第5話 襲い来る過去
遊園地のチケットをもらった翌日、花恋、秀、涼の三人は予定通り遊園地にいた。
この遊園地は今日が開園初日なので、大勢いの人でごった返していた。
宣伝文句は、精霊術で発展を遂げた街の遊園地らしく、『精霊の国にようこそ!』だった。五のエリアに分かれており、それぞれ火の精霊ゾーン、風の精霊ゾーン、大地の精霊ゾーン、氷の精霊ゾーン、闇の精霊ゾーンとなっている。
火の精霊ゾーンにはフードコーナーや、休憩所が。風の精霊ゾーンにはその名の通り、風のごときスピードで駆け抜けるジェットコースターなど絶叫系のマシーン。大地の精霊ゾーンは、メリーゴーランドなどの誰でもが楽しめるような優しい乗り物がある。氷の精霊ゾーンは大規模なスケート場。最後に闇の精霊ゾーンは言わずもがな、お化け屋敷である。
その他にも新しいゾーンを建設中らしく、すべての完成を待っていたら、開演までに途方もない時間がかかってしまうため、今の状態で開園に至ったらしい。
「なぁなぁ、早く行こうぜ。そんなところに突っ立ってないでさ!」
いつも以上にテンションの高い秀が風の精霊ゾーン、大型ジェットコースターを目の前に大はしゃぎしている。呆れ顔の涼が今にも走りだしそうな秀をなだめている。
そんな中、心痛穏やかではない人間が一人いた。
(………まずい。ジェットコースター………ですと?)
三咲花恋だ。
花恋は何を隠そうジェットコースターが大の苦手だった。苦手、などと言う言葉で言い表せないほどに苦手だった。もし乗れば、泡を吹いて倒れる自信がある。むしろ、そのまま天に召されてしまうかもしれない。
そもそも遊園地に行けばジェットコースターに乗るのは当然の流れだ。昨日は双子の母親に勧められた手前、ジェットコースターの存在など忘れて了承してしまった。
花恋が『ジェットコースター』の言葉を聞いて固まっていると、
「あんた、どうしたの? 顔色悪くない?」
バレるわけにはいかない。ましてや涼に。花恋と涼は蛇とマングースなのだ。
「べっ、別に。なんでもないわ」
「ふーん……」
涼は花恋を怪訝な眼差しで見つめる。
「まぁ、いいけど。とりあえずわたしはいきなりジェットコースターなんてハードなの嫌だから。どうしても乗りたいなら一人で乗って来い」
涼が視線を途中で秀に向けて言った。
それを聞いた秀は当然ながら抗議するが、涼は聞く耳を持たない。端から見れば、聞きわけの悪い弟を叱る出来た姉、という風に見えるかもしれない。
二人が言い争いをしている横で、
(助かった……)
花恋はほっと肩を撫でおろしていた。
どうやらとりあえず、今はジェットコースターには乗らなくてもいいらしい。願はくば、一生乗りたくないのだが……。
「いいから来いバカッ!」
涼が秀の耳を引っ張りながら遊園地の案内板を眺める。
「う~ん、軽い乗り物は………大地の精霊ゾーン、ね」
そんな双子の様子をぼ~っと見ていた花恋に、声が掛かる。
「ちょっとあんた、何ぼ~っとしてんの? おいてくよ?」
ジェットコースターに乗らなくて良くなった安心から何も耳に入って来なかった花恋だが、涼の声でふと我に返った。
「とりあえず、何か軽いやつに乗りに行くの。まぁ、あのバカがうるさいから後で戻ってくるだろうけど」
涼がそう言って、大地の精霊ゾーンに向けて歩き出す。
(やっぱりあとで乗るんだ………ジェットコースター………)
失意の花恋。しかし、とりあえずはジェットコースターを回避できた。
† †
時雨とセルルは遊園地の正門前に立っていた。
「でかいな………」
「おっきいね………」
二人揃って感嘆の声が漏れた。あまりの大きさに圧倒されていた。
この遊園地が普通の普通よりも大きいこともあるが、二人があまり遊園地などに来たことがなかったことも驚きを増大させていた。
二人は一通り驚き終えて、園内へと向かう。
園内に足を踏み込むと、二人はまたしても圧倒されてしまった。
「………おいおい、なんだこりゃ………」
「………そうだね………」
園内は見渡す限り人、人、人。
親子連れや学生のカップル。大学などのサークルと思しき団体。中には旅行会社の人間らしき人が旗を振りながら大勢の外国人を引き連れている団体もいた。おそらくこの遊園地の開園に合わせて組まれたツアーなのだろう。
二人はある程度の人混みは予想していたが、ここまでとは思っていなかった。どうやらこの遊園地は二人が考えていたよりもはるかに注目を集めているらしい。
時雨もセルルも正直に言ってあまり人混みが好きではなかった。多くの人の前に出れば自分たちの特殊な関係がばれる可能性がある。ましてやセルルは精霊だ。多くの人間の中に一人だけ精霊が混じっていれば不安に思うのは当然だった。
「……大丈夫か?」
時雨がなんでもないような口調でふとセルルに問いかける。
「何が?」
「……別に」
端から見ればなんてことのないセリフかもしれないが、セルルは時雨の言葉の意味をちゃんと理解していた。時雨はいつもさりげなく自分のことを気遣ってくれる。普段はそっけなかったり、勝手に突っ走ったりと大変だけど、大切なところは必ず押さえている。ツボは絶対に外さないのだ。
(ずるいよなぁ、今日だって遊園地なんてあんまり好きじゃないくせにつきあってくれてるし……)
時雨はセルルのそんな気持ちに気付くことなく、「とりあえず案内板は………」なんて言いながら、周りをキョロキョロと見渡している。
そんな時雨の横顔を見ながらセルルは、
「ふふっ、ねぇ時雨ッ」
「なんだ?」
顔をセルルの方に顔を向けず、声だけで返事をする時雨。
「むう、ちゃんとこっち向いてよ……まぁいいや。とりあえず……手、繋ご!」
セルルはそう言って時雨の返答を待つまでもなく時雨の左手を握った。
「俺はまだ了承してないんだが?」
「じゃあダメなの?」
「………ダメだと思うか?」
「ふふっ、じゃあ行こッ! 時雨がさっきから探してる案内板はあっち」
セルルが指を指した方には、先ほどまでは人影に隠れて見えなかったが大きな案内板があった。
セルルは時雨の手を引きながら、案内板へ向かう。
「とりあえず、何処行こっか?」
「何処って……サイン会は何処でやるんだ?」
「え~っとね……」
セルルがサイン会の場所と時間が書かれたパンフレットを取り出すべく鞄の中を漁る。なかなか見つからず、少し時間が経ったとき、
ドンッ!
「あっ、すいません」
カバンを漁るセルルに気を取られていた時雨が誰かにぶつかった。ぶつかった相手は急いでいたのか思いっきりぶつかったようで、その場に尻もちを付いた。
「ちょっと、何やってるの時雨!」
セルルが尻もちを付いた女性に近づく。
「いッたた……」
時雨がぶつかった相手は銀髪のストレートヘアーに青い瞳をした女性だった。歳は時雨よりもだいぶ上かもしれない。身長は時雨よりも少し高く、一見すると周りから浮いてしまってもおかしくないくらい目立つ容姿なのだが、そんなことはまったくなくこの場に見事なまでに溶け込んでいた。
銀髪のお姉さんは立ち上がり時雨とセルルの顔を見るなり、表情を一変させた。
「君たちは……ッ!」
銀髪お姉さんはまじまじと時雨とセルルを見たまま少しの間硬直。
セルルは怪訝に思い、問い掛けることにした。このままこの銀髪お姉さんと時雨を見つめ合わせたままにしておくわけにはいかない。
「あの、大丈夫ですか? なんだか急いでいたみたいですけど……」
「……あ、そうだった。ごめんなさいね、急にぶつかったりして。それじゃあ失礼するわ」
セルルの問いかけに答えると、そのまま去って行った。
銀髪お姉さんはすぐに人混みに紛れ見えなくなった。見えなくなったと同時にセルルは時雨の方を見る。
「ねぇ、知り合いなの?」
「違う……。けど会ったことある気がする……かも?」
「なに? かもって。 向こうは時雨のこと知ってるみたいだったけど」
「わかんないな」
「ふ~ん、まぁいいや、信じてあげる」
セルルは怪訝な顔をしながらも、一応は時雨の言うことを信じた。こんな些細なことで時雨との大切な時間を邪魔されたくなかった。
「それにしても……変な人だったな」
「うん、あんまり関わらない方がいいかもね」
「そうだな、まぁもう会うこともないだろ。そんなことより、サイン会の場所と時間わかったのか?」
「うん! 鞄じゃなくてポケットに入れたの忘れてた、えへへッ」
時雨が肩をすくめながら、『小波香奈枝サイン会』について詳しく書かれたパンフレットをめくった。
『超人気アイドル演歌歌手小波香奈枝サイン会!
場所 園内、火の精霊ゾーンイベント会場。
日時 開園初日、午後三時。
』
今はちょうど昼過ぎなので、少し時間を潰してから行けばぴったりだろう。時雨とセルルはとりあえず、火の精霊ゾーンを目指しながら歩き、その途中の場所で時間を潰すことにした。
† †
午後二時半。
三咲花恋は、困っていた。
目の前には『世界最速、世界最長、風の大精霊シルフをモチーフにした世界最高峰のジェットコースター』と書かれた看板がある。その横には係員がおり、客を誘導している。あと三組で花恋たちの番である。
先ほどから出てくる客は基本的には「ヤバ~い、超ヤバ~い」とひたすらに連呼しているだけなのだが、中には「もう無理、二度と乗りたくない………オエッ……」と顔を真っ青にしながら出てくるものもいるのだ。それが花恋の恐怖をさらに増大させる役目を見事に果たしていた。
このジェットコースターに乗ると言う事はジェットコースターが好きでそれなりに乗り慣れている人たちのはずだ。まさかいきなり初体験でこれに乗る人はいないだろう。この遊園地にはもっと難易度の低いジェットコースターもあるのだから。そんな人たちが顔を真っ青にして出てくると言う事は、とんでもないのではないか。
花恋はそう考えると、震えが止まらなかった。そんな難易度の高いジェットコースターに初体験、そして絶叫マシーン大嫌いの自分が乗ったらどうなってしまうのか。想像するのも恐ろしい。
花恋は、帰りたい。ただそう思っていた。
なぜこんなことになっているかと言うと、遡ること一時間半ほど前。
花恋、涼、秀の三人は火の精霊ゾーンにある。フードコートにいた。大きな屋根に囲まれた椅子に座り、各々好きな物を食べている。
午前中は涼の「いきなり激しい乗り物は嫌だ」という主張もあり、大地の精霊ゾーンで優しい乗り物を楽しみ、氷の精霊ゾーンでスケートをしたりして過ごした。気付くと思っていたよりも時間が経っており、少し遅い昼食を摂ることにしたのだった。
「なぁなぁ、このあと何処行く?」
秀がテンション高めの声で、体を乗り出して言った。
「さぁね……どこでもいいけど」
「じゃあさ、三咲さん。俺と二人でお化け屋敷なんてどおッ!?」
秀は涼の声など一切聞こえていないかのように花恋へと話を振る。初め
からこれが言いたかっただけなのかもしれない。
バシィ!
当然ながら涼に思い切り叩かれる秀。
「わたしはどうすんだバカッ!」
「そこらへんで待って――」
ゲシッ、と今度は強烈な蹴りが秀の足へとお見舞いされる。
「冗談、冗談だって。じゃあ三人で――」
「遠慮しておくわ。だってお化け屋敷は恋人同士になってから来た方が楽しいもの、ね?」
「恋人同士、だと……? そ、そ、そうだよね。その通りだね。うん。じゃあ今日はやめておこう! 恋人になってから来よう!」
秀は、顔を赤らめながらうんうんと頷く。
(ふぅ……助かった)
心の中で花恋は肩を撫でおろした。何を隠そう花恋はお化け屋敷も苦手なのだ。とにかく怖いものが苦手なのだ。ジェットコースターとお化け屋敷、「怖い」のベクトルは違えど「怖いもの」には変わりはない。
そしてさらに、花恋は頭の中でお化け屋敷は恋人同士で入るもの、と知らぬ間に決めつけていた。なので、秀や涼と遊園地に行くことになってもお化け屋敷に入ることは絶対にないと思っていたのだが、どうやらその考えは間違っていたらしい。
秀の様子をあきれ顔で見る涼が、肩をすくめながら話を進める。
「はいはい。じゃあお化け屋敷はなしで。じゃあ妥当なのは、さっきこのバカが乗りたがってたジェットコースターじゃない? わたしもなんだかんだ言って乗ってみたいし」
(………来た)
ついに来た。この時が。
どうにかして逃げたい。でも弱みは見せたくない。相手が涼だから、というよりもただ他人に弱みを見せたくない、というのが正しいかもしれない。
今までずっと一人で生きてきたせいで、他人に自分のことを知られるのがものすごく怖い。最近は時雨やセルル、秀や涼と一緒にいることが多いのでついつい忘れがちになるが、いざという時に嫌でも恐怖が襲ってくる。
「ねぇ、あんた。顔色悪いけど大丈夫?」
涼が花恋の顔をまじまじと見つめながら言った。
「………べ、別に大丈夫。さっきも言ったでしょ」
「あっそ、ならいいけど」
「じゃあ、行こう! たしかここのすぐ隣だ。あのジェットコースター」
秀が満面の笑みで他の二人に向けて言った。
涼が頷き、二人が立ち上がるあとを渋々ながらも、それを悟られないようなペースであとに続く花恋。
ジェットコースターまで行ってみると、そこには長蛇の列が出来ていたので花恋はこれで二人があきらめてくれるのではないかと淡い期待を抱いたりもしたのだが、まったくそんなことはなく、二人は何の躊躇もなく列へと並んだ。
(うん………わかってたよ……)
こうして現在に至るわけである。
また一組が乗り終えて外に出てくる。その中には、今にも吐きそうな顔をした人間が何人かいて、花恋の恐怖の度合いをさらに高めていく。しかし花恋は、そんな様子を気付かれないために、涼しい顔をしているのだがそろそろ限界かもしれない。
「あんたさぁ、もしかして怖いの?」
「こ、怖いわけないじゃない! バカなのッ!?」
「はいはい、わかった。バカじゃないけど」
先ほどと似たような会話をしていると、別のところから係員がやって来て、なにやら深刻な顔でジェットコースターの係員と話し合っている。
(何かあったの……?)
そういえば先ほどから少し周囲が騒がしい気がする。花恋が辺りを見回すと、係員が慌てて走り回っていた。それに客が一斉に帰りだしているようだ。
「……なにかおかしいわね」
花恋の方に視線を向け、涼が言った。
「ええ。さっきと雰囲気が違う」
「あの何かあったんですか?」
涼は近くを通りかかった足早で出口へと向かう親子連れに声を掛けた。すると父親と思しき人が答えてくれた。
「ん? ああ。どうやら事件があったらしくてね……。なんでも男の子が、血だらけで倒れていたらしいんだ。娘をこんな危ない場所においてはおけない。今すぐ帰ることにしたんだよ。君たちも早く帰った方がいいよ」
血だらけの男の子。
秀にしても涼にしても自分の近辺では事件なんて簡単に起こらない、そう思っていただけに話を聞いてゾッとした。
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
涼は丁寧にお辞儀をして、秀と花恋のほうに向きなおった。
「残念だけど……帰ったほうがよさそうね」
「だな。こればっかりは仕方ない。変な事件に巻き込まれたりしたら嫌だしな」
「……そうね」
三人は並んでいた列から離れ、出口へと向かう。
出口への道は人でごった返しており、そう簡単に抜けられる状態ではなかった。なんとかお互い三人の位置だけは確認してはいるものの、もし少しでも気を抜けばすぐにはぐれてしまうだろう。
そんな中、花恋の目が視界の端に銀髪長身の女性を捉えた。それと同時に花恋の心臓がまるで誰かに締め付けられたかのように痛み、その鼓動を早める。
(嘘……ッ!? なんで、なんであいつがここに? 見間違い? いやあり得ない。わたしがあいつを見間違うはずない)
花恋は胸にしているペンダントをギュッと握りしめる。
(……大丈夫。わたしならできる。わたしならできるわ。いや、やらなくちゃいけない。いままでこのために生きてきたのだから)
花恋には秀や涼のことを気にする余裕など一切なく、ただ銀髪の女性の後を追って走り出した。妙なことでジェットコースターに乗ることを回避できた花恋だが、この時すでにその安堵感は一切消え去っていた。
秀と涼が花恋とはぐれたことに気付くのはそれから少し経ってからのことだった。
† †
午後一時。
結衣原夏目は、遊園地の入園ゲートをくぐった。本来ならば今日は母親から頼まれた調べ物に一段落ついたこともあって、家でのんびりする予定だった。しかし朝起きるとすぐに友達から連絡があり「遊びに行くメンツが足りないからお願い。来て!」とせがまれ渋々了解したのだった。
以前も誘いを断っていたので、今日は行かないとさすがに失礼かと思ったのだ。
それに一緒にのんびりしようと思っていた隣に住む二人も遊園地に出かけているらしいので、もしかしたらどこかで会えるかもしれない。
「お~い夏目、こっちこっち」
友人の恵美と由香が手を振っている方へ寄って行くと、そこには三人の男たちが一緒にいた。
(ずいぶん急だと思ったら……そういうことね)
女三人、男三人で遊園地となれば誰でもわかる。要するに今日は遊園地でコンパだったのだ。
「……その人たちは?」
「あ、えっと……友達」
夏目は由香に近づき、耳元でひっそりと言った。
「ねぇ、男の人が来るなんて聞いてないよ?」
「言ってないもん。だって言ったら夏目来ないじゃん」
「まぁ……そうだけど」
「わたしたち心配してるんだからね、夏目のこと。いい加減いい年なんだしさ」
この二人は、基本的にいい娘なのだが、何かと夏目を誰かとくっつけようとするのだ。おそらく「メンツが足りない」と言うのも夏目を来させるための方便で、実際は夏目を初めから誘うつもりだったに違いない。
夏目自身は今現在、結婚する気はもちろん恋人を作る気すらない。何より今の生活がずっと続けばいいとさえ思っているのだ。だから二人の気持ちはありがたいが、若干迷惑だったりもする。
そんな夏目の気持ちを知ってか知らずか、由香は満面の笑みで、
「まぁまぁ、硬いことはいいから。今日は楽しもう。ね?」
「……はぁ。今度からはちゃんと言ってね?」
「うん! 約束する」
由香がそう言うと、恵美が男たちを夏目から見て右から順に紹介していく。どうやら全員年下らしく、そういえば以前由香と恵美が「やっぱり若い子のほうがいいわよね」なんて言っていたのを思い出した。
名前や年齢、職業や趣味などを軽く紹介していたが、正直に言って夏目はまったく興味がなかったので、聞き流した。一応失礼になってはいけないので、顔や髪の毛の色などで見分けはつけたものの、それ以外のことはまったく聞いていなかった。右から金髪、黒髪、茶髪の順だ。
「よろしくね? 結衣原さんだっけ?」
「え? ええ、よろしく」
金髪の男がなれなれしく夏目に話しかけてきた。
なんとか失礼にならないようにやり過ごし、遊園地を歩く。なんとなく流れで、初めは軽めの乗り物がある大地の精霊ゾーンにしよう、ということになっていた。
適当に誰でも乗れるような乗り物にのって一時間と少しくらい経ったときだった。由香と恵美が「じゃあ。ここからそれぞれ別行動にしよっか」なんて言い出した。
夏目はこんな短時間でよくもそこまで仲良くなれたものだなぁ、と素直に感心していると、特に夏目が異論を挟む余地もなく由香は黒髪、恵美は茶髪を従えてどこかへ行ってしまった。
すると必然的に夏目と金髪だけがこの場に残されたことになる。
「それじゃ、夏目ちゃん。どこ行こっか?」
(夏目ちゃんッ!? 馴れ馴れしいなぁ……この人)
夏目は今のところ自分を下の名前で呼んでいいと思っているの男の人はただ一人だけなのだ。それなのにこの人は何の許可もなくあっさりと……。夏目の中でもともと低かった好感度がさらにに低下していく。
夏目は適当にいい訳をして、大地の精霊ゾーンをうろうろする。ここならいくつか乗り物に乗ったのでへたに誘われても「あれもう乗ったから」と言って断ることが可能かもしれない。
夏目の横で男は歩きながら、ひたすらに自分の話ばかりしている。この前のライブがどうとか、このまえファンに迫られて大変だったとか。どうやら音楽関係の仕事をしているらしく、それならこの歳でこんな派手な色の髪の毛をしているのも頷けた。
しばらく歩いたところで、夏目と金髪の携帯が同時に鳴った。
二人は何事かと思い、携帯を開くと由香からのメールだった。
『緊急!とりあえずさっき集まった場所に集合。ここで何かあったみたい。今すぐここを出た方がいいかも』
時刻は二時半を過ぎたところだ。みんなと別れてからまだそんなに時間は経っていない。
一体何が何だかわからなかったが、とりあえず指示されたとおりに集合場所へ向かう。
夏目の携帯にはもう一通メールが来ており、誰かと思えば、表示された名前は普段からもっとも多く目にする名前。そして唯一夏目が下の名前を呼ぶことを許している異性。
メールの内容は一言、
『やばい』
夏目は何の事だかわからずに電話を掛けようとすると、隣にいた金髪が、
「誰? もしかして彼氏?」
「べ、別にそんなんじゃないです」
夏目が答えると、金髪は「じゃあ、今は僕との時間を楽しもうよ」とか言いながら人の携帯を勝手に閉じてしまった。
「ちょっと!」
「ん? ダメだった?」
「ダメに決まって――」
夏目が金髪に怒ろうとしたとき、向こうから他の四人がやってきた。どうやら、来るのが遅いので迎えに来たらしい。
「夏目、早くここから出よう」
「どうしたの?」
「えっと……」
夏目が問い掛けても恵美は口ごもって言いづらそうにしている。恵美が言いづらそうにしているのを見て、先ほど恵美と共に行動していた茶髪が声を出した。
「何か事件があったらしいよ」
「……事件?」
「ああ。さっき友達の係員に聞いた。なんか雰囲気がおかしいと思ったら、こんなに大事になっているとはね。ま、被害に遭った少年ってのには悪いけど、俺たちじゃなくてよかったな」
その話を聞いた時、夏目は嫌な予感がした。
そして先ほど届いたメール『やばい』。普段ならこのメールの送り主はこんないたずらみたいなメールは送ってこない。
夏目はまさか、とは思うものの、自分でも気付かないうちに茶髪を問いただしていた。
「ねぇ! 少年って!? 一体どういうこと? 何があったのッ!?」
「え、ああ。俺の友達がここで働いててさ、そいつに聞いたんだ。黒髪の女みたいに長い髪の男だったって。たしかフードコートの辺りらしいよ。なんかそいつ、現場を見ちゃったらしくてさぁ……。災難だよなぁ、当分飯は食えないって泣いてたけど。まぁ話によるとかなりヤバかったみたいだぜ。あれはもう助からないだろうって。あー、あとなんか変な噂かもしれないけど、そいつ血の色――」
黒い女の子みたいに長い髪。
夏目にはその容姿にぴったり当てはまる知り合いがいる。とても大切な人。そしてその人物は今この遊園地に来ているはずだ。
夏目は、茶髪の話を最後まで聞かずに携帯を取り出す。そして先ほどのメールを再び開く。内容は一言、
『やばい』
(ねぇ、何が『やばい』の……?)
夏目は一縷の望みをかけ、電話を掛けた。しかし相手は応じない。それが夏目の不安を増大させていく。夏目の考えすぎかもしれない。夏目が勝手に変な想像をしてしまっているだけかもしれない。あの子にしては珍しく、悪戯メールなのかもしれない。
でも、悪寒が止まらない。
嘘であってほしい。嘘ならそれでいい。考えずぎならそれでいい。
だが、突然のメール。ここに来ているということ。さらには被害者の容姿。そのすべてが夏目の頭に浮かんだ人物を指している。
前向きに考えれば考えるほどに目の前にある事実がそれを否定していく。
夏目はいてもたってもいられなくなった。
「わたし、行かなきゃ」
夏目が走り出そうとして、咄嗟に金髪が夏目の腕を掴んだ。
「行くってどこに、ここは危ないんだよ? それにせっかく会ったんだし、今から二人で一緒に――」
バシッ!
何の躊躇もなく、夏目は金髪の頬を引っ叩いた。
「わたしはわたしの大切な人の所へいくわッ!」
夏目がそう言うと金髪も諦めたのか、すぐに手を離した。
夏目は走った。ただ自分の大切な人を失わないために。まだ、一緒にいたいから。もう会えないなんて絶対に嫌だから。
待っててね、すぐに行くから。
† †
午後二時。
勝てなかった。
自分の大切な子供たちを守るためだというのに。
結衣原冬霞は、ボロボロだった。洋服は所々が破け、全身のあちこちに傷が出来ていた。致命傷は何とか避けたとはいえ、体力を限界まで削られギリギリのところで逃げ出すのが精いっぱいだった。
「はあ、はあ……ッ。じっとしている場合じゃないのにっ!」
冬霞は唇を噛む。ここでこんなことをしている場合ではないのだ。冬霞があの男に負けた以上、あの男の行動は止まらない。何とかして早く戻らなくてはならない。
携帯電話を取り出して電話を掛ける。すぐに合流することは無理でも、危険を伝えることは出来るはずだ。
相手が電話に応答するや否や、冬霞は叫ぶようにして口を開いた。
「もしもし、無事!?」
しかし、その電話に出たのは望んでいた相手ではなかった。それはすなわち、その相手が電話に出られないような状況にあると言うこと。
結衣原冬霞は、自身の不甲斐なさを呪いながら電話越しの相手へと声を発した。
† †
午後二時。
時雨とセルルは『超人気アイドル演歌歌手小波香奈枝サイン会』に向かうべく、火の精霊ゾーンのイベント会場へと歩いていた。
「えへへッ! やった、もうすぐ生香奈枝ちゃんだよ! どうしよう。わたしもう今から緊張してきたよ」
セルルが笑顔で今日のために用意した色紙を抱きしめている。
『先着何名様まで』みたいな規制はないのでのんびり歩いて行ったとしても別にサインをもらえなくなったりはしない。だがセルルが一刻も早く小波香奈枝に会いたくてうずうずしていたので、早めに並ぶことにしたのだ。
時雨は、たまにはこんな風に遊園地なんかに来てみるのも悪くはないかもしれない。そんなことを考えていた。そうそう問題に直面にすることはないだろうし、時雨とセルルの関係についてもそう簡単にはバレないんじゃないだろうか。二人を包む穏やかな休日の空気が時雨の考えを楽観的にさせていた。
「なぁセルル。サインもらったあとどうするんだ?」
「え? もらったあと? どうしよっか? あんまり考えてなかったかも。でも今日は時雨に無理言って付き合ってもらったし、帰ろっか」
「別に無理なんてしてない。楽しかったよ。セルルが大丈夫なら、このあとどっか行かないか?」
「え? いいの? ほんとに!?」
「ああ。そうだな……このあと映画でも見て、どこかで飯でも食べよう」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「えへへッ、デートだねッ!」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「わーい。時雨とデートッ! 時雨とデートッ!」
セルルがあんまり大きな声で言うので時雨はかなり恥ずかしかったが、嬉しそうにはしゃぐセルルを見ればそんな気持ちもすぐに消えてしまった。
だが、そんなゆったりとした空気は長く続かなかった。
二人が笑いながら歩いていると、
ゾクリ。
あと少しでイベント会場に着くというところで何か得体の知れない違和感を覚えた。
二人の表情が一変する。
「……感じたか?」
「うん、なんだろうこれ。時雨より先にわたしが感知出来ないなんて普通はありえないはずなんだけど……」
精霊の五感は人間の三倍だ。そしてセルルは精霊に中でも高位に位置する大精霊だ。普通に考えたとしても、気配などには人間である時雨の三倍は早く気付けるはずなのだ。しかし、時雨とセルルがこの気配に気づくのは同時だった。
何かがおかしい。時雨は注意深く辺りを見渡す。すると不思議なことに辺りには人がいなくなっていた。先ほどまでは大勢の人がいたというのに。
時雨とセルルが互いの手を強く握りながら、気配を探る。そして二人がその気配の方向に気付くのは同時だった。
「……久しぶりね」
「……あんたか」
二人の目の前に姿を現したのは、いつぞやの夜の公園で出会った赤いマントを羽織った女だった。時雨としては最近のごたごたの中でこの女の存在を忘れかけていたのだが、この女の雰囲気、声、それは確かに時雨の記憶を刺激する。
「……少し用があるのよ」
「わたしたちは用なんてないよッ! 今日は大事な日なんだから邪魔しないでよね!」
セルルがものすごい剣幕で捲し立てる。
「ふふっ、相変わらずブサイクね、セルライナ・イリアス」
「ぶッ、ぶさいく!?」
セルルの顔が真っ赤に染まる。
「な、なによ、なによ、なんなのよッ! しかも時雨の前でなんてこと言うのッ!」
時雨は大声で言い返すセルルを手で制す。
時雨は小さく息を吐くと、言った。
「顔を見せろよ、橘霊歌」
「……ふふっ、あらら。ばれちゃった。一応気を付けてはいたんだけどなぁ、ちょっと甘く見すぎたかな。気付いているならもう必要ないわよね?」
女はそう言って、深く被っていたフードを外した。
するとそこには、時雨が想像していた通りの、最も想像したくはなかった人物の顔があった。
橘霊歌。
もう何年も会ってはいない。だが、顔を見た瞬間にわかった。この人物が自分の母親であると言うことことを。かつて自分の命を奪おうとした人物であるということを。
「はは……まさかこんなところで会うことになるとはな」
「あらら、久しぶりの再会に感動で声もでないの? ママって呼んでもいいのよ?」
今更何を言っているのか。『ママ』? かつて息子の命を奪おうとして今更母親も何もないだろう。時雨は自然と自らの思考が熱くなっているのを感じた。
こんな時こそ冷静でなければならないはずなのに、苛立った感情がそれを邪魔する。今すぐにでも、目の前の女にこの苛立ちをぶつけてしまいたい。ふつふつと、思考を感情が上回っていく。
限界。時雨が口を開く。
「……ふざける――」
「――ふざけないでよ!」
時雨は自分が口にしようとしていた言葉が、自らの口から発せられたものではないことに気付き、視線を自分の隣へと向ける。
「ふざけないでよ! あんたは! あんたたちがわたしたちに何をしたのか忘れたとは言わせない! 今更突然現れて、『ママ』? ふざけないで! わたしと時雨はずっと二人いで生きて来た! あんたなんか母親じゃない!」
セルルは息を荒くし涙目になりながら、振り絞るような声で言い放った。それは時雨が言いたかったことそのものだった。
だが、セルルの様子など意に介していないかのように霊歌は表情を崩さない。
「でも、あなたたちと私は親子よ。だって私がこのお腹を痛めて産んだんだもの。それは変えられないわ。そういう感情論は期待していないのよ」
「うるさい! うるさい! うるさいっ! やっとこの街で幸せになれそうなのに! 邪魔しないでよ!」
「あら? そうなの? ならその幸せブチ壊してあげなきゃね。母親に無断で幸せになっていい子供なんていないのよ、この世には」
セルルの叫びをいとも簡単に受け流し、まるで氷の刃のように冷たい言葉を浴びせる霊歌。その様子を見ていた時雨は、徐々に冷静さを取り戻す。隣にいるセルルが時雨の言いたいことを言ってしまったせいで、時雨は嫌でも冷静にならざるを得なかった。
「……ったく、言いたいこと全部言っちまいやがって。ま、おかげで頭が冴えて来た。ありがとうな、セルル」
時雨はそう言ってセルルの頭を軽く撫でると、霊歌へと鋭い視線を向けた。
「ごたくはいい。用件はなんだ?」
「あらあら、仲がいいのねぇ、相変わらず。反吐が出るわ。……要件? わかっているのでしょう? 私達の実験にあなたちが必要になったのよ。だから戻ってきなさい」
実験に必要になった。それはすなわち時雨とセルルに対し、モルモットになれとそう言っているのだ。
「私があんたを産んでやったのよ。子供は親の所有物でしょう? だから黙って言うことを聞きなさいな」
冗談じゃない、時雨は強くそう思った。だが、それと同時に何を言ったところで無駄であろうことも察した。この女は以前実験と称して息子を殺そうとしたのだ。そんな人間に何を言ったところで受け入れられるはずがない。
子供は親の所有物、いやむしろ実験材料か。実の子をモルモットにすることすらなんらためらいはないのだろう。
「……嫌だと言ったら?」
何の期待も抱かずに、時雨は聞いた。
「……わかっているでしょう? 半殺し、よ」
言ったと同時。ドンッ、と銃声が響き渡った。
いつのまにか霊歌の手には拳銃が握られていた。その銃口はしっかりと時雨へと向けられている。あまりに突然のことで対応出来ず、時雨は一瞬何が起こったのかわからなかった。
「……ッ!」
見れば時雨の左肩からどろりと血が溢れだし、シャツを染めていた。
「あらあら、久しぶりに見たけれど、相変わらずの化け物っぷりね家の子は。気持ち悪いったらないわ」
霊歌が時雨の左肩から溢れ出た血を見ながら言った。
『化け物』、そう言われても時雨は何も言い返せない。時雨は自分のことを化け物だと思っている。誰かにそう言われたとしても仕方ないと思っている。なぜなら、左肩から溢れた時雨の血は――
――赤くなかった。
時雨の左肩から溢れたそれは、薄い緑色だった。もはや『血』と呼んでいいものかどうかすらも怪しかった。赤い血が流れていない人間を人間と呼べるだろうか。
時雨の周りの人間はことごとく時雨を遠ざけた。挙句両親にも殺されかけた。しかし、それも仕方なかったのかもしれない。化け物なのだから。
「時雨、大丈夫?」
セルルが実体化し、時雨の傷を押さえる。
「お前の体に流れているのは血液じゃなく、霊力。精霊を宿して生まれた人間の宿命とはいえ、血が緑色って気持ち悪いわよねぇ、化け物」
時雨の体には高濃度の霊力が流れている。普通、霊力は目に映るものではない。しかし時雨の体には視覚出来るようになるほどの高濃度の霊力が流れているのだ。
人間の体内に流れているものは『血液』。そして精霊の体内に流れているのが『霊力』だ。人の血液の中にはわずかな霊力を含んでいるとはいえ、そもそも人間でありながら身体に『血液』を一切持たず、『霊力』のみを持つ時雨は人間なのか、それとも精霊なのか。もしくはどちらでもないのか。
「お前は昔からいろいろな人から迫害されてきただろう? それはそうでしょう、化け物と仲良くしたい人間なんていないわよ。生きる価値のない化け物、だからせめてモルモットとして私達の役に立ちなさい」
「………」
時雨は何も言わない。だが、小さく唇を釣り上げて笑った。
時雨は知っている。自分が『化け物』であることを。当の昔に自覚した。人々に差別された時、両親に殺されかけた時。でも、それでも、自分のそばに居てくれる人たちがいる。『化け物』でもこの世界で生きることはできる、そう思うことができた。
時雨は知っている。自分に『生きる価値』がないことも。自分自身に生きる価値なんてないかもしれない。でもそれでも自分が死んだら悲しんでくれる人がいる。自分が死ねば、自分の一番大切な人も死んでしまう。
『化け物』だろうと『生きる価値』がなかろうと、そんなの関係ない。自分の大切な人を悲しませたくないから、自分がここに居たいから、理由なんてそれで十分だ。
「ああ、俺は化け物だ。お前に言われなくたってわかってる。でもな、化け物には化け物なりに意地があってな。まだ死ぬ訳にも、モルモットになる訳にもいかないんだ。なにせ――」
「――あんたより美人がそばにいるんでな」
「……時雨ッ! うん。どうせ離れられないんだもん。ずっと一緒だよ」
時雨の横に立つセルルがニッコリと笑う。その笑顔はまるで太陽のごとく輝いている。先ほどブサイク、と言われたことをよほど気にしていたのだろう。
セルルは再び霊体化し時雨と同化する。
そんな二人の様子を見た霊歌は、大きくため息を吐き、
「はぁ……つまらない、つまらないわ! もっと絶望して顔を歪めて頂戴よ。そんな明るく笑うような子供に育てた覚えはないわ!」
ヒステリックに声を上げる霊歌は一瞬にして距離を詰め、今度は至近距離で時雨へと銃口を向けた。咄嗟の所で何とか避けるものの、霊体化したセルルも霊歌の動きがまったく読めずに、ただただ困惑するしかなかった。
「くそっ、あんたも十分化け物だよッ!」
時雨は横に転がり、絶え間なく放たれる霊歌の弾丸から逃れる。
先ほどからの攻撃はなんとか急所を外しているものの、体にダメージが蓄積されているのは明らかであり、体力的に限界を迎えるのは目に見えていた。
両肩はジンジンと痛み、脇腹は緑色をした霊力がどくどくと溢れている。このまま戦ったところで時雨たちに勝ち目がないことは明らかだった。となれば、二人がとれる行動は一つしかない。
(くっそ、何とかして逃げたいが……はたしてこいつにスキがあるかどうか……)
そう、逃げるのだ。
敵わない相手がいるのならば逃げるしか生き延びる手段はない。
時雨は精霊術で氷の剣を作り出す。さらに風の精霊術を唱え、スピードを限界まで上げておく。セルルも自分たちに勝ち目がないことは重々承知しているらしく、時雨が逃げる算段をしていることにすぐ気付いてくれた。
二人ともこれが分の悪い賭けであることはわかっていたが、やるしかなかった。やらなければならなかった。
「はァァァァァッ!」
時雨が、霊歌に向けて走る。そのスピードは時雨が引き出せる限界であり、普通なら、いや、普通でなくとも大抵の人物はついて来られないはずだ。
時雨はそのままの勢いで霊歌へと切りかか……らずに、横を駆け抜ける。以前黒いマントの人物を相手にした時に使った戦法だ。しかし今回はそれだけではない。時雨に注意が向いている間にセルルが氷の精霊術を発動。霊歌の地面を凍らせその場に縛り付ける。さらに拳銃を封じるため、霊歌の右腕を氷で凍らせる。これならいくら相手が強くとも多少の時間稼ぎにはなる。
時雨とセルルは走る。自分の出来うる最高のスピードで。
「飽きたわ。もっと歪んだ表情を見せてほしかったのだけれど、つまらないわ」
時雨たちには霊歌の声は聞こえない。
「お前はいらないよ、時雨」
ドンッ! 銃声。
時雨が驚きの表情を浮かべる余裕もなく。
弾丸が時雨の左胸を貫き、全身から力が抜ける。成す術もなく、時雨は地面へと倒れこむ。
「甘いねぇ、時雨。お前バカだろ。このまま死ぬか? いやその前にお前に最高の絶望をあげよう。何を勘違いしたかしらないけれど、私達がほしいのはお前じゃない。お前の一番大切なものだよ」
ヒールの音を響かせながらゆっくりと霊歌が倒れた時雨へと近づく。霞む目で霊歌を見ると左手にも拳銃が握られていたのだった。霊歌は弾丸で貫いた時雨の左胸をむりやりこじ開けるようにしてに思い切り右腕を突っ込んだ。
そして時雨の左胸から淡い緑色をした物体を引っ張りだした。。
「へぇ、さすが精霊石。さっきの弾丸どころじゃ傷一つ付いてないね。セルライナ・イリアスはどうやらさっきの衝撃で気絶しているみたいだし、好都合だね」
時雨は何を言っているのかわからなかった。それ以上にもうあまりの激痛に意識は飛びかけていた。。
「じゃあね、最愛の我が息子。親に反抗するなんて百年早いってわかったかしら? いいわね、その表情。死に際の絶望に染まった良い表情を見せてもらったわ。親孝行も出来たことだし、お休み、時雨。さようなら」
そう言って霊歌は去っていく。
そんな霊歌を見送るしか時雨には出来なかった。身体に力が入らず、時雨はその場にあおむけに倒れ込んだまま、動くことができない。肩は切り裂かれ、それぞれの傷からは今も緑色の霊力が傷口から溢れだしている。
胸には大穴が空き、挙句その穴の中には、心臓がなかった。明確な死が迫っている。時雨はそう感じた。
(これ、は………マズイ……な……けど……っ)
人間は心臓がなければ決して生きることはできない。それは血液が体を循環しなければ生きていけないからだ。それはどんな人間であっても変わらない。しかし、時雨の場合は違う。体に流れているのは霊力だ。ならば、少しくらいならなんとかなる。
時雨は咄嗟に大気中にさまようエレメントを集め、体内に循環させる。
霊力とエレメントは結合するだけあって少なからず似ている物質だ。ならばほんの少しの間くらいなら代用が効くかもしれない。時雨は一縷の望みをかけて、エレメントをひたすら体に循環させる。
(やっぱり、俺、は、化け物、だな………。んな、ことより、たす、け……よばない、と)
時雨は自分自身を笑いつつ、偶然にも時雨が倒れる時に地面に落ちた携帯を最後の力で引きよせ、受信ボックスの一番上の人物にメールを打つ。何を打ったらいいのか、どう言えばいいのか。時雨にはもはや思考する力は残されておらず、ただ一言、
『やばい』
と打つのが限界だった。
もしこのまま時雨の意識が途切れれば、体内を巡るエレメントが途切れ間違いなく死が待っている。だから、なんとしても意識を飛ばす訳にはいかない。
「もう、だい、じょ、ぶ、だ。セル……ル」
時雨は隣にいるはずのセルルに声をかける。しかし返事はない。
「セ、ル……ル?」
返事をする気配すらない。それどころか、時雨はどこにもセルルを感じることができなかった。どこを、どんなに探ってもセルルの気配がない。
「嘘……だろ?」
セルルがどこにもいない。
嘘だ。
時雨はそう思った。そう信じたかった。
だが現実は残酷だった。
時雨はこの日、世界で一番大切な存在を失った。
† †
花恋は人混みの中、銀髪の女のあとを追いかけていた。涼や秀とはぐれてしまったが、そんなこと今の花恋の頭の中にはなく、ただ視界の端に映る女のことで頭がいっぱいだった。
この人混みの中では一人の女など簡単に見失ってしまいそうだが、まるで誘っているかのように銀髪の女は花恋の視界から姿を消すことはなかった。
花恋自身、相手が自分にわざと姿を曝しているような気はしていたが、それでも構わなかった。
(あいつに会えるなら、それで構わない。……わたしの人生すべてを捧げてやるわ)
追いかければ追いかけるほどに出口からは遠ざかり、どんどん人が少なくなっていく。先ほどまでは大勢の人でごった返していたのに、今はまるで廃墟のように静まり返っている。花恋は少し不気味に思いながらも、銀髪の女から視線を外さない。
風の精霊ゾーンを抜け、さらに奥にある氷の精霊ゾーンへ。大規模なスケート場の裏手に回ると、その向こう側には『光の精霊ゾーン』と書かれた看板があり、「建設途中のため、関係者以外立ち入り禁止」となっていた。
銀髪の女はそれにも構うことなく中へと入って行く。花恋も当然その後を追う。立ち入り禁止だろうが関係ない。
中に入り、しばらく進むと大きな広場に出た。広場の感じから察するに、どうやらそこは子供向けのイベント会場のようだった。
花恋は立ち止まり、辺りを見渡す。
今までずっと自分の視界に入っていた女が突然消えたのだ。しかし、花恋はここまで来て確信していた。自分に姿を見せたのは偶然などではなく、意図的なものであると。
「……もういいかげん姿を見せてくれてもいいのではないかしら?」
花恋が怒気を孕んだ口調でいうと、広場の奥でゆらりと長身の影が動いた。
「ひさしぶりじゃない……今まで散々探し回ったわよ。そっちから出てきてくれて嬉しいわ。これで父さんと母さんの敵が打てる……――」
そこまで言って、花恋の口調に含まれていた怒気が増す。
「――ネフリーッ!」
女は何も言わない。ただ花恋を見つめるだけ。
ネフリー。彼女は花恋の子供のころの知り合いで、いつも一緒に遊んでもらっていた花恋が大好きな精霊。そして、花恋の両親の敵。
「よくもわたしの前にぬけぬけと姿を現せたものねッ! まぁ、いいわ。これでやっと敵が打てる。これでやっと……わたしは、わたしは、わたしは………あんたを許さないッ!」
花恋は胸にあるペンダントを掴むと、それを剣へと変化させる。花恋の最大にして、唯一の武器。父親の形見の人工精霊。
花恋に手加減をする気は一切なかった。ただただ自分の最大級の力を持って、復讐を遂げる。それしか頭になかった。
人口精霊の力を最大まで引き出し、花恋は加速する。以前時雨と戦った時に見せた高速歩行だ。一直線にネフリーへと向かい、剣を振るう。
しかし、花恋自身もわかっていた。この攻撃は当たらないことを。自分は人間、相手は精霊。持っている感覚そのものが違うのだ。以前時雨と戦った時に学んだことだ。時雨とセルルは精霊の感覚を活かし、花恋の攻撃のすべてを見事にかわして見せた。ネフリーだって精霊、この前と同じように戦えば結果は見えている。
花恋は時雨との戦いのあと、この差をどう埋めるかをずっと考えていた。人間と精霊、この埋めがたい感覚の差をいかにして埋めればいいのかと。
そもそも人工精霊も精霊なのだ。精霊である以上、対抗できないはずがない。
答えは簡単だった。
自分が精霊になってしまえばいい。
もちろんこれには抵抗があった。両親を失う原因になった精霊に自分が疑似的とはいえ一瞬でも変化する……考えただけでも吐き気がする。
だが、もしそれで、もしもそれで、自分がそんな些細なプライドを捨ててしまえば両親の敵が打てるかもしれないのだ。ならば悩む必要なんてない。
今までの自分は人工精霊の強さを証明すること、そして両親の敵を打つこと、それだけのために生きてきたのだから。
花恋の剣を軽々とかわしたネフリーは黙って花恋を見つめるだけで、一切花恋に対して反撃はしてこない。
それを見た花恋は、自分が持つ人工精霊へと意識を向ける。
自分自身の血液中を流れる霊力を集め人工精霊へと流し込む。そして同様に人工精霊の中の霊力を自分へと。それと同時に花恋の体に激痛が襲いかかる。
それは当然のこと、個人個人で体内に流れる霊力には微妙に違う。そしてその微妙さこそが大きな違いとなって精霊術に現れるのだ。自分の体内に流れるものとは別物の霊力を取り込むことは、言うなれば強制的に体の中にウィルスを流し込むのとさして変わらない。
しかし花恋は耐える。両親の敵を討つため。自分自身の生きてきた理由のために。
花恋は、今まで表に出さなかった自分自身の中にある狂気に体を支配されていた。いや、あえて支配させていた、と言った方が正しいかもしれない。狂気に身を任せることでさらなる力を得ることができるような気がしたからだ。
そしてそれ以上に、心の奥底に眠るネフリーと共に過ごした優しい時間を封じ込めるためだった。両親の敵とはいえ、ネフリーと共に過ごした時間は花恋の人生にとって一番幸せな時間だった。それを簡単に忘れることなんて出来るはずもない。
「うああああああァァァァァァァッ!」
花恋は叫びながら飛んだ。そのスピードは先ほどとは変わらない。だが、先ほどとは感覚が違う。ちゃんと見えている。ネフリーがどこに動こうとしているのか、気配を読むことができる。
花恋とネフリーは同じ土俵に立った。ならば花恋の普通では成し得ないスピードは完全に有利に働く。
花恋は飛び上った勢いをそのままに切り降ろす、それをネフリーがギリギリのところで避けるが、それだけで攻撃は終わらない。ネフリーが避けた方向に向けてすぐ剣を払う。普通、この剣は威力が大きいぶん一撃を終えたあとで必ずスキが出来る。しかし花恋は違う、剣の威力と圧倒的なスピードの融合。これが花恋の本気。
花恋の二撃目の払い切りによって、ネフリーはバランスを崩す。そのスキを逃す花恋ではない、体を思い切り捻り、自身のスピードを最大限に生かした突きをネフリーに向けて放つ。風の衝撃波を伴って、剣がネフリーへと突進する。
(決まった……ッ!)
花恋は自分の勝利を疑わなかった。
しかし、花恋の剣がネフリーの体へと触れる直前、ネフリーの胸元にあるペンダントが光を放ち、花恋の攻撃を防いだ。
「本当は使いたくなかった……。強くなったんだね、花恋」
ネフリーが微笑みながら言った。そしてネフリーの手には花恋の持つ剣――人工精霊――とまったく同じものが握られていた。
(なによ……それ…)
あれはなんだ? 自分の父親が死ぬ気で作り出した人工精霊を何故ネフリーが持っている? 父さんの技術は今も誰かが受け継いでいるのか?
花恋の頭の中で様々な感情が交差した。
だが、そんなことよりもただ目の前の光景に花恋は目を奪われていた。
そう、花恋の心に何よりも深く突き刺さったのは目の前の人物の表情だった。
何故、微笑む?
ネフリーは花恋に向かって微笑んでいた。
花恋はその微笑みを知っている。
いつも両親が研究に掛かり切りで寂しかった時、何か悩みがあった時、優しく抱きしめてくれたネフリーの微笑み。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ
嫌、なんだ。
ネフリーと……戦いたくない。
プツリ、と花恋の中で何かが切れる音がした。
こうなりたくなかったから、だから、憎しみに、狂気に、身を任せたのに……なんでこうなるんだろう。ネフリーは両親の敵なのに。それなのに、ダメだ。
花恋は自分の目から涙が溢れていることに気付いた。懸命に堪えようとするが、溢れる涙は止まることはなく、地面へと落下していく。
そんな花恋にネフリーがそっと近づき、微笑む。そして、しゃがむと、泣きながら座りこんでいた花恋を抱きしめた。その温かさはかつて感じたそれとまったく同じで、花恋の頬を流れる涙は止まるどころか、さらに量を増す。
「うっ、ううっ、なんで、なんでネフリーがあんなこと………」
花恋が泣きながら声を絞り出す。しかし、ネフリーは「ごめん」と謝るだけで決して否定はしない。覚悟していたことだが、やっぱりつらかった。自分の大切な人が自分の大切な人を殺したという事実。できるなら否定してほしかった。
「ねぇ? なん、で…? なんで、パパと、ママを……?」
ネフリーが両親を殺した。それはもう逃れようのない事実だ。今まで現実を見ながらも心のどこかで信じたくないそう思っていた。だが、そんな甘えはもう許されない。ならば、せめて理由だけでも、それだけでも知りたかった。
「………答えてよッ! ネフリーッ!」
花恋の勢いに観念したのか、ネフリーは目を閉じ、何かを深く考えるような仕草を見せたあと、言った。
「……花恋が大好きから」
ネフリーが再び微笑む。優しいすべてを包み込むかのような笑顔。
「わたしだって……わたしだって、大好きだよッ!」
大好き。ネフリーのことが。
だから、争いたくない。
けれど、大好きだからこそ許せない。花恋の大切なものを知っていたはずなのに、すべてを奪った。
「……」
ネフリーは無言のまま何も答えない。その瞳は悲しみを宿しているようにも見えた。すると、表情からは優しい笑みは消え、視線がまっすぐに花恋に向けられていた。
「花恋、お願がある。無理なお願いだってことは分かっている。けど聞いて」
ネフリーが花恋を見つめる。
「あなたの人工精霊をわたしに渡して頂戴。簡単なことじゃないってわかっている。だけど大事なことなの。少しだけ、考える時間をあげる、だから考えて。これはあなたのためなの。詳しいことは言えないけど、これ以上それを持ち続ければあなたにも危害が及ぶ。今までは大丈夫だったけど、あなたはもうそれを持っているべきじゃない。あなただけは守りたい」
「そんなことできるわけッ――」
花恋が涙を流した後の真っ赤な瞳で反論するが、ネフリーの視線は揺るがずにまっすぐに花恋を見つめ続ける。
「あなたにとってその人工精霊がどれだけ大切かはわかっているつもり。でも、だから頼んでいるの。もし渡してくれないなら……力ずくで奪わなきゃいけなくなる。わたしはそんなことしたくない。また会いに行く。だから真剣に考えて」
ネフリーはそう言い残すと、去って行った。
立ち竦む花恋を残して。
† †
夏目は走っていた。必死に今にも溢れそうな涙をこらえながら。
先ほど聞いた情報通り、フードコートへと真っ直ぐに走る。ほとんどの人が夏目とは逆の方向に走って行くが、何を思ったのか夏目と同じ方向へと向かう人もいた。
野次馬だ。ヘラヘラと笑いながら、まるでこれから新作の映画でも見るかのような表情で笑っている。夏目はそんなやつら全員に怒鳴ってやりたかったが、今はそんなことをしている場合ではない。大事なことは別にある。
何かの間違いであってほしい。あのメールもただの間違いで、今すぐ電話が鳴って「今晩何食べよっか?」なんていつも通りの会話がしたい。
少しだけ頬が涙で濡れた。
先ほどから携帯に何度も何度も電話をしているのに一向に出ない。出る気配すらない。そのせいで夏目の不安はどんどん大きくなり、とどまるところを知らなかった。
夏目がフードコートの裏に辿り着くと、そこにはたくさんの人間がおり、悲鳴を上げる人、笑っている人、失神する人、様々だった。救急隊と思われる人がそれらの人を抑えている。しかしそんな人々の様子に夏目は目もくれずに、人混みを掻き分けて前へと進む。
夏目が人混みを抜けて一番前へ出ると、そこには夏目の想像していた人物が、一番想像したくなかった人物が横たわっていた。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
「嫌……何で、何で………時雨……」
夏目は救急隊の面々の制止を振り切り、緑色の液体を流しながら地面に横たわる時雨を抱きかかえた。
何だ、これは。
一体どうして、こんなことになっている。
夏目の手の中の時雨は死んだように動かない。左胸には大きな穴が開いており、心臓が抉り取られている。
「……」
夏目は目の前で起こっていることを現実として受け止めることが出来なかった。自分の大切な人が何故こんなことになっているのか。
これは悪い夢だ。悪夢なのだ、そう思いたかった。
だが夏目の腕に伝わる生々しい感触がそれを許さない。これは現実なのだ。
嫌でも思い知らされる。
ただただ、夏目の頭が真っ白に染まっていく。もう何も考えられない。考えたくない。これ以上何かを考えたところで悲しみ、絶望、寂しさ、それらが押し寄せてくるだけ。もういい。こんな現実ならいらない。
夏目の心の中では時雨が笑っていた。今日の晩御飯の相談や、学校での出来事、そんなくだらないことで笑い合う何でもない日常。今までもこれからもずっと続く、続けよう、そう思っていた日常。なのに、なのに、なんで。
「あの、そろそろ――」
救急隊員が夏目に声をかけ、呆然とする夏目から時雨を引き離す。
夏目は、涙も流れず、ただただ呆然としていた。
自分はこのまま時雨という存在をあきらめなくてはいけないのだろうか。自分に出来る事は何もないのか。時雨をあきらめることが自分にできるだろうか。
もう、時雨の無茶に付き合わされることもない。
もう、一緒に御飯を食べることもない。
もう、遅刻を叱ることもない。
もう、頭を撫でてあげられない。
もう、抱きしめてあげられない。
もう、時雨の声を聞くこともない。
もう、時雨は怒らない、泣かない、喋らない。
もう、時雨は笑わない。
―嫌だ。
―絶対に嫌だ。
―そんなの絶対に嫌だッ!
(……何をやっているんだ、わたしは。なんのためにここに来た。時雨を助けたかったからだろう。失いたくなかったからだろう、自分の大切な人をッ!)
夏目の目に生気が宿る。
「待って!」
担架に時雨を運ぼうとしていた救急隊員の後姿に声をかけ、その歩みを止める。夏目は立ち上がり、救急隊員から時雨を引き離し、その場に寝かせた。
(まだだ、まだあきらめちゃダメだ。冷静に考えろ。時雨の体内に流れているのは血液じゃない、霊力だ。それなら、まだ可能性はある)
夏目は時雨の体のことをすべて知っていた。体内に血液ではなく、霊力が流れているということも。
「ごめんね、時雨」
夏目はそう言って、右手を時雨の左胸に空いた穴に突っ込んだ。
時雨の体内に流れているのが霊力であるならば、自分の霊力を使って体に循環させてやれば、時雨が生き延びることは可能だと考えたのだ。他人の霊力を体に流し込むことは激痛を伴う。こんな状態の時雨にさらなる苦痛を与えるのは忍びなかったが、それしか方法がなかった。
夏目は手先に集中する。すると、夏目が霊力を送ったわけではないにもかかわらず、かすかに霊力に近い存在の流れを感じた。
(こ、れは……霊力じゃない、エレメント………?)
時雨の体内を微かだがエレメントが循環していた。おそらくは時雨が意識を失う前に行ったのだろう。循環しているとはいえ、本当に僅かで生命を維持できるようなレベルではない。しかし、もしこれがなければすでに手遅れだったかもしれない。
(頑張ったんだね、時雨。あとはお姉ちゃんにまかせて)
夏目は自らの霊力を可能な限りゆっくりと、優しく時雨の体へと送り込む。精神を集中して、霊力の流れを把握する。時雨の体内の血管のすべてを自らが放出した霊力で満たしていく。
「お姉ちゃんが、絶対に助けるからね」
夏目は決意と共に、強く優しい瞳で時雨を見つめた。
† †
少しして、とりあえず時雨の状態は安定した。安定した、とは言っても夏目が霊力を送り続けなければあっというまに絶命するだろう。
夏目はほっと息を吐く。
まだまだ予断を許さないとはいえ最初の山は越えたと言ってよかったからだ。しかし、いつまでもこうしている訳にはいかない。夏目の霊力は無限ではないのだ。夏目は時雨のためならいつまででもこの状態を維持する覚悟があったが、現実は覚悟だけでどうにかなるほど甘くはない。
だが冷静に考えれば、状況は厳しかった。目の前で横たわる時雨を助ける方法があるだろうか? 左胸に穴が空き、心臓が抉り取られているのだ。もちろん普通の人間ならば『移植』という手段がある。拒絶反応など心配すべき点は多々あるものの、いま現在の医療技術であれば成功率は九十パーセントを優に超える。
しかし、時雨の心臓は普通の心臓ではない。それは『精霊石』と呼ばれる。精霊をその身に宿した人間のみが持つ、媒介を必要とせずに常に霊力を生成し続ける特殊な物質。仮に、移植をするにしてもそんなものが簡単に手に入るはずがない。
こんな状況を打破できるだろうか。まさしく八方塞がりだった。時雨はまだ生きている。夏目の霊力が続く限りは生きられる。しかしそれが終われば……。今は生きているのに、自分にはどうすることもできないのか。
夏目の心が絶望に染まりかけた時、不意にそばに落ちていた時雨の携帯が鳴った。画面には肝心な時にいなかった夏目の母親の名前があった。夏目は左手で電話を取り通話ボタンを押した。
『もしもし、無事!?』
冬霞の声は焦りを帯びており、何かが起きていることを感じさせた。
「お母さん……どうしよう。時雨が、時雨がッ………」
『夏目? 時雨は? 時雨はどうしてるのッ!?』
「……時雨は――」
夏目は冬霞にすべてを話した。
目の前で時雨が倒れていること。心臓を抉り取られていること。夏目の霊力でかろうじて命を繋ぎ止めていること。言いたいことはもっと他にあったが、そんな時間はない。要点だけを簡潔に話した。
『……ごめん。間に合わなかった。あの男を止められなかった! 私のせいで! くそっ!……安心して時雨は必ず助ける。だから今すぐ私の病院に搬送して。それから夏目も頑張って、病院まではなんとしても霊力を持たせて』
「うん。任せて」
夏目は電話を切り、傍で呆然と見ていた救急隊員に指示を出した。夏目のあまりの迫力に気圧され、救急隊員は反論することもできずに言うことを聞いた。
ゆっくりと時雨を担架に乗せ、救急車まで運ぶ。もちろんその間も時雨に送る霊力は絶やさない。
(大丈夫。大丈夫だからね。お姉ちゃんがついてるから)
冬霞は言った。
必ず助ける、と。
なら自分は自分に出来ることをしよう。
夏目は自分にそう言い聞かせ、救急車に乗り込んだ。
† †
花恋は病院に向かっていた。冬霞から連絡を受けたのだ。秀と涼には知らせるな、と冬霞が言っていたので二人には適当に言い訳をした。
向かうのは冬霞が委員長を勤めるこの街最大の病院。精霊術を使った医療で海外からも患者がやって来るほど有名な病院だ。花恋もこの街に来る以前から知っていた。
遊園地からバスに乗って病院へ。冬霞から言われていた病室に向かう。そこは、広大な敷地を有するこの病院の最も奥で、回りにはほとんど人はいなかった。
病室の扉を開け、花恋は目の前の光景を見て愕然とした。
つい昨日まで、一緒に笑い合っていた時雨が横たわったまま全く動かない。
身体中に管が通され、回りには複雑に機械がおかれている。中でも一番目を惹くのが、左胸から伸びる他とは明らかに違う一本の太い管だ。その管の物々しさが改めてただ事ではないことを花恋に感じさせた。
(なに……これ?)
花恋は一瞬自分が見ているものが現実なのかどうか疑いたくなった。嘘であってほしい。いや、嘘としてしか受け入れられなかった。
「……花恋ちゃん」
固まる花恋に不意に声がかかった。
「夏目……。これはいったい……?」
花恋はベットのすぐそばの椅子に座っている夏目を見る。
夏目は顔色が悪く、やつれているかのように見えた。さらに、目の下には痕が出来ている。一人病室で泣いていたのかもしれない。
「……わたしにもわからない。でも大丈夫、きっと大丈夫。母さんならきっと」
夏目は笑顔で言うが、その笑顔も無理しているのが明らかだった。
母さん、という言葉を聞いて花恋は思い出した。花恋をこの病院に呼び出したのは他でもない冬霞だ。だが病室に冬霞の姿はない。
花恋が病室を見渡すとその意図を察したのか夏目が言った。
「お母さんなら今手術の準備してる」
手術、という言葉を聞き花恋は初めて目の前で起きていることが現実だということを悟った。
「手術って……一体何があったの?」
「それはわたしから話すわ」
声と同時に扉病室の扉が開き、冬霞が入って来た。その容姿は二十代の娘を持つ母親のものではまるでなく、花恋と同じもしくはそれ以上に若く見える。そんな彼女の服装はボロボロで身体中は傷だらけだった。
「学園長、その傷はいったい……?」
「……それも今から話すわ」
花恋と夏目の二人が冬霞を見つめる。
「まず始めに言っておく、ごめん。わたしは、時雨や花恋を守るためにあれこれ動いていたのだけれど……それが全部裏目に出た。ごめん」
「時雨と……わたし?」
花恋は怪訝な表情を浮かべ聞き返す。何故自分が出てくるのかわからなかったのだ。
「そう。あなたと時雨……。まず、百年前精霊と人間の間で大規模な戦争が起こったのは知ってるわね?」
冬霞が言っているのは『霊戦』と呼ばれる今から丁度百年ほど前に人間と精霊の間に起きた大規模な戦争のことだ。人間は人数の多さと科学力を武器に、精霊は人間では持ち得ない圧倒的な霊力を武器に争った。
戦争は混沌を極め、疲弊仕切った両者はそれぞれの要件を呑む形で一応の決着を見た。人間側の要求は『精霊術の対人応用技術研究の援助、及び情報提供』。これによって人間界に精霊術が瞬く間に広まることとなったのは言うまでもない。対して精霊側は『科学技術の対精霊応用技術研究の援助、及び情報提供』だった。この精霊側への技術提供によって、現在多くの国が熱心に研究している人工精霊の礎が築かれた。
「人間と精霊は一見すればうまく共存出来ているように見えているけど、実際そうでもないの。世界中あちこちで衝突が絶えないのよ」
「それは知っているけど……それがわたしたちにどんな関係が?」
人間と精霊の衝突、多少は花恋も知っていた。
だが、ニュースでも報道されていたが、そんなに深刻に捉えてはいなかった。ましてそれが自分と関係があるなんて考えられなかった。
「そうね。そう思うのも無理はないわ。けど関係があるのよ、正確に言えばあなたではなくあなたのペンダントね」
冬霞は花恋の胸元を指差しながら言った。
「わたしの……人工精霊、ね」
「ええ。衝突を繰り返している現状で、強大な力を持つ人工精霊を放ってはおかないでしょうね。いくらでも軍事転用が可能。ならばそれを狙う勢力があってもおかしくはないでしょう?」
「ということは……時雨が狙われた理由は精霊石ね」
精霊石、それは体内に精霊を宿した人間のみが有する奇跡の石。絶え間なく霊力を生み出し、決して枯れることがない。人工精霊同様、人間と精霊の力が合わさって生まれた種族の垣根を越えた存在。それが時雨の体内で心臓の役割を果たし、時雨の体内に霊力を循環させていたのだ。
「ええ、わたしは精霊石と人工精霊に固執する勢力のある男がこの男がこの街に入り込んでいることを知って、なんとか引きさがってもらおうと交渉を続けていたわ。でも、ダメだった。相手が一枚上手だった。なんとか力づくで抑えようともしたのだけれど……このざまよ」
冬霞がボロボロなのは、その男というのと一戦交えたことによるものなのだろう。冬霞は毅然と振舞っているが、その表情と声からは疲労を窺い知ることが出来た。相当に無理をしているのかもしれない。
「ねぇ、お母さんその男って……」
夏目が何かを察したかのように、震えた声で冬霞に聞いた。
「……黙っていてもいずれわかることだから言っておくわ。今回の事件の首謀者の名前は『橘日嗣』。橘時雨の実の父親よ」
花恋の顔が強張る。夏目は眉間にしわを寄せて頭を抱える。
「……そう。こいつの父親ね。わかったわ。確かに驚く内容ではあるわ。でも今一番大切なのはそんなことじゃない。時雨はどうなるの? 精霊石を奪われたってことは心臓がないのと同じなのよ」
確かに事件の首謀者が時雨の父親と言うのは衝撃だった。だが今の問題はそうじゃない。目の前で横たわっている時雨だ。
「そうね。普通なら心臓の移植も可能かも知れないけど、時雨にはそれが出来ない……。でも助ける方法はある。見て」
冬霞はそう言うと時雨のベッドの端にかかっていたカーテンを開けた。
花恋がそこに目を向けるとそこには真っ赤な石があり、大きな管を通して時雨に何かを供給しているようだった。
「なによ……これ」
霊力ではない何か。感じたことのない何かが時雨の中へと入っていく。花恋はあまりの光景に一瞬吐き気を覚えたが、ぐっと堪えた。
「戦争時代の遺産……魔石よ」
「魔石……?」
花恋は聞いたことこそあったものの、まさか実物を見ることになるとは思っていなかった。
「戦時中、人間が精霊に対抗するために作り出した兵器。私が過去の理論を応用してに作りだした物よ」
花恋は魔石の存在は知っていたものの、自身の目で見る日が来るとは思ってもいなかった。魔石が戦時中の兵器でであることは知っていたが、その作成には莫大なお金と労力を要すると言われていたはずだ。それを独自に作りだしたというのだから花恋の驚きも無理はない。
「……可能よ。時間はかかったけれどほぼ完成したと言っていい。私はこの魔石の力を持って橘日嗣を牽制するつもりでいた。あの男がいつか時雨を取り戻そうとするのはわかっていたから。だから、魔石研究者である日嗣と同じものを作り出し、手出し出来ないようにしようとした」
「ちょ、ちょっと待って、こいつの父親が魔石研究者?」
「ええ、そうよ。日本国政府から特殊権限を与えられたエリートね。そう、私が作った魔石もあの男の理論を応用した物よ。魔石研究の権威の中の権威それが橘日嗣、それゆえ、彼がいかに犯罪じみたことをしたとしてもそのほとんどが隠蔽される」
それに、と冬霞は続ける。
「だから精霊――セルルを宿して生まれた時雨は最高の実験体だったでしょうね。魔石は……精霊を殺すための道具なのだから」
花恋は顔をしかめる。
(狂ってる……そんなのって…)
憤りを隠せない花恋だが、今はそんなことで時間を使っている場合ではない。
心から湧きだす怒りをグッとこらえ、冬霞へ話の続きを促す。
「確かに非道よ。とても許されるものではない。でも今は魔石の存在に感謝すべきなのかもしれない。これさえあれば時雨を助けることが出来る」
花恋はすぐに冬霞が何をしようとしているのかが分かった。時雨へと供給される感じたことのない何か。そしてそれを使って時雨を助けるという冬霞。ここまでくれば誰でも想像がつく。
「魔石を使って……まさか――」
「――ええ、魔石を心臓にするのよ」
花恋は想像通りの答えだったとはいえ、思わず言葉を失う。
(人間なのに……そんなのって)
花恋はわかっている。それしか時雨を助ける方法がないということを。
だが、本当にそれでいいのだろうか。時雨は先ほど花恋が言ったように、生きた人工精霊と言っても過言ではない。人間でありながら体内には霊力を流し、心臓ではなく精霊石を宿している。
時雨は以前花恋と争ったときに言っていた、「自分は化け物だ」と。まるで自分自身を卑下するかのように。きっと自分は化け物だと時雨は誰よりも感じていたのだろう。様々な迫害を受ける過程で、そう認めたくなかったとしても認めざるを得なかったに違いない。
そんな時雨の胸に魔石を押し込んで生き永らえさせる。
わかっている。それしか時雨を助ける方法がないということは。
だが、それは時雨を本当に化け物へと変えてしまうのではないだろうか?
体内に精霊を宿す人間は世界中でも数人しかいないとはいえ、存在するのだ。人間として、世界の一部として、もちろん普通の人間にしてみればそれは異端であり、化け物であったかもしれない。だが時雨は世界の一部だった。
しかし、今度のことは違う。体内に魔石を宿す人間なんて存在しない。存在し得ない。それこそ人間として異端であり、世界にとっての異物なのではないだろうか。それこそ時雨の言っていた『化け物』なのではないだろうか。
わからない。だが自分を化け物として卑下していた時雨を、生きるためとはいえ本当の『化け物』に変えてしまっていいのか。花恋はわからなかった。
「ねぇ、本当にそれしか方法はないの?」
「……わからない。時間があれば他の方法も見つかるかもしれない。でもそんな時間はない。時雨の身体だって今の状態をいつまでも維持できる訳じゃない」
冬霞が冷静に事実を述べていく。
「それにね、時雨の精霊石を奪われたってことは、セルルを攫われたってことと同義なのよ。あなたも気付いたでしょう? セルルがいないことに」
確かにそれは感じた。ふだんそこにあって当たり前の物がない、そんな違和感を先程から感じていたが、理由はそれだったのだろう。
「セルルは時雨の精霊石に宿っていたの。それを奪われた以上、ここにいなくて当然なのよ。わたしたちにとってセルルは時雨と同様に大切な存在、だから今すぐでも探し出して助けないといけない」
冬霞の説明によれば、時雨がセルルを宿していたのではなく、あくまで時雨の心臓であった精霊石にセルルが宿っていたらしい。ゆえにそれは、単に心臓である精霊石を奪われただけではなく、セルルそのものを奪われたのと同義なのだ。言いかえればセルルが時雨の心臓だった、ということにもなる。
「でも時雨だっていつまでもつかわからない。だから一刻も早く時雨の手術を終えて、セルルの捜索に向かわなくてはいけないの」
状況的に選ぶ道は一つしかない。冬霞の述べる言葉はまるでジグソーパズルのようにきっちりと組み合わさっていき、これでもないというほどに正しい道を示している。
時雨を魔石によって蘇生させて、一刻も早くセルルを捜し出す。それが最善。花恋はわかっているつもりだ。だが、
「これしか方法がないのはわかってる。けどいいの? 時雨は自分のことを化け物だって、そう言って笑ってた。もし今魔石を使って時雨の命を繋ぎ止めても、それこそ時雨は本物の化け物になるんじゃないの?」
花恋の言葉に対し、冬霞は何も言わない。
花恋は冬霞がこのことを考えているだろうとは思っていた。考えた上で、この結論に辿り着いたのだということも感じた、しかし、言わずにはいられなかった。
すると、黙って俯いていた夏目が顔を上げた。
「……わかってるわ。わかってる。わかってるわよッ! 時雨が自分のことをどう思っていたかなんて、このあとどう思うか、なんて。だから、だからッ! これはわたしのわがままッ! わがままなのよ! わたしは時雨に生きていてほしい。もう一度時雨の声が聞きたい。もう一度時雨を抱きしめてあげたい。だから、だからどんな方法を使ったっていい、絶対に死なせないッ!」
夏目は顔を真っ赤にしながら、目には涙を溜めて続ける。
「それにセーちゃんだって、今頃どうなってるかわからない。一刻も早く助けてあげなきゃいけない。わたしは、無理を言っているのかもしれない、途方もないことを言ってるのかもしれない。でも、それでもわたしは、時雨もセルルも、二人とも失いたくないのよッ!」
夏目の言葉の端々から時雨や、セルルのことを思う気持ちがひしひしと伝わってきた。これほどの強い思いをぶつけられては、花恋が言えることなど何もない。
「……そうね。わかったわ。もう何も言わない。たとえこいつが本物の化け物になったとそても、こいつには学園長や夏目がいるものね。……わたしに出来ることはあるかしら?」
「残念だけど、特にないわ。時雨が狙われた以上、次に狙われるのはあなたの人工精霊の可能性が高い。あなたにはどこかに身を隠してもらうわ」
冬霞の言うことは最もだ。間違いなく次に狙われるのは花恋だ。この街で人工精霊を持つ人間など花恋の他には存在しない。
「そうね。それが最善かもしれな……!」
不意に、花恋の頭に一人の精霊の顔がよぎった
ネフリー。
花恋の大好きだった精霊、そして両親の敵。
ネフリーは遊園地で対峙した時に言ったのだ。
「このままではあなたに『も』危害が及ぶ」
「あなた『だけ』は守りたい」
だから人工精霊を渡せ、と。
この『も』、『だけ』が意味しているのは何か。
花恋の回りに被害が出ること知っていたかのような言い方に感じる。
(まさか、この事件にネフリーが関わっているの……?)
確証はない。しかし、可能性は十分にある。今まで一切姿を見せなかったネフリーが突然現れ「人工精霊を渡せ」そう言ったのだから。これらを結びつけて考えるな、というのが無理だろう。現状、セルルの居場所に関しては何の手がかりもないのだ。もしハズレだったとしても確かめる価値はあるはずだ。
「花恋? どうかした? 今から隠れ家の場所をメールで送るわ。あなたはそこにいて。何かあったら知らせるから」
不意に冬霞に声を掛けられ、少し動揺したが、すぐに取り繕う。
冬霞と夏目は気丈に振舞ってこそいるが、精神的に相当堪えているのは間違いない。そんな二人を確証もない情報で振り回すこともない。
「……わかったわ。今からそこに向かう。何かあったら必ず連絡して」
そう言って花恋は時雨の病室を出た。
もちろん冬霞に言ったことは嘘だ。花恋には現状を変えるために出来ることがある。ならそれをやるだけだ。冬霞には悪いと思うが、出来ることをしないなんてことは我慢できない。
(それにしても……不思議なものね。このわたしが……)
花恋は思わず笑ってしまった。こんな時に不謹慎なのはわかっていたが、それでも可笑しかったのだ。ついこの前まで精霊なんていなくなればいい、そう考えていた自分が今では精霊、セルルを助けるために何かをしようとしている。
(わたし、変わったのかな?)
今でも精霊が嫌いだ。それは変わらない。
じゃあ何故今セルルや時雨を助けるために行動しようとしているのか。それは花恋にとって、あの二人が他とは違う特別な存在だからだろうか。
(……考えたくもないわね)
花恋はそこで思考を打ち切った。これ以上このことについて考えてもろくなことにならない、そう思ったからだ。
「まったく、わたしがあいつらのためになんて……冗談じゃないわ」
そう言って大きく溜め息を吐くと、花恋は前を向いて歩きだした。
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