第4話

 春夏秋冬、四つの花を抱く、四人のミハシラ。彼らは、何物も生きていけなかった世界を、命溢れるものとした。

 夏は、世界樹を撫ぜ彩りを運び、遍く平らかにする風を。

 秋は、空を大地を染め上げ、温もりを注ぐ炎を。

 冬は、涼やかに煌いて潤いを落とし、焦がす熱を和らぐ氷を。

 春は、三つの力から命芽吹かせ、万を慈しむ華やぎの光を。

 その大いなる力のために争いが起こることを憂い、彼らは人の肉体を依り代とすることで受肉した。そうして、生ける神となった。

 されど人は、器に過ぎない。有する大きすぎる力に、恒久は望めない。何より、肉の檻に閉じこもったがために、世界のバランスは大きく崩れた。一つは花だけが咲き乱れ。一つは風吹き熱砂に巻かれ。一つは色づき熱冷合わせ。一つは枯れ落ち雪の舞い。生きるには不均衡すぎた。故に女神はミハシラに命じた。時が来れば、黄昏――ラグナロクを始めるようにと。

 互いに殺し合い、一となるために。春夏秋冬全てを兼ね合わせた幽玄の神となり、現世を遍く照らすために。

 そして――神となったミハシラの国は、唯一の生者。制した国の土地を得て、神の下に統一される単一民族。

 ミハシラは、大いなる栄光を齎す者である。ただ一度きりのラグナロク。向かい来る全てを殺戮し、栄光への階を進む者――。


 *


「要するに……ミハシラを倒すってことは、敵国を滅ぼすことになる、わけか」

 ベッドに寝転んで本を広げるという、お世辞にも上品とはいえない姿勢で、真白は確認するように呟いた。

 時刻は朝六時。河合から貰ったプリントには、ミハシラと共に朝八時に本部――講堂へ来るように、とあったけれど、結局はこれまでの習慣どおりに目覚めた。起きないといけないときに寝坊して、もう少し寝られるときに起きてしまうとは、つくづく不便な体内時計を持っている。

 既に身支度を整え、いつでも朝食に行ける態勢だ。徽章は昨夜の内に腕章に縫いつけた。これでどんな服を着ようと問題ない。我ながら考えたものである。もっとも、今日も制服なので、あまり関係は無い。

「栄光がどうのって、上は強調するけど……恩恵を受けることが絶対ではないんだな。単一民族になったところで、土地自体は変わりなく分かれているんだから、また国に分断されそうだけど」

 人類皆兄弟というやつか。とはいえ元を辿れば、現在だって皆兄弟のようなものである。

「まあでも、今みたいに国ごとに条件が違うわけじゃなくて、全部過ごしやすい土地になるのは、いいかもなあ……」

 正直、想像がつかない。今だって、あまり困っているわけじゃない。

 秋の国は、人が住まない春を抜いた三国の中でも最も恵まれた土地だと言われる。暑くもなく寒くもない、自然も豊富だからだ。それを思えば、暑くてたまらないという夏や、寒すぎて凍死などざらという冬にしてみれば、死活問題なのかもしれない。

 真白はふうとため息をついて、本を閉じサイドボードに置いた。今まで読んでいたのは、『図解・ミハシラ物語』。蜜柑に借りた本の内一冊だ。残りの二冊、『創世記』『四華闘記』は、後者は既に読み終えた。元々小説は好きだし、テレビや映画、漫画など様々な媒体で繰り返し再構成されてきたおかげで、山あり谷ありオチありの読み手を引き込むいい内容だった。休憩を挟まずあっという間に読み終えてしまい、もう一度読み直そうと思うくらいである。

 秋の国民が書いたから、結局は秋のミハシラが勝つ物語だ。他の国では、きっとその国が勝つに違いない。読み比べてみたら面白いだろう。

 それはもう、おそらく一生できない。もう少し、せめて一年は前にこれを読んでいたら。後悔先に立たずとはこのことである。

 真白はばたんと寝返りを打って仰向けになり――首だけ動かして時計を見た。

「…………あと三十分……」

 朝の六時半に、ミハシラを起こしに行かなくてはならない。支度を手伝い、食堂で一緒に朝食を摂り、講堂へ連れて行く。本当に世話役だ。むしろ従者か――あながち間違いでもない。守護者というのはそういうものだろう。

 あと三十分したら、クレナイと顔を合わせるのだ。

「……はあ」

 再びのため息。気が重かった。

 ――昨日、結局クレナイは、蜜柑への冷たい態度の理由も、その後の質問の意図も、何も教えてはくれなかった。ただにっこりと笑って、「ボク、疲れたからもう寝るね」とやんわり追い出されてしまったのである。

 それから、彼に会ってない。夕食の時も、食堂で会うことはなかった。

 いつでも付けて部屋を出られるようにサイドボードに置いていた腕章を手に取る。縫い付けた徽章。守護者であることを表すもの。

 これに、何の意味もない。教師からの過剰な期待を、生徒からの僻みを受けただけだ。

「…………沙那…………」

 こんなとき、キミは何て言うだろう。どう接すればいいか分からないと零すわたしに、何て言ってくれるだろう。

 どうして、キミはいないの?

 腕章を額に押し付け目を閉じる。視界が鎖されれば、嫌な考えばかりが浮かんできた。

 ――ミハシラとは、一線を置け。道具の盾になるなど、馬鹿馬鹿しい。

 ――何万何億といる人間の中で、特別になっても、絆を結んだ相手は自分を待たずに老いて、死んでいく。なんて孤独だろうな。

 ――傍にいる誰かを心配させまいとするとき、人は笑うものだ。笑顔が隠すのはね、憎悪もだけれど、一番は痛苦だよ――

 クレナイは、何を笑顔に隠しているのだろう。

 痛苦。憎悪。けれどそのどれも、真白にはしっくり来なかった。

「孤独……」

 そう、たとえば。自分だけがとこしえを歩む、その孤独。神として、或いは道具として一線を引かれる、その疎外。それを彼は間違いなく感じてきたはず。それに対し――一体何を感じたのだろうか。

 そこまで考えて、自然、自嘲の笑みが零れた。

 馬鹿みたいだ。何も、求められていないというのに。

 守護者としてあるべき責務すら望まないというのなら、そこから先の境界には決して踏み込めない。触れればきっと弾けてしまう、感情の泡沫。手を伸ばすことさえ、できはしない。

 ――じゃあ。自分は一体、彼に何を求めていたのだろうか。

「まーしろちゃーん」

「!」

 出し抜けに、部屋のドアが開いた、

 慌ててベッドから立ち上がり、服を整える。ドアから顔を覗かせたのは、

「あ……クレ、ナイ」

「おはよう。もう支度できてる? ボクお腹空いちゃってさー」

 にぱっと人懐っこい笑みを浮かべたクレナイだった。起こすまでもなかったらしい。やはり、世話役など必要ない。

 笑う彼は常の通り。真白の懊悩など関係ない。それが腹立たしいというより、なんだか、空しかった。

 所詮。お前はお飾りに過ぎないのだと、言われているようだ。

 クレナイは何故かドアをほんの少ししか開けず、顔だけを見せている。その頭には、見慣れない帽子が乗っていた。紺地で前面につばがついている。まるで軍帽のようだ。あの白い服には合わないと思う。

「えっと……じゃあ、もう、食堂に行こうか」

「うん、待ってるね」

「あ、いや、すぐに出られるよ」

 腕章を左腕に通し、部屋を出る。そうして、変化に気が付いた。

「クレナイ、その服……」

 彼が纏っていたのは、昨日までのそれとは全く趣の異なった、言ってしまえば”普通”の服だった。裾の長い上着は不思議な作りをしているけれど、中はただのシャツ、ズボンはパンタロンのように裾が広がっていて、ベルトから下がるチェーンがアクセントになっている。

 そうしていれば、本当にただの少年のようだった。ただ一部、決定的に他の人とは違う箇所があった。

「あ、これ? 昨日まではほら、色々あったから礼服だったんだけど、これは普段着。割と動きやすいから、急な襲撃にもダイジョーブ、ってね。昔から使ってるから、結構古いんだけど」

「いや、それよりも、その……」

「……やっぱ気になる?」

 含むように笑って、クレナイは右手を軽く上げてみせた。

 ――黄金。根元からすっぱりと無い袖から覗く右腕は、肩から指先まで全部金属だった。機械人形を思わせるその腕は、指先の細かな動きさえリアルに再現している。

 右腕だけではない。左足の膝から下も、一見ブーツのように見えるけれど、機械の足だった。裾広がりのズボンでも窮屈なのか、左足だけ膝まで捲くり、虹色の変わったバンドで留めている。

 義手に義足。礼服のときは手袋をしていたのも、真白の頭を撫でるときは決まって左手だったのも、こういう理由からだったのか。

「笑っちゃうよねー、強い力を持つミハシラが、義手と義足を使ってるなんてさ。体が成長しないからサイズはずっと一緒なんだけど、さすがに数百年単位では保たないから、結局ちょこちょこ調整しないといけないし。時代が進むにつれて技術も進化して、技師を探すのも一苦労だよ。こう……ぬるぬるっと生えてくればいいのに」

「それは……ちょっと、気持ち悪い」

「あはは。せめて殻だけでもあればなあ、治ったかもしれないのに。きっぱりすっぱり無いんじゃあ、どうしようもないよね」

 少し前までは、彼のように義手や義足をつけている人は大勢いたらしい。戦争が産んだ悲劇だ。けれど戦争を知らない人が大多数の今、町で見かけることはほとんどなくなった。

 クレナイは、どうして腕と足を失ったのだろう。気になったけれど、訊くことはしなかった。

 多分、触れてはいけない部分だ。そう悟って、口を閉ざした。

「……やっぱり隠すべきかなあ。でも服が結構邪魔なんだよね」

「そういうものなのかい」

「そういうものなのだい。本物とそっくりに作ってればよかったんだけど、当時はそんな技術無くてさ。わざわざ作り直すのも面倒だし。やっぱりさ、形と大きさが微妙に違うんだよね、人の手と。でも服は人の形に沿って作るから、これがなかなかねー」

「でも、昨日の……礼服はちゃんと隠していたよね」

「あれは特注。目覚める前からしっかり準備してたらしいよ。ご苦労様って感じだよね」

 全くだ。国民のほとんどは、ミハシラなどただの御伽噺だと思っていたというのに。

「……ずっと礼服でいたらいいんじゃないかな」

「それ、ボクもちょっと思った。でもさ、あんなカッチリしたのしんどいよ。首は絞まるし肩は凝るし、絶対無理」

 それなら私服もぜひ特注で作ってもらうべきだろう。とは、さすがに言わなかった。恐らく上が却下するだろうと分かったからだ。

 食堂は、地下にある。基本的に学生は、朝食と夕食は寮で食べるし、教師は研究棟で自炊するため、朝と夜はミハシラと守護者専用のようなものだ。ただこれからは軍が駐屯するらしいから、軍人で埋まるかもしれない。息が詰まりそうだ。

 こんな早朝に、廊下を歩く人影はない。授業中故の無人ではなく、人がいないからこその無人とは、今まで体験したことがない。真白は知らず胸躍らせていた。

 とはいえ、いつものように友人と、騒がしい中での食事ができないのは、寂しい。

「わあー、貸切」

 案の定、食堂にいるのは調理員だけだった。その調理員も、客は少ないと踏んでか、ゆったりとくつろいでいる。

 入り口付近に置かれた機械でメニューを選べば、自動的に調理場まで伝わり、料理ができれば発券された半券の番号を呼ばれるという仕組みだ。入学した頃は、なんとハイテクなと驚いたものだ。人が多い学食ならではの、効率重視である。

「先に選んでいいよ」

「じゃあ、Aセットかな」

「お、定番だね。ボクは……ラーメンにしよっと」

「朝からガッツリ……」

「昨日晩御飯食べてなくてさ」

 ならもっとしっかり食べるべきだと思うが、やはり起き抜けでは、いってもラーメンが限界なのだろう。

 クレナイはど真ん中の席を取った。真白は、暫し迷って、その向かいに座った。

「昨日も一昨日も、ここで食べたんだよ」

「昼食の時間は大変だったんじゃないの?」

「昨日は、皆が授業してる間に食べたから。一昨日は、……一昨日もそうだったかな? 十時前に食べたから」

 十時前といえば、あの襲撃が起こる少し前だ。その頃はまだミハシラだと認知されていなかったから、余程変な目で見られたことだろう。

 ほどなくして番号が呼ばれる。仕込みはしっかりとしてあったのか、さほど時間もかからなかった。真白はいただきますと手を合わせ、トーストにかぶりついた。

「…………」

 目の前でラーメンをすするクレナイを盗み見る。右利きのようで、機械の指で器用に割り箸を操っている。義肢装具の方面には疎いため、人間のそれと何ら変わらない動作の精密さは不思議な光景だ。魔法でも見ているかのようである。

 コーンを三段重ねでつまむとは、真白でもできるか怪しいのに大したものだ。元来器用なのだろうか。コーンが口へと運ばれる様子をじっと見ていると、クレナイの視線と鉢合わせた。

「何?」

「あっいや……器用だな、と」

 誤魔化すように笑って、慌てて食事を再開する。まだ熱いのを忘れて、オニオンスープを一気に口に含んでしまった。

「熱っ」

「……真白ちゃんてさ、一見クールなんだけど、実際はぼんやりしてるだけなの?」

「……それを、わたしに訊くかなあ」

 自分のことなど自分が一番分からないものだ、とは一体誰の言葉であったか。いずれにしても、自分がクールだという自覚もなければ、ぼんやりしていると思ったこともない。首を傾げた真白に、クレナイはどこか呆れたような目を向けたが、特に何も言うことはなかった。

 ――沈黙は、気まずい。だが、会話の糸口が掴めない。そんなの何でもいいのだと人は言うけれど、それがどうにも苦手なのが、口下手という人種である。

 沈黙を気まずく思う間柄がこれからずっと続くと思えば、気が重い。何せ、これからはこうして二人で食事をするのが当たり前なのだ。常に話し続けるというわけにもいかない。居心地の悪さは、せっかくの料理の味を悪くする。

 ――いや、そんな小難しい話ではないのだ。ただ単純に、彼の性状が掴めない宙ぶらりんの感覚が、彼の傍に自分自身を置いておく意義の不明さが、ざわざわと肌をこすって気持ちが悪いだけ。

 初めは、明るくて親しみやすいと思った。戦う姿を見て彼我の差を感じたけれど、その間を埋めてくれる優しさを持つ人だと思った。表情を、言葉をとっても、いつだって誰かを気遣う心根の柔らかさに、同じ目線に立ってくれると思った。

