第4話 日常の裏側で
「また遅刻?」
精霊術のエリートたちが通う学校、エデン。その二年A組担任の結衣原夏目が、一人の少年を睨みつけていた。その視線は、まるで蛇が蛙を睨むかのように鋭い。
その少年は、体内に氷の大精霊セルライナ・イリアスを宿した他とは少し違う境遇を持つ、橘時雨だ。
「松葉杖なんだから仕方ないだろ? 俺初めてなんだよ、松葉杖。これ見た目以上に歩きづらいんだ」
時雨は、特に悪びれもせずに淡々と言い返す。
すると、時雨を睨みつけていた夏目の顔が、真っ赤になった。その様子はヤカンが沸騰した様子を思い出させる。もちろん夏目は、恥ずかしさや照れから顔を真っ赤にしているのではない。
怒っているのだ。
その様子を見た時雨は思わず「ゲッ」と声を漏らす。霊体化して、時雨の体内に入っているセルルも時雨に向けて言葉を発する。「逃げよう!」と。時雨の頭の中でセルルの言葉が響き、時雨もそれに同意する。
夏目は、普段ものすごく優しい。姉のように時雨とセルルのことを大切にしてくれるし、いつも何かあれば飛んできてくれる。しかし、普段優しい分、怒った時の怖さは半端ではない。その頭に角でも生えているのではないかと疑いたくなる程である。
時雨がその場から脱出すべく、タイミングを窺う。
夏目は、担当の科目は国語で体育とかではまったくないにも関わらず、とてつもなく足が速い。その上、得意の風の精霊術の力でさらにスピードを上げることができるのだからたまったものではない。
正直、夏目から逃げ切れる可能性は普段でも四割あるかないか程度だろう。まして今日は松葉杖だ。可能性はさらに下がる。そして、もし逃げようとして失敗すれば、倍のお説教が待っているだろう。
だが、男にはやらなくてはならないことがあるのだ。
「いい? 時雨、朝もあれほど言ったよね? 今日は退院初日で、松葉杖だからいつもより早めに出るように、って。お姉ちゃん言ったよね。何度も何度も何度も何度も何度も。時雨はバカなの? それにね、本当に出席日数危ないの! このままだと一学期だけで留年確定なんてこともありえるよ? ただでさえ、遅刻が多いのに、最近は入院までしちゃってさ。まぁ入院の分はなんとかなるかもしれないけど……」
夏目のお説教が本格的に始まり、徐々にヒートアップしていく中で、ふと夏目が呆れた様子で肩をすくめ、そして、
目を瞑った。
時雨はその瞬間を見逃さない。
(今だっ!)
時雨は、後ろに向けて走り出す! その様子はまさに、疾風のごとく!
時雨もそれなりに足には自信がある。松葉杖だとしても、振り向いて精霊術を行使することさえできれば勝算はある。確かに夏目は足が速い。しかし、時雨は簡単に負けるわけにはいかない。長い長いお説教から逃れるために。
(うおおおおおおおォォ!)
時雨が心の中で叫び、振り向こうとしたその瞬間。
ニヤリ。
二年A組担任、国語担当教師、結衣原夏目が笑った。
そして一瞬で時雨へと距離を詰める。
時雨が、夏目の動きに気付いたときには、勝負は決していた。
時雨の負けだ。
後ろから羽交い絞めにされた時雨は身動きを取ることができず、負けを悟った。
端から見れば、その様子は夏目が時雨に後ろから抱きついているようにも見える。時雨自身も、背中に触れる夏目の豊満なものの感触に一瞬、これはこれでいいかなんて考えたりもしたが、
(違う! 断じてよくない!)
