第8話 一段落
さわやかな日差し、少し気温は高いがじめじめしておらず、空のてっぺんには太陽が輝いている。まさに青天と言うべき気候。この天気を見れば十人中十人が出かけたくなるだろう。
事実、とある病院に入院している少年も今すぐにでも出かけたかった。
もっともこの少年の場合、この天気だから出かけたいというよりも、この病院から抜け出したい、という気持ちの方が強いのだが。
そう、少年の名前は橘時雨。
先日の死闘の末、なんとか自分の大切なものを取り戻したはいいが、身体中にいくつもの怪我をしており、否応なく入院と相成った。幸い命に別状はなかったものの、骨折や筋肉の断裂など、動くこともままならない怪我をいくつもしていた。もっとも、それ以上に時雨の胸にある心臓――魔石――の手術後の経過観察という意味合いも多分に含んでいるのだが。
(やばい、暇だ。暇すぎる。どうしよう……死ぬぞ、まじで死ぬぞ、全人類で初めて暇で死んだ男になってしまうかもしれない)
時雨は病室で一人、心の中で叫んだ。
もちろん、心の叫びなので誰ひとりとしても反応はしてくれない。
今、病室には時雨以外誰もいなかった。先ほどまでセルルと夏目がいたのだが、時雨の着替えや私物を取りに行くためにマンションへと一旦戻っていた。
セルルは事件以来、元は時雨の心臓として機能していた精霊石を、ネックレスにして自分の首に下げている。精霊石を自分で管理できるならば何の危険もない。ただ、以前のように自由に霊体化は出来なくなってしまった。もしセルルが霊体化すればそこには動かない精霊石だけがが残ってしまう。以前のように精霊石は時雨の中にあるわけではないのだ。
(まぁ……あれなら一応安心かな)
再び時雨が心の中で呟くと、まるで時雨の退屈を察したかのように病室のドアが開いた。
「暇そうね、時雨」
長い金髪のストレートヘアーに少し釣り上がった目。胸に大きめのペンダントをし、まるで挑発しているかのような声色。
時雨は顔を見ずとも、声だけで誰が来たのかを理解した。
「なんだよ? 花恋。冷やかしなら受け付けてないぞ?」
入ってきたのは三咲花恋だった。
「あら、冷やかしなんて失礼ね? いったい誰がそんなことをするのかしら?」
「お前しかいないだろうが」
小悪魔な笑みを浮かべてけらけらと笑う花恋。
「で、なんか用か? おまえ一人で来るなんて珍しいじゃないか」
「わたしだって、自分の好きな人と二人きりになりたいのよ。一人で来てはいけないのかしら?」
「はいはい。冗談はいいから。で? なんか話でもあるんだろ?」
花恋自身としてはあながち冗談ではなかったりするのだが、時雨はそんなことはまったく知らない。
「話があるのは事実だけれど、つれないのね。あなたのために体を張ったっていうのに」
「おい、その言い方はやめろ。なんかいかがわしい匂いがする」
「あら誰もそんなことは言ってないわよ? 病院の禁欲生活のせいでいろいろ妄想が止まらないのかしら?」
「おまえなぁ……いったい俺をなんだと思っているんだよ。まぁいいや、俺も話したかったしな」
そう言って時雨が花恋へと真剣な表情で向き直った。
「ずっとちゃんと言わないといけないと思っていたんだ。ありがとう。俺が今の生活に戻れたのはお前のおかげだ。お前がいなければ俺は今頃セルルのそばにはいられなかった。本当に感謝してる」
「べ、別に、あんたのためにやったわけじゃない。わたしが納得いかなかっただけよ。それだけ、ほんとにそれだけだから。それに……」