 けれどそれはきっと一部分でしかない。もしかしたら装いなのかもしれない。彼の思考はきっと深遠にすぎて、その発露である言動の意味すらも分からない。

「……真白ちゃーん、全然食べてないけど大丈夫ー?」

「……え、あ……」

 呼びかけにはっと我に返る。クレナイの器は半分ほどに減っているのに、真白はまだトーストしかまともに手をつけていない。熱湯のようだったオニオンスープも、湯気が無くなっていた。

「ごめん、大丈夫」

「そう? ……なんか元気ないね。悩み事?」

 悩み事の原因に訊かれるとは、一体何と答えればよいものか。ちょっとねと誤魔化して、スクランブルエッグにケチャップを掛ける。力加減を誤って、スクランブルエッグとほぼ同じ量を出してしまった。美しい黄金色だった卵が一瞬で真っ赤に染まった。

「卵嫌いなの?」

「いや、そんなことは……ない。ちょっと、掛けすぎた」

「ちょっとどころじゃないと思うけどね」

 ごもっとも。分かっているから、あまり突かないでほしい。

 余分なケチャップを削ぎ落とすのに必死な真白を、クレナイはじっと見つめて、首を傾けた。

「悩みがあるなら、相談に乗るよ?」

「…………大丈夫だよ。クレナイに言えるようなことじゃないから」

「……男には言えないことってあるもんね。力になれなくてごめん」

 勘違いをしているようだが、好都合なので黙っておくことにした。

 ――こうして相手を観察し気遣うくせに、彼は決して相手には踏み込ませない。適当にはぐらかして、するするとすり抜けていく。自ら孤独を作っているような気がしてならない。

 孤独。そう、悠久を生きる者に付きまとうのは、孤独だ。

「クレナイには」ほとんど衝動のように言葉が飛び出していた。「友達って、いる?」

 クレナイは唐突の問いに目をまん丸にして、箸から麺がほとんど滑り落ちた。

「どうしたの、急に。いないけど」

「……そう」

 静かに頷いて、これではいけないと思い直す。ここで会話を終わらせるから、彼のことを何も知ることができないのだ。見切り発車で口を開いた真白より先に、クレナイが、ああでも、と言葉を発した。

「アキは、友達って言っていいのかも」

「アキ……って、花晶の人格だっけ」

「そうそう、よく覚えてたね。……まあ、そんなこと言ったらアキは多分、『愚物め』とか言ってくるんだろうけどさ」

 しかつめらしい表情を作り、恐らくアキを真似してひょいと肩をすくめるクレナイは、しかし微笑んでいた。それはきっと彼らの一種の戯れなのだろう。

「それでも、友達なの?」

「まあ、ね。彼は優しいから」

 順接の後に何が来るのか、真白には分からない。クレナイはそれ以上続けず、にっこりと笑った。

「真白ちゃんは、友達少なそうだよね」

「うっ……」

 痛い。実に痛いところを突かれた。そういうことを、普通本人に言うだろうか。何も言い返せず口をぱくぱくする真白に、クレナイはあははと楽しそうな声を上げた。

「わ、笑わないでくれ! わたしだって、好き好んで少ないわけじゃない」

「だろうねー。真白ちゃんって結構、誰とでも仲良くしたいタイプでしょ」

「え? ……そう、なのかな」

「あれ?」

 曖昧に言葉を濁した真白に、クレナイがきょとんとした。

 確かに、誰かと喧嘩をするくらいなら自分から折れるし、できるなら良好な関係でいたいとも思う。けれどそれは無駄な争いを避けるためで、「仲良くしたい」が最初の取っ掛かりではない。

 と、自分では思っていた。

「でもそれって、結局そういうことでしょ」

 そう言ってクレナイは笑う。

「もしそうなら、友達が多いはずじゃないのかい」

「広く浅すぎるんじゃない? うーん、ボクが思うにはね」

 そこでクレナイはメンマを飲み下す。

「人と人との違いってさ、どうしようもない根幹のものもあると思うけど、一番は多分、感情と思考、そして行動の間の距離だと思うんだよね。その三つが直近に連結してるような人だったら、たとえば悪い方向で考えたら衝動的に暴力に及んでしまったり。さっきの話で考えるなら、皆と仲良くしたいと思ったら即行動。話しかけたり、遊びに誘ったりね。単純に、キミがそうじゃなかっただけの話だよ」

「……そうじゃない?」

「感情も、思考も、行動もきっと近くはない。争いを嫌う。その感情から、避けるためには仲良くすればいいと思考する。けれど行動へ移るまでの道程に、もう一度思考が肩を叩くんだ。本当に全員と仲良くできるのか? ってね。仲良きことは美しきかな、とはいえ万民が手に手を取り合ってニッコリ、なんてのが幻想に過ぎないとキミは思考する。衝動で動く人には、この再考というプロセスが無いんだろうね。だからキミは行動に移せない。故に、人間関係に、傍から見れば奥手になって、結果友達は少ない。こんなところじゃない?」

 ――可愛らしい服を着て楽しそうに笑う女の子たちを、いつも遠目から見ていた。あの輪に入れたら、きっと、楽しいだろう。けれど入ろうとは思わなかった。一人で、或いは男の子と、溌剌な遊戯に興じていた。

 それは多分自身の好みだとかそういうものに起因すると、ずっと考えていた。でもそうではなくて、――いいやそれもあって、本当は彼女たちとも仲良くなりたいけれど自身の性状と照らし合わせて、無理だと思考した。だから、「入りたいとは思った」けれど「入ろうとはしなかった」のだ。

「……それって、馬鹿だよね」

 ぽつりと呟くように言う。

「願望はあるくせに行動しないなんて。臆病というよりも面倒くさがりだ。そのくせ口では希望ばかり、怠惰の極みだよ」

「……そうかな? 少なくともキミは自覚していなかったんだから、そこまで気に病むことじゃないと思うけどね。それに、ボクはそれが悪いことだとは思わないよ」

 そう言ったクレナイの微笑みは、紅葉で川を錦に彩る涼風のような。

「可能性と価値を考えて行動を淘汰するのは必要なことだよ、何においてもね。無論、咄嗟の行動力だとか千尋の谷に飛び込む大胆さも不要ではないけれど、それら全てを持とうなんてのはそれこそ幻想だ。相克ではないにしろ相容れにくいものだからね。それに希望は生きる糧だ、行動云々は抜きにして無いよりは断然、有った方がいいと思うけど。……だから、つまり、」

 クレナイはそこで言葉を止めて、うう、と眉間にしわを寄せた。

「…………気にするなってこと!」

 着地点を見失い、強引に話を閉じたクレナイに、思わず吹き出してしまった。

「む。真面目に話してたのに」

「いや、ごめん。でもなんだか、難しいこと話すのに、最後は大雑把だったから」

「お、大雑把って……もっと他に言い様あるでしょ」

「ごめんって」

 拗ねてすっかり冷めたラーメンをかき込むクレナイに、真白は心中で礼を述べる。きっと口に出しても、「ボクは思ったことを言っただけだよ」と受け取らないだろう。内心でもそう考えているに違いない。

 誰とでも仲良くなりたい。自分がそういう風に思っていただなんて、初めて知った。他人に指摘されて気がつくなんて、不思議な気分である。

 だとすれば。わたしは、彼とも――クレナイとも、仲良くなりたいと思って、だから彼に何も返せないことにこうまで気分が揺れるのだろうか。

「……クレナイは、どうなの?」

 その思考を口に出せない代わりに、ふと浮かんだ疑問。クレナイはその意味を図りかねたようで、目だけで問うた。

「クレナイは、思考で止まるタイプなのか……仲良くなりたいとか、思うのかなって」

 後半を付け加えてから、しまったと口を押さえる。しかし出てしまったものはどうしようもない。ちらと彼を窺えば、考えるように少し目を伏せて、睫毛の影が頬に落ちていた。

「……真白ちゃんはどう思う?」

「……分からない。全然」

 元より、分からない彼を分かるために仕掛けた質問だ。

 クレナイはそれすらも見透かしたような、だけれど裏など何も無いような、疑うことすら憚られる透明な瞳に真白を閉じ込めた。それから一拍、その瞳を隠して笑う。

「残念、教えてもらおうと思ったのに」

「え?」

「自分のことは自分が一番知らないものさ。そう、とある死神の言葉だよ」

 読めない笑みを残して彼は席を立つ。トレイを手に、返却コーナーへと歩いていった。

 ――多分、思考と行動の距離は、果てしなく長いのだろう。だというのに極彩色に映る彼は、一体全体、どんな構造をしているのだろうか。

 自分は彼と、利害なんかなく単純に、仲良くなりたい、のだと思う。だが、下手に踏み込めばいとも簡単に弾かれそうな気がして、迂闊に触れられない。――恐らく。今までもそうして行動できなくて、話しかけられるのを待っていたのだろう。

 どうすればいいのだろう。ぼんやりと、曖昧に現実味もなく考えた。

「食欲無いの?」

「えっ、あ、いや」

 いつの間にかクレナイが戻ってきていた。真白は慌てて、まだ半分以上も残っている朝食をかき込んだ。



 講堂は、いつもと全く様相を違えていた。

 まず中央には大きな長テーブル。それをいくつものパイプ椅子がぐるりと囲み、既に何人かが座っている。壁際にも並べられた椅子は教師たちのもののようで、河合や藤原の顔がある。舞台を背にして天井まで届こうかという巨大なモニターがあり、近くの台に置かれたコンピュータと接続されているようだった。

 講堂にいる人々の多くは、赤を基調にした軍服を纏っている。ほとんどが男性で、ガタイがいい者から頭脳派らしく細身の者、眼光の鋭い老人など様々だ。その中で、髪を真白よりも短く切った凛々しい女性軍人は少し浮いていた。

「あの女の人、少将だね。この中でも一番か二番くらいに偉い人だよ」

 クレナイがこそっと耳打ちする。階級章で見分けたのだろうが、真白にはさっぱりだ。

 入り口近くで内部を見回していると、一人の軍人がきびきびとした足取りで近寄ってきて、片足を打ち鳴らし敬礼した。

「ミハシラ様、守護者様、ご足労いただき恐縮です。こちらへどうぞ」

 くるりと見事な回転で方向転換し、またきびきびと歩いていく。ちょうどモニターの正面、テーブルの入り口側の短辺に置かれた椅子に案内された。

 酷く場違いな気がする。年齢にしても、真白だけが未成年だ。戦いや戦争についてだって何も知らない。ここにいる意味はあるのかと疑問が浮かぶ。

 ちらとクレナイを横目で盗み見れば、頬杖をついて、あらかじめ席ごとに配布されていた資料に目を通していた。

「…………」

 各国の状況、自国の状況、これからの計画案、などなど。ある程度は分かるが、いちいち小難しい単語が出てくるためすらすらとは読めない。対してクレナイは、真白が一ページ読む間に、五ページは読んでいた。

 学が無い、とか言いながら、彼は真白よりも頭が良いのではないか。何かを説明してもらうことが今までも何度かあったけれど、そのときだって、耳で聞くだけではついていけないことがある。

 こんな体たらくで、この先守護者などやっていけるのだろうか。将来に現実的な不安を覚えてため息をついたとき、

「それではこれより、軍事会議を始める。全員、席につけ」

 あの女性軍人が、よく通る声を上げた。決して大きくはないし高圧的でもないのに、無条件に人を従わせるような、威厳とでもいうのか、自然に命令を遂行させる力を持つ声だ。それを皮切りに、その場にいた全員が席についた。

 女性は一人モニターの傍に立ち、ぐるりと見回して――つと片眉を上げた。

「そこ、一人いないようだが?」

 示されたのは、教師陣の席。確かに一つだけ、空席がある。

 隣の椅子に座っている河合が、あー、と気の抜けた笑みを浮かべて頭を掻いた。

「笹緒先生ですねー。あの人朝弱くて」

「連れてこい」

 河合の言をまるで聞いていないタイミングで女性は命令する。命じられた河合は分かりやすく嫌そうな顔をした。

「寝起きのあの人、不機嫌MAXで怖いんですよー?」

「会議の時間に遅れるような者が教師をしているとはな。最高教育機関が聞いて呆れる。この失望、当然連帯責任でお前たち全員の評価に関わるわけだが、命令違反で一層下降させたいか」

 横暴だ。真白は心の中で批判した。確かに遅刻する笹緒は悪いけれど、威圧された河合は完全なとばっちりである。

 さすがの河合もぐうの音も出ず、億劫そうに立ち上がって講堂を出て行った。

 講堂内はしんと静まり返る。教師たちも心なしか、顔が緊張しているように見えた。下手を打って河合のように巻き添えにはなりたくないのだろう。

 そんな中、一人だけその雰囲気をまるで意に介さず口を開いた者がいた。

「それで? 二人が来るまで待つの?」

 読了した資料を見るともなしにパラパラと捲りつつ、どうでもよさそうな口調でクレナイが問う。その声音か態度か質問か、そのいずれかに女性は片眉を跳ね上げた。

「……時間の無駄であることは承知しています。しかし、磐石の態勢を築くには、穴は許されません。無論、統率を乱すような行為を容認することも」

「ふーん」

 相変わらず目線も上げないで気の無い返事をするクレナイに、女性はわずかながら目元に険を滲ませた。原因の最も傍にいる真白はいたたまれない気分になった。せめて目を合わせるとか、態度だけでも真面目にしてほしい。これは談笑のために集まったのではなく、軍事会議なのだ。ちらと藤原を窺えば、案の定、厳しい顔つきでクレナイを見て、否むしろ睨んでいた。

 クレナイがそれ以上口を開くことはなく、沈黙だけが過ぎる。音といえば、紙を捲る音、衣擦れ、そんなものだ。

 それにしても――遅い。講堂は学習棟と同じ塀の中にあるため、時間がかかるのは致し方ないといえば致し方ないのだが、早く来て欲しい。緊張が背筋を垂直に保っていたが、そろそろ疲れてきた。ふう、と力を抜いたちょうどそのとき、頬杖をついて目を閉じていたクレナイが、ぱちりと瞬いた。

「ねえ、女性軍人さん」

「……浅葱とお呼びください」

「浅葱さん。質問があるんだけどいいかな?」

 微笑むクレナイに、浅葱と名乗った女性が目で促す。クレナイは、あの人、と藤原を指し示した。

「さっきからすごい目でボクのこと睨んでくるんだけど、なんで?」

「……藤原」

「ふん」

 咎めるような浅葱の一瞥に、藤原が不機嫌をありありと表して顔を背ける。浅葱は呆れたように肩を落として、クレナイに頭を下げた。

「申し訳ありません。きちんと言って聞かせますので」

「気にしてないよ。言って聞けばいいね」

 にこりと破顔して、皮肉ともとれる願望を述べるクレナイに、浅葱はただ目を伏せた。

 藤原は、相変わらず顔を背けていて、その眉間には深い皺が何本も刻まれている。

 やはり、クレナイのことが――ミハシラのことが嫌いなのだろうか。昨日の激白は、彼の心そのままだった。軍人として生きてきた彼の、根深い憤慨だった。

 現実に生きて、人民のために戦いながら、平和の中では敬遠される軍隊と。架空に生きて、唐突に現に飛び出してきた、いつの時代も存在を祝福されるミハシラと。その差に怒りを覚えたくなる気持ちは、想像はできる。理解もできる、つもりだ。