時雨だって、年頃の男の子なのだ。背中に触れる誘惑に負けそうになるが、何とか、抗う。だが、いくら時雨がよくなくても、もうどうしようもない。時雨の負けは決まっているのだから。
「遅延呪文かよ。ずるいぞ、夏目」
観念し、抵抗を諦めた時雨が言った。
「何言ってるのよ。時雨だって逃げるのに術を使うつもりだったでしょ?」
時雨はまったくもってその通りなので言い返すことができない。
先程、時雨への距離を一瞬にして詰めたのは、もちろん精霊術である。あのスピードは人間に出せる速度の限界を確実に超えていた。しかし、夏目は精霊術の発動に必要なはずの詠唱なしで、瞬時に発動させた。そのトリックの正体こそが先程時雨が口にした遅延呪文と言われる高等技術だ。
本来、精霊術の発動には時雨のような特殊な例を除けば絶対に詠唱が必要である。だが、このスペルキープはその詠唱をあらかじめ行っておくことで、瞬時に精霊術を発動することができるのだ。術者の実力に応じて、キープできる数や、時間が決まるらしいが限界がどの程度かはわかっていない。
その後、時雨は捕まり、職員室に連行された。
「さて、なんで逃げようとしたのかな? 時雨くん」
夏目の顔は、笑顔。ものすごく優しげな笑顔だ。この笑顔を見せられたら、大抵の男はイチコロだろう。時雨もイチコロになってしまいたいところだが、そうはいかない。夏目の顔は笑っているが、目が違うのだ。目に炎が宿っているのではないか? と錯覚しそうなくらい凄まじい迫力なのである。
夏目はいつもそうだ。怒っている時は必ず笑う。これが夏目の怖さを倍増させる原因の一つなのだ。
(怒るなら、ちゃんと怖い顔して怒ってくれよ……)
「何か言った?」
夏目がギロリ、と時雨を睨む。
「ねぇ、逃げたのは、セーちゃんも同意の上なのかな?」
「え? う、うん。むしろ逃げようって言ったのはセルル」
(ちょっとッ! 庇ってくれてもいいじゃん、時雨ッ!)
「そーなんだ。セーちゃんもお説教だね?」
夏目が優しい口調で言うと、
(マジかよ………)
(うわ~ん………)
時雨とセルルは心の中で同時に叫んだ。
この二人は二人で一つなのだ。だから、お説教を二人が受けるなら、時雨は自分の分だけでなくセルルの分も、そしてセルルは時雨の分も受けなくてはならないのだ。先ほど逃げようとして倍になったお説教がさらに倍になってしまった。
((最悪だ……))
† †
昼休み、時雨はいつものように双子たちと昼食を摂るため屋上へと向かう。いつもならその場にはセルルを含めて四人しかいないはずなのだが、今日は五人だった。
もう一人、三咲花恋がいた。
転校初日に、学園長から聞いた時雨たちの秘密をネタに時雨とセルルにケンカを吹っ掛け、共に大怪我をして入院するという、破天荒としか言いようのないことをやってのけた人物である。
しかし、ケンカを吹っ掛けたのにも花恋自身の過去からくる理由があり、それを知った時雨たちと和解していた。
「あんた、朝、説教されてたでしょ?」
花恋が意地の悪そうな笑みを浮かべて、時雨の方を見る。
「………」
時雨は、花恋に一瞬視線を向けるものの何も答えない。
時雨は何も、花恋と話したくなくて何も答えない訳ではない。今、花恋の話に出てきたお説教のせいでボロボロなのだ。あれから何時間も続き、終わったのはお昼の直前だった。
時雨の表情は暗く、疲れきっている。隣で時雨の肩に頭を預けているセルルも同様に、精根が尽き果てたような顔をしている。
「ふふっ、遅刻なんてするのがいけないのよ。わたしもあんたと同じ入院空けなのに、ちゃんと朝から来てるわよ?」