花恋が少し間をおいて、小さく息を吸う。
「……お礼を言うのはわたしの方だわ」
時雨は怪訝な表情で花恋を見る。花恋に礼を言われるようなことをした覚えがなかったのだ。
「あんたはわたしが無茶なケンカを吹っ掛けたのに、ちゃんと相手をしてくれた。
言葉通り、全部受け止めてくれた。だからわたしはここにいられる。今を幸せだって、そう思うことが出来る――」
花恋は顔を真っ赤にして、俯きながら、時雨へちらちらと視線を向ける。
「――だから、その、ありがとう……。こ、これからも、よろしく……」
ゆっくりと時雨へ右手を差し出す花恋。時雨はがっちりと自分の左手でそれを受け止める。
「ああ、よろしくな」
ガラガラ~ッ! と、突如として病室のドアが開いた。
「あ~ッ! 時雨と毒女がいちゃいちゃしてるッ! わたしの時雨から離れろ毒女ッ!」
「な、なん、だと……? 時雨、お前はセーちゃんというものがありながら……ッ!」
「だ、誰が毒女よッ! あんたにだけは言われたくないわッ!」
「これは違うって! 変な勘違いすんなバカッ!」
病室に入ってきたのは双子、蓮見秀と涼だった。入ってくるなり盛大な勘違いをしているが、二人から見れば病室で二人きりの男女が手をにぎりあっているのだからそう見えても仕方ないだろう。
「で、なんでもないなら早くその手を話したらどうだね? 時雨君」
時雨と花恋は、秀に言われて初めて気付いた。秀と涼に反論している間も手を繋いだままだったのだ。
急いで手を離す二人。
「「あ~や~し~い~」」
「怪しくないわよッ! 全然、まったくもって怪しくないわッ!」
声をそろえる双子に対し、懸命に反論を試みる花恋。
「ま、いーや。わたしも時雨と手を繋ごうっと。それッ、ぎゅ。左手が花恋のなら、右手はわたしのね」
涼が時雨の右手を握る。
「じゃ、じゃあ、俺は時雨の右足を」
右足を掴む秀。
「…………」
何も言わずに花恋が再び時雨の左手を掴む。
「あの………………うっとおしいんですけど、離れてくれませんか?」
このうっとおしさは時雨の大切な『日常』だった。
† †
「はぁ~まったく。疲れるわ。あの双子はなんであんなに元気なのかしら。他人から元気を吸い取る秘術でも使っているのかと思うわ」
病院の庭、ベンチに座り込んで大きくのびをする花恋。
「ふふっ、花恋にそこまで言わせるってことはよっぽどなのね、その子たち」
花恋の言葉に答えたのは銀色の長髪を持つ長身の美女精霊――ネフリー。
「よっぽども、よっぽど。これ以上一緒にいたら疲れて死んでしまうわ」
「でも、一緒にいたい、でしょ?」
まるですべてを見透かしたかのように笑いながら、花恋を見るネフリー。
「う、う、うん」
「ふふっ、素直でよろしい。やっと、今の自分を好きになれたんだね、花恋」
ネフリーの言葉に対し、花恋は真剣な表情で応じる。
「……どうかな。よくわからないわ。今の自分が好きかって聞かれたらわからないって答えるけど、昔の自分と今の自分、どちらが好きかって聞かれたら間違いなく今の自分を選ぶわね。ま、ただ腑抜けただけなのかもしれないけどね」
「そんなことない。腑抜けた、なんて悲しいこと言っちゃダメよ。花恋は今いる場所を守るために闘ったじゃない。腑抜けていたならそんなこと出来ないよ。だから、そんなこと言ったらダメ。あなたはきっと強くなったんだよ花恋」
「強くなった、か。それもわからないわ。そもそもわたしは快楽主義なのよ。自分がこの場所にいたいから、今の環境を失いたくないから闘ったのよ。それ以上でも以下でもないわ」
するとネフリーが意地悪な笑みを浮かべ、
「時雨君のために闘ったのも自分のため?」
「……そうよ」
「好きなんだ、時雨君のこと」
「な、何の話ッ? それはッ!」
「あれ? 好きなんじゃなかったっけ? 時雨君のこと」
「誰がそんなこと言ったのよッ! 誰がッ! あくまでわたしのためって言ったのは、あいつがわたしの『今』に必要なピースだからであって、相手が学園長とかでも同じことをしたっていうか、だから、その……」
花恋が答えると、ネフリーはまたしてもにっこりと笑う。
ずるい、と花恋は思う。この笑顔にはどうにもこうにも逆らうことが出来ない。まるで叱られている時の子供のような、そんな気分に陥ってしまうのだった。
「じゃあ嫌い?」
「き、嫌い、じゃ、ない」
「じゃあ好きなんだ?」
「……どちらかといえばそうなる、と思う」
「……このままじゃ負けちゃうぞ、がんばれ! 花恋!」
「???」
花恋は首をかしげて悩む。
「わからないなら、わからないでいいよ。これからは自分の中にある気持ちを大切にしてあげてね。きっとそれはとても大切なことだから。わたしはずっとそばで見守ってるよ」
「……うん。ありがとうネフリー。これからはずっと一緒だからね? もう勝手にどっか行ったらダメだからね?」
「わかってるよ。わたしはずっと花恋のそばにいる」
「ホント?」
「ほんとだよ」
「本当に?」
「本当だよ。疑り深いなぁ、花恋は。もうどこにも行かない。約束する」
ネフリーはそう言うがなんとも納得のいかない花恋。それも仕方ない、ネフリーは前科があるのだ。
「前科があるのよねぇ……あなたは」
「前科って……。まぁ、確かにそうだよね。わたしはあなたの大切なものを奪って逃げたんだから……。謝っても謝りきれないと思ってる、ゴメン」
途端に真剣な表情、それも険しい悲しげな顔になるネフリー。
「違うって、そういうつもりで言ったんじゃない。ただの冗談よ」
「でも……」
「でもじゃない。わたしは『今』を生きるって決めたんだから。それにはあなたが必要なのよネフリー。だから約束わたしたちはこれからずっと一緒。……そうだ――」
「――指切りしよう!」
「指切り?」
「そう、指切り」
指切りは誰かと約束を交わす時の簡単な儀式のようなもの。
花恋は有無を言わさずネフリーの左手の小指をつかむと自分の右手の小指を近づける。
そして、優しく、強く、指を結ぶ。
「これでいいわ。約束、わたしたちはずっと一緒。嘘ついたら針千本飲ませるからね?」
「……うん。約束する」
二人は笑う。優しく、温かい、かけがえのない笑顔で。
それは、昔花恋が子供だった頃と寸分たがわぬ幸せな光景だった。
† †
時雨は夕方、セルルに車椅子を押されて病院の庭を散歩していた。横には夏目が歩いている。退屈な入院生活の中で、誰かのお見舞いと散歩、これだけが楽しみだった。
散歩は入院生活の中で唯一外に出られる機会だ。一日に何度もしたいところだが、この病院の医院長である冬霞直々の「あんまり散歩させると、そのうち散歩だけじゃ満足できなくなって病院から逃げ出すから一日一回まで」というお達しにより回数を制限されてしまっていた。
「ったく、冬霞さんもひどいよな。俺は逃げ出したりしないって」
「ほんと~?」
笑いながら疑いの眼差しを時雨へと向ける夏目。
「今回ばっかりはお姉ちゃんもお母さんの味方かなぁ」
「なんだよ、夏目も俺が逃げ出すと思っているのか?」
「だって、時雨って無茶するの大好きじゃない」
痛いところを突かれる時雨。言われても仕方がないことを、ここ最近何度も起こしてしまっている。
「あはは、時雨ってば信用ないねぇ?」
車椅子を押しながら笑うセルル。
「あら、こうして毎日散歩にお姉ちゃんが同行してるのは、散歩の時にセ―ちゃんと時雨を二人きりにすると本当に逃げ出しちゃうかもしれないからって、お母さんに言われてるんだよ?」
「ははっ、お互い信用がないな、セルル」
がっくりとうなだれて不服をアピールするセルル。
「でも二人が無事で本当に良かった。お姉ちゃん、ほんとにほんとにほんとにほんとに、ほんッッッッッとに心配したんだからね?」
「悪かったって。もう無茶はしないよ。全部終わったんだ。これからは普通に何の厄介もない毎日を生きて行くさ」
「そんな毎日が送りたいものだねぇ……」
呆れたような口調でため息交じりにセルルが言った。それに対して時雨が聞き返すとセルルが続ける。
「だって、時雨が何もしてなくても厄介事が勝手に舞い込んでくるんだもん」
「う……その場合は仕方ないだろ」
「そうなのかなぁ……」
「ふふっ」
急に笑い出す夏目。そんな夏目を時雨たちが同時に見た。
「なんかね、こうして三人で話すの久しぶりだなぁ、って思ったらお姉ちゃん嬉しくなっちゃて」
「そうだな、これが普通なんだ。今までもこれからも」
「だね。わたし今の生活好きだもん。無くしたくない」
三人で笑い合う。
すると不意にピリリリッ、と電子音が響いた。
「あ、メール。お母さんからだ……」
携帯電話を操作してメールの内容に目を通す夏目。すると、少しだけ顔をしかめ、
「お母さんからお使い頼まれちゃった。もう、自分から時雨たちと一緒に散歩するように言っておいて、勝手だなぁ……」
「心配しなくていいさ。俺たちは逃げないって。安心してお使いに行ってきなよ、夏目」
「う~ん。心配とかじゃなくて、もう少しお姉ちゃんは時雨やセーちゃんと一緒にいたかったなぁ」
「また明日があるよ、時雨のお世話は任せてッ!」
ドンッ、と自分の胸を叩くセルル。強く叩きすぎてむせたようなので、時雨が振りむいて背中をさすってやる。
「そっか。じゃあ、お姉ちゃんは行くね。ちゃんといい子にしてるんだよ二人とも」
そう言った夏目を見送るべく時雨とセルルが手を振ろうとすると、何故か夏目が二人に近づいてきた。
「「???」」
何をしようとしているかわからない二人に対し、夏目は時雨の頭の上に左手を、セルルの頭の上に右手を。
「えへへ。なでなで、っと」
優しく二人の頭を撫でる夏目。
そう、これは夏目の癖であり習慣であり、日常。
今まで時雨やセルルはずっとされていたはずなのだが、何故かそれがものすごく久しぶりに感じた。そして、同時に心が温かくなっていくのも。
「じゃあ、行ってくるね」
呆けたように自分の頭を触る時雨とセルルを残して夏目は走って行ってしまった。
夏目が去ってしばらくしても、時雨とセルルは庭を散歩していた。そろそろ辺りが暗くなり始め、風も出てくる時間帯なので、早めに病室に戻った方がいいだろう。
だが、なかなか二人は病室に戻ろうとはしなかった。
おそらく今病室に戻れば看護士がやってきて検診や晩御飯の準備をするだろう。それが嫌だった。
もう少し二人きりでいたかった。
実は最近、時雨とセルルはなかなか二人きりになる機会がなかった。病室にいるときはたいてい夏目や秀、涼、花恋、冬霞などの面々が一緒だ。それが嫌というわけではないが、以前との違う環境に二人は少なからず不安を感じていた。
以前ならセルルが霊体化し時雨の体の中に入れば、いつでも気持ちを伝えることが出来た。だが、今はそうはいかない。セルルの核となっていた精霊石はいまや完全に時雨の身体から離れ、セルルがネックレスにして身に着けている。
ちゃんとお互いに言葉にしなけらば何も伝わらない。もう二人は『二人で一人』ではないのだ。
「なぁセルル。お前今幸せか?」
不意に時雨が聞いた。
「どうしたの急に?」
「別に」
「幸せだよ。とっても、みんながいて時雨がいる。これでわたしは幸せなんだよ」
「そっか、それならいいんだ」
「いったい何? どうかしたの時雨? あ、もしかして病室で一人で寝るのが寂しくなっちゃった? それならいいよ、冬霞に言って特別に病室に泊ってあげる。それで子守唄歌ってあげようッ!」
嬉しそうにはしゃぐセルル。
「……そんなんじゃない。ま、お前の子守唄が恋しいのは事実だけどな」
笑いながら時雨がおどけるように言う。
セルルはいつもの調子で言葉を続け、
「そうですかそうですか、時雨さんはセルルさんの美声を御所望ですか。それならいつでもどこでも好きな時に歌って差し上げましょう。どうせ、わたしたちは……あ」
そして……気付いた。改めて気付かされた。
『――どうせわたしたちは離れられないんだから――』
『――どうせ俺たちは離れられないんだから――』
セルルと時雨の口癖。
『どうせ離れられない』
だが、今はもう違う。
離れられる。
二人で一人じゃない。
それぞれ別々の個人だ。
セルルは自分で言って初めて気付いた。なんとな気付いていた。いつもの日常に帰って来たはずなのにどこか違う。
どうしようもない不安感。
心の奥底にまとわりつくような孤独感。
セルルは気付かないふりをしてきたが、今の一言で気付いてしまった。自分の不安の正体を。
恐怖。一人、個人という存在であることへの恐怖。
セルルの頬を一粒の雫が流れる。
「ごめん……時雨。わたし嘘ついた。今、幸せじゃない……。怖いよ、怖いんだ……。時雨と一つじゃないことが怖いんだ。ずっとずっと気付かないふりをしてたけど、もうダメ。だって怖いんだもん。どうしようもなく怖いんだよ。一人になると考えちゃうんだ、なんで時雨がそばにいないのかって……。今まではいつだって、どんな時もそばにいたのに……」
言葉を紡ぐにつれてセルルの頬を流れる涙が増えて行く。それはまるで抱え込んだ感情が溶けて流れ出しているかのように。
「……俺もだ。俺も怖いよ。お前がそばにいないことが」
ゆっくりと話すことで、自分の感情を整理するかのようにゆっくりと話す時雨。
「俺たち今までずっと一緒だった。どんな時でもお互いを優先して、お互いのことだけ見つめて来た。それは、すごく、すごく幸せな日々だったよ。それでいいと思っていたし、なんの疑いも持ってこなかった。けど、言われたんだ。あのクソ親父に」
そう時雨は日嗣に言われた。その言葉は時雨を揺るがすに十分だった。
「お前たちの関係は依存だ、って」
「……依存?」
「ああ。確かにそうだと思ったよ。俺はお前に依存してた。お前も俺に依存してた。でも俺はお前が俺に依存してくれることが嬉しかったんだ。お前が俺だけを見ていてくれることが嬉しかったんだ」
「わたしも嬉しかったよ。時雨がわたしだけのものになったみたいで」
依存しあう幸せ、それは愛情からくるものだったのか?
はたまた醜い独占欲からくるものだったのか?
その答えを二人は知らない。ただ自分の気持ちに感情に従っただけなのだから。
「ああ、そうだよ。悔しいけど俺はあいつに何も言い返せなかった。実際俺たちは依存し合ってた。少なくとも俺はお前に依存しきっていたよ。生きる理由すらもお前に預けていたくらいだ」
時雨は両親に殺されたかけたとき、生きることをあきらめかけた。だが、自分が死ねばセルルも死ぬ。だから生きようと、そう思った。それは生きる理由をセルルに預けることに他ならない。
「でも、もうやめようと思う。あの頃には戻れやしない。だから前を向こうと思う」
「時雨は平気なの? 一人で平気なの? やだよ。わたしを置いていかないでよッ! 怖いよ。怖いんだよ、時雨……」
その場にしゃがみこみ、車椅子に座る時雨の胸に頭を押し付けるセルル。大粒の涙が時雨のシャツを濡らす。
「俺だって怖いさ。だからやめるんだ。お前を失いたくないから」
「え……?」
顔を上げ、セルルが時雨を見つめる。時雨もセルルを見つめ返す。恐怖など微塵も感じさせないような優しい視線。
「俺たちは今までの関係に、離れられないってことに依存しすぎていたんだ。だから離れられないってことだけがお互いを繋いでいるように見えてしまった。だから、離れられるというだけでここまで怖いんだ。でも、違うと俺は思うんだ。俺たちの関係はそんなうすっぺらいものか?」
ぶんぶんッ! という音が聞こえてきそうなほどにセルルが首を横に振る。
「だろ。だからもうやめよう。俺は離れられないとか、離れられるとか、そんなことどうでもいい。セルル、お前と一緒にいたいんだ。おまえに俺のそばにいてほしいんだ――」
「――お前が好き、なんだ」
大きく目を見開き、その場で固まるセルル。
「だから、お前のそばにいさせてほしい、ずっと。……ダメか?」
「……ううん。そんなことない。……嬉しい。嬉しいよ。ずっと、聞きたかった。ずっと言いたかった。でも言ったら関係が壊れてしまいそうで言えなかった。わたしも好き。時雨、あなたが好き。大好き。ばかばかばーか。こんなに好きなのになんで今までこんなに悩んでたんだろ? バカみたいだなぁ、わたし」
「ほんとだよ、俺ももっと早く気付くべきだった」
「ねぇ時雨、わたしはこれからも時雨のそばにいていいんだよね? ずっと、ずっと、ず~~っとッ!」
「ああ。俺もいいんだよな? お前のそばにいても」
「…うんッ! ……うんうんっ! あたりまえだよ、大好きッ! 時雨ッ!」
セルルが思い切り時雨に抱きついた。怪我をしている時雨はその衝撃で身体中がいたんだが、それ以上に今という時間の幸せが嬉しかった。
時雨がセルルを抱き止め、一通り喜び終えてお互いふと気付いた。
お互いの顔が予想外に近くにあるということに。
「ええっと……。あの、その……」
顔を赤らめてしどろもどろになっているセルル。
「ああ、うん……。えっと……」
自然な感じを装いつつも装い切れていない時雨。
当たりに人はおらず、まるで世界に二人だけのような静寂。
そんな中で二人の視線が重なる。
そして、二人を照らす温かな夕暮れ。それはまるで二人を祝福するように。
二人の唇が重なるのに時間はかからなかった。
† †
「ふあぁぁ~」
とあるマンションの一室で情けないような欠伸がこだました。
「ほらほら、時雨。早く起きてッ!」
セルルが時雨に声を掛ける。
時雨は眠い目を擦りながら、ベッドから降りた。
今日は終業式だ。長かった一学期を終え、ついに待ちに待った夏休みへ突入する。もちろんその前に成績表をもらったりなんていう多くの生徒にあまり好まれないイベントがあったりするのだが時雨はあまり関係ない。学校の成績は常にトップクラスだからだ。
だが、これからはそうも言っていられなくなる。精霊石を失った時雨は精霊術の強度が格段に下がっている。今まで通りというわけにはいかないだろう。
とはいうものの、先のことを考えていても仕方がない。今は目の前の夏休みに集中しよう。時雨はそう思って鏡の前に立つ。
鏡には言うまでもなく自分が映っている。そして、キッチンからはセルルが立てる物音が。
いつもの『日常』。
時雨が、セルルが愛した何より尊い『日常』。
時雨は実感する。戻ってこれたのだと。
(なんだろな、いつもどおりなのにちょっと違う。前よりもいい感じだ)
そう感じるのは、自分の過去に一応の決着を着けたからか。それともセルルとの関係が少しだけ変化したからか。
それはわからない。
でも、わからなくていいと思う。
今を幸せだと感じることが出来るのなら。
朝食が完成したのか、セルルの呼ぶ声がする。
「時雨~、ご飯出来たよ~ッ」
「今行く」
時雨は朝食を食べるために机へと向かう。
「はい、どうぞ」
いつも通りの食事、いつも通りの風景。
時雨が何よりも愛する尊いものがそこにはあった。
《完》
二人ぼっちの氷の姫君 炭酸。 @pokoteng_maaaaa
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