 だが――それをクレナイに、ミハシラ自身にぶつけても、どうにもならないことくらい、分かってもよさそうなものだ。

 そこでふと、真白はある疑問を抱いた。

 元軍人の藤原が、こうまでミハシラを嫌悪するのなら。現役軍人は、どうなのだろう。

 改めて周りを見渡す。顔を列ねる軍人たちはいずれも、何の感情も抱いていないように見えた。

 実際がどうであるかは、真白には、分からない。ただ藤原のように、堂々と反目する者はいなかった。

「つ、連れてきましたあ!」

 疲労が滲む声に振り向けば、講堂に駆け込んでくる影があった。河合と笹緒だ。どちらかと言えば駆け込んできたのは河合で、笹緒は無理矢理引っ張られてきたというところだろう。

「連れてこられましたー。ああ、眠い……」

 ここにももう一人、軍事会議の場であるということを全く一欠片も意に介さない人間がいる。いっそ逃げ出してしまいたい気分だ。雰囲気を悪くすることだけはやめてほしい。知り合いが作ったピリピリとした空気を平然と肺に取り込めるほど、真白はタフに育っていない。

 浅葱は両手を後ろ手に組み、億劫そうに頭を掻く笹緒をまっすぐに見た。

「軍事会議に遅れることは言語道断。以後は気をつけるように」

「善処しよう」

 相変わらず気の抜けた返事をして、席に着く。それを待って、浅葱はカッと踵を鳴らした。

「それではこれより、軍事会議を始める。私は第六師団所属、浅葱少将だ。枢密院と軍本隊の意向を貴殿らに伝え、戦争に従事する学生たちを導くために派遣された。貴殿らの総司令官であり、上官だ。私の命令には、全てイエスで答えるように。いいな。……返事は!」

「はい」

 講堂の中の全員が――否、クレナイを除いた全員が承服の声を上げた。それに浅葱は一つ頷いて、すっと脇にどいた。巨大モニターに場所を譲ったのだ。

「では早速だが……」

 浅葱の一番近くにいた軍人が、コンピュータを操作した。「待機中」と表示されていたモニターの画面が切り替わって、カラフルなグラフがいくつか映し出された。

「我が国の現状だが、非常に危うい状況にある。他国よりラグナロクの認識が遅れたため、準備が未だ完全ではない。軍の隊員数も、お世辞にも多いとは言えない」

「だから一般人の徴兵に加えて、学生と教師が強制動員されるんだよね。過去の戦乱では、初期の段階では学生は兵役を免除されていたというのに」

 クレナイが、いかにも嘆かわしいという口調で口を挟む。それから、笑顔で続きを促した。

「……戦闘機は、枢密院が秘密裏に製造していたため、すぐに配備できる。とはいえ、やはり他国と比べ、数が少ない。性能に関しては、冬の国の技術をほとんど流用しているため、冬の国に空戦を仕掛けるのは無謀と言える。対して夏の国だが、彼らは先日のように、陸上での白兵戦に持ち込む傾向にある。陸の上ではほぼ勝ち目はないと思っていい。だが反面、機械技術を敬遠しているため、無人機の製造は行われていないと聞く。故に、夏の国に対しては、国内への侵入の防衛を第一に、空戦で相手の戦力を削る戦法をとる」

「しかしそれでは決定打がありません。また、夏のミハシラは風を操ると聞きます。ミハシラが出てくれば、空戦における優位性は全く覆ります」

「そのとおりだ。故に、夏の国とは長期戦はできない。当然、冬の国より先に相手するのは、夏の国だ。一気に火力を注いで注意を逸らし、密かに軍の師団を三つ、そしてミハシラ様に、国内へ侵入していただく」

 講堂中の目がクレナイを振り返る。対するクレナイは、真白の腕章に興味津々だった。

「さすがに敵のミハシラが国内に入ったとあっては、夏もミハシラを空に出すわけにはいくまい。総力を、ミハシラ様に投入するだろう」

「しかし、いかにミハシラ様といえど、敵のミハシラだけでなく白兵戦に長けた夏の精鋭たちまでも、同時に相手するのは、危ないのでは?」

「敵の意識がミハシラ様に向いている内に、空戦で押し切る。そうなれば、戦闘機で空襲を仕掛けてミハシラ様を援護できる。――無論」

 そこで浅葱は言葉を止め、クレナイをまっすぐに見つめる。

 クレナイは、黒目だけで視線に応じた。

「全てはミハシラ様次第。正直、冬の国を置いて行うには無謀な作戦です。冬の国との戦いがどうなるかは、ひとえに、ミハシラ様に懸かっています」

「……うん、まあ、何とかなるんじゃない?」

 あまりにおざなりな答えに、空気がぴりりと弾ける。それを全く意に介することなく、ニィと唇を弧に歪めた。

「ボクが夏や冬のミハシラなら、やめておいた方が賢明だろうけどね。炎は、際限なく広範囲に広がるし、殺傷能力がまず違う。戦い方を選ばなければ、一対集団の戦を挑むのに秋のミハシラは最悪のカードだよ」

 それに、と息継ぎを一つ。

「火は、遍くボクの味方だ。刀が弾く火花も、銃身の中で起こる火薬の破裂も、砲撃が齎す爆発も、全部ね」

 その声音には、何も籠もっていない。ただの事実だけを述べている。

 自信すら、声に織り込まれていない。それは恐らく、「勝つ自信がある」のではなく、「勝つ確信がある」からだ。

 全てがその双肩にかかっているというのに、どこまでも、早朝の湖畔のような静かな声音。それに言葉も出なかった。

 ただ一人、浅葱がすっと目を伏せて、安心いたしました、と了承を口にした。

「それで……師団の配置とかはボクのいないところで話し合ってもらうとして、冬に対してはどういう方針で行くの? まさか、夏にかかりきり、ってわけにはいかないでしょ」

「戦闘機の数が劣るため、あまり賢いやり方ではありませんが……いくつかの戦闘機を冬の国との境空に待機させて牽制します」

「それ、効く?」

「難しいかと」

 目を眇めたクレナイの言外に含まれた本音に、浅葱はあっさりと同意した。

「冬の無人機に撃墜されてしまう恐れが多分にあります。その場合、沿岸に展開した対空ミサイルで応戦します。夏には回せない分、かなりの数が配備されるでしょう」

「無いよりはマシ、程度だね」

「……言葉もありません」

 そこで藤原が立ち上がった。まさかまがりなりにも軍事会議で一教師が発言するとは思っていなかったのだろう、講堂中の目が驚きと戸惑いを携えて集中した。藤原自身はそれを気にすることはなく、堂々たる佇まいだ。

「冬の国は、戦闘機による掃討作戦に討って出ると思われる。戦闘機の数が少なく、技術も劣る我が国がとりうる手段は、ミハシラ様の出動しかない」

「ボクの体は一つしかないんですけどー?」

 まるで興味がないという風に、もっともなことを言うクレナイに、藤原は真面目に取り合う気もないようだった。彼の方を見もしない。

「夏との戦争を早々に終わらせてくれればよい話。対空ミサイルで防いでいる間に戻ってきていただきたい」

「過密スケジュール……」

「藤原。座れ」

 浅葱の鋭い制止に、藤原は意外にも大人しく従った。

 藤原が、誰かの言に素直に従うとは、あまりにも意外すぎた。浅葱は見たところ、藤原より一回りは若そうだが、軍人時代の上司でもあったのだろうか。でなければ納得できない。

「……しかし、冬の国は現在、不自然な沈黙を保っています。十年以上前……あちらのミハシラが目覚めた頃と推定されますが、その頃から国を強固な壁で覆い始め、昨今はあちらが特別に認可した企業との貿易でしか干渉できないほどでした。恐らくラグナロクに備えていたのでしょうが……ラグナロクが始まったことはあちらでも認識しているはず。しかし早々に襲撃してきた夏や、宣戦布告の書状を二国に送った我が国と違い、あちらは何の動きも見せません。返事もない。防衛の意識こそ明白ですが、戦争を仕掛ける気があるのかすら判然としません。まずは内偵を出し、内情を探るべきかと思われます」

「入れるの? 話聞いてる限りじゃ、もう無理そうだけど」

「難しいでしょう」

 先も発した言葉を繰り返して、今度は、しかし、と逆接をくっつけた。

「やらねばなりません。我ら秋の国の栄光のために」

 その言葉に、誰もが同意する。空気の振動なんて曖昧なもので伝播する団結の意。色は違えど行き着くところは畢竟同じ。ひとえに自国の勝利と繁栄だ。

 真白としては――その様を具体的に想像できない繁栄にさほどの興味はないけれど、敗北はしたくなかった。

 それすなわち、死だから。死ぬのは、嫌だ。

 不可能を可能にせねばならない。浅葱のその毅然とした意志も、それに首肯する部下たちの意志も、それらに支えられて勝利を掴み取る張本人たるクレナイに関わり深いものだ。

 だというのに。彼女の言葉に、すうっと上げたクレナイの目は、驚くほど冷めていた。

 子供の頃よく遊んだビイドロのようだと思っていた碧眼。それは今全く異質な――いいや、やはりビイドロだ。ビイドロで、ビイドロでしかない。どこまでもどこまでも無機質な、内でなくて向こう側だけが透けて見える半透明。

「ふうん」

 素っ気無い相槌は、先ほど落とされたものとは全然違う。まるで興味が無いようだったそれとは違って、今のはただ、そう――哀れだとでもいうような。好きにしてくれという放置ではなくて、君がそれでいいのならという放任だ。

 それ以上何も言うことはなく、クレナイはガタリと音をたてて立ち上がった。

「じゃ、ボクはもういいよね」

「え? クレナイ?」

「日時とか詳しいことが決まれば知らせてね。その子に。それじゃ」

 制止の声さえも上げさせず、軍事会議が終わってもいないのにクレナイはすたすたと講堂を出て行った。

 ……自由だ。前から思っていたけど、彼は、いつでも、どこまでも、自由だ。

 ミハシラという、神にも劣らない絶対の有力者だからだろうか。長いものに巻かれるどころか自身がその長いものだ。

 とはいえ、傍にいなければならないこちらとしては、彼以下とはいえ自分より何メートルも長いものがぞろぞろといる。この国で一番長いものである彼のことなのに何故だか胃が痛くなりそうだ。

 誰もがクレナイのあまりの自由ぶりに唖然としているのだろう。講堂内は静かだった。

 やがて、笹緒がぽつりと言った。

「君は行かなくていいのか、守護者殿」

「……へ、」

「君が側仕えする対象は行ってしまったのだが。それに、学生の君には九時から訓練もあるだろう」

「あ……」

 思わず呆然と見送ってしまったけれど。国内では滅多なことはない、と信じたいが、世話役、守護役の任を請け負った者として放っておくわけにもいくまい。恐る恐る浅葱を見ると、彼女は想像に反して怒りの表情を浮かべてはいなかった。無論、呆れ、諦め、驚き、そういった種々が複雑に混在しているが。

「……いい。行きなさい」

「あ、はい。では、失礼します……」

 ぺこりとお辞儀をして、そそくさと講堂を後にする。

 背中にいやに痛い視線が突き刺さっていたのだが、あれは多分、恐らく、十中八九、藤原だろう。

 訓練は当然藤原担当が大半のはず。何を言われるかと思うと、今から気が重い。

「……クレナイの馬鹿。考えなし。無頓着。朴念仁ーっ」

 全部クレナイの適当さのせいだ。もう少し周りの……特に守護者のことを考えて発言と行動をしてほしい。

 ぶつぶつと文句を言いつつ歩く。それを聞く者も、返す者もいない。

「………ハア」

 ――真白のことなど、どうでもいいのだろうか。

 今までの言動から考えても、そうとしか思えない。さっきも、あっさりと真白を置き去りにして行ってしまった。守護者とはいえ学生でしかない真白が軍事会議にいたって何の役にも立たないことくらい承知のくせに、だ。

 それは勿論、彼に親切にしてもらったことは覚えている。校舎から助け出してくれたことだってそうだし――一度は教室に置き去りにされかけたが――、その後気落ちする真白を心配して部屋まで見に来た。朝だって、自分では気付かなかったことに落ち込む真白を不器用ながら慰めてくれた。何より、守ると言ってくれたあの力強い笑みを、疑う気は無い。

 だけれどそれら全て、真白でなくてもよかったのだろう。もし真白が気絶して蜜柑が殺されかけていたとしたら、やはり同じようにクレナイは助けてくれたろうし、守るとも言ってくれたはず。もし彼が別の、友人を亡くした子と関わっていたとしたら、その子の様子だって見に行った。仮に善が守護者になっていたって、嫌なことを言われはしないかと案じてくれたに違いないし、誰かが悩んでいたら同じように声を掛けて導いてくれるのだろう。

 たとえ誰であっても、死ななくていいと、死んでほしくないと、死ぬくらいなら隠れていろと――死なないこと以外求めていないと、言うのだろう。それを嫌だとは思わない。ただ、理解できない。否、より正確に言うなら、その生き方を選べることが理解できない。

 誰にでも優しい。でもそれは、誰にも優しくない。無意識に与え、無自覚に受け取りを拒否する。歪な合理主義だ。

 聞こえはいい。何の打算も無く他人に奉仕して、打算など無いから恩義を対価を受け取らない。徹底的な献身だ。けれど彼のそれは違う。献身だというのなら、真白はこんなにも嫌な気持ちになっていない。

 打算が無いのは、相手に興味が無いから。気に入られようとは露とも思わないから。

 対価を受け取ろうとしないのは、相手に踏み込ませたくないから。他人を他としか見ないから。

 決して相容れないのは、相容れられないから相容れようとは思わない故に。

 真白には、彼に関わるとっかかりさえも見つからない。

「…………仲良くなりたい、か」

 ああそう、そうだろうとも。でなければこんなことをつらつらと考えまい。もしクレナイが藤原のような奴で、何もしなくていいと言われたら、本当に何もしない。会話の種を探そうともしないだろう。

 少しでも優しくされると、いい人なんだと錯覚する。仲良くなりたいと、無意識の内に思う。

 だが今まではそれを意識もせず、無理そうな相手ならば関わろうとしなかったはずだ。その結果が今の交友関係の狭さに表れている。

 だというのに。どうしてクレナイの役に立ちたいとはっきり思っているのだろう。自分などどうでもいいのかもしれないという考えに、沈むのだろう。

「ハア……」

 再度のため息。吐き出したと同時に、足が学習棟へと入る。それまで柔らかい地面を踏みしめていた踵が、大理石を打ってコツンと高い音を鳴らした。

 そうしてふと、あることに気がついた。というか、初めて疑問に至った。

「……クレナイは、どこに行ったんだ……?」

 クレナイが早々に退出したせい、もとい、おかげで、戦闘訓練まで時間が充分にある。

 わたしはどこに行けばいいのか――どこに行こうとしていたのだろうか。



「ハア? ミハシラ様を見失ったァ?」

 素っ頓狂な声を上げた善に、真白は深いため息をついた。

「あの人、神出鬼没というか……。大体は講堂地下か部屋か食堂にいるって言ってたのに、どこにもいないんだよ。詐欺だと思わないかい?」

「や、詐欺まではいかねンじゃね? つーか、いいのかよそんなんで。守護者って、守らなくちゃいけないンだろ?」

「って言うけどね、わたしが守る必要なんかないくらい強いよ、あの人。大体、自分が指名したんだから、行き先も告げずに放り出してどこかに行く方がおかしい。無責任だ」

「……オレ、時々お前のこと本気で尊敬するよ……」

 そう言いながら呆れ顔の理由が分からない。

 あれから結局、クレナイはどこを探しても見つからず、仕方なくグラウンドへ向かった。軍人手ずからの指導で普段よりも臨場感を加味した訓練は厳しいものではあったが、平生から実戦に近い訓練をしていたためか、さほど苦しくもない。他の授業が無いことで時間を大幅に使えるから、CQCやCQBの模擬戦を何度も反復させられたくらいで、キツキツに詰まってはいないし、そもそも基礎は入っている。夕方には飛行訓練があるようだが、正午からそれまでは自由時間だ。むしろ授業があった方が、真白にとっては苦痛かもしれない。

 きっと、誰かを傷つけることを厭うような、蜜柑みたいな優しい子には、厳しいものだろう。

 これから昼食に向かうのだが、蜜柑はどこにもいなかった。先に行ってしまったのかもしれない。仕方ないから、というのも失礼だけれど、善と蘇芳と共に行くことにした。彼らもクレナイの話を聞きたがっているのだから、お互い様だ。

「そういえば二人は、昨日クレナイには会わなかったのかい」

「会う前にあんたが追い払ったんやろー。ヨッシーは?」

「ヨッシー言うな。オレもまだ。どうせ昨日はいっぱいだろうから、今日会いに行こうと思ってたンだよ」

「今日もいっぱいだと思うけどね」

「せやな」

「……つうか。真白、お前、ミハシラ様のことを呼び捨てにするなんて不敬だぞ」

 言われて慌てて口を押さえるが、無意味にも程がある。

「仕方ないじゃないか。あの人がそう呼べと言うんだから」

「ミハシラ様があ? おいおい、だからってなあ」

 本人に対し敬語も敬称もつけないのだから、他人との会話で自然つけないのは致し方ないのではなかろうか。とはいえ、これが同級生で、比較的気心の知れた二人でよかったと思う。もし教師や軍人に聞かれようものなら、どうなることか分かったものではない。

 ……軍事会議で、言っていない、はずだ。不安になってきた。

「……まあ、以後は気をつける」

「ほんまやで。せっかく平凡クラスの六組から守護者様が出て大出世やのに、不敬罪で首切られたら、なんやえらいこっちゃやがな」

「出世したの?」

「心情的にな。勿論、妬まれとるけど」

「バッ……スオー、お前本人に言うなよな!」

「ヨッシー、スオーって言うなって何度も言っとるやろ。ポケットに入りそうなモンスターみたいやん」

「うっせえお互い様だよ! ヨシならまだしも、ヨッシーって、オレは卵産まねえぞ」

「知っとるわ。産んだら怖いわ、ホラーや、グロや」

「グロは酷くねぇ?」

 どんどんと話が転がる。真白は、しかしそれを聞いていなかった。

 妬まれている。六組が。

 的外れにも程がある。そしてそれを真白が気に病む必要はない。全部クレナイのせいだ。

 だというのに――気を遣わせているのは、真白だ。

 こんなにおかしな話があるだろうか。クレナイが真白を選んだせいで真白が妬まれ、六組が妬まれる。そのくせクラスメートに気を遣わせていると気に病むのは真白なのだ。

 ――きっと。言えば、彼は申し訳なさそうに眉を下げて、謝罪を述べるだろう。だからといって何も変わらない。結局、それを分かっていて口にした自分の意地の悪さに嫌気が差すだけだ。

 ああ全く。なんて不合理だろう。

「おい、聞いてンのか真白!」

「えっ?」

 唐突に蚊帳の中に引っ張り込まれて、ハッと我に返る。見れば、蘇芳と善が顔を並べてこちらを見ていた。

「な、何? 何か言ったのかい」

「……マジで聞いてなかったンだな」

「ご、ごめん。考え事してて。あはは……」

 白々しい。全く白々しく笑ってしまうが、嘘は言ってない。

「まあええわ。あれや、わいらをミハシラ様に引き合わせてくれへんかなーって、ささやかなお願いや」

 な? と両手を合わせてカワイコぶる蘇芳だが、全く可愛くない。むしろ逆効果だ。思わず引いた真白と善に、しかし蘇芳はめげない。というか確信犯かもしれない。

「まあ、いいけど……クレナイ次第だよ? 冷たくあしらわれちゃうことも……あるし」

 思い出すのは昨夜の蜜柑。彼女の様子を見れば、ミハシラ物語のことが相当好きだったのだろうと分かる。

 彼女に頼まれて会わせたのだけれど、後悔の念もある。断っていれば、あのような思いはせずに済んだのかもしれない。

 反面、結局同じことだとも思う自分がいて、嫌になる。

 二人は、案の定、首を捻った。

「冷たく? 集会のときは、そんな人には見えへんかったけどなあ。明るーい人やったやん」

「そうだけど……わたしもそう思うんだけど」

「そない複雑な人なん?」

「それはもう」

 こくこくと何度も頷く。複雑。それこそまさにふさわしい。抽象的でいて的確に彼を表す言葉だ。

 食堂には、当然人がたくさんいた。先ほど訓練を終えた生徒たちだ。だが学院なだけあって、食堂も充分に広い。席はあった。

 券売機は、勿論、大行列だ。

 廊下まで続く行列の最後尾に並ぶ。昨日クレナイの部屋の前に並んでいた人たちは、昨日も今日も並んでご苦労なことだ。無論、皮肉である。

「あー、並ぶのだりー」

「せやったら並ばんでええで。食えへんだけや」

「なー、購買でパン買わねー?」

「パンだとすぐにお腹が空くよ。ちゃんと食べないと、夕方の訓練には持たないと思う」

「わいはカツ丼食うって決めてん。今」

「うううー……」

 並ぶのが面倒という気持ちは十二分に分かるが、こればっかりはどうしようもない。近接戦闘訓練ばかりだったため、かなり空腹だ。

 それにしても、普段はこれほど行列ができないのだが、今日はとみに多い。軍の人たちでもいるのだろうか。

 朝はあれほどの静けさだったというのに、調理員も大変だ。他人事よろしく感想を投げる。

 そんな真白の肩が、背後から叩かれた。

「?」

 誰かと振り向いた途端、

「あはっ引っ掛かったー」

 ぐにぃ、と、頬に指が食い込む。いや、動作からすれば、待ち構えていた指に真白が不用意にも頬を押し付けてしまったという方が正しい。

 そんな子供だましで嬉しそうに笑うのは、クレナイだった。

「……何してるんだい」

「え? 邪気のないかわいーいイタズラ?」

「可愛いかは別にして、邪気がないことは確かだけれど……」

 やられている方はそう楽しくもない。

 相変わらず読めない笑顔に呆れる真白の背後で、叫び声が上がった。

「み、ミハシラ様……!」

「ほ、本物や……」

 善と蘇芳が唖然とした顔でクレナイを見ている。そういえば会いたいと言っていた矢先だった。前に並んでいた人たちも皆、同じような顔をしている。

 これで依頼達成だろうか。

「真白ちゃん真白ちゃん。キミ、こんな戦場に行く気?」

 戦場とはオーバーな。ただの食堂だ。人が多いだけで。

「お腹が空いたんだ。混んでいるからといって、食べないわけにはいかない」

「はー……物好き。ボクだったら、入らずに食べる方法を模索するなあ。そんなわけで、おいでよ」

「は?」

 何がそんなわけなのだ。論理が成立していない。そんな反論をする間もなく、クレナイは真白の腕を掴んで、食堂とは別の方向へ歩き出す。

「ちょ、ちょっと、どこに行くの?」

「ボクの部屋。一人で食べるのって、案外寂しくてさー。アキは無口だから」

「クレナイの部屋で何を食べるのさ。……料理できるの?」

「あー……簡単なものならね。でも作ってないよ。届けてもらうの。ミハシラ特権ー」

 たまたまボクに見つかって真白ちゃんは運がいいね、などと笑うクレナイにずるずると引きずられていく。拒否権は無いらしい。見れば、善も蘇芳も、案の定呆然と見送っていた。

 何がなんだかよく分からないが、ろくに挨拶もせぬまま二人を置いていくのは不義理だろう。それに、これはこれでチャンスじゃなかろうか。

「クレナイ! あの二人は、一緒じゃダメかい?」

「うん? どの二人?」

「あれあれ、最後尾の男子二人。友達で……クレナイと会いたいって言ってたんだよ」

「会ったじゃない。今」

「そうじゃなくて……こう、お話とかさ」

「ふーん……いいよ。そこの二人もおいでー!」

 呼びかけられた二人は、それが自分たちだと気付いていない。真白が名前を呼んで手招きすれば、暫く顔を見合わせたあと、慌てて走ってきた。

「いやー、友達いたんだねえ、真白ちゃん。ボクちょっと嬉しいよ」

「少ないとは言ったけど、いないとは言ってない。嬉しいものかい?」

「うん、嬉しい。ま、それが男の子って辺り、真白ちゃんらしいよねー」

「……ほっといてくれ」

 少なくとも、その友達の前で話す話題ではない。

 廊下で学生に擦れ違う度に歓声が上がり、クレナイは笑顔だけを投げかけ通り過ぎる。声は掛けないし、掛けられても笑うだけだ。

 ――一緒に食事をしようと思い立つ程度には、気にかけられているのだろうか。しかし、誘う相手がわたししかいなかったとも考えられるし、その方が信じやすい。見つからなかったら、結局一人で食べていたのだろう。

 善と蘇芳をちらと振り返ると、二人ともどこかぼんやりと歩いていた。憧れのミハシラ様に誘われて夢見心地なのだろうか。

「そういえばクレナイ、今までどこにいたの? 講堂からさっさと出て行って、姿も見えないから焦ったよ」

「どうして?」

 どうしてとは。彼は真白が守護者であるということを忘れているのだろうか。

 ……要するに、必要ないということなのだろう。

 沈みかけた心を、無理矢理引っ張り上げる。

「……食堂か部屋にいるって言ってたのに、いないから。用事があったときに困る」

「あれ、書庫って言わなかったっけ?」

「書庫?」

 書庫といえば、学習棟の四階を丸々使った図書館の奥、一般生徒が入れない部屋だ。重要な書物がたくさん収められていると聞く。

 そういえば、書庫も所在地の候補に上がっていたような覚えが、無くも無い。首を捻る真白に、クレナイは苦笑した。

「意外と本が好きなんだね」

「意外とって、失礼だなあ。まあ、知識を得るのは嫌いではないよ」

 肩をすくめて、クレナイは適当にはぐらかす。

 クレナイの部屋前の廊下まで来ると、さすがに人はいない。部屋に入り、クレナイが勧めるまま二人がソファに並んで腰掛けた。その向かいに座ったクレナイは、きっちり隣を空けている。

「……わたしはそこかい?」

「2:2で公平でしょ。嫌?」

「嫌ではないよ。お茶を淹れるね」

「含みのある言い方だなー。今度はほうじ茶で! キミたちもそれでいい?」

 クレナイに笑いかけられ、二人が声も無くガクガクと頷くのを見て、棚からほうじ茶のパックを取り出す。どうしてこの棚は、茶からコーヒーから何から充実しているのだろう。ミハシラへの敬意かクレナイの趣味か、どちらか判じ難い。正道を行って茶葉や豆ではなく、ティーバッグやインスタントである辺り、やはりクレナイの個人的な物かもしれない。

「皆、何食べたい?」

 唐突の質問に、三者揃ってきょとんとする。クレナイはにこにこと待っていて、意図を話す気はないようだった。

「……じゃあ、オムライスで」

「あ、わいは、カツ丼が……」

「お、オレ、オレは……えーと、えーっと」

「何でもいいんだよ? 困るのはボクじゃないから」

「え? え……っと、じゃあ、カレーライスがいいっす!」

「はは、元気だなあ」

 楽しそうに笑って、クレナイは部屋に置いてあったレトロな電話機を取り上げた。ただのインテリアかと思っていたが、使えるらしい。当たり前かと自分にツッコミを入れつつ、真白は沸かした湯をマグカップに注いだ。さすがに湯呑みは置いていなかった。

「はい、お茶。ティーバッグだけど」

「ありがとー。……そうそう、デリバリー。ダメ? ふふ、良かった。ごめんねー忙しいのに。さすがにあの中に突っ込む勇気は無くてさ。多分食堂にも迷惑だと思って。じゃ、待ってます」

 受話器を戻したクレナイに、真白はもしかしてと声を掛けた。

「食堂の人に料理を届けさせるつもり?」

「うん。言ったでしょ、届けてもらうって。罪悪感あるけど、ミハシラってこーゆーときはいいもんだって思うよ。さすがに面と向かって嫌だって言ってくる人は……そうそういないから」

「そこでどうしてわたしを見るのかな。何かを断った記憶はないけれど」

「言いそうなんだよ。期待してる」

「期待なの……?」

「ふふ。まあでも、ボクがあんな大盛況の食堂に行ったらそりゃーもうすったもんだでしょ。食堂に迷惑だと思ってね」

 それも一理。全くの考え無しではないらしい。だが食堂を心配する前に、守護者のことを気にかけて欲しい。偉い人にはそれ相応の対応をしてほしいのだ。

 などと言っても無駄だと分かっている。つくづく、世の中の執事や従者、という人が実際にいるのかはさておいて、そういう人たちは大変だ。

「さて、それで……」

 ずず、とほうじ茶を啜って、クレナイは対面の二人に向かい合った。

「何かボクに用事?」

「あ、えっと……」

 急に水を向けられて、蘇芳と善はびくつく。この二人はムードメーカーともいうべき存在で、こんな風にカチコチに固まっている姿は新鮮でもあった。

 先に解凍したのは蘇芳だった。

「と、特に用事いうんは無いんですけど……あ、握手とか、してもらえませんやろか」

「握手?」

 今度はクレナイがきょとんとした。握手なんかしてどうするのか、と言いたげだ。

 アイドルじゃあるまいし、と真白は呆れた。もっとも、一般人にはさして違いもないのだろう。

 クレナイは、んー、と首を傾げてから右手を出し、途中で左手に替えた。

「左手でよければ」

「あ、ありがとうございます! ほれ、ヨッシー」

「あ、ああ、えっと、じゃあ失礼して……お手を拝借……」

「あほ、それはちゃうやろ!」

 相当混乱しているらしい。目の前で漫才を始める二人を、クレナイはにこにこと見ている。

 事実、彼がどのように思っているのか分からないから、真白は気が気ではなかった。いつ昨夜のように冷たい言葉を吐き出すか、はらはらと見守っていた。

 笑顔を見る限り楽しんでいそうだ、というのは早計だ。それはたった二日間で痛いほど分かっていた。

「二人は仲が良いんだねえ」

「え……そ、そうすか? ありがとうございます……」

「いいなあ、そーゆーの。ボクも友達欲しいよー」

「い、いはらへんのです?」

「うん。いると思う?」

 また返事に困ることを訊く。頷いていいものやら、判断つきかねるだろう。無邪気に問うたクレナイに、蘇芳は、少しだけ困ったように眉間にしわを寄せた。

「……ミハシラ様は、明るいお人やから、きっとぎょうさんいはるもんやと思てましたけど……いはらへんのも、納得しますわ」

「ちょ、スオー! お前はまた……!」

「だってヨッシー、考えてみいや。クレナイ様と考えるんちゃうで。ミハシラ様に、対等な友達ができると思うか? 壮絶な運命と、人智を遥かに超えた力を持つ人やで。そんなん……なかなか、難しいもんやで。ミハシラ様と対等に付き合える人っていうんは」

 そこで蘇芳は、クレナイに目を戻した。

「そういうことですよね、ミハシラ様」

 クレナイは肯定も否定もしなかった。

「賢いね、キミは」

「……恐れ入ります」

 蘇芳は、戸惑ったように一つ瞬いて、頭を下げた。

 絶対的強者のミハシラ。そのミハシラと対等に肩を並べるなんてのはどだい無理な話だ。それこそ、他国のミハシラでもなければ。

 立場も。背負うものも。生の長ささえ。何もかも見えぬ彼方へかけ離れた存在を友と呼ぶなど、一体誰が為しえよう。それこそまったく自尊心を持ち合わせていないか、適当にそれと折り合いをつけられる器用な者だけだ。

 そして何より。友が欲しいと言うクレナイが、本当に欲しいと思っているのかさえ、真白には疑わしい。

「け、けど」

 難しい顔で唸っていた善が、ぼそぼそと喋りだした。

「友達って、対等なもんすかね」

「……ヨッシー?」

「たとえ相手が自分より数段すごい相手で、それでも、一緒にいて楽しいって、遊ぶときに誘おうかって頭に浮かぶなら、もう友達じゃないすか? そりゃ、まあ、尊敬したり、ちょっと嫉妬したりはあるかもだけど。力とか立場とか、社会の中での対等が、友達かそうじゃないかの基準なんて、おかしいと……オレは、思うンですけど」

 そこで善は、真白を見た。

「こいつが守護者になって、立場的にはオレたちよりも上なんでしょうけど、でも、オレはこいつのこと、友達だと思ってます。それと一緒じゃないっすか?」

 善のまっすぐな言葉に、胸が、じわりと暖かくなる。

 確かに、友達は少ない。親友さえも、真白を置いて死んでしまった。守護者に選ばれて、それまで同じ学び舎で過ごしていた仲間から、妬まれるようになってしまった。

 それでも、友達だと、はっきり断言してくれる友達がいる。

「……真白ちゃん、いい友達持ったねえ」

「…………」

 何も返せない。口を開こうものなら、泣いてしまいそうだった。

 もしかしたら、沙那を失ったことに、己の生死を問う状況になったことに、耳を塞いでも聞こえる陰口に、次元のレベルで隔絶したクレナイとの距離に、思ったよりも疲れていたのかもしれない。酷く揺さぶられていた。

 クレナイは、それを感じ取ったのか、ふっと苦笑して真白の頭をぽんぽんと撫でた。

「そうかもね」

 だけど、やはり。彼は彼自身を変える気などないのだ。

「うーん、お腹空いたなあ。まだかなー」

「お、オレも腹減ったっす! なあスオー」

「……おう」

 蘇芳は、どこかつまらなさそうな顔で頷いた。

 ほどなくして、ドアがノックされる。調理員の一人が、古式ゆかしい岡持から料理を取り出してテーブルに並べ、退出する。

 よく言えば小奇麗、有り体に言えば殺風景な室内に、料理の色が溶け出して温かみを帯びた華やかさを得る。四人はそれぞれ手を合わせ、食事を始めた。

「ンーっ美味い! カレー美味い! 空腹にしみるーっ」

「ヨシ、食事の時くらい落ち着いたらどうだい」

「ンンっ! ミハシラ様、その唐揚げ美味そーっすね……」

「あはは、欲しい?」

「くれるンすか!」

「あーげない」

「ええーっ!」

 口いっぱいに頬張りながら騒ぐ善をからかうクレナイは、心底楽しそうだった。これ見よがしに唐揚げにぱくついて、恨みがましい目で見る善に、あははと楽しそうな笑い声を上げた。

 善は、良くも悪くも人好きだ。少しでも気が合うと思った人には、立場の垣根を越えて親しげにすりよる。それを図々しいと取る人もいるようだが、大抵は好意的に見られるようだ。かく言う真白とて、彼の親しみやすさに幾分助けられている。

 クレナイと気が合うかもしれない。双方人懐こさが天性のものであるという点からそう思った。だが、未だクレナイの内面を量りかねているため、そうとはっきり断ずることもできない。

 対して蘇芳は、静かなものだった。普段なら善とぎゃあぎゃあ騒いでいるのに、奇妙なまでに大人しい。

 蘇芳も勿論、親しみやすい方ではあるのだけれど、善に比べれば好き嫌いがはっきりあるようだったし、より相手を隅々まで観察する節がある。そしてたとえ相手に嫌いの判断を下しても、気の抜けた笑顔と独特な口調で曖昧な距離を保つ。言ってみれば、善は犬で、蘇芳は猫。

 もしかしたら、善よりも蘇芳の方がクレナイと似ているかもしれない。

 そんなことを考えつつ蘇芳を見ていたら、目が合ってしまった。

「? どないした」

「あ、いや、カツ丼も美味しそうだなって」

「……相変わらずやな」

 咄嗟に誤魔化しで口をついた言葉に、心底呆れられてしまった。というか、相変わらずとは、もう少し別の呆れ方もあったのではなかろうか。

 返す言葉もなく、オムライスをスプーンで崩す真白に、クレナイがふと苦笑した。

「そんなにお腹空いたの?」

「……クレナイまで。わたしはそんなに食いしん坊じゃないよ」

「うん?」

 どうして膨れているのか分からないという表情だ。今のは八つ当たりだった。真白は心の中で反省した。

「あげる」

 ひょい、と皿に唐揚げが一つ落とされる。きょとんと見上げた真白に、クレナイはにっこりと笑った。

「あーっいいなあ! オレにはくれないのに」

「あはは、意地悪したくなっちゃってさ。ああでも、唐揚げは好物だから、一個限りでおしまい」

「えー。不公平だ!」

「いやあ、キミは楽しい子だなあ」

 いじめても後腐れなくて、という小さな呟きは、聞かなかったことにしよう。

 クレナイに貰った唐揚げは、確かに美味しそうだった。ぷりぷりと柔らかそうな鶏腿肉を、こんがりきつね色の衣がしっかり包んでいる。食堂の唐揚げは、外はカリカリ中ジューシーと自身で豪語するだけあって、とかく評価が高い。善には悪いが、有り難く頂いておこう。

 ちらと善に目を向ければ、恨めしそうな目で見ていた。食べにくい。

「……ところで」

 そんな二人の様子をにこにこ見ていたクレナイはふと、話題の転換を仄めかした。

「二人は名前、何ていうの?」

「あ……」

 そういえば、紹介していなかった。

「そっちがヨシ……善で、こっちが蘇芳」

「ゼン……もしかして、善人の善? だからヨッシーなんだ」

「オレはそのあだ名、認めてないっす!」

「そっか、いい名前だねヨッシー君」

「……!」

 ニッコリと。満面の笑みで、認めてないと言ったばかりのあだ名を呼ぶクレナイに、善は絶句する。それを全く意に介さず――むしろ面白がって、クレナイはヨッシーヨッシーと連呼した。

「いいよね、あだ名で呼び合える関係ってさ。ねえヨッシー君。なにも嫌がることなんてないと思うよヨッシー君。差別用語じゃあるまいし、親しみやすくていいと思うけどなあ、ヨッシー君。ね、ヨッシー君」

 絶対に、楽しんでいる。心底面白がってからかっている。それは蘇芳も分かっているようで、問うようにそっと目で訴えられた。真白は、何も言えず、ただ目を逸らした。

 対する善は、

「……そう、ですかね。そんなもんですか」

 どこか釈然としない面持ちで、だけれど神妙に頷いた。

 こいつ、からかわれていることに気がついていない。そうだよ、と微笑むクレナイが、隣の真白でもギリギリ聞こえるくらいの声量で、つまんないと呟く。何だか善が不憫になってきた。

 今度から、善と本名を呼んでやろう。たまには。

「蘇芳君にはあだ名は無いの?」

「特には。精々、コイツがスオーって伸ばすくらいですわ」

「ふうん」

 これには食指が動かなかったらしい。あっさりと流して、クレナイは最後の唐揚げを口に放り込み、食事を終了した。

「学生さんは、まだ訓練があるんだよね」

「ああ、うん。夕方に戦闘機の飛行訓練がある」

「全校生徒分? 時間掛かりそうだな……。あーそうだ、真白ちゃん、先生から呼ばれてるよ」

「え?」

 河合だろうか。特に何かをした覚えはないから、守護者としての何かしらだろう。

 誰かと目で訊いた真白に、クレナイは、名前は分からないけど、と前置きして、

「ボクのことが大ッ嫌いな先生」

「…………うげ」

 喉の奥から、思い切り嫌悪感を表現すれば、あははとクレナイが楽しそうな笑い声を上げたのだった。



 藤原がいるのは、研究棟――ではなく、講堂だった。

 モニターや机などはそのままだが、人がごっそりいなくなっている。いるのは、藤原と、浅葱だけだった。二人で何かを話している。

 あの中に入るのには、勇気がいる。何を言われるのか……いや、大体想像はついているが、想像したくない。

 十中八九、クレナイのことだ。あの傍若無人ぶりを何とかしろとか、守護者としての責務とか、そういうことだろう。真白にはどうにもできないというのに無理難題を押し付けてくれる。

「……真白、招請に応じ参上しました」

「来たか」

 応じたのは浅葱だった。藤原は隣で厳しい顔をこちらに向けただけだった。

「早速だが、少々質問がある。ミハシラ様のことだが」

「はあ……わたしがお答えできることは、そう多くはありませんが」

「お前は黙って質問に答えろ」

 横からぴしゃりとぶしつけな言葉が叩きつけられる。相変わらず藤原は癇に障る物言いをする。何とか表情には出さないよう我慢して、質問を促した。

「ミハシラ様は、人が死ぬのをお嫌いになる人か」

「……は。ええと、そう、ですね」

 ――ミハシラ様のためなら命も惜しくないーって言う子。そんなの重いだけじゃない。――

 ――二十にもならない若い子が、死んでもいいなんて、口にしてほしくないよ。――

 クレナイの言葉が脳内で再生される。それを口にしたときの、寂しそうな表情も、網膜に蘇る。

「命を粗末にするなと、全校生徒に仰られました。……自分のために命を捨ててくれるな、と」

「それは、偽りでなく?」

「偽りを言う利益がわたしにありますか?」

「そうではない、馬鹿め」

 藤原がこれ見よがしに鼻で嘲笑する。どういうことかと目を向けた真白に、口を皮肉気味に歪めてみせた。

「ミハシラのその言葉が、まこと本心から出たものなのかと訊いている」

「…………は」

 それは、つまり。

「国民の支持を得るための発言ではないかと、お考えで?」

 浅葱は黙然と頷く。思わず、まさか、と強く声を発した。

「クレナイ――様は、そのようなお方ではありません。心より発せられたお言葉です」

「根拠は?」

 根拠? そんなもの――あるわけが、ない。

 いや、一つあった。

「……夏の国の刺客を、逃がそうとしました」

「…………は?」

「圧倒的な力の差を見せ付けた上で、大人しく自国に帰るのであれば、殺さない、と。……結局、相手がそれを拒んだため、命を奪うことになりましたが……。それは、彼が人の死を厭う根拠にはなりませんか」

 そうでなくては、逃がすことなどありえない。むしろそれ以外の理由であのようなことを口走ったのであれば、真白が、彼を許せない。

 そんな彼だからこそ、沙那を殺した仇を逃がそうとしたその行為を、飲み下すことができたのだ。

 二人は、暫く黙っていた。驚いているようにも、言われたことを咀嚼しているようにも見えた。

 そして、漸う、

「……なるほど。この戦い……負けるやもしれぬな」

 沈鬱な表情で、そんなことを、呟いた。

 用件はそれだけだったらしい。浅葱は黙りこくり、藤原に、さっさと行け、とおざなりに手を振られた。何となく釈然としない思いを抱きながら講堂を退出すると、

「おう」

「……蘇芳?」

 壁に寄り掛かるようにして、つい先ほどまで食事を共にしていた友人がいた。

 善は、いない。クレナイもいない。一人で来たようだ。どうかしたのか、と目線で問うと、蘇芳は何故か口ごもった。

「……いや、な。ちょいと、話があんねん」

「わたしに? なんだい」

「あー、ここじゃなんやねんけど……せやなあ。ミハシラ様に絶対に聞かれへん場所がええなあ」

 そんな場所、あるのだろうか。あるとすれば女子寮だが、それは蘇芳にも立ち入れない場所だ。逆に蘇芳の部屋はというと、あえてクレナイが来ることはなさそうだが、真白がお邪魔するのが難しい。基本的に異性の寮への立ち入りは厳禁なのだ。

「……絶対に来ない、ということは無いけど、来たらすぐに分かる場所なら、心当たりがあるよ」

「ほんまか? じゃ、そこでお願いしますわ」

 一体どういう用件なのかが気になったけれど、すぐに分かることだ。

 真白はそれよりも、その蘇芳の話というのが、善にも聞かせたくない話なのだろうか、ということだった。

 真白にとって蘇芳は、確かに他と比べればまだ話をする方だった。だが、特別仲がいいというほどではない。基本的に間に善が立って、何となく巻き込まれるようにして話す関係だ。

 蘇芳単独で真白に話とは珍しい。だが、それを率直に言うのは少し憚られた。

 蘇芳の表情が、どことなく、暗かったからだ。

「そういえば、あの藤原に何言われたん?」

 前を気にして歩きながら、横目で蘇芳を窺っていると、不意に蘇芳はニヤッと笑った。真白が藤原嫌いなのを知っていて、からかっているのだ。藤原の顔を思い出すだけで、真白の眉間にしわが寄った。

「ああ、それは…………大したことじゃないよ」

 クレナイのことで、と言おうとして、口を噤む。

 ――大半の生徒は、ミハシラ様のためなら命など、という人々だ。迂闊に、クレナイの性状について話すのは控えた方がいいだろう。

「なんや、気になるなあ。大したことかどうかは、わいが決めるて」

「……君の話が終わった後でなら、いいよ」

「ほー。ま、公平っちゃ公平かあ。けど、そう言ったからには守りや? 後になって、やっぱ無理、とかあかんで」

「分かっているよ……」

 ――真白が会談の場所に選んだのは、食堂だった。

 相変わらず混んでいる。だが、一時間ほど前に比べれば、さほどでもなかった。一つ二つは席が空いている。

 セルフの飲み物だけを持って席につくや否や、蘇芳に思い切りため息をつかれた。

「まさか、食堂たぁな……」

「すぐに分かるだろう?」

「ま、せやけども……まあええわ。別に、他人に聞かれても困る話やないし」

「そうなのかい?」

「何も知らへん有象無象にはな」

 手厳しい。蘇芳には、辛辣な言葉を平然と吐く節がある。それを本人も自覚した上で尚言っているのだから、腹黒、と言われてしまうのも詮無いことだ。

「それでやな」

 ぐいっと煎茶を呷って、蘇芳は本題を切り出した。

「あの人のことやねんけど」

「あの人?」

「赤毛のあの人や、察しぃ」

 赤毛――クレナイのことか。誰にでも適用できる代名詞で言われても困る。

 だが、あえてそのように呼ぶということは、周りに理解されては困る話、なのだろう。今更、食堂を選んだことを後悔した。

「わい、あの人のこと、どうも好きになれんわ」

「……え?」

 無表情に告げられた言葉に、紙コップを運ぶ手が止まる。

 蘇芳は真白と目も合わさぬまま、備え付けのナフキンを取り、何かを折り始めた。

「なんやろな。自分でもよう分からんのやけど……どうも、合わん。善はあの通り、頭お花畑やからな、親しみやすくてええ人や、とか思っとるんやろ」

 善のことをいつものあだ名で呼ばない。蘇芳は真剣なのだと分かった。

 分かった途端、真白の掌が汗ばみ始めた。――何故か、自分が面と向かって、好きじゃない、と言われているみたいだった。

「でも、さっき会って話したばかりじゃないか。決め付けるのは早いよ」

「感覚や。感覚で嫌いや思たらもうどうしようもあらへん。それに、それだけやない」

「それだけじゃない……?」

「……友達の話、したやろ」

「クレ……その人に、友達がいないのはもっともだって話?」

「せや。そんときに、あー無理やわ、て思た。あの人は……口先だけやねん。お前の友達に似とる」

「え?」

 友達、とは、誰のことなのか。だが聞き返す間もなく、蘇芳は言葉を継いだ。

「友達欲しいとか言うとるけど、ホンマはそないなこと思っとらへん。なるほどて言うてても、腹の底では別のこと考えとる。……まあ、それも処世術や。何でもかんでも思たこと出しとったら、それこそアホや。大体わいかてそういうタチやしな。せやけど……」

 きらり、と。蘇芳の目が、重い光を走らせた。

「あの人は、自分自身にも嘘ついとる」

「自分、にも?」

「友達欲しいんは嘘、言うたけどな、それはある意味間違っとる。多分な、友達なんかできるはずない、て思とるんやわ。いや……友達なんかおらん方がええ、やな。それは、わいがあん時言うたことと関係あるやろ」

「対等に付き合える人がいない、だったかな」

「そ。妬み僻み、比類ないわ、わいらただの人間が抱えるもんからしたらな。結局、傷つくだけやねん。あの人も、相手も」

 それだけじゃない、と思う。蘇芳の言うことにも一理あるだろう。だけど。

 クレナイと、人間と。生きる長さは段違いだ。それこそ、喪失に、別離に、傷つくだけ。

 ――恐らく。傷ついてきたのだろう、これまでの生で。

 そう思うと、クレナイの笑顔が、とても哀しくなった。

 あの時。真白が沙那の亡骸を前に呆然としていたとき。自室で悲しみに浸っていたとき。彼は、どんな思いだったのだろう。

「しゃーないと思う。そうやって自分を誤魔化さんと生きてけへんくらいの重荷なんちゃうん? わいはあの人と同じように生きてへんし、これからもできひん。せやから、理解できひんのもしゃーない。この辺りは結局感覚や。慮れるけど、理解も納得もできひん。ただ自分には正直なわいと合わへんかった、そこに誰の落ち度もない。それだけや」

「…………」

「……ま、これも全部推測やけど。なんとなーく、そうちゃうかなって思っただけやし、間違っとったらすまんな」

 蘇芳は、あっさりと深刻な雰囲気を棄てて、軽く笑った。だが、思慮深い蘇芳のことだ。自信を持っていることでなければ、こうして口に出すまい。

 だからこそ、気になったことがあった。

「それで、どうしてそれをわたしに?」

「なんでて、そらあんたが一番あの人のそばにいるからやろ。親切心や。小さな親切、大きなお世話っちゅー奴」

 まあ、と一息、蘇芳は煎茶を一気に飲み干した。

「可哀想、て思うんやったら、あんたが友達になったったらええわ」

「……え?」

 その言葉、ではなく。その口調に、疑問を覚える。

 どうして、突き放すような、傷口にナイフを突き立てるような、冷酷な言い方をするのだろう。

 今まで聞いたこともない苛烈で冷淡な物言いに、あっけにとられる。そんな真白に、蘇芳は皮肉気味に口の端を歪めた。

「言うたやろ。わいはあの人のこと、好きになれんて」

「言った、けど」

「ええ加減理解せえや。貧乏くじ引かされたんやで、あんた。一番死にやすい場所に勝手に置かれたんや。仲良うなんて思いなや」

「それは、違うよ、蘇芳。彼だって言ってくれた。死なせたくない、いっそ逃げて隠れていてくれてもいいって。それに、それくらいわたしだって」

「なんや、弁護しとんのか? 三日も経たんのに、仲のよろしいこって」

「からかわないでくれ! 蘇芳、キミだって、ミハシラのために命を捨てる覚悟なんじゃないのかい? わざわざわたしに取り次ぎを願うほど、会いたがっていたのに。それなのに、貧乏くじだって? 名誉なことだとは思わないのか」

「お前。それ、本気で言うとんのか」

 刹那。温度が、一度下がった気がした。

 蘇芳の鋭い眼光に、思わずひゅっと息を呑む。一変した彼の周りの空気は、まるで肌を切り裂くようだった。

「死が名誉なんてアホらしわ。死んだら元も子もあらへん。英雄やなんやて祭り上げられても、死んだ後のことなんか関係ないわ。……正直な、数十分までお前のこと誇らしいと思っとったわ。それは隠さへん。ミハシラの傍にいてお守りするなんて、なんて栄誉やってな。けど、失望してん、あの人に」

 失望。その二文字が、真白の胸を鈍く貫いた。

「……あんたが部屋出てった後にな、少し話してん。お前のこと」

「え」

「そしたらな、あの人、何て言ったと思う? 生き残れなさそうだよね、やと。なんやそれ。生き残らせるんがあんたの役割なんちゃうんかい!」

 蘇芳が激昂を拳に込めて机に叩きつける。空になった紙コップが浮いて、倒れた。

 周囲が驚いてこちらを窺う。だが、蘇芳がぎろりと睨みを利かせれば、誰もが目を逸らし、元の喧騒が戻った。

「……わいは、繁栄とかどうとか、そんなんに興味ない。ただ、生き残りたいだけなんや。そのために戦う。死ぬなんて御免や。正直、守護者なんてこっちから願い下げや」

 それは、真白も同じだ。だけど、蘇芳の目に宿る苛烈な光に、思わず背筋が寒くなった。

「せやから、わいらを生き残らせてくれる人は素晴らしいと思った。英雄やと思った。……それが、あの体たらく。自分に嘘ついて、周りに嘘ついて。へらへらふらふらしよって。聞いたで? 夏の刺客、逃がそうとしたんやってな」

 講堂での話を聞いていたのか。瞠目する真白に、蘇芳は口の端を歪める。

「わいらにとって、あいつらは敵や。許せへん仇や。それを、逃がすやと? 馬鹿馬鹿しすぎて言葉も出えへんわ。あの人は、結局わいらのことを何とも思っとらん。口では何や言うてても、簡単に切り捨てるに違いないわ」

「それは、」

「違う、てか。お前にあの人の何が分かんねん」

「君だって同じだろう。むしろ、君こそ会ったばかりじゃないか」

「知らんかったか? わいは見限んのが早いねん。大体、お前と一緒にせんといてくれんか。『優しうしてくれたらええ人や』なんて単純な思考は生憎持っとらんねん」

「っ」

 その言葉は、何より胸に刺さった。

 それが真実だったからだ。

「……ま、何だかんだ言うても命の恩人やもんな。最上の”ええ人”や、庇いたくもなるわ。けど、いつか気付くで。所詮、神は神。人間とはちゃうんやってな」

 吐き捨てるように言って、蘇芳は音を立てて立ち上がる。真白の反論は聞かず、食堂を出て行った。

 後に残ったのは、呆然とする真白と、二つの紙コップ。

(簡単に切り捨てる)

 そんなはずはない。だってクレナイは、あんなに哀しそうな顔をしていた。命を粗末にするなと、心から言っていた。

 それを、疑いたくはない。

 ――でも。

「…………」

 真白にも。クレナイが一体何を考えているのか、全く、分からないのだ。

 何が嘘で、何が真実なのか。まるで見当がつかないのだ。

 ……何よりも。蘇芳の激烈で、それでいて冷たい目が、脳裏にこびりついている。

「どうして、上手くいかないんだろう……」

 蜜柑のことも。蘇芳のことも。クレナイの、ことも。

 守護者にさえならなければ、こんなことはなかったんだろうか。こんなに嫌な気持ちになることは、なかったのだろうか。

 その答えは、誰にも分からないものだと、知っているけれど。



 それから二日後のこと。

 夏の国から、宣戦布告がなされた。

 会戦は明日、一二〇〇。境空での空戦から始まる。既に双方配備は済み、規定時刻まで睨みあいが続く。

 夏が得手とするのは陸上での白兵戦。空戦は精々牽制、時間稼ぎに過ぎない。こちらの国に恐らく入り込ませているであろうスパイによる破壊工作、それから自国の戦力を侵入させるか或いは自国に侵入を許すかして、一気に討ち取るのが常道であろう。

 敵を自国に侵入させてしまっては一巻の終わりだ。だから、あえて相手の誘いに乗る。秋の国とて戦いに備え、全国に軍を配備しているのだ。少数のスパイ程度なら、被害もそう大きくはなるまい。

 国内の爆弾にかかずらっているよりも、ミハシラが電光石火で相手国に侵入し、未然に自国の侵入を防ぐ。それが、本日昼のブリーフィングで決定した作戦の概要である。

 或いはこれが冬のミハシラであれば愚考であろうし、夏のミハシラであっても悪手であろう。しかし火を司る秋のミハシラなら――この身ならば。

 機械での戦は、最良のカードである。

「とはいえ、そう簡単にはいかないだろうなあ」

『――……』

「あの国自体が戦闘のプロフェッショナルだから、ボク程度の抑止力が上手く効くかどうか」

 純白のシーツが皺無くセットされたベッドに寝転がり、寝るともなくゴロゴロしていたクレナイが、虚空に向かい呟く。否――花晶と話しているのだ。

 アキは寡黙で、扱いにくい相手ではあるのだが、その実彼乃至彼女にも情というものがあると、クレナイは理解していた。

 彼の沈黙も、存外気に入っている。とはいえ、時には会話を成立させてくれてもよいものだが、とため息をつきたくなる時もある。

 今とてそれ。大抵は、言葉が見つからないのだろうと当たりをつけて諦める。

「彼女からの返書も一切無いし……ちゃんと読んでるのかなあ。届いてるはずなんだけど」

『…………』

「ねー、アキはどう思う?」

 こうして話しかけでもしなければ、滅多に声を掛けてこないのだ。

『……知らぬ』

「どーでもいいならそう言えばいいのに」

『汝次第』

 それはそうだけど、と天井に向かい唇を尖らせた宿主に、アキは、ただし、と言葉の穂を継いだ。

『…………』

「……アキ?」

『……汝は、いずれを選択する』

「はあ?」

 それぎり、アキは口を閉ざし、何も言わなくなった。

 クレナイにしてみれば、珍しくアキが長々と話すかと思いきや、脈絡の無い質問を投げかけられて、意図も不明なまま終わりなのだから、戸惑うのも当然といえば当然である。

 もっとも――今に始まったことではない、とクレナイは頭を振り振り、立ち上がった。気にしても答えはどこからも出ない。忘れた方がましである。

 時刻は午後七時。今頃学生たちは訓練の途中だろうから、腹具合としては少し早いが、食堂が空いている今のうちに夕食をとるべきか。

「んーっ……」

 固まった関節をほぐしつつ、これからの予定を精査する。食事をして、明日に備えて少し体でも動かそうか。いつもどおり書庫に行こうか。あるいは――

「…………まあ、いいか」

 会えばそれで、会わねばそれまで。行き当たりばったりを掲げて、一路食堂へ向かった。

 ――夕日の差し込む校舎はいやに静かだ。それも当たり前、学生たちはグラウンドか体育館で訓練をしているし、であるからには教師もいない。

 あるのはただ、生死。生への欲望と死への反抗、そんな残留概念だけではない。生けるものの強い軌跡と、死んでいったものの残した死跡が、襲撃で綻び始めた学び舎のそこかしこに見られる。

 たかが数日で色褪せることなく、赤光に浮き立たされる死、消去、喪失。

 かつて共に生きていた友のそれらに見て見ぬふりをして、学生たちは、教師たちは、ただ輝かしい勝利だけを目指している。

 それが、クレナイには、なんとも哀れであり――

「……っ」

 本能より深く根ざした何かが警鐘を鳴らす。苦しみさえ伴う情動に、鼓動が乱れる。半ば無意識に、心なしか歩を速めて、逃げるように角を曲がった。

「、わっ」

「おっと」

 曲がった先にいた誰かと正面から衝突する。勢いを殺しきれず、突き飛ばす形になってしまった相手を慌てて抱きとめた。大丈夫か、と言いかけたところで、見覚えのあるその怜悧な顔に目が止まる。

「これはこれは、ミハシラ殿。ご丁寧に、どうも」

「キミは……ええと、遅刻してきた人だよね、会議に」

「ははは。これはまた随分な覚え方をされてしまった」

 寝起きのような気だるそうな表情で、その女性は笹緒と名乗る。笹緒は不意にクレナイの双眸をじっと見つめて、ふむ、と一つ頷いた。

「やはりな」

「え?」

「いや、気になさるな。こちらの事情ゆえ」

「はあ……まあ、いいけど。それより、そろそろ解放させてもらってもいいのかな」

「む。これは失礼した。殿方の腕に寄り掛かるなど滅多にあることではないゆえ、少々名残を惜しんでしまいました」

 変な人だ。それが、クレナイが彼女に抱いた第二印象であった。

 笹緒は背中を支えていたクレナイの腕から起き上がり、数歩分後退する。そうして徐に白衣からタバコを取り出し、火をつけないままくわえた。

 双方歩き出さない。クレナイには、何となくだが、彼女が何かを話し出すような予感があったからだ。

「それにしても、何やら懊悩がおありか」

「――――」

 相変わらず気だるそうに、しかし鋭く虚を突かれ、思わず黙る。刹那、表情が抜け落ちるのが自分でも分かった。それから、ふ、といつもどおりの笑みを浮かべてみせた。

「明日のことが少し、ね」

「ほう? ミハシラ様でも緊張されると」

「そりゃーね、ボクだってラグナロクは初めてだもん。国民の皆の大事な命も掛かってるし」

「これは失礼。お優しいのですな」

 ――いつもならば、ありがとうの一言で済ませた応えだろう。だが、知らず口が声を発していた。

「それは、どうかな」

 それはきっと、

「と、言いますと」

 彼女のその反応が、真実クレナイが求めたものであって、

「当たり前の感情じゃない? それが一体、博愛か利己かそれとも別の何かに根ざすものであったとしても」

 同時に、業腹であったからだろう。

「さて――では、貴方のそれの根源には何があるので?」

「……さあ。何だろうね。もしかしたら、ボクはすっかりこの国の神にでもなったつもりなのかもしれないな」

「神ではないですか」

「違うよ。……違う」

 強く首を振るクレナイに、笹緒はすっと片目を眇めて――「これから町に下りるのですが、ご一緒に、如何かな」と感情の読めない笑みで言った。

 ――思えば、今回、学院の外に出たのは初めてだ。

 それも道理だ。ラグナロクが始まっている以上、ミハシラが町に下りてすることなど何も無い。少なくとも、国家の考えでは、だが。

 もっともクレナイとしても、興味はあれ、そこまで強いものでもなかった。今は戦時。かつて、国内での戦争が頻発していた時代に見てきたものと同じように、閑散として、いかにも悲壮な雰囲気が漂う町に下りても、気が滅入るだけだ。そう、思っていたのだが――。

「戦時中とは思えない繁盛ぶりでしょう」

「うん……なんていうか、楽しくなる場所だね」

 それなりに賑わっている商店街を眺めて、クレナイはほうと息をついた。

 左右に連なる店。扱う品物は様々で、護身用と思われるナイフや小銃があれば、青果店があり、書店やカフェにアクセサリーショップと、極彩色にも程がある。およそ”戦争”という重苦しく凝った二文字とは何の関係もない、そこはある種異世界のようでもあった。

 金属は兵器の鋳造のため徴収される。食物は持久戦に備えて節約・備蓄される。国民の意識を統制するために、娯楽は排除され、町で流れる音といえばラジオからの「臣民の心得」やら「戦勝宣言」やら面白みも何も無い洗脳のメロディばかり。そんな戦争の無機質さと異様さと、滑稽な熱気が、ここにはまるで無かった。

 人々の足音や声が織り成す喧騒が、軽快なミュージックのようだ。

「こんなに陽気でいいのかな。資源は節約しないとじゃない?」

「蓄えはあるのでしょう。我らがミハシラ殿に敗北はないという信頼の証でもあるのでは?」

「……重いなあ、それ」

「まあ、これからの戦況次第でしょうな。浮かれていられるのも今の内、緒戦だからこそです」

「ふうん。行き当たりばったりだね」

「武器は鉄や鉛、火薬ではなく、貴方ですから」

「上手く扱えるといいね」

 辛辣な言葉を吐きながらも、風貌を隠すパーカーのフードからきょろきょろと目を覗かせるクレナイの足取りは徐々に軽くなっていく、その口元は知らず緩んでいた。

「あ、ねえ、あれ何?」

「あれは……カメラです。写真が撮れる」

「簡潔な説明ありがとう。でも、ボクが知ってるのよりだいぶ小さいね。なんていうか、どっちかっていうと、小型爆弾みたいだよ」

「そんな形容は初めて聞いたな……ちなみに貴方が知っているというのは、布を被せるアレですか」

「そうそう。これ、どういう仕組みになってるの? こんな小さいのに、風景を焼き付けられるなんて」

「その辺はカメラ屋に訊いてください。専門外だ」

「キミって理系の教授だよね?」

「それとこれとは全くいささかもこれっぽっちも何の関係も無いので誤解なきように。餅は餅屋、カメラはカメラ屋。教授に訊くもんじゃありませんよ」

「ふーん……」

 笹緒の不平を適当に聞き流し、クレナイは陳列されたカメラを一つ手に取った。色んな角度からためつすがめつ、押せそうなところや取れそうなところを片っ端から押したり引っ張ったりしている。奇天烈な会話をしていた二人の様子を見ていた店主が、不安そうな顔をしている。適当な返事すら適当に流した笹緒も、さすがに見かねて、カメラを取り上げた。

「あー」

「壊さんでくださいよ、売り物なんですから。そうだな……一枚撮ったら気が済むでしょう」

「えっいいの?」

「ただしそんな高いもんは買いませんよ、使い道ないんで。このインスタントで充分です。店主、これよろしく」

「カメラのインスタント……?」

 インスタントカメラを購入した笹緒は、言葉の意味が分からず首を傾げるクレナイにレンズを向ける。使い方が分かっていなくても、意図は伝わったのだろう。クレナイは何故か直立し、呼吸ごと動きを止めた。

「はい、ちーず」

「わっ?」

「あ、フラッシュ焚いちった」

「な、何今の。光ったよね。っていうか、動いても大丈夫なの?」

「大丈夫なんですよ、これがね、何でかね」

「うわあ、説明するのが面倒だって思いっきり顔に書いてあるー」

 突然の白光に目をぱちぱちとしばたたかせるクレナイに、笹緒はカメラを差し出す。反射的に受け取ってから、クレナイは意図を窺うようにその怜悧な相貌を見た。

「それで好きなもん撮ってくださいよ。そこのボタン押せば撮れます」

「でも」

「別に安物ですしね。ああ、残り枚数はそこに書いてあるとおり。現像するときはここに来ればやってもらえます」

「ん……なんか、下手な事すると大変そうだし、ボクには無理だよ」

「精密機械じゃあるまいし、そんなに構えることはないが……、まあ、真白に訊いてくださいよ、貴方の守護者なんでしょう」

「あー……」

 面倒くさそうに提案する笹緒に、クレナイは目を泳がせた。そしてすぐに、そうするね、と笑みを浮かべる。

 最近、真白とろくに話していない。藤原氏の元から戻ってきた彼女が酷く沈鬱な面持ちだったが、事情を話そうとはしなかったので、自分とのことで何か言われたのだろうと思った。それで、距離を置く事にしたのだ。

 彼女が、謂れも無い中傷を受ける必要はない。責めを受けるべきは自分だ。

 それに――これで彼女が自分に積極的に関わろうとしなくなるなら、それはそれで良いことと言えた。

 何もしなくていい。死ぬ必要はない。隠れていればいい。

 生きていれば、それでいい。

 仮に彼女が、友人の仇をこの手でと思っているにしても――それならそれで、あえて自分に関わる必要もないのだ。兵である以上、その機会はいずれやって来る。逃がすか逃がさないかの違いに過ぎない。

 さてこのカメラ、如何したものか。手の中でもてあそびつつ、先に立って歩き出した笹緒に続く。

 次に立ち止まったのは、アクセサリーショップだった。いや、一口にアクセサリーというには、棚に並ぶそれらはクレナイの知るものとは異なっていた。

 ネックレスやブレスレットやピアス、イヤリング。如何に古い人間とはいえ、それくらいは知っているし、大抵が金属で出来ているものとも知っている。けれどクレナイの前にあるのは、色とりどりの紐を編んだ、どこかに結びつけるのだろうということしか知れない帯状の何かだった。

「おや。ミサンガに興味がおありで?」

「みさんが?」

「ご存知ないか。まあ、一種のアクセサリーです。大体、手首や足首につける。学生には人気ですね。男性がつけることもあります」

「ふうん? まあ、チタンやプラスチックで出来てるのよりは、素朴でいいのかもね」

 一本手にとって見る。それは紐だけでなく、ビーズを編みこんであった。下手にきらびやかなものを買うより手ごろだし、どこかにぶつけて傷つけてしまうこともなさそうだ。持っていたそれを戻して、特段興味もなく眺めているクレナイに、笹緒はそっけなく言葉を添えた。

「ある種、願掛けのようなものでもあります」

「願掛け」

「ミサンガが切れると願いが叶う、と」

「ロマンチックだね。花占いと同レベルの安っぽい気休めだけど」

「まあそう言わんでやってくださいよ。人間、何かしら希望がなければ生きていけぬ脆い存在なもので」

 それから笹緒は、クレナイを次々と色んな商店にいざなう。何を買うでもない。店員と話すでもない。ただただ巡る。そのうちに、クレナイにも彼女の意図するところが読めてきた。

「ねえ、笹緒さん?」

「なにか」

「ボク、そろそろ飽きたな」

「……では、ここらでお開きにしますか」

 言いつつ、笹緒は白衣を翻して、学院とは反対の方向へと歩いていく。クレナイは黙ってついていき、やがて一本の路地へと入った。

「ここは?」

「なに、ちょっとした通り道です。猫でも知らない」

「……いるけどね、そこに」

 ポリバケツの上で呑気に欠伸する猫の傍らを通り抜け、次第次第に細くうねっていく路地を歩く。すっかり喧騒は遠ざかり、名残を惜しむように振り向くクレナイを、笹緒が急かす。

 何匹もの野良猫との邂逅の末、路地を抜けた先は、

「……住宅街?」

 打って変わって静かな風景だった。質素な造りの家々が軒を連ね、時折生活の音が響いてくる以外、静寂が辺りを支配していた。

 平生を過ごす学院のそれとは違う。微かな物音も貫きそうな静けさではなく、人間が自らの発する音を吸収していく閑かさ。それは決して居心地の悪いものではなく、しかし尚一層の孤独を自覚させるものだった。

 すらりと伸びた白衣の背を見つめるクレナイに、笹緒はふと立ち止まって、少しだけタバコの先を動かした。火をつけてやると、美味そうに煙を吸って、さて、と吐き出した。

「これらは、貴方の言う、守りたいものの一部だ」

 唐突に、過ぎた。前置きなく放り投げられた言葉に、クレナイは寸の間思考が止まり、一回半めぐらせる。

「……素直に頷きがたい言い方だね、それ」

「なんとなく、ね。貴方の言には、二層以上ある気がして」

「…………二層?」

 紫煙を絡めた返事に、クレナイは僅かに訝しむように眉根を寄せた。

 守りたいと思う気持ちに嘘偽りはない。守りたいからこそ、武器を手に立っている。その意志が、二つ重なってできたものだと言う。

 その言葉の意味を、クレナイは判じ得なかった。

 クレナイ自身が”それ”に気付いていないとは思っていなかった笹緒は、おや、と目をしばたたかせた。

「ふむ。私の目も衰えたかな」

「…………どういう意味だったのか、訊いてもいいのかな」

「いや、なに。貴方の『守りたい』とは何に端を発する言葉なのかとね、――――」

 ふ、と、言葉を途切れさせた笹緒の黒目が空を射抜く。対するクレナイは、先ほど通ってきた路地に意識の針を向けていた。

 そして、どちらからともなく、鋭い視線を収めた。

「ボクの純粋な感情から、とは?」

「その感情とは、直截なものでいいのでしょうか」

「……ただ理解できないだけだよ。自分であれ他人であれ、命を失うことを恐れないことが。その理由を説明するとなると、心理学とか社会学とか難しい事になりそうだし、ボクには無理なんだけど」

「いいや――」笹緒はふるっと小さく首を振り、微かに口端を上げてみせた。「充分ですよ。……すみませんな、色々と失礼なことを」

「アハハ、気にしないで。キミくらい正直で直接的な方が好きだよ」

「これは光栄だ。河合に自慢しよう」

 クレナイがフードを取り、その赤毛を日に晒す。

「ちなみに、なんて?」

 笹緒はタバコを握りつぶし、コキコキと首を鳴らした。

「ミハシラ殿に褒められた、正直は美徳だ、と――ね!」

 卒然、二人は走り出す。閑静な住宅街を、音もなく疾走し、まっすぐに――目的に適した場所へ向かう。

 その二人を追う、黒い影が、六つ。およそ考えられないようなスピードで、入り組んだ路地や家々の屋根を駆けていく。

「意外に、足速いんだね」

「デスクワークだから、なまってはいるが、これでも運動は――」

 T字路に差し掛かったところを、クレナイが先行して突き当たりの壁の前に跪く。その背を踏み台にして、笹緒が壁に飛び乗った。

 上から差し出された手に苦笑だけを乗せ、クレナイは助走もなく一跳びでその隣に到達する。二人で異色の笑みを交し合い、同時につま先を離した。

 屋根から屋根へと飛び移っていく。靴の下で人々が平和に幸せに過ごしているのだと思うと、早々に辿り着かなければと気が逸る。が、それは得策ではない。努めて一定のスピードを保つ。

「得意ではあるんだが、さすがに、あなたほど人外じみてはいませんね」

「アハハ、一応人外に分類されるしねー」

「しかし、運動能力も向上するもので?」

「んー、通力を応用すればね。もっともボクはほとんど、」

 進む先には、大きな空白。次の屋根まで、さすがに飛び越せる距離ではない。

 一度地面に下りて、と考える笹緒の腰を前触れなく抱き寄せ、クレナイは強く屋根を蹴り飛ばした。

「――――――《神いざなう紅炎の階ビフレスト》」

 それは合言葉。全身に満ちる赤の力を、花晶の記憶に照らし、自らの思うままに具現するトリガー――――!

 寄る辺をなくしたクレナイの足の下で、炎の通力が爆発し、その体を前へと押し出す。音速を超えた推進は、あっという間に二人を次の足場へといざなった。

 足を付けるや否や、クレナイはすぐに次へと跳躍する。「走る」というインターバルを無くした分、速度は先と比べるまでもなく向上した。

 ちら、と笹緒は背後を見やる。追ってくる影は、随分と遠ざかっていた。

「なんて言うのかな、昔取った杵柄? ま、さっきのはそれこそ能力だけど」

「これも、ですか」

「これはちょっとズルしてる」

 悪戯っぽくクレナイは笑う。

「しかし、随分引き離していますが、よろしいので?」

「大丈夫、ちゃんと追ってきてるから。ここで見せ付けておいた方がいい――それに、誘き寄せてるってはっきり感づかれちゃうのもね」

「……なるほど」

 黙然と頷いた笹緒は、自らもクレナイの腰に手を回して安定を図る。クレナイは一瞬苦笑を翻し、また一段階ギアを上げた。



 破裂音が響くのとほぼ同時に、狙い通りの位置に穴が開く。

 心臓を射抜かれた人型の板が倒れ伏すのを見届けて、真白は銃口を下げた。

 射撃台の向こう側には同じように急所を一発の弾丸で射抜かれた人型がいくつも倒れている。全て真白が撃ったものだ。

「――――……」

 真白の運動能力は、学院の中でも良い方だ。座学が少々弱いだけで、戦闘機や兵器の扱いもそこそこ上手い。

 中でも得意なのは、銃器の扱いだ。特に心得があったわけではないが、恐らくは才能と呼べるものであり、上手く扱えれば好きにもなる。興味のないことはからきしダメな真白は、好きなことはとことん極めるタイプの人種なのだ。

 圧倒的に強いクレナイの役に立つには、これしかない。そう思い定めた真白は、守護者になってから一層自主訓練に励むようになった。

 傍らに置いてあった水筒から、一口、水を含む。ついでに時計を見やると、針は午後十時前を指していた。

 食事はまだとっていない。今なら、食堂の席も一つ二つは空いているだろう。空腹を自覚した途端、思い出したように腹の虫が鳴いた。現金な自分の腹に苦笑を翻し、真白は数分で片付けを終らせ、学院地下の射撃場を後にした。

 パラパラと、学院を出て寮へ向かう生徒が見える。その中には、見知った顔もちらほらいて、

「…………」

 言葉を交わすことなくすれ違う。

 あれ以来、蜜柑とも、蘇芳ともまともに話していない。蘇芳とは、真白の方が気まずくて声を掛けづらいのだ。もとより、間に善がいなければ積極的に会話する方ではなかったから、言ってしまえば平生に戻ったということなのかもしれない。けれど、蜜柑には、避けられている気がする。

 いやに眩しい夕日から目を背け、密かにため息をついたとき、ここ数日で聞きなれた声が、耳に飛び込んできた。

「はー、それにしても、キミって意外と強いんだね! びっくりしたよ」

「これでもここの首席卒業者なもので。私こそ、貴方の強さがここまでとは思いませんでしたよ」

「じゃあなかったらボクの存在意義の崩壊でしょ。ん? これ前にも言ったかな」

「私は初耳ですな。それもまた真理ではあろうが、自身で言うべきものではありますまい」

「領分をわきまえるのは大事だって持論なんだけど、ありがと」

 クレナイと、笹緒だ。いつもどおりけだるげな笹緒は、いつにも増してくたびれているようにも見える。相変わらず快活なクレナイとの対比のせいだろうか。

 珍しい組み合わせに、真白は思わず立ち止まった。少なくとも、今までに二人でいるところを見たことがない。それもそのはず、教員のほとんどは自分の研究にしか興味がない人種だから、あえて話しかけることもないし、双方のスケジュールとしてもその機会がない。そういう意味での稀有に、真白は言葉を失くした。

 けれど、何より。黄昏の光に照らされて談笑する二人の姿は、酷くしっくりと来ていた。

 この情動を何と示そう。まるで一つの絵画のような。決して届かぬ別世界のような。真白は素直に、感動していた。

 日時も行き先も忘れて見入っていると、視線を感じたらしく首を巡らせたクレナイと、目が合ってしまった。その瞬間に、彼我共に現実という同次元に足を着けた。

「あ、真白ちゃん。訓練終わったのー?」

「……あ、うん」

 ぱたぱたと駆け寄ってくるクレナイは、さっきまでの神々しさや耽美さとはかけはなれている。その後にゆっくりと続く笹緒も同様で、全身から倦怠感を漂わせていた。

 よく見ると、クレナイの格好は平生と異なっている。金属の腕を悠々と覆い隠す、だぼっとしたパーカーと、末広がりのジーパン。どこにでも売っている、それこそ普通の人間の格好だ。燃えたつ赤毛をフードで隠してしまえば、あっという間に市井に溶け込んでしまうだろう。

 だからこその絵画性だったのかもしれない。いつもの格好だったら彼だけが夕闇に浮き上がってしまう。

 自分の格好をしげしげと眺められて、クレナイは何か変だろうかと首を傾げる。笹緒はその隣で、すん、と鼻を動かした。

「……地下で銃の訓練でもしていたか?」

「えっ。わ、わかりますか」

「火薬の匂いがね」

 すんすんと鼻腔を開閉する笹緒に、さすが化学教師、とクレナイが野次を飛ばす。それだけでもないさと笹緒は肩をすくめてみせた。

「真白は銃の扱いが上手いからな」

「知ってた、んですか」

「定期試験で毎度百ポイント近く取るような生徒は、君くらいだからな。名前だけは知っていた」

「へえー。すごいじゃん、真白ちゃん」

「……あ、えと……」

 褒められ慣れていないのも問題だ。二の句が継げなくて俯いた真白の頭に、クレナイの柔らかい手がぽんと置かれる。

「頼もしいよ」

「……それは、よかった」

 すうっと、こそばゆかった喜びが頭から冷めていく。――頼りになどされていない、それは彼から再三示されていること。

 嘘。嘘だ。蘇芳の言葉が頭蓋に響く。

 確かめるようにクレナイの目を覗く。その蒼の瞳は、あの聖池のように透き通っていて――何も見えなかった。

 けれど。だから、なんだというのだろう。そんなのは、今更だった。誰の目を見たって、真白には、何も見えはしなかったのだ。

 なら。同じだ、今までと。

「……わたしは、わたしなりにクレナイの役に立つから」

「え?」

「絶対足手まといにはならない。それだけは、約束する」

 それはある種の暗示だった。自分自身に言い聞かせていた。

 クレナイからの申し出で距離を置いて、分かったことがある。確実に、紛れも無く、誰に何と言われようとも、自分はクレナイの役に立ちたい、彼の友になりたいと思っているのだと。

 求められるのを待っているのではだめだ。

 前に進まなければ。いつまでも冷淡に尻込みしていてはいけない。決めたのだ、支えると。ならば、実力で有用性を示すしかない。隣とはいかなくとも三歩後ろにはついていけると、この手で認めさせるしかないのだ。

 読めない心ならば、読もうと努力しなければ。最初からあきらめていたのでは、何にもならない。

 この前向きさは、紛れもなく真白の美徳だった。

「……真白ちゃん」

 そのひたむきな目に、クレナイは、ふっと瞳を揺らめかせた。何かを言おうと唇を動かしたとき、

「――ミハシラ殿」

 不意に笹緒が口を開いて、クレナイは声を仕舞う。窺うように向けられた視線に、笹緒は相変わらず気だるげな、感情の読めない目を夕日に細めた。

「世の中、そう単純な人間ばかりではない」

「……?」

「ところがここにいる真白というのは、何故だか異様に単純でね。それが美徳ではあるんだが……」そこで笹緒はちらっと真白に目を飛ばした。「与えられた役目には全力を尽くす。一度支えようと思った相手には何が何でも手を伸ばす。……反面、相手から不要と言われてしまえば、瞬く間にその立ち処を失くす」

 笹緒は、真白の弁護をしている。そう気が付いて、真白はいたたまれなくなった。

 自分を誰かに語られるのは気恥ずかしいものだ。だがそれ以上に、心配を掛けていたということ、今こうして手を煩わせているということが、申し訳なかった。

 黙って耳を傾けているクレナイは、ただ真摯に言葉を待っていた。

「分かりますかな。貴方に欲しいと望まれ、彼女は――大事な親友を亡くした彼女は、恩人である貴方から授けられたその役目を支えに立ち上がったのですよ。そして、貴方から突き放され、それでも尚こうして認められようと努力している。実に愛らしいではないですか」

「…………」

「私はこれでも教師の端くれでね。自分の生徒には一定の情も持つ。……せめて、貴方の心の内をもう少し素直に話されては如何かな。でなければ、納得もできますまい。ただ傷つくだけだ」

 そこで一息つき、老婆心ですが、と笹緒は口を噤んだ。

 沈黙が落ちる。ひゅう、と冷たい風が通り抜けた。

「……ボクは」

 クレナイが口を開くまで、一体どれだけ経ったろう。周りにはすっかり人がいなくなっていた。

 陰が瞳に落ちて、伏せられたクレナイの青い目は紫に見えた。

「ボクのせいで、死んで欲しくないだけだよ…………誰にも」

「わたしだって、死ぬつもりはないよ。だからこそ、こうして訓練してる」

 その瞬間。今まで見たことのない、卑屈な笑みがクレナイの口元を歪めた。

「…………あんなお遊びみたいな訓練で?」

「っ」

「相手を害する気の無い組み手。ただ機械を動かすだけの飛行訓練。意志を持って動くわけでもない的を撃つ射撃。それで戦争する? 殺し合う? 笑わせるよ。実際の戦争を知らない子どもの幼稚な理論だね。訓練が無用とは言わないよ。基礎を築くのは重要だからね。だけど有用ではないな、あれでは。今はもう基礎を学んでる状況じゃない。第一――――誰かを殺すってこと、キミたちはホントに理解してるの?」

 夕日を背に。吹きすさぶ風に髪を遊ばせ。

 陰を纏って滔々と声を紡ぐクレナイは。

 真白の知る彼とは、まるで、別人のようだった。

「キミたちは――キミはつい最近、殺し合いを目の当たりにしたよね。それで? 今のキミが、一体どれほどの訓練を積んだら、あれを生き延びられるって計算してる?」

「…………それは」

「水に入った事の無い子どもが、ベッドの上でのみ泳ぎの訓練を受けて、いざ入水した時に本当に泳げるのか。実際に問題を解いたことのない学生が、公式だけを与えられて、実際に内角を割り出すことができるのか。そりゃ勿論、時間を掛ければできるだろう。少し体を休めて、じっくり学んだことを反芻すればいい。けど、じゃあいざ戦いの場になって、そんな余裕があるのか? 答えは否だね。よほどその方面に才能があるか、イメージトレーニングをそのまま活かせるほど冷静でいられるかすれば分からないけど、果たしてそんな人がどれだけいるんだろう?」

 ――――血まみれで倒れていた、クラスメートたち。

 死を目前にして、悲鳴を上げることもできなかった人々。

 平生、授業の一環として受けていた訓練は、何の役にも立たなかった。なす術もなく殺された。

 真白だって、クレナイがいなければ死んでいた。あの太刀に切り裂かれて、沙那と一緒に冷たい死体となっただろう。

 それから数日。付け焼刃の訓練が、一体、彼らミハシラの人外の戦いにどれだけ貢献できるというのか。戦闘に特化した夏の戦士や精通した技師による冬の機械兵器に、対抗し得るのか。

 まして。ミハシラの守護者と、真白がまともに戦えるのか。

 足手まといにはなりたくない。支えたい。そんな思いを抱いたとて、現実はずっと淡白だ。クレナイは真っ向からその現実を見据え、答えを出していた。ただ、真白が、不恰好な意地でしがみつきたがったに過ぎない。

 返す言葉もなく、思考さえ白化する真白に、ふとクレナイは語調を和らげた。

「……滅多なことが無い限り、学生の皆が出兵することは無いよ。ボクがさせない。だけど、キミは違う。守護者だ。確かに、ボクが選んだ。身勝手だとは承知しているよ、でも、死ぬ可能性の方が高いんだ。ボクはミハシラだから、敵のミハシラと直接対決する。当然あっちの守護者も出てくるだろう。キミは知ってるよね、夏の守護者」

「……うん。とても……とても、強かった」

「そう。この国に、彼女と対抗できる人材がいるかどうかも怪しいところだ。つまり、二対一。正直に言わせて貰うけど、足手まといを抱えて勝ち抜けるほど、“これ”は甘くない。努力は認める、想いだって勿論。でも、キミも現実を認めてほしいな」

 どんな努力も、一朝一夕のそれでは、太刀打ちできない。

 圧倒的な、経験の差。ほんの少し前までただの学生だった真白と、彼女は、彼は、別次元だ。

「ボクは最初にキミに提示したはずだ。戦うことも、守ることも、死ぬこともキミに求めてない。隠れて、逃げて、自分の命を守ってほしい。ボクが言いたいのは、キミに求めているのはそれだけ。それがキミの信念に反するというのなら、ボクはいくらでもズルくなるよ」

 不意にクレナイが瞼を下ろす。一拍置いて再び姿を現した双眸は、冴え冴えと、蒼く光っていた。

「――これは命令だ。守護者・真白。如何なる場合も、自らの生命、身体を維持することにのみ尽力せよ。その目的に関わらない行為は一切許さない」

「っ」

 心臓を、鈍い刀で突かれるような衝撃が襲った。

 冷ややかに響き渡った声。静かなのに力を持ったそれは、大気を震わせ遥かに波及する。頭蓋を脳まで揺らした「命令」が、真白の手足を物理的に拘束したかのような錯覚に襲われた。

 放たれた玲瓏なる威圧に、足が震えだす。それは恐怖からではない。畏怖だ。もはや、立っているのがやっとだった。

 クレナイが一つ瞬くと、周囲がわっと騒がしくなる。そこで初めて、彼の声が耳鳴りを起こしたかのように、聞く者の耳に無音を強いていたのだと気が付いた。

(神は神。人間とは違う)

 それは蘇芳の言葉。

(この戦い……負けるやもしれぬな)

 それは浅葱の言葉。

(絆を結んだ相手は自分を待たずに老いて、死んでいく。なんて孤独だろうな)

 それは笹緒の言葉。

(仲良く、なりたい)

 これは、自分の、気持ち。

 抱いてはいけない、気持ちだったのだろうか。

 神相手に。人間風情が。

(死んで欲しくないだけ)

 それはきっと紛れもなく、クレナイの本心なのに。

 どうしてだろう。その切なる思いの奥底に、重く凝った何かがあるような気がしてならない。

 真白はその命令に、肯うことも、抗うことも、どうしても、できなかった。

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