花恋も時雨と同様に今日、入院生活を終えて初めての学校だった。本来ならば、花恋の怪我は重傷で、こんなに早く退院はできない予定だったのだが、花恋自身の回復力が凄まじかったらしく時雨と同じタイミングでの退院となった。
対する時雨は本来ならばもっと早く退院できるはずだったのだが、なかなか傷が回復せずにこのタイミングになっていた。
「うるさいな。どーでもいいだろ……つかお前、今日この学校通うの二回目か?」
「……そうよ。悪い?」
花恋は少しバツが悪そうな様子で答える。
すると今度は時雨が意地悪そうな笑みを浮かべて、
「いいや、別に。ま、転校初日に入院なんて滅多に経験出来るもんじゃない。よかったな、貴重な経験が出来て」
花恋は時雨の皮肉に対し、ただでさえ鋭い目つきをさらに鋭くして時雨を睨みつけるが、当の時雨は涼しい顔でやり過ごす。
セルルがそんな二人のやり取りを何とも言えない表情で見ていると、不意に双子の兄が声をあげた。
「あの………この人は三咲さんだよね?」
「「……は?」」
時雨とセルルが怪訝な表情で秀を見る。
「いや、だって、話し方とか、雰囲気とか、まったく違うし……」
(ああ、そういうことか………)
花恋は転校初日、猫を被っていた。言葉使いはとても丁寧で、雰囲気も穏やか。まさに完璧なお嬢様といった感じだった。しかし、病院で毎日のように顔を合わせていた時雨とセルルは花恋の本来のしゃべり方であるこちら側に慣れてしまっていた。一緒に過ごす時間が、本来の花恋の方が圧倒的に長かったのだから仕方がないことだろう。
今日も、花恋は教室にいる時は猫を被っているのだが、時雨たちにしてみれば胡散臭いことこの上なかった。
「これがホントのわたし。わたしに勝手なイメージ作るのはいいけど、それを押し付けないでよね? 迷惑」
「………」
花恋の言葉に、秀は固まったように動かない。よほどショックだったようだ。
(……残念だったな、秀)
時雨は、心の中で秀へ慰めの言葉を送る。
だが時雨自身、秀が騙されたのも仕方がないと思う。花恋の演技は完璧だ。もし花恋との間に何もなく普通に生活していたら、時雨も騙されていたかもしれない。想像したくもないが。
「ふーん、何か胡散臭いと思ったら」
不意に今まで黙っていた涼が声を出した。時雨にはその声色に怒りが混じっているような気がしたのだが気のせいだろうか。
花恋が涼の方を見て、声を出そうとすると、まるでそれを遮るかのように涼が続けた。
「別に、あんたがどうしようと勝手だけど、ほどほどにしときなさいよ。地獄に堕ちたくなかったら」
涼と花恋の視線が時雨とセルルの前で交差する。二人には視線のぶつかる先でバチバチと大きな音を立てながら火花が散っていたように見えたのだが、おそらくそれは幻覚ではないだろう。
どうやらこの二人、蛇とマングース並みに相性が悪いらしい。
まさに蛇とマングース、世紀の決戦が幕を切ろうとしたそのとき、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「「ふぅ……」」
時雨とセルルはお互いの顔を見合せて大きく息を吐いた。
ケンカをするのは構わないが、あの空気はいつもの双子のケンカとは違い周りにいるこちらまで緊張してしまう。先程まで夏目に説教を受けていてヘトヘトの時雨とセルルには勘弁してほしいところだった。
セルルが時雨の中に戻ったあと、時雨は傷心の秀を連れ屋上を後にする。その後ろでは、禍々しい雰囲気が感じられたが、気のせいだろうと自分を納得させた。
秀を慰めながら、教室への道を半分くらい来たときだった。
「橘くんッ!」
不意に声が掛かり、時雨が振り返るとそこには二年A組の委員長、坂崎芽衣がいた。
「よかった、秀君たちもいる」
どうやら坂崎は時雨たちを探していたらしい。時雨が何事かと思い、どうしたのか尋ねると、
「うん、五時間目の授業場所が変更になって、それを伝えなきゃと思って」
五指間目は普段と同じように教室だと思っていたのだが、どうやら急な変更があったらしい。教室にいなかった時雨たちをわざわざ探してくれていたのだ。
「悪いな、委員長」
「べッ、別に! 普通のことしただけだから……気にしないで」
坂崎は顔を少し赤くして答えると、じゃあ、と一言言って行ってしまった。
「あぁ~やっぱり委員長は癒されるよな~」
ずっと黙ったままだった秀が声を出した。
「あの眼鏡と清楚な雰囲気! わかるだろ? 時雨!」
「……さぁな」
秀は時雨の言葉を無視してその後も坂崎の魅力について語っていたが、今までも散々聞かされていたので、時雨は聞き流した。
そんな二人の後方では、
「あの女、なんなの?」
「へぇーあれがわかるんだ。あんたなかなか話がわかるわね」
花恋が問い、涼が答える。
「なんか嫌な感じね、あの女」
「なにか、って言われると困るけど……」
二人が何の根拠もない憶測で会話を進める。
二人の目付きは、先程屋上にいたとき以上に鋭い。おそらく二人の女の勘が疼いているのだろう。
時に女の勘はカオス理論を超えるのだ。
「時雨にもなにかとちょっかい出してるしねぇ………ま、なんにせよ――」
涼が、少しだけ時雨に視線を向けて言ったあと、
「「――気に入らない」」
涼、花恋、二人の声が重なった。
蛇とマングースは変な所で気が合うようだった。
† †
その日の夕方、時雨たちはいつもの帰り道を歩いていた。
時期が六月と夏も近いこともあって、まだ日は落ちていない。梅雨明けのニュースは流れていないが、今日雨は降っていなかった。
「おまえ、今日やっと引っ越して来るんだよな?」
「ええ、やっと。これで毎日長い距離を通学しなくてすむわ」
時雨の左隣には、すっかりこのメンバーに馴染んだ花恋が歩いている。右隣りにはいつものようにセルルが。うしろには秀、涼の双子もいる。
花恋は転入当初から今まで、電車を乗り継ぎ親戚のおじさんの家から学園まで通っていたのだが、本日やっと引っ越しが完了したのだ。あれやこれやと、なんだかんだで時間がかかってしまったようだが、これでようやく長い通学時間ともおさらばというわけだ。
「で、おまえの引っ越し先ってのは何処なんだ?」
今日は、花恋の引っ越し先をみんなで見に行くことになっていたのだ。
初め花恋咲は嫌がったのだが、セルルや涼に押し切られ、ついには了承した。
以前に比べて花恋もずいぶん丸くなったものだなと花恋に聞かれたら蹴りの一発でも飛んできそうなことを頭の中で考えていると、不意に花恋が立ち止まった。
「ここよ」
「ここって?」
秀が疑問を口にする。
時雨もまったく同じ疑問を口にしたかったところなので丁度良かった。
なぜならここは、秀と涼たちの家のすぐそばだったからだ。
「だからここよ」
花恋がビシィ! と音が立ちそうなくらい真っ直ぐにある一点を指す。
そこにあるのは、秀たちの家………ではなく、そこから少し離れた所にある最近出来たばかりのマンションだった。
「近い……。なんでここなのよ」
ジロリ、と花恋を睨みながら涼が言った。
「知らないわよ。学園長が手配してくれた場所だし。それに、こんなにあんたたちの家と近いなんてわたしだって知らなかったのよ」
花恋が涼の鋭い視線をひらりとかわしながら答えた。
この二人、蛇とマングース並みに相性が悪いのだ。ささいなことから言い争いになったりする。だから、そんなことになる前に手を打たなくてはならない。
時雨がそう思い、二人に声をかける。
「なぁ――」
「――じゃあ今日の夜、うちにご飯食べに来ちゃう!? ついでに俺のことも食べちゃう!?」
時雨が言いかけた瞬間、秀が割って入った。
しかし、そこは相方。涼の行動は速かった。つかつかと秀に歩み寄り、右手でビンタをぶちかました。それと同時に、ものすごい剣幕で、バランスを崩し地面に片手をついている秀に向かって声を上げる涼。
「バカかお前は。あの女のどこがいいんだ! どこがッ! 顔か! 顔なのか!?」
こくり。
秀が頷いた。
「あらあら、わたし可愛いものね。仕方ないわ」
しれっと言う花恋。
おいおい、と時雨は心の中でツッコミを入れる。しかし確かに花恋が可愛いのは間違いないのだ。本人が自分で言っているのが可愛くないが認めざるを得ない。学校で人気が出るのも当然のことだろう。確かに顔は可愛い。顔は。
(……まぁ、根は悪い奴じゃないんだけどな)
時雨が花恋の方を見ていると、ギロリと睨まれた。
「で、でもさ、実際引っ越してきたばっかりなら、片付けとか忙しいだろうからご飯くらいいいじゃんか! これからご近所さんなんだぜ?」
再び妹のビンタをくらい、バランスを崩した双子の兄が、いかにもな正論を妹にぶつける。
秀のことは確かに一理ある。この街に慣れると言うことでも、いい経験になるかもしれない。秀は普段はふざけているが、なんだかんだで他人に気を使い、他人のことをちゃんと考えている奴なのだ。今回のこともきっと花恋のことを考えてのことなのだろう。本人に聞いてもしらばっくれるだけなので聞かないが、きっとそうに違いない。いやそう思いたい。むしろそうであってほしい。
なので、時雨は助け船を出してやった。
「いいじゃないか、涼。こいつだってだっていろいろ大変だろうし」
すると横でセルルがうんうん、と頷いた。
「むぅ……」
涼が口をへの字にして唸る。この様子だとほぼ同意したと見ていいだろう。涼は本気で嫌な事はばっさりと切り捨てるはずだ。
「あら、じゃあお邪魔しちゃおうかしら」
花恋が普段学校でしている猫被りモードの笑顔で言った。
「じゃあ、さっそくきょ――」
「――却下。まずは片付けが先よ」
秀の希望は一瞬で崩れた。
「ま、いずれ落ち着いたら、ね」
その後、花恋の家の片付けを手伝いながらいろいろと話し合い、今日という案は見事に却下されたものの、そのうちに秀たちの家で花恋の歓迎会を開催することになった。
† †
空もすっかり暗くなり、片付けも一段落したところで今日はお開きとなった。
花恋はコンビニにちょうど用事があったので、時雨や秀たちと一緒に外へ出た。方向がまるっきり逆なので時雨、セルルとは別れ、今は花恋、秀、涼の三人で歩いている。
「ねぇ、なんでついてくるのよ」
「わたしもコンビニに用がある」
涼たちもコンビニに用があったらしく、結局三人でコンビニに向かうことになった。
数分歩くと、コンビニに着いた。ウィン、と音がして扉が開くと、茶髪の女の人が出てきた。
すると、隣にいた涼が声を上げた
「ママッ!」
「あらあら、涼に秀。あんまり遅いからお母さん自分でお味噌買いに来ちゃったわ」
涼と秀は、母親から味噌を買ってくるように頼まれていたらしいのだが、どうやら間に合わなかったようだ。
どう見てもお姉さんにしか見えない。こんな人が本当に二人の子供、しかも高校生の母親なのだろうか。花恋はこの人の他に、冬霞という人間とは思えないほどとてつもなく若い人を知っていたが、目の前の人は常識的な範囲、人間の範囲内で若い。影でかなりの努力をしているのかもしれない。
ふと、双子の母親が花恋に近づいてきた。
「あらら? もしかしてこの子が例の転校生? ずいぶん可愛いのねぇ。秀が何かしてきたらすぐわたしに言ってね」
(例の? わたしのことを知っているの?)
例の、というからには花恋のことを知っているはずだ。
あれこれ考える前に、花恋は口に出した。
「あの、わたしのこと知っているんですか?」
「ああ、ごめんなさい。わたし、冬霞ちゃんと古い付き合いなのよ。だから学園のことはいろいろと耳に入ってくるのよ。例えば、美少女転校生が来る、とかね。三咲さんでよかったかしら? 確か家が近いのよね? 何か困ったことがあったらすぐに言ってね」
嬉しそうに体を揺らしながら話す様は、まるで後ろに花が飛んでいても不思議はないように感じてしまうほど、ほんわかした雰囲気を持った人だ。
ぶっちゃけ花恋はこういう感じの人は苦手だった。
あ、そうそう、と言って双子の母親がバックの中を漁りだす。その様子をみた双子が、「どうしたの? ママ」「何やってんだよ、母さん」と言いながら寄って行く。
しばらく、ガサゴソとバックを漁った後、何かを取り出して、
「ん~と……見つけた!」
花恋が双子の母親の手に視線を向けると、そこには紙が握られていた。
「これね、さっき新聞屋さんがくれたんだけど、最近出来た遊園地の一日無料券なんだって。丁度三枚くれたんだけど、どう? 明日日曜日だし、三人で行ってきたら。美少女転校生に街案内もかねて、ね?」
双子の反応は、正反対だった。
兄は思いっきり顔を輝かせ、妹は思いっきり顔をしかめる。
「よしッ! 明日は遊園地だ! 決まりだ。いいな、涼ッ!」
「うっさい。だまれ。つか、そのにやけ顔、気持ち悪いからやめろ」
ゲシッ、と秀の脛に涼の鋭い蹴りが入る。それを見た母親は、「あらあら、まぁまぁ」なんて言いながら、口に手を当てて笑っている。
「三咲さんどう? 嫌だったら断っても大丈夫だけど………」
別に嫌という訳ではない。街を案内してもらえるというのであればなおさらだ。この街に慣れるために気を使ってくれているのだろう。ならば、断る理由は何もない。それに他人の好意を無碍にするのも気が引けた。
「大丈夫です。でもホントにもらってもいいんですか?」
「もちろんよ。ねぇ、涼?」
「………別に………いいけど」
「ほら、ね?」
花恋は母親から、遊園地の一日無料券を受け取った。
こうして花恋は遊園地に行くことにあいなった。
† †
一方その頃、時雨とセルルは自宅マンションで夕食を食べていた。
帰って来た時間が遅かったので、たいしたものは作っていない。昨日の晩御飯の残りものが中心だ。
今日の夕食は二人だけだった。夏目は最近、何やら忙しいらしく時雨たちの家にやってくることが少なくなっていた。時雨もセルルも忙しいなら邪魔してはいけないと思い、夏目が自分から来ない時は誘わずにいた。
時雨たちが夕食を食べていると、ピンポーン、と玄関のベルが鳴った。
セルルの席の方がインターフォンには近いのだが、セルルはあいにくテレビに夢中だ。テレビにはセルルが大好きな演歌歌手、小波香奈枝が映っている。彼女がテレビに出ているとき、セルルはてこでも動かない。というか、それ以外のことが目に入らない。
はぁ、と小さな溜息をついて時雨はインターフォンに向かう。
ガチャリ、時雨が受話器を耳に当てると、画面に人が移り、声が聞こえた。
「どーも、翌朝新聞です。今キャンペーンやってまして、遊園地の一日無料券をお配りしているんですよ」
翌朝新聞は、時雨、夏目、冬霞の愛読の新聞だ。ちなみにセルルは新聞を読まない。
集金の時期でもないので何かと思えば、キャンペーンで遊園地の券を配っているらしい。時雨は、そういえば最近新しい遊園地が出来るなんて話があったな、と思い至った。おそらく新聞屋が遊園地と提携でもしているのだろう。
時雨は、玄関のオートロックを開け、新聞屋をマンションに入れる。少ししたら、時雨たちの家の前にやってくるだろう。
ピンポーン。
再びベルが鳴り、時雨は家の扉を開けた。するとそこには明らかにバイトの、やる気のなさそうな青年が立っていた。
「どーも、どーも。とりあえずこれですね。えっと、何枚いります? 四枚までなら自由に選べるんですけど……」
時雨は迷った。
正直時雨自身あまり気が進まなかった、と言うのもあるが、四枚なら、いつものメンバーで行くには一枚足りなくなってしまうし、三枚なら夏目を誘うべきなのだろうが、最近忙しそうなので下手に誘っては迷惑かもしれない。ならば二枚にしておいて、セルルと二人で行くのが妥当なのかもしれない……が、そもそも別に行く必要もないのか……。と、時雨考え始めたそのとき、時雨の横からぬっとセルルが顔を出した。
「二枚で」
「はい、二枚ですねぇ」
青年はセルルへチケットを手渡すと、早々に去って行った。
「おい、セル―」
時雨が言いかけた所で、セルルが何かのパンフレットを突き出した。それはよく見ると、先ほどチケットをもらったばかりの遊園地のパンフレットだった。
時雨は少し不思議に思いながらも、それを口には出さずにパンフレットをめくった。そしてすぐにセルルがこのパンフレットを持っていた理由がわかった。一ページ目をめくるとそこには、
『開園初日、人気アイドル演歌歌手、小波香奈枝のサイン&握手会を開催!』
の文字がでかでかと踊っていた。
(……そーゆうことですか)
時雨は半ば呆れながらも、目の前で熱い視線を送るセルルに「わかったよ」とだけ返事をした。それを聞いたセルルは両手を上げながらジャンプをして喜んでいる。ここまで喜んでもらえるのであれば、遊園地に出かけるくらいお安い御用だ。
「ありがとう! ありがとう、時雨ッ! 時雨大好きッ!」
セルルの笑顔を見ているとこっちまで笑顔になってくるから不思議だ。
やれやれ、と肩をすくめた時雨だが、本心では少し楽しみになっていることを否定できずにいた。
こうして時雨とセルルは遊園地に行くことにあいなった。
† †
街の繁華街、その一等地に乱立する数多くのビル。その中でも誰もがその存在を無視できないほどの存在感を放つひときわ大きなビルがある。国の政治家や、他国からの来賓など、数多くの著名人が訪れたと言われる高級ホテルである。
そんなホテルの一室に結衣原冬霞はいた。
冬霞の目の前には、一人の男が立っていた。その男の眼光はまるで獣のように鋭く、その視線だけで人を屈服させてしまうかのような、そんな禍々しい光を放っている。
対する冬霞はそんな視線に圧倒されないよう懸命に自分を鼓舞し、男の視線をしっかりと受け止める。一瞬でも気を抜けば、この男には負けてしまう。冬霞はそう確信していた。
二人が無言で睨みあう中、不意に男が言った。
「何の用だ? 俺はお前に用はない」
声は低く、その一言一言から男の持つ支配欲や権力欲が滲み出ているように感じられる。
「私にはあるわ。今すぐにこの街から出て行ってくれないかしら?」
冬霞はが告げると男は小さく頬を釣り上げ笑った。
「すまないが俺はここに用があって来ているんだ。大事なものを取り戻すためにここに来たんだ。つまらない事を言ってくれるなよ、結衣原冬霞。お前が俺の物の育ての親だと言うことは知っていたが、ここまでくだらない女だとはな」
ギリッ、と冬霞は唇を噛んだ。目の前にいる男は冬霞の大切な存在を『物』と言ったのだ。確かに冬霞は本当の親ではない。だが本当の親子のように愛情を持って接してきたつもりだ。それだけは絶対に自信を持って言える。
「物、ね……。そんな風に呼ぶ相手に何故そこまで固執するのかしら? 人として認めないほどの存在ならば、今更取り戻す必要はないでしょう?」
「バカか? お前は。実験に必要な材料を『物』と呼んで何が悪い? 俺が実験に使う材料は等しく『物』だ。それ以上でも以下でもない。もっとも実験材料としての価値に差が出てくることは認めるがな」
狂っている。冬霞は率直にそう感じた。
目の前の男は人間であれなんであれ、全てを自らの実験の材料としてしか考えていないのだ。たとえそれが自らの息子であったとしても。
この男に会うまでには冬霞の中でいろいろな葛藤があった。血の繋がっていない自分はこの男と比べて親として未熟なのかもしれない、この男の下に戻った方が幸せになれるのかもしれない。
どんな過去があったとしても、全てを忘れてやり直すことが出来るのであればそれが一番幸せなのかもしれない。様々な思いが冬霞の中で浮かんでは消えた。
だが、 気付くと言葉にしていた。
「あなたには、渡せないわ。時雨とセルルは、渡せない」
「……そうか、ならお前を殺すだけだ」
男がとてつもない殺意を放ち、冬霞の方へ振り返った。
大切なものを守るため、結衣原冬霞の孤独な戦いが始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます