第2話 少年と少女
「ふあぁぁ~」
時雨が珍しく目覚ましが鳴るよりも早く眼を覚ます。ふと横を見ると幸せそうな顔でセルルが寝息を立てている。寝るときは、大抵時雨の中に入っているし、もしそうでない時はソファで寝ているのだが今日はどういった風の吹きまわしだろうか。時雨は、少し考えてみたがセルルの顔を見ていたらどうでも良くなった。
時雨はこのまま起きるのか、二度寝するのか迷っていた。このまま起きていれば確実に遅刻はないだろう。だが後で眠くなるかもしれない。逆に二度寝すると遅刻する確率がかなり高くなる。いやむしろ確実だろう。
時雨は真剣に悩み、さすがに二日連続の遅刻はまずいので今日はこのまま起きていることにした。
時雨が、隣で寝ているセルルを起こさないようにベッドから出ようとする。しかし、突然セルルが時雨の腕を掴んで離さない。
「ん~………おなか減った………」
(……寝ぼけてやがるな)
時雨はアホな寝言を聞きながら、呆れた視線を天然うっかりお寝ぼけ大精霊さんに送る。セルルが手を離さないのは神様が二度寝しろと言っているのではないか、なんてくだらないことを考えてみたりもしたが、それで遅刻したらどうしようもない。
甘い誘惑を振り切りセルルの指を親指から順に解こうとするが、いかんせん力が強い。時雨は実は起きているのではないかと疑ってみたが、幸せそうなその表情は起きているとは思えない。
何度かチャレンジしてみたものの、セルルが腕を放す気配はない。時雨は仕方なくベッドから出るのをあきらめ、目覚ましが鳴るまでボーっとしていることにした。もし寝てしまってもセルルのせいにすればいいだろう。
時雨がうとうとし始めると突然玄関の鍵が開き、誰かが入って来た。
「時雨~。起きなさ~い」
うとうとしていた時雨は、その声で意識を覚醒させる。
声の主は担任の結衣原夏目だった。彼女はよく朝食、夕食を作りに来てくれる。さらには弁当まで作ってくれるので非常にありがたい限りだ。
時雨は料理を作るのは割と得意だ。ほぼ百パーセント自炊をしていると言っていい。だが、やっぱり誰かに作ってもらう料理はおいしく感じるし、何より朝が苦手なセルルと時雨は朝食を作りに来てくれるのは特にありがたいことだった。
「時雨、そろそろ遅刻の回数危ないからね~。もし留年なんてされたら、お姉ちゃんがお母さんに怒られるんだから。しっかりしてよね」
野菜やら何やら食料品もろもろが入ったビニール袋を片手に夏目はキッチンに向かう。
「いつも悪いな。夏目」
時雨は、隣で寝息を立てるセルルを叩き起こしながら言った。夏目は「お姉ちゃんなんだから当然のことだよ」と、にっこり笑って料理を続ける。
時雨が顔を洗い、身なりを整えてリビングに戻ると部屋中になんとも美味しそうな香りが漂っていた。それにつられてやっとセルルも目を覚ましたようで、キッチンに立つ夏目に気付くと嬉しそうに飛びついた。夏目が朝来るのは久しぶりなので嬉しかったのだろう。
「はい、召し上がれ」
夏目がそう言うとセルルが、目を輝かせながら席に着く。
まるで幼稚園児みたいに三人声を合わせて「いただきます」と言う。これは夏目や学園長の冬霞と食事をするときは必ずやることだった。
冬霞いわく「家族みんなで一緒に『いただきます』を言えることはものすごく幸せなこと」らしい。学園長はおそらく時雨やセルルのことも家族に含めてくれているのだろう。時雨はそれがものすごく嬉しかった。
「おいしい! 美味しすぎるよ! 夏目ッ!」
セルルは久々の夏目の料理に感激しながらひたすらに料理を口に運んでいる。ちなみに、夏目が来ない時いつも料理をしている時雨にしてみれば、ここまで感激されると正直立場がないのだが、夏目の料理がとびきり美味しいことは紛れもない事実なので、納得せざるを得ないと言ったところだ。時雨自身、夏目の料理を食べるのは人生の楽しみの一つと言っても過言ではなかった。
時雨は、セルル感激の夏目特製朝食を食べながら、ふと昨日のことを思い出した。
「なぁ、夏目」
「ん、なぁに?」
夏目が優しいを浮かべて時雨の方を向く。
「昨日って仮想パーティかなんかあったのか?」
「……え?」
ほんの数秒前までは優しい笑顔は消え去り、怪訝な表情が夏目の顔に現れる。
「仮想パーティ?」
「黒いマントとか、赤いマントとか」
「マント? いったい何の話をしているのかな? 夏目お姉ちゃんはまったく話が見えないんだけど………」
夏目は学校の教師だ。ゆえに、この街もしくはその近辺のイベントなどに詳しいはずなので聞いてみたのだが、やはり仮想パーティは開催されていなかったらしい。時雨自身、仮想パーティの可能性はほぼ排除していたので、驚くことはなにもない。
「いや、ならいいんだ。忘れてくれ」
「ん~? いいの?」
「ああ、忘れてくれ。えーと、じゃあ最近不審者とか出てないか?」
仮装パーティが開かれてないのであれば、ただの不審者の可能性が濃厚だ。不審者に関する情報は学校にとっては生徒を守る上で、かなり重要な情報のはずだ。教師である夏目が知らないはずがない。
「不審者? それなら最近は何件かあったよ」
「どんなの?」
「う~ん……女の子に後ろから抱きついた中年男とか突然土下座して謝りだすおばあさんとか……」
「黒いマントとか、赤いマントとかは?」
「ないと思うなぁ……どうしたのさっきから。何かあったの?」
「いや、別に何でもない。何でもないんだ」
「……ほんと?」
夏目が疑いの眼差しで時雨の顔をじっと見つめる。夏目の強い眼差しで見つめられるとすべて喋ってしまいそうになるが、昨日のことを知られて夏目に余計な心配をさせるわけにはいかない。だから、なんとしてもここは誤魔化し通さなくてはならない。
「なんでもない」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと」
「そう、時雨がそこまで言うなら信じるよ。でも、もし何かあったらお姉ちゃんかお母さんには言うこと。いいね?」
時雨は、信じてくれた夏目に対して小さくない罪悪感を抱えながら頷いた。
ふと横を見ると、セルルが空のご飯茶わんを持ちながらうたた寝をしていた。おそらく、一杯目を食べ終えておかわりをしようかどうか迷っていたら寝てしまったのだろう。
「あ、そーいえば」
うたた寝大精霊さんを優しく起こしながら時雨が言った。
「最近冬霞さん来ないよな。忙しいのか?」
「忙しいのかな………たぶん。お母さん突然出張だって言って何処か行っちゃうからなぁ………実際本当に出張なのか怪しいところなんだよね」
結衣原冬霞。夏目の実の母親にして、時雨とセルルの保護者。時雨とセルルの二人を施設から引き取り、今も面倒を見てくれている。二人にしてみればいくら感謝してもしきれない人物だ。
そして夏目が教師を務め、時雨が通うエデンの学園長でもある。学園での権力はとんでもないほどだとか、そうじゃないとか。さらには、この街一番の大病院の院長も務めているという、とんでもない人物だ。放浪癖があり、夏目が言っていたようにふらっと何処かに出かけて、しばらく帰ってこないということがしばしばあった。
「まぁ、お母さんのことだからそのうち帰ってくるでしょ。まったく、どこに行くかくらいは言ってくれてもいいのに」
夏目は母親への不満を口にしながら、料理を口に運ぶ。
時雨が心の中で、冬霞さんらしいな、と思っていると、
「あ、そーいえば」
先ほどの時雨とまったく同じセリフを夏目がまったく同じトーンで言った。
「どうしたの?」
やっと眠気が覚めたらしいセルルが夏目の声に反応した。
「ふふ~ん、一ついいお知らせがあるんだよ。聞きたい?」
「聞きたい!」
セルルが間髪いれずに食いついた。
「実はねぇ、今日……」
夏目が少し溜めを作って、ニヤリと笑う。そんなにいいことなのか? と時雨は多少疑いたくなったが声には出さない。
「転校生が来るんだよ!」
少し大きな声で夏目が言った。
「ものすっごく可愛いんだよ。先週学校に挨拶に来てたんだけど、すごく礼儀正しくて、言葉使いなんかも綺麗で完璧なの」
「「ふ~ん」」
夏目以外の二人がハモった。
時雨にしてみれば、転校生が来ようが、逆に誰かが転校しようが、あまり興味はない。セルルも時雨と同様にあまり興味は沸かなかった。学校に転校生が来ても、学校では霊体化して時雨の中に入っているので、関わる可能性は極めて低い。
「二人ともテンション低いよぉ~、苛めなの? お姉ちゃん苛めなの?」
夏目が二人のリアクションに抗議の声を上げるが、興味がないものにリアクションをしろと言われても難しい。
「もうッ、二人ともさぁ~………あ、あれ? もしかして……あの時計止まってない?」
時雨とセルルが時計へと視線を向ける。
「………止まってるな」
「………止まってるね」
夏目が急いで自分の携帯電話を取り出して時間を確認する。
「ああ、もうッ! 急がないと遅刻だよ~。お姉ちゃんが遅刻したら時雨のせいだからねぇ~!」
夏目は、そう言ってお皿に残っていた卵焼きの最後の一つを大急ぎで口に入れると、立ち上がり、玄関へと向かう。夏目は教師なので、生徒である時雨より早く行かなくてはならない。
食べることに夢中だったセルルも立ち上がり、夏目の後を追う。玄関で夏目に抱きつきながら「いってらっしゃい」と言うと、夏目もセルルの頭を撫でて「行ってきます」と笑顔で言葉を返す。
時雨が、仲の良い姉妹というのはこんな感じなのだろうな、と思いながら「いってらっしゃい」と言うと、夏目が何かを思い出したかのように戻ってきた。
「何か忘れ物か? 夏目」
「ま、忘れものと言えば忘れ物かな?」
「……?」
時雨が何のことか考えていると、不意に夏目が時雨の頭の上に手を乗せた。
「えへへ、なでなで、っと。行ってきます、時雨」
時雨が突然のことにあたふたしている間に夏目は玄関を出て行った。
† †
「ねぇ、時雨。転校生ってどんな子だろうね?」
学校へ向かう途中の商店街で不意にセルルが言った。いつもより十分ほど早く家を出たので、遅刻する心配はない。
「さぁな。でもどんな奴でもあんまり関係ないだろ。ただ問題があるとすれば………」
「あるとすれば?」
「美人だったら、朝から秀の奴がうるさいだろうな」
「ふふっ、そうだね。それは大問題だね」
おそらく秀のことだから、もし転校生が美人だったら「なぁ、見たか時雨! 転校生見たか? あの子超可愛いじゃん! やばくね? 来たね。これはたぶん来たね。運命来たね!」とかなんとか言って朝っぱらから大騒ぎするに違いない。もちろんその後ろから涼の、暴力と言った方が正しいかもしれない突っ込みが入るのだろうが。
「はぁ、あのバカが騒ぐ様子が目に浮かぶよ……」
「わたしもだよ……ふふっ」
二人はおそらく現実になるであろう未来を想像して笑い合った。
二人はいつもの坂道を登り、学校の前で少し横道に逸れる。セルルが霊体化するところを誰かに見られるわけにはいかないので、誰もいない路地裏を使う。
「ねぇ時雨、一つだけ言っとくよ?」
セルルは少し真面目な顔で時雨を見る。
「なんだ?」
「いくら転校生が可愛くっても、デレデレしたらダメだからねッ!」
言い終わると、霊体化して時雨の中に入っていった。
「……はいはい」
時雨は半ば呆れながら同意した。
時雨は路地裏を出て校門へと向かう。校門の前に立っている風紀委員の視線を軽く受け流し時雨は校門をくぐる。それから少し進んだところで後ろから声をかけられた。
「し~ぐ~れッ!」
時雨が聞き慣れた声に反応して振り向くとそこには涼が立っていた。
「おはよう、涼」
「うん、おはよう。セーちゃんもおはよう」
涼の声に反応して時雨の頭の中に「おはよー」という声が響く。
「おはよーだってさ」
霊体化して時雨の中に入っている状態の、セルルの声は時雨にしか聞こえないので時雨が代弁して伝える。
「珍しいな、今日は秀と一緒じゃないのか?」
普段仲が悪いように見えて、秀と涼はなんだかんだ言って仲が良かったりする。時雨は秀と涼が一緒ではないところなんてほとんど見たことがなかった。おそらく見た事はあるのだろうが、軽く思い出を探っただけでは見当たらなかった。
時雨の言葉を聞いた涼はあからさまに表情が険しくなり、大きな溜息を吐く。
「実はね――」
今日、涼が目を覚ますとすでに秀が家を出るところだったらしい。驚いた涼が理由を聞くと、「転校生来るらしい! だったら誰よりも早く出会って運命を演出しないわけにはいかないだろうッ!」と言われたそうだ。
涼は誰が見てもわかるくらいに機嫌が悪い。涼自身は気付いていないのかもしれないが、知り合いでない人間が見てもわかるくらいにご機嫌斜めだ。普段は足蹴にしている秀であっても、大切な兄なのだ。秀が転校生に盗られたような気がして面白くないのだろう。普段、辺り構わず毒を吐き散らす涼も今日は可愛いものだ。
時雨はひたすらに涼の秀に対する不満や罵倒を聞きながら、ガラス張りの渡り廊下を抜けて教室に向かう。
すると、時雨が二年A組の教室の扉を開けた瞬間、
「し~ぐ~れッ!」
転校生に夢中の双子の片割れが飛びついて来た。
「なぁ、見たか時雨! 転校生見たか? あの子超可愛いじゃん! やばくね? 来たね。これはたぶん来たね。運命来たね!」
(予想通りすぎるぞ……秀)
時雨が「見てない」と返事をすると、秀のテンションはさらに上昇。
「おまえ、それはもったいないぞ! あの子はヤバい! 可愛すぎる。ちょっと釣り上がった強気な眼差し、風になびく金髪、天使のような優しい微笑み、うわあああああァァァ!」
発狂した。
このテンションの秀を相手にするのは若干めんどくさい。でも発狂した友人を放っておくわけにはいかないので、とりあえず声をかける。
「大丈夫かよ、秀。お前がそこまで言うならよっぽどなんだな」
時雨が声をかけると、秀は時雨が興味を持ったと感じたのかテンションがさらに上昇。このまま上昇し続けたら、どこかに飛んで行くのではないかと感じられるほどだ。
「俺は、俺は、俺は………生きてて良かった!」
「……そ、そうか」
時雨には言葉が見つからなかった。
それから、テンションの上昇が留まるところを知らない秀と、そんな秀を見て不機嫌になる涼をなだめて時雨が席に着くと、二年A組担任である結衣原夏目が教室に入って来た。
その後ろに金髪の女の子を連れて。
「は~い、みんなおはよう。もう噂になっているみたいだけど、転校生を紹介しますよ~。ホントはもうちょともったいぶろうかと思ったんだけど早い方がいいよね? 特に男子諸君は~」
夏目がそう言うとクラス中の男子から歓声が上がる。当然のことながらその歓声の中心にいるのは蓮見秀だ。対して時雨は秀があそこまで興奮するほどだからどんな女の子なのかという興味は少しあったものの、深く関わるつもりはサラサラなかったので至って冷静だった。
夏目が教室の外に声をかけると、一人の少女が教室に入り、夏目の横に立った。
「わたしの隣にいるのが三咲花恋ちゃん。家庭の事情でこの学園に編入することになったの。みんな仲良くしてあげてね」
夏目が左手を花恋の方に向けながら言った。
三咲花恋の容姿は秀が言っていたように、長い金髪のストレートヘアー。少し釣り上がった目が強気な印象を与える。胸には大きめのペンダントが少しのぞいており、それがいいアクセントとなって彼女の雰囲気を引き立てている。
そのあと夏目が花恋に自己紹介を促すと、待ってましたと言わんばかりの歓声が再び教室にこだまする。うるさい、と時雨は思うのだがここまでテンションの上がった野郎どもを止める術を時雨は知らない。
「えっと、三咲花恋と申します。漢字は……」
花恋が黒板に自分の名前を書く。それだけでもその一挙手一投足を見逃すまいとする野郎どもの視線が注がれる。時雨はそんな熱すぎるほどの視線を受けて平然としていられる転校生、三咲花恋に素直に感心する。
「実はわたくし、髪の毛の色を見てもわかるように、母がイギリス人なんですの。いわゆるハーフと言うやつで、日本語は完璧なのですが最近までイギリスで生活していたもので、日本の文化などに関しては至らぬところが多いと思います。ですがこれからみなさんと一緒にお勉強させていただければ幸いです。不束者ですがどうかこれからよろしくお願いしますわ」
言い終えてニッコリと音が聞こえてきそうなほどの笑顔。そしてスカートを少し横に広げてのお辞儀。俗に言うお嬢様お辞儀だ。
ついに限界に達したのか、歓声を上げずに倒れる生徒がチラホラ。笑顔アンドお嬢様お辞儀のコンボはかなりの破壊力を持っていたらしい。ちなみに秀はまだまだ限界に達する様子はない。そんな秀を睨む涼の視線の鋭さも留まるところを知らない。
(ふ~ん。秀が言うだけのことはあるかな。ま、どうせ関わることはないだろ)
時雨が頭の中でそんなことを考えながらふと花恋を見ると、
(……ん?)
花恋と目が合った気がした。
しかしその視線は運命的な出会いとかそんな素敵なものを感じさせるものではなく、むしろ憎悪や怒りと言った黒い感情を宿しているかのように見えた。
(まぁ、気のせい、だよな……?)
時雨が感じた視線に関して考えていると、男子生徒お待ちかねの転校生の席を決める時間がやってきた。時雨は視線のことは気のせいであると結論付け、席決めにも興味がないので、窓の外を眺める。時雨の席は窓側の一番後ろなので外を眺めるには最適だ。
「え~っと、どこがいいかなぁ………」
夏目がクラス全体を見渡す。するとクラス中の男子から『俺の隣にしてくれ』オーラが噴出される。そのオーラは凄まじく、夏目も少し戸惑っているようだった。
すると、
「あの……」
不意に花恋が声をあげた。
「あそこは空いておりませんの?」
窓側一番後ろから二番目の席――時雨の一つ前の席――を指差して言った。そこの席は、とある男子生徒の席で、その男子生徒は転校生をよく見るためにちょうどその日休みだった一番前のガリ勉君の席に移動していたのだ。その男子生徒に限らず多くの男子生徒が転校生見たさに席を移動しており、二年A組の席順はほぼ崩壊していた。
自分の席を指定された男子生徒は、驚きを隠せない様子だった。
「どっ、どうしたらいいッ! このまま受け入れれば美少女転校生とは席が遠くなってしまう、でもここで受け入れておけば好印象プラスあとで会話のネタになるかもしれない。いや、しかし転校生ということは教科書なんかも全部そろってないはずだから、席が近くなれば見せてあげたりなんかもできちゃうわけで………でも断れば印象が悪くなるかもしれないし~~~ッ!」
ぼそぼそと呟きながら男子生徒は悩む。悩む。悩む。その思考のスピードは光の速度を超えていたかもしれない。
「えっと……俺はいいよ別に」
時雨には、ぼそぼそ呟いていた内容は聞こえなかったが、どうやら当の男子生徒は印象が悪くなることを恐れたらしい。
「は~い、じゃあ三咲さんの席はあそこに決定! 近くの人いろいろと助けてあげてね?」
時雨の一つ前の席の周辺――要するに時雨の周辺――で「は~いッ!」と男子生徒たちが大声で返事をする。
(……うるさいな、ったく)
時雨はうるささに少し眉間にしわを寄せて反応したものの、視線は向けずに窓の外を眺める。
秀の提案で始まった質問コーナーなどを終えて、花恋が周りの生徒の視線を受けながら席に着く。すると後ろを振り返り、
「よろしくおねがいしますね。橘時雨さん?」
突然時雨に声をかけた。
「ん? ああ」
景色を見ることに集中していた驚きながら適当に返事をする。
(……ん? なんでこいつ俺の名前知ってんだ? ………まぁ、名簿でも見たんだろ)
時雨は適当に自分を納得させた。
† †
昼休み、時雨は涼と秀を連れて屋上に向かう。
「いいかげん、耳痛いってッ!」
秀の痛みに耐える声が響いた。
秀は朝からずっと花恋の取り巻きとなっており、昼休みも離れようとしなかったのだが、涼に耳を引っ張られ無理やり連れてこられていた。
時雨が二人の様子を見ながら少し遅れて歩いていると、後ろから足音が聞こえた。時雨が足音に気づき後ろを振り返ると、そこには三咲花恋がいた。
時雨は驚いて眉間にしわを寄せる。
(……秀を連れ戻しに来たのか?)
花恋は時雨の視線に気づくと、ニッコリと笑顔を作って言った。
「橘さんたちはこれから昼食ですか? もしよければご一緒させていただけませんか?」
嫌だ、時雨ははっきりとそう思った。
時雨たちが使っている屋上は本来なら立ち入り禁止で、時雨、秀、涼の三人以外誰もいないからこそセルルが心置きなく実体化できるのだ。ここで、時雨とセルルの関係を知らない人間が入ってきてはセルルが実体化する訳にはいかない。
「ご一緒させて頂きたくて追いかけてきたのですけれど……」
花恋は雰囲気で時雨がどう思っているのか察したのか、俯き加減で言った。
時雨は嫌だった。もしここで認めてしまえば毎日一緒に昼食を食べる羽目にもなりかねない。そうなってはセルルが実体化できる場所はなくなってしまう。
「悪いけど――」
時雨がそう言いかけたとき、
ガシッ! と横にいた秀に肩を掴まれた。涼の拘束からようやく抜け出したらしい。
「大丈夫だよな? 時雨? 大丈夫だよな? なッ!」
強烈な視線で時雨を見つめる秀。そして時雨にだけ聞こえるような小声で、
「頼む。これは仲良くなるチャンスだ。お前の言いたいことはわかる。けど今日だけッ! 頼むッ!」
時雨は少し迷ったものの、秀の熱意に負けて了承した。わかったよ、と。
「サンキュー、今度何かおごるから。セーちゃんにも謝っておいてくれ」
時雨は秀の言葉に溜め息交じりで頷いた。時雨と秀が会話をしている後ろで涼がものすごい形相をしていたことを秀は知らない。
そのあと秀が花恋に意気揚々と話しかけ、屋上はこっちだよとか、飲み物とか買わなくて大丈夫? とか甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
秀が花恋に話しかけている間、時雨は他の三人と少し距離を取る。
セルルが霊体化している時は、セルルの声は時雨にしか聞こえない。だから他の人間に聞かれる心配はないのだが、逆に時雨がセルルに声をかけるときはそうはいかない。端からみれば完全な独り言なのだ。変質者と間違われないためにも霊体化したセルルに話しかけるときは気を付けなくてはならない。
「悪いな、セルル」
(いいよ、別に。秀にあそこまで言われちゃしょうがないよ)
「ったく、あいつの熱意はすごいもんだよ」
(だねぇ。でも、ちょと気持ちわかるかも。あの子ホントに可愛いもん)
「まぁな……。でもあそこまでする気にはならないよ、俺は」
(ふふっ、わたしもあんな時雨は見たくないなぁ)
時雨とセルルが誰にもわからないようにこっそり会話をかわす。
そんな二人の会話に、前方で秀に世話を焼かれている三咲花恋が耳を傾けていたことを時雨は知らない。
† †
放課後、クラス中が学校の終了に伴う開放感に包まれる中、時雨も机の中から必要なものだけ取り出し、帰りの準備をする。
すると、机の中に一通の手紙が入っているのを発見した。
(なんだ? これ)
時雨は一瞬、甘酸っぱい愛の告白とかされちゃう手紙を想像したが、残念ながらそんなものとは程遠い代物だった。その内容は、
『あんたたちの秘密を知ってる。あんた『たち』の。
秘密をバラされたくなければ、放課後、第二体育館に来なさい。
三咲花恋 』
(あいつ……ッ!)
時雨が手のひらに力を込めて手紙をくしゃくしゃに丸め、ポケットへと突っ込む。
(秘密ってまさか……くそッ!)
時雨が一番知られたくない秘密は、ただ一つ。セルルと自分の特異な関係だ。この関係のせいでいろいろと大変な思いをしてきた。だからこのことは知られるわけにはいかない。
だが、花恋はおそらく知っている。手紙には「あんたたち」と書いてあった。丁寧に二回も。おそらく、あんたたちというのは、時雨とセルルのことを指している。花恋は知っているのだ。時雨とセルルが二人で一人の存在だと言うことを。
(……なんでだよ、なんで知ってるんだよッ!)
時雨が言葉には出さないものの、心の中で相当な焦りを感じていた。すると、
(大丈夫? 時雨)
時雨の焦りが伝わったのか、セルルが話しかけてきた。
「心配するな。大丈夫だ。俺が何とかする」
するとセルルが突然、時雨の中から飛び出してきた。
「お前、なにやってんだよッ! 誰かに見られたらどうすんだ!」
「誰もいないから大丈夫だよ! ちゃんと調べたもん」
精霊は人間よりも五感が優れている。だから、回りに誰もいないことがわかったのだろう。しかもセルルはその中でも多くの精霊を束ねる立場にいる大精霊だ。セルルが確信を持って言うのならばほぼ間違いない。
時雨は、セルルが言うのなら間違いはないとわかっているものの、焦っているせいか不安を拭いきれずにいた。
すると、バシッ! セルルが時雨の頭を思いっきり引っぱたいた。
「痛ぇな! なんだよッ!」
「なんだよはこっちのセリフだよッ! 『俺がなんとかする』ってなにッ! これは時雨だけの問題じゃないのッ! わたしたちの、わたしたち二人の問題なんだよ? だから時雨一人でなんて言わないでよ……。わたしを、おいていかないでよ……ばか……ばか…ばーかぁ」
初めは強気だったセルルの声が徐々に弱弱しくなり、言い終える頃には目に涙が浮かんでいた。
「……悪い」
時雨はセルルの頭に手を置きながら言った。
時雨は、やってしまった、と思う。時雨は焦るとセルルに心配をかけまいとするあまり、一人でどうにかしようと突っ走ってしまう癖がある。いくら心配をかけないためとはいっても、時雨が何も言わずに突っ走れば、セルルは独りぼっちだ。時雨だって、セルルが自分に何も話さずに一人で問題を解決しようとしていたら、『置いて行かれた』という気持ちになるだろう。
自分はバカだ、と時雨は思う。
時雨とセルルはずっと一緒だった。だからお互いのすべてをわかり合い、本当の意味で信頼し合い、絶対になくてはならない存在なのだ。
「……いくぞ、セルル。俺たちでなんとかするぞ!」
時雨が「たち」の部分を強調しながら言うと、セルルは目に溜まっていた涙を一粒だけ落として、ニッコリと笑う。
「わかればよろしい! いくぞ、時雨!」
セルルが、時雨の中に戻り、時雨は第二体育館に向けて走り出した。
† †
時雨は太陽が西に傾く時間帯の第二体育館に到着する。
するとそこには、三咲花恋が立っていた。
これが、ただのいたずらであったらどんなにいいだろうか、と時雨は思った。だが、目の前にいるのは今日二年A組に転校してきたばかりの少女で間違いなかった。腰まで届くほどの長い金髪に、少し釣り上がった強気な眼差し。胸にチラリとのぞく少し大きめのペンダントがアクセントになって、少女の雰囲気を引きたてている。
「やっと来たの? 逃げられたかと思ったわ」
花恋の様子は時雨が教室で見ていたものとは違っていた。口調もクラスメイトと話していたときのように丁寧なものではない。
時雨が怪訝な眼差しで見ていると花恋は、
「ん? ああ、この口調? 普段の口調なんて演技に決まってるでしょ?。あんなお嬢様みたいな喋り方するやつ今時いないでしょ、バカじゃないの?」
時雨は少し驚いたものの、花恋の話し方のあまりの違和感のなさに、こちらがこの少女の本性なのだと納得する。
「クラスの奴らが知ったら卒倒するな」
「そうねぇ、わたしの猫被りっぷりは完璧だものね」
時雨の軽い皮肉を込めた言葉に対しても花恋はまったく動ない。
「ところで――」
花恋が少し笑い、一呼吸溜めてから口を開いた。
「――精霊さんは一緒?」
予想はしていたが、やはり花恋は知っている。時雨にセルルが宿っているということを。予想はしていたとはいえ、出来れば外れてほしい予想だったので、精神的に受けるショックは少なくない。
「……何のことだ?」
時雨は動揺を悟られまいと、冷静を装いながら言った。
もし、花恋が確証を得ずに噂などで耳にした程度ならば、しらばっくれることも不可能ではない。だから、まずは相手がどこまで確証を得ているのかを探るべきだ。
「あ~別にいいのよ? 隠さなくったって。別にわたしはあんたたちのことを言いふらしてどうこうしようとか、そんなことはまったく考えてないから。ね? 橘時雨君。そして氷の大精霊セルライナ・イリアス」
(やっぱり、こいつは完全に知ってる……)
時雨はどこから自分とセルルのことが洩れてしまったのか気になったが、今考えるべきは目の前にいる三咲花恋のことだ。彼女の言う『秘密を暴露する気はない』とはどういうことなのか、探りださなければならない。
少し間が空いて、時雨が問い掛ける。
「どういうことだ?」
「う~ん、とりあえず簡単にいえばケンカを売っているのよ。わたしは極度の負けず嫌いで、自分の実力に自信を持っているの。だから絶対に誰にも負けたくないし、常に一番でいたいの。あなたがこの学園の一番なんでしょう?」
「知らないな」
「だって、よく喧嘩を吹っ掛けられてるって」
「学園一かどうかは俺が決めることじゃない。で、結局お前はなにがしたいんだ? 用がないなら帰りたいんだが」
時雨は、ぶっきらぼうに振り返りながら言った。
「だから、今言わなかった? ま、いいや。とりあえずわたしと勝負しなさい」
「お前と戦う理由がない」
「あなたになくてもわたしにはある。ま、別にわたしは構わないわよ。もし逃げるならあんたたちの秘密を学園中にばらまいてやるだけだから。わたしと勝負すれば黙っておいておげる」
時雨は眉間にしわを寄せて無言のまま花恋を睨みつける。ここまで言われてしまえば時雨とセルルが選べる道は一つしかない。
「答えは……決まってるわよね?」
花恋はそういうと、胸に着けていた大きめのペンダントを取外し、前方にかざした。すると、そのペンダントが光を放ち時雨とセルルにとって見覚えのある剣へと姿を変えた。
「お、お前、あのときのッ!」
「あ、あんた、あのときのッ!」
驚きのあまり時雨の中から飛び出してきたセルルと時雨が同時に言った。時雨たちが考えているのは、昨日の夕方公園で会った黒いマントの人物のことである。黒いマントが使った剣と花恋が使っている剣がまったく一緒なのだ。どういう原理かわからないが、ペンダントから剣に変わるというところまでそっくりだ。
すると花恋が、何が何だかわからないと言う顔で首を傾げながら、
「あのとき? なんのことかしら、まぁいいわ。精霊さんも出てきて、やる気になったみたいじゃない?」
花恋が昨日の黒マントなのだとしたら、時雨にも戦う理由はある。昨日自分たちを襲った理由を問いたださなくてはならない。
「それにしても本当に精霊が宿っているのね、人間と言うよりも化け物ね?」
花恋が嘲るような笑みを浮かべて言った。
「……そうだな。俺は化け物なんだ。お前の言うことは正しいよ。けどまぁ、化け物には化け物なりの矜持ってもんがあるんだよ」
時雨はまるで自分を卑下するように小さく笑い、花恋へと鋭い視線を向けた。
「あーちょっと、待った! まだ準備ができてないんだから、勝手に始めないでよね」
花恋はそう言って、体育館の端まで歩き、電気のスイッチとは明らかに異なるスイッチを押す。
「これで、よし」
花恋が押したのは、生徒が体育館で精霊術を使っても体育館が破損しないようにする、反霊力フィールドのスイッチだ。世界的に見ても、かなり高価な設備で莫大な建設費用を要することから、日本ではこの学園にしか設置されていない最新設備だ。
再び花恋が時雨の前に戻ってきて、
「あ、それともう一つ言っとく。わたしは本気でいくからね? あんたたちも本気で来なさいよ? じゃないとあんたたちのこと学園中に喋ってやるから」
「……最低だね」
セルルが睨みつけながら言った。
花恋はセルルの言葉にはまったく反応せずに、「じゃあ、いくわよ」と一言言うと、時雨の方へ向かって来た。
予想道理、そのスピードはとてつもない。昨日出会った黒いマントと同等のスピードだ。
(……へぇ、やっぱ、昨日のこいつだったんだな)
昨日、黒マントのスピードにまったく付いていけなかった時雨だが、今日は違う。一度見て体験した以上そう簡単にやられはしない。
時雨は猛スピードで接近してきた花恋の剣を横にかわし、そのまま横に向かって走る。第二体育館は縦横共にかなりの広さがあるので、壁に激突する心配はない。そのまま走りながら、時雨は詠唱する。
風の精霊術。氷の精霊術とは違い、詠唱が必要だ。
当然、時雨が詠唱する間も花恋は攻撃の手を緩めない。だが、セルルの生み出す氷の障壁が時雨への攻撃を一切許さない。セルルが防御で時雨は攻撃。これが二人のスタイルだ。セルルは霊力こそ強大なものの、氷の精霊術しか使うことができない。ゆえに全属性の精霊術を使いこなす時雨が攻撃を担当した方が、臨機応変の対応が可能なのだ。
「我歌う、風の精と共に」
時雨は耳を澄ませ、精霊の『詩』に耳を傾ける。すると聞いたこともないような言葉が頭に流れてくる。それに自分の声を重ね、風の精霊術が発動する。
時雨の体を緑色の光が包み、時雨のスピードが向上する。これで、多少は花恋のスピードに対抗できるはずだ。
時雨は続けて氷の精霊術で剣を作り出す。黒いマントと戦った時にも使った時雨愛用の精霊術だ。しかし今日は昨日のように一太刀ではない、左右の手に一太刀ずつ。二刀流だ。
精霊術で時雨自身のスピードが上がったとはいえ、まだスピードは花恋の方が格段に上だ。ならばこちらは手数で圧倒するしかない。時雨はそう考えた。
時雨は反転して花恋のもとへ真っ直ぐに走る。
時雨と花恋の剣が甲高い音を立ててぶつかり合う。一度ではなく何度も、何度も、何度も。体育館に剣がぶつかり合う音だけがひたすらに響く。
時雨がスピードの不足を手数によってカバーしたことで、二人は完全に互角だった。もしどちらかがミスをすればその瞬間で決着が着く。もしどちらかがミスをしなければ永遠に続いてもおかしくないような、そんな攻防。セルルが精霊術で花恋に攻撃を仕掛けようにも二人のスピードが速すぎて、うまく狙いを付けられない。下手をすれば時雨に当たってしまうかもしれない。
そんな膠着した状態を打ち破ったのは花恋だった。
花恋は時雨との撃ち合いの最中に突然後ろに下がり、距離を取った。当然時雨はその後を追う。しかし、時雨は二刀流の手数があってこそ互角だが、本来のスピードのみに限れば花恋の方が上なのだ。ゆえに時雨が花恋の下がった位置に達するまでに二人のスピード差分の隙が生まれる。花恋はその隙を逃さない。
「これで、終わりよッ!」
花恋の剣の周りに風が吹き荒れ、ものすごいスピードで収束していく。
「衝撃波かッ!」
時雨がそう気付いたときには、すでに遅かった。花恋が剣を大きく振り上げ、降ろした。その瞬間、ドバッ! という轟音とともに風の衝撃波が時雨へと放たれる。急いでセルルが氷の障壁を張るものの、花恋が放った衝撃波はそれすらも軽々と打ち破り、時雨へと向かう。
時雨とセルルは、氷の障壁を突破されたことに驚愕したが、今はそんなことを考えている余裕はない。時雨は咄嗟に自分で氷の障壁を作り出す。
しかし、この障壁は衝撃を防ぐのではなく、反らすためのものだ。セルル程の霊力を持った者が作った氷の障壁を軽々と破ったのだ。セルルより霊力が劣る時雨の障壁など、ひとたまりもないだろう。時雨が作り出したのは普通とは違う、角度を付けた斜めの氷の障壁だ。
(これで、反らすくらいならッ!)
しかし衝撃の威力はかなりのものだ。角度を付けた氷の障壁が威力を吸収できず、砕けてしまえば直撃は免れない。これは賭けだった。
花恋の衝撃波と、時雨の氷の障壁が音を立ててぶつかり合う。衝撃が前に進めば進むほど、氷の障壁は削れていくものの確実に横に反れている。時雨が、これならばなんとかなるそう思ったときだった。
前方から二発目の衝撃波が迫っていた。
(くそッ、速すぎる! なんであいつには詠唱がいらないんだッ! それになんだ? あいつの使ってる術……何かおかしい)
一撃目といい、いくらなんでも詠唱を終えるのが速すぎる。微妙に感じる違和感も含め、時雨は疑問を感じながら、もう一度氷の障壁を作り出そうとする。しかし間に合わない。
直撃を覚悟した瞬間、
目の前に、先ほど時雨が作ったのと同様の角度が付けられた氷の障壁が現れた。
「時雨ッ! しっかりしなさい!」
セルルは、時雨が作った障壁を見て、時雨のやろうとしていることを理解したのだろう。セルルの霊力なら防ぐことはできなくても反らすくらいなら難しくない。
「悪い、悪い」
時雨は軽く笑いながら言った。
「あなたたち、息がぴったりね」
花恋が顔を歪めながら時雨たちを見る。その様子は二人が一緒にいることが不思議でならない、そう言っているようにも見える。
すると、その言葉を聞いたセルルが少し怒った表情で、
「そうだよッ! わたしたちは大事なパートナーだもん。息ぴったりで当然だもん。ばーかばーか!」
時雨は、あんまりはっきりと『大事なパートナー』とか言われると恥ずかしいのでやめてほしいのだが、今は放っておく。
「ま、そんなことより、お前変な術使ってるな。一応精霊術なんだろうけれど、材料が違うっていうか……。それに詠唱をまったくしていない」
時雨が言い終えると、横でセルルが「そんなことって何? そんなことじゃないよ!時雨のバカ~ッ!」と叫んでいたが、花恋はそんなセルルの様子の構わずに話し始める。
「へぇ、性質の違いにまで気付くなんて、さすがね。確かにわたしの精霊術は普通の精霊術とは違うわ。人工精霊って知ってるかしら?」
その言葉に時雨とその横でごちゃごちゃ言っていたセルルの表情が変わる。
人工精霊。それは、名前のままに人工的に作られた精霊のことだ。今現在も世界中で人工精霊に関しての研究が続けられている。しかし、世界中でも開発に成功した例は極めて少なく、完全な形の人工精霊は現在でもごく少数と言われていた。その力の強大さと貴重さで各国が秘密裏に所有権を争っている代物だ。
「わたしが持ってるこれ、人工精霊なのよ」
花恋がしれっとした顔で言う。
嘘だ、と時雨は思う。花恋は多くの国が軍事力強化のためにのどから手が出るほど欲しがっている人工精霊をその手に持っているというのだ。簡単に信じろと言う方が無理だ。
「信じられないって顔ね?」
「そりゃ、そうだろ。突然そんなことを言われたって……」
「でも、実際そうなんだもの。仕方ないじゃない。わたしが詠唱を行わなくていいのはこれのおかげ。この剣自身が精霊みたいなものだもん。そりゃそうよね」
確かにそうだ。普通でも遅延呪文と呼ばれる詠唱を破棄する方法はあるが、もしあれが人工精霊なのだとしたら、先ほど見せたスピードも説明がつく。そして時雨自身が感じた違和感も納得できる。それに何よりも、本当に人工精霊なのだとすれば花恋があの黒いマントの人物だった可能性は高まる。
「ふーん、まぁなんでもいい。俺もあんたを潰す理由が見えて来た。これ以上付きまとわれちゃ面倒だ」
また帰り道に突然襲われてはたまらない。今日でカタをつける。時雨はそう心に決めた。
先ほどは、スピードさえ押さえればどうということはないと思っていたが、衝撃波のような強力な術を持っているとわかった以上、もう相手を見くびらない。自分と同等、もしくはそれ以上の存在としてぶつかるまでだ。
「よしッ、本気で行くか………ん? いや待て、本気?」
時雨は何かを思いついたのか、セルルの耳元に口を寄せて小さな声で囁く。セルルもその囁きに耳を傾け、何度も頷く。
時雨が囁き終えて、大きな声で言う。
「セルル。いくら腹が減っても、今日は昨日みたいに逃げないぞ。いいか?」
時雨がからかったような口調で言うと、セルルは軽く頬を膨らませて、
「むッ、わたしは食いしん坊じゃないんだよ? そういう言い方は傷つくなぁ」
時雨とセルルはお互いに顔を見合せて、笑う。
そして時雨が表情を整えて言った。
「よし、行くぞ、セルル。ちゃっちゃっと終わらせて、おいしい飯にありつくとしようぜ!」
「うん、了解だよ!」
そんな二人の様子を見た花恋は再び顔を歪めて、
「ホントに仲がいいことで……。やっと本気になってくれるのね。さっきから何の話かよくわからないけど本気になってくれたなら嬉しいわッ!」
花恋が人工精霊の力を最大限まで引き出し、先ほどよりも早いスピードで時雨のもとへと走る。時雨と花恋の距離から考えれば、数秒もかからずに時雨のもとに到達する。
しかし、時雨は動かない。その場から動かないだけでなくもう効力が切れているであろう風の精霊術を唱え直すわけでもなく、氷の剣を作り出すわけでもない。その場に立ったまま動かない。
「終わりだわッ!」
花恋が時雨のもとへと到達し、その剣を振り下ろす。
しかし、
振り下ろした瞬間、時雨はそこにいなかった。
花恋の剣が当たるであろう場所よりもほんの数センチ横に時雨は立っていた。
花恋の表情が驚きに染まる。
普通の人間なら、なんの術も使わずに花恋のスピードについてこられるはずがないのだ。いや、精霊術を使ったとしても、簡単についてくることなどできないはずだ。花恋が怪訝な眼差しを時雨へと向けるが、時雨は涼しい顔で花恋の視線を受け流す。
「来いよ」
時雨のその一言が再び引き金となり、花恋が時雨へと切りかかる。しかし、またも時雨はギリギリのところでかわす。
(……はじめからこうしてれば良かったな)
時雨は初め、花恋のスピードに追い付くことだけを考えていた。だから、風の精霊術を使いスピードを上げたし、氷の剣の二刀流で手数を増やし花恋を圧倒しようともした。しかし、時雨は気付いたのだ。相手がとてつもないスピードを持っているのであれば、それに付き合ってやる必要はない。
初めから、スピードで勝負しなければいい。
「くそッ! なんでッ、なんで、当たらないのよッ!」
花恋が苛立ちを隠せずに、叫ぶ。何故目の前の相手よりもスピードで圧倒的に上であるはずの自分が攻撃を当てることができないのか、それがまったくわからないのだろう。
幾度となく続く花恋の攻撃を時雨が避け続けた後、花恋がふと言った。
「精霊が、いない……?」
そう、時雨のそばにセルルがいなくなっていたのだ。
「……まさかッ!」
花恋は、何かに気付いたような表情で時雨を見る。
すると時雨は、軽く微笑んで、、
「気付いたみたいだな。ご明答。セルルは俺の中だ」
花恋はようやく自分の攻撃が一切当たらなかったことの原因を見つけ出したようで、納得の表情を浮かべている。
「精霊の五感は人間の三倍だったかしら?」
「その通りだ。さすが人工精霊の使い手だけあって詳しいな」
「お褒めに預かり光栄だわ」
セルルは精霊、しかもその中でも上位に位置する大精霊だ。精霊が本来持つ五感の鋭さはもちろん、人間、精霊問わず何ものかの気配を察することに長けている。だからこそ、時雨は花恋の攻撃をよけ続けることができた。
セルルが時雨の中に入り、花恋の気配を読む、どこから攻撃がくるのか全てを先読みし、時雨に伝える。相手がどこにいるのか、どこから来るのか、その二つを完全に把握することができたならば、精霊術を使わなくても――一切霊力を消費せずとも――かわすことは難しくない。そして、セルルから時雨への情報伝達速度に関しても問題はない。セルルが中にいる状態の時雨は言うならば、自分の中にもう一人の自分がいる感覚なのだ。声を出して誰かに伝えるのとでは訳が違う。
時雨が呆れた様子で言った。
「理解したなら、もういいだろ? お前の攻撃は俺には当たらない」
その言葉を聞いた花恋が、ものすごい形相で時雨を睨みながら叫ぶ。
「……さい、うるさい、うるさい、うるさいッ! 黙れッ!」
花恋は突然ヒステリーを起こしたかのように叫んだ。
「わたしは精霊が嫌いッ! 大嫌いッ! だから精霊と慣れ合うあんたも嫌い。そんなやつよりわたしが弱いなんて有り得ないッ!」
「………」
時雨は何も言えない。「精霊が嫌い」この言葉は別に珍しくはない。過去に起こった人間と精霊の戦争の影響でいがみ合っている部分も少なくないからだ。さらにいえば時雨たちは自分たちの関係のせいで幾度となく迫害されてきたのだ。自分たちという存在を拒絶されることにも慣れている。
しかし時雨は、その言葉には何かしらの重みを感じた。
「精霊なんていなくなればいい。さっきから大事なパートナーだとか、くだらないこと言ってッ! そういうの虫唾が走るのよッ!」
花恋のその顔はひどく歪んでおり、精霊を心から憎んでいるのであろうことがうかがえた。
だが、誰がどう思おうとも時雨とセルルの関係は変わらない。
「……そうか。あんたがどう思おうと関係ない、勝手にやってくれ。けどな、俺の考えは変わらない。さっきセルルが言ったことじゃないが、それこそ大事なパートナーってやつなんだよ」
時雨の隣では、話を聞いたセルルが、時雨の中から飛び出して嬉しそうな表情で笑っている。時雨はその表情を見て自分が言ったことが急に恥ずかしくなったが、今更取り返しがつかない。
時雨の話を聞いた花恋がフフッ、と少しだけ笑いぼそりと呟くように言った。
「……されたのよ」
声が小さいので時雨には聞き取れない。セルルの表情が変わったので、セルルには聞こえていたのだろう。
呟いた花恋の目から一粒の雫が流れ落ち、そして再び花恋は口を開いた。今度は大きな声で。
「……殺されたのよッ! 両親が! 精霊にッ!」
時雨の顔が一気に歪む。
「あんたはッ! わたしと同じ状況になっても同じことが言えるッ!?」
時雨とセルルは何も言い返すことができない。
「だから、だから、誓ったのよ! 父さんの残したこの人工精霊でどんな精霊にも負けないってッ!」
花恋の絞り出すような声がその場に木霊する。
† †
花恋は、絶望していた。
花恋は精霊が嫌いだ。大嫌いだ。それこそ皆殺しにしたいほどに憎んでいる。でも皆殺しなんてことは絶対にできない。それは自分自身が一番わかっている。だからせめて花恋は誓った、精霊には負けないと。「精霊に負けない」、すなわちそれは精霊術を行使するものすべてに負けないということであり、とても現実的とは思えない。
だが花恋は誓った。父親の残してくれた人工精霊で常にトップに立つと。立ち続けると。そして今までずっとそうやって一番であり続けた。
でも今、花恋は負けている。
花恋は心に深く刻んだのだ。
両親が精霊に殺されたとき、人間と精霊は一緒にいてはいけない、いるべきではないと。
では、目の前にいるのはなんだ?
人間と精霊が手を取り合って、自分の実力を軽々と超えて見せるではないか。そして自分が懸命に霊力をすり減らし攻撃をしているにも関わらず、目の前にいる相手は一切の霊力を消費せずに、花恋の攻撃をかわしてみせる。
こんなにも人間と精霊は手を取り合うことができるのか?
今まで自分の中にあったものを、目の前で完全に覆されている。大嫌いな精霊に負けないと言う決意は、今まさに崩れようとしている。
そして、胸に深く刻まれた、人間と精霊は共に歩くことはできないという考えは目の前に立つその者たちの存在こそが否定して見せている。
「なんで? あなたたちは違うのよ。人間と精霊なの。なのになんで……?」
花恋の問いかけに時雨は笑う。その顔には、あたりまえのことを述べるかのように軽い笑みを浮かべている。
「……知らないな。精霊とか人間とか。俺たちだって今までこの関係のせいでいろいろと苦労はしてきたけどな、でも違うんだ。俺にはずっとセルルがいた。精霊とか人間とかそういうのは関係ない。俺はセルルが大事なんだ」
時雨は一度大きく息を吐き、続ける。
「だから、人間とか精霊とかじゃなくて、結局は個人個人なんじゃないのか、大事なのは」
時雨が言い終わると、セルルが一言、
「ずっと一緒にいたというか、離れられなかっただけなんだけどね?」
時雨が「うるさいよ」とセルルの方を見ながら言うと、セルルはいたずらっぽい笑顔で笑う。
花恋はしばらく涙を浮かべた瞳で時雨たちを見たあと、
「でも、でもね、わたしは………わたしは………」
「……だろうな」
花恋の言葉を聞いた時雨が間髪入れずに言った。
「お前は今まで、ずっと自分の中にあるものを信じて生きてきたんだ。いまさらそう簡単に生き方は変えられないだろうな。だったら無理に変えなくていいんじゃないか? お前はお前で、俺は俺、だからな」
花恋は驚きの表情を浮かべ、時雨を見る。
「もしお前の気が済まないなら相手してやるよ。全部、受け止めてやる」
「それは同情? わたしの事情を聞いたから?」
「違う。俺は俺の生活を守るためだ。お前と勝負しないと、俺たちのことを学園中にバラすんだろ?」
花恋は軽く笑いながら「そうね」と一言言うと父親の形見である人工精霊を構えた。
「来いよッ!」
その言葉が引き金となって、二人の少年と少女は再びぶつかり合う。
少年はすべてを失い、人間を憎んだ。
少女はすべてを失い、精霊を憎んだ。
正反対の境遇を持つ二人の運命が今、交差する。
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