煙の中に見知った姿を見て、真白は素っ頓狂な声を上げた。
「ヨシ!」
「ヨシって言うな馬鹿!」
ほぼ反射の域で言葉を返したのは、真白のクラスメイトの一人、善だった。本来はゼンと読むのだが、あえてヨシと呼ぶ者が多く、学院内にはそれが本名だと思っている者も数多い。
口元をハンカチで覆いながら涙目に出てきた善は、自らが忌避するあだ名を呼んだ不届き者が真白と見て、目を丸くした。
「お前、そんなとこで何してンだ? 女の子が地べたに座るもんじゃないぞ」
「…………いや、それはこっちの台詞なんだけど」
さっきの爆撃は何なんだ。その疑念を込めた視線を意に介することなく、善はふと室内に目をやって、
「センセー、ダイジョブっすか」
およそ心配しているとは思えぬ軽い口調で声をかけた。
そうだ。その部屋が研究室であり生徒である善が立ち入っている以上、部屋の主たる教師が中にいて当然だ。とすれば、先の爆発の影響を受けて然るべき。
つまり。無事である確率は高くない。
その研究室にいたであろう教師の名を真白は生憎思いつかないが、誰であれ、危機に瀕することを歓迎する人物でないことは確かだ。というのも、藤原以外に嫌悪する人物は今のところいないからである。最悪の事態を想像した真白は固唾を飲んだ。
応えはない。まさか、と顔を青くした真白の目の前で、ゆらり、と煙が不自然に動いた。
「…………善。反省文十枚だ」
「えーっ! そんなあ!」
「不満なら二十枚にしてやろう。喜べ」
「ひぎゃあああ」
眉間を蛇の目にして白煙から出てきたのは、その部屋の主たる化学教師・笹緒だった。まとった白衣が煤にまみれ長い髪が少々ほつれているところを除けば、概ね平時と変化はない。目立った外傷が無いことに胸を撫で下ろした真白をちらと一瞥して、笹緒はぱちりと切れ長の目を瞬かせた。
「……真白? そんなところで何をしている」
「……いや……ちょうど、通ろうとしたら爆発したので」
「なるほどそれは僥倖。善、彼女に何かお詫びをするように」
「え?」
「えーっ! なんでっすか!? フツー、こいつじゃなくてセンセーにするでしょ!」
「なんだしてくれるのか。何、拒みはせぬ。存分にするがいい。そうすれば反省文は三十枚にしておいてやる」
「増えてるじゃないっすか! いや、そうじゃなくって、なんでこいつにお詫びなんか」
ぎゃあぎゃあとわめく善に、けだるそうな雰囲気を全身から醸し出す女教師は、やかましそうに顔を歪めつつもふんと鼻を鳴らした。
「お前、もう少しで彼女は壁とドアでスクラップになるところだったんだぞ」
「…………ああ」
そういえば、そうか。それにはさすがに返す言葉もないらしく、うっと呻いた善に、笹緒はさらに畳み掛ける。
「それが未遂とはいえ、ただならぬ事態に狼狽させた上に白煙に撒かせ、あまつさえこれから帰ろうという彼女の邪魔を現在進行形でしていることに違いはない。さて、お詫びをしなくてもいい理由があるなら述べるがいい。順序だてて分かりやすくな」
「……う、あう……」
ぐうの音も出ない、とはこのことか。まるで他人事――いや、ほとんど他人事と言ってもさして変わりはしないのだが。
とはいえ。わざわざお詫びを望むほどに迷惑を被っているわけではない。そろそろ助け舟を出すべきだろうか。
「あの……」
「ああ、すまないな真白。すぐにこいつにドリンクの十本も奢らせてやるから」
「十本! 多くないっすか!」
「あぁ?」
「ヒィッ」
「いや、別に、お詫びなんていいですよ。そんなに迷惑ってわけでもないし」
そう言うと、笹緒はくるりと目を丸くして、
「…………ほう。なるほど。青春だな」
手前勝手に不穏な解釈をして、したり顔で頷いた。何かただならぬ誤解を受けたらしい。
「別にそういうわけじゃないですよ」
「じゃあどういうわけだというんだ、ええ? 正直にお姉さんに話してみなさいよ」
「……あー」
真白はふと、肉食動物に怯える小動物然として成り行きを見守っている善を見やり、それから笹緒を見て、まあいいか、と頬を掻いた。
「正直、早く帰りたいんで、ここに引き止められてる方が迷惑というか」
ふと、その場に静寂が落ちた。
漸う、笹緒が至極つまらなさそうにぽつりと呟いた。
「……そうか。行くといい、止めはせぬ」
何故そんなに残念そうなのだろう。問い質したい気もしたが、薮蛇になる予感がひしひしとしたので、曖昧に会釈して通り抜けた。
「――さて善、反省文五十枚分の文章は概ね構想できたか?」
「だから、増えてるっす!」
頑張れ、ヨシ。真白は心の中で手を合わせた。
研究棟を出ると、相も変らぬ夕暮れではあるものの、寒気が肌をかすった。
――夏の国では、この時間帯はまだ暑いのだという。正直想像もつかない。生活のリズムがおかしくなってしまうではないか。
とはいえ外つ国の彼らにはそれが平生で、この国のそれこそ異常であるということには、この国を一度も出たことがない真白には考えの及ばないことである。
外気が撫ぜる頬には、わずかな痛みが残る。大気に氷の粒でも混じっているのか、この時間帯はいやに寒くなる。昼夜の気温差というのはとかく人に害を及ぼすもので、風邪は国民病である。
故に、如何に日中の気温が高かろうと、防寒具を常備するのが識だ。真白はストールを取り出し、顎まで覆った。
研究棟から学生寮までは、割合距離がある。何せ間に学院の学習棟があるのだ。授業に使う実験室やら飼育小屋やら庭やらを含めれば相当広大だ。塀で囲われた学習棟の門は、学生寮を西、研究棟を東としたら南と北にしかない。一体全体どうした所以でこんな構造にしたのやら、大昔の建築家への恨み言は設立当初から絶えることはないという。
さてつまるところ、無駄に広大な四角を迂回しなければならないのだから、余計に距離があるのだ。
しかしそこはそれ、この学院に数年在籍する上に自らサボタージュ癖を公言する真白であるから、いくらかの裏技を見出しているのであった。
つまり――秘密の抜け道である。
などと大仰に言いはしたものの、古式ゆかしいニンジャとかカラクリとか、そんな大したものではない。見逃された老朽化と言うべきか、わずかな綻びを塀に見出したまでである。
隙間というのではない。上部のわずかな欠けだ。だが絶妙なそれが、うまく手を引っ掛け、なおかつよじ登れる最良の高度なのである。
「よい……っしょっと」
今日も今日とて、その抜け道を利用しない手はない。十秒とかからずに、真白は院内へ潜入を果たした。――潜入とはいえ、門はまだ閉められていないから、出入りさえ見られなければ咎められることなどないのだが。
ほとんど儀礼的に服を払い、さて、と進行方向に目をやったところで、真白はふと息を止めた。
この抜け道のすぐそばには、大きな池がある。年がら年中蓮華が咲いていることで割と人気なのだが、この時間帯になると何故か花が一様に口を閉ざしてしまうため、客はいない。――はずが、誰かが、いる。
もしや、見られた。思わず肩を強張らせた真白だが、その人物が背を向けていることに気がつき、どうやら決定的瞬間は見られずに済んだらしいと安堵した。
その人は、白い、下ろしたてのような純白のマントを羽織っている。夕日を弾いてはっきりと見てとれないものの、おぼろげながら、金糸で繊細な刺繍が施してあるのが確認できた。いかにも高価そうな一品だ。
そして何より、燃え立つ炎のような髪が、紅の中なお目を引く。
誰だろう。見たこともない人だ。赤毛が珍しいというのではない。あのような高級そうな品を身につけている者は学院にはいないし、それほどの身分であっても着てくることはない。
何より――その場の雰囲気を砕き割ってしまうほどの神懸り的な雰囲気を、真白は、今までに知らない。
――否。わたしはこれを、どこかで、懐かしいと感じている……?
茫漠とした既視感に、頭の芯が痺れてくる。知らず踏み出した一歩が、黄昏にかしづく草を踏みしめて音を立てた。
「誰?」
刹那。白いマントを翻し、双の碧玉が真白を射抜いた。
まだ、どこか幼さを残す貌。精悍をも併せた彼の顔には、野生にも似た警戒の色。それに反して、聞く者に自ら心を開かせるような、落ち着いた声音には、しかし、瑞々しい果実のような弾力さえある。
そんな二律背反に、真白は声を失っていた。
少年から大人への移行期、その妙なる一瞬を切り取ったようなその人は、立ち尽くす真白を見て取るや、ふと眉根に怪訝を乗せ、考えるようにぱちりと瞬いた。それから、警戒を一切失って、ふうと息をつくと同時に肩を平らかにした。
「……キミは、ここの学生さん?」
「――え、あ……」
肯定の言葉が頭蓋に生じるものの、喉頭に引っかかって声にならない。緊張と呼ぶべきそれを、警戒と取ったか、青年はふっと苦笑した。
「あはは、ごめんね。ボクは決して怪しい者じゃないんだけど……って、怪しいヤツの常套句だよねコレ」
自分で自分の言にツッコミを入れ、また快活に笑い声を上げる。それが果たして彼の平生なのかはたまた相手の警戒心を解くためなのかは、生憎真白には判じ得ない。
先ほどまでの圧倒的な威厳は、彼の人懐っこそうな一挙手一投足に鳴りを潜め、臆していた言葉もするりと口内へ上った。
「わたしは、真白。ここの学生だよ。……その、あなたは? 学院の関係者なのかい?」
すると青年は、うーん、と笑みを消さぬまま首を傾けた。
「まあ、関係者というほどでもないけど、無関係でもない、かな?」
「……どっち?」
「割と、関係ない。はは、怪しい者だね」
どうしてそんなに楽しそうに宣言するのか。
素性が知れぬ上にこの官営施設に無関係ともなれば、怪しいにも程がある。とはいえ、彼はまさに人畜無害、言うなれば散歩の途中に迷い込んでしまったような、そんなようにさえ思っている自分に、真白は当惑した。
真白は質問の角度を変えることにした。
「名前を伺ってもいいかな」
「んー。そうだね、名乗ってもらったんだもんね。けど……」ふとそこで言葉を切り、青年は申し訳なさそうに肩をすくめた。「ごめん。ボク、ほんとはまだここにいちゃいけないんだ。だから、名乗れない」
「……いまいち、理屈が分からないよ。言葉の意味は置いておいて、名乗るくらいはいいんじゃないのかい?」
「ん……そうだなー」
青年は考えをまとめるように数拍目を閉じて、うん、と何かに納得したように頷いた。
「仮にAとするよ」
「……?」
「もしボクがここでキミに、『Aです』と名乗ったら、キミの中では、この時間この場所にAがいたことが確実、疑いようもない事実になる。けどもし名乗らなければ、この時間この場所にいたのは名もない誰か、誰でもない誰か。unknownなんだ。それはAと相似かもしれないけど合同じゃない。キミの中で確立した『Aがいた』と『unknownがいた』は、客観的な信用性という点で大きく違うでしょ?」
「……つまり、わたしがあなたに会ったことを誰かに言っても信じてもらえないように、名乗らない。そういうこと?」
すると青年は、ふふ、と密やかに笑った。
「そうだな。それもあるけど。主観が支配する自己の中でも、客観的な信用性というものは有効に働いてね。一番は、名前で他と厳密に区別されたボクに出会ったという主観的・客観的事実を、キミの中に残しておきたくないんだ」
「よく、分からない」
「それでいいんだよ。詭弁だから」
そう軽やかに嘯いて、青年はつと蓮池へ視線を流した。
固く鎖した花弁。朝昼と変わらぬ紅の光を受けるその色彩は、しかし鎖されてなお幸の微笑みを見せている。
「――夜は」
不意に、青年が呼気を溶かすように口を開いた。
「意識を置き去りにして更けていくよ。早めに帰った方がいい」
「…………不審人物を見て見ぬふりは、できないな」
「あはは。そっか、そうだよね。うーん、どうしたものかな」
無邪気な声を上げ、彼は空を仰いだ。
今夜は――一際美しい暮れ。
恐らく、生まれてこの方、最上の。
何故だか、胸が酷く痛んだ。
「じゃあ、こうしようか」
つられて空を見上げていた真白は、明るい声に視線を下ろした。
「――っ!」
いつの間に移動したのか、青年が目の前に笑みを口元に浮かべて立っていた。
気配はなかった。音もない。十数歩はあるはずの距離を、気づかれずに詰めるなんて。否、詰められたのにも気づかないなんて。
あまりのことに愕然として息を止めた真白に、彼はすっと手を伸ばして――
「帰りなさい」
ただ、一言。
瞼を覆うように手を掲げてそれだけを。
それだけで――真白の意識は、濁流に呑み込まれて霧散した。
*
――ふらふらと。危なっかしい足取りで、少女の小さな背が遠ざかっていく。
何のことはない、ちょっとした暗示をかけたまでだ。同類なら効かないが、一般人なら簡単に引っかかる。
「……一般人、かあ」
自身の思考に、思わずため息が漏れる。
――歯車が、目にも止まらぬ速さで回り始めたのだ、と。覚醒した瞬間に知った。否、或いは知ったが故に。
そう、始まったのだ。ギャッラルホルンは既に鳴り響き余韻も消えかけている。
であるからには。あの真白とかいう純粋そうな彼女も、無為なる戦乱の渦に巻き込まれていくのだろう。
あのとき――選ばれ選んだその刹那から、この為だけに我が身は存在する。
それを一体何と思おう。否、何とも思うまい。そんな感傷は既に捨てた、捨ててしまった。真実を知ったそのとき、いいや、きっともっとずっと前から。
――あのまっすぐな瞳を血に、絶望に、穢したくないなあ、だなんて。下らぬ情だ。
『……然れど、それこそ汝ぞ』
そう、頭蓋で囁く声。それに思わず苦笑が漏れた。
「ボクらしい、って?」
『是。古より汝は変わらず。目前に生き目前に死ぬ、愚者の振る舞い』
「あはは、こけおろされてるなあ」
『――我は咎めぬ』
そんな、彼らしからぬ発言に、思わず目を丸くして。
「……そっか。そっかあ。……ボク、キミでよかったよ」
あのとき――選ばれ選んだその刹那から、ずっと共に在った。
死の間際まで共に在る。
そんな存在が彼であったことを、全くこの生最大の幸でなくしてなんであろう。
自然とほぐれた頬でそう言えば、ただ彼は一言。
『唯後悔のみ』
いつものように、ぽつんと寂しさを残すのだった。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます