第1話 少年と氷の精霊

「ふあぁぁ~」

 部屋に情けないような欠伸がこだまする。

 

 とあるマンションの一室。日当たりは良く、必要最低限の家具が置かれただけ。部屋は片付いており、全体の色がまっ白なこともあり、部屋の主が綺麗好きだろうことが伺える。


 その欠伸の主が起きるかどうか迷いながら布団にくるまっていると、どこからか声が響いた。「早く起きろ」と。


 しかし、欠伸の主は全く起きようとはしない。すると今度は少し強めの「起きろ」という声がするが効果はゼロ。このまま寝ていたら間違いなく遅刻だろう。今の時間でもかなり怪しい。


 ほんの少しの静寂の後、突然欠伸の主の体から少女が飛び出した。


「ねぇ、時雨、いい加減起きないと遅刻なんだけど?」


 時雨と呼ばれた少年は眉間にしわを寄せながらベッドから体を起こした。


「おはよ。セルル」


 声を掛けられた少女は呆れ顔で時計を指差し時間を知らせるが、時計を見た少年は別に焦ることもなく、「今日は遅刻だな」と言い放ち、ゆっくりと準備を始めた。


 少女が突然現れたことからもわかるように、この二人は非常に奇妙な関係で結ばれている。


 少年の名前は橘時雨。


 黒の長髪で肩に掛かるほどの長さ。しかし鬱陶しいというような感じは全くせず、むしろ清潔感さえ漂っている。おそらくは生まれ持ったものだろう。端正な顔立ちで、彼を見る人間にはどこか気品を感じさせる。身長は高くも低くもない。


 少女の名前はセルライナ・イリアス。


 彼女を知る人間はセルルと呼ぶ。腰までとどくほどの薄い青色の髪に、これでもかと言うほど白い肌の持ち主。もし彼女が人間ならば、病気と疑われても仕方ないかもしれない。時雨より背が低く、体つきも華奢だ。そんな一見病弱に映る少女だが、名前からもわかるように人間ではない、精霊だ。


 精霊とは「自然界に存在する物質に宿る意思」であり、かなり大雑把だが、簡単に言えばそこらへんの草や木が意思を持ったものと考えればいい。

 

 そんな精霊と人間という二人の奇妙な関係は生まれた時からであり、精霊という存在そのものにも関わってくる。


 セルルは一般的に氷の大精霊だ。


 大精霊とは、世界に存在する物質を束ねる存在で、火、水、氷、風、などなど、あげていけばきりがないが、それぞれの属性において数体しかいないらしく、かなり稀な存在なのである。地方によっては、精霊を神と称して信仰の対象にもしているほどだ。本来ならこんなところで少年の目を覚ましてやるような存在ではない。


 セルルのような力の強い精霊は、何百、何千、時には何万年に一度の周期で生まれ変わる。いい例では昔に起こった地球温暖化だろう。あの現象の原因は多くの火の大精霊が一斉に生まれ変わりの時期を迎えたために地球の熱量の制御がうまくできなかったことが原因と言われている。


 力の強い精霊は生まれ変わる時、力が著しく弱く単体では生きることさえも難しい。ゆえに人間を宿主として生まれ、精霊として完全な力を得るまで人間と共に生きる。その間、精霊と宿主は簡単に離れることはできず、長時間離れると体に異常が起き、限界を超えると肉体が消滅してしまうらしい。


 二人の関係はいろいろと奇妙であり複雑だが、離れられないという特殊さえ除けば、小さい頃からずっと一緒の幼馴染に近いかもしれない。


 時雨が寝癖を直し、準備を整える。その横でセルルも髪の毛を櫛でとかし始めた。


「別にいいだろ。お前は整えなくても、俺の中にいればいいんだから」


 時雨の言葉にセルルは少し頬を膨らませて反論する。


「確かに時雨の中にいれば誰にも見られる事はないけど、わたしだって女の子なんだよ?」


 セルルの言葉に時雨は肩をすくめた。


 セルルは、自分の意志で霊体化、もしくは実体化が可能という何とも便利な体をしていた。もし疲れたら霊体化して時雨の中に入る。外に出たくなったら、実体化して外にでると言った具合だ。


「ったく、便利な体してるよ。たまにはかわってくれ」


 セルルは少し口を尖らせて、


「むっ、これはこれでいろいろ大変なんだよ?」


 時雨がすこし顔を歪めながらセルルを睨み、「そうですか」と言い放ち、制服に着替える。


 時雨の通う学校は『エデン』と呼ばれる世界に三か所しかない精霊術に関してずば抜けた権威を誇るエリート校だ。その中でも最も優秀だと言われる東京校に時雨は所属している。


 エデンには世界中から精霊術に関するありとあらゆることが集まってくる。卒業生は政界や企業、軍などで大いに活躍している。


 時雨が着替えているのを見て、セルルも急いで着替え始める。


 セルルは学校の生徒ではないので私服だ。白いワンピースに水色の薄手のジャケットを羽織っている。その服装は、セルルのただでさえ白い肌を際立たせ、とても清楚な印象を与える。


「おいてくぞ」


 鏡の前で服装のチェックをしているセルルに対し、時雨が声を掛ける。もちろんそんなことできないのは、言っている方も言われている方もわかっているのだが。


「まって~、まってってば~!」


 セルルが駆け足で玄関にいる時雨に追いつく。そして一言


「おなか減った」


 セルル曰く、「朝ごはんは、一日の力の源だよ! 食べないと死ぬよ! 行き倒れだよッ! わたしは別に食べなくてもいいんけど、時雨の体が心配なのッ!」らしい。


本来なら、朝食の準備は二人交代で行っているのだが、時雨が寝過すと、時雨に比べて比較的朝に強い――あくまで時雨と比べた場合――朝食を食べないと行き倒れる大精霊がなんだかんだで朝食の準備をすることが少なくない。だが今日はセルルにもそんな余裕はなかったらしい。


 残念ながら、朝食を食べている時間はない。そもそも、今から猛ダッシュで学校に向かっても遅刻せずに着けるかどうか怪しいくらいなのだ。


 なので、朝食を食べている暇などまったくない、はずなのだが、


「うぅ~おなかへったよ~」

(まぁ、そう来るだろうな……。セルルなら)


 時雨が、心の中で一人納得し、


「しょうがないだろ? 遅刻しそうなんだから」

「今日、時雨の番」


 ジロリ、と音がしそうな視線が時雨に突き刺さる。


 時雨は、セルルの視線にたじろぎ、少しバツの悪そうな顔で、


「悪かったよ。明日も俺の番でいいから」


 時雨の言葉を聞いたセルルは、先程と同じような視線で時雨を睨みつつ、口を膨らませて怒っていることをアピールしている。おそらく、時雨が当番をすっぽかして寝ていたことよりなにより、とにかくお腹が減っているのだろう。


 時雨はそんなセルルを横目で見たあと、携帯電話を取り出して時間を確認する。そして、「はぁ………」とため息を吐くと、靴を脱ぎ台所へ向かう。


「???」


 時雨は、空腹のお腹をさすりながら不思議そうな顔でこちらを見ているセルルを手招きして、とりあえず部屋に戻す。


「どうしたの?」

「朝飯、食べようぜ。腹減った」


 時雨の言葉を聞いたセルルは、目を輝かせながら、


「でもいいの? 遅刻じゃない?」

「もういいさ。今から行ってもどうせ遅刻だ。だったら、ゆっくり朝飯を食べてからでも、変わらないだろ?」

「うん! そうだね! その通りだよ! さっすが時雨だねッ!」

(……現金なやつめ)


 時雨は心の中でそっと呟く。


「なんか言った? 時雨?」


 セルルに心を読まれ、一瞬ドキッとした時雨だが、何とか取り繕い、何事もなかったように会話を続ける。


「別に。さて、時間もあるしひと手間かけるとするか」


 ひと手間、という言葉を聞いたセルルは万歳をして喜んでいる。よほどお腹がすいていたのだろう。


 時雨は、愛用のエプロンをすると、すぐに料理に取りかかる。ひと手間、なんてかっこよく言ってみたのはいいが、朝からそんなに面倒なものを作る気にはならないので、いつものメニューに何品か加える形にすることで落ち着いた。


 時雨が料理を始めてから十五分ほどすると、部屋に香ばしい香りが溢れる。待つ間、うたた寝をしていたセルルが目を開けて大喜びする。時雨もなんだかんだ言ってお腹が減っていたので、料理を運ぶ足が無意識に早足になる。


「すっごーいッ! 時雨すごーい! フルコースだね!」


 時雨は料理が得意なのだ。だから朝食を作ることはまったく苦ではない。むしろ作りたいくらいだ。だがまったくもって残念なことに朝に弱い。


 二人が席に着いて、そろって「いただきます」をすると、二人ともすごい勢いで食べ始める。その姿を例えるなら、猛獣といったところか。


 少しお腹が落ち着いたのか、食べるペースが落ちた頃、ふとセルルが言った。


「でも、ホントによかったの? 時雨出席ヤバいんじゃなかったっけ?」

「……さぁな。まぁいいさ。どうせ間に合わなかっただろうし、腹を空かした猛獣を連れて歩くわけにもいかないからな」


 時雨が自分の猛獣っぷりは棚に上げて、意地悪な笑みを浮かべながらセルルの方を見る。


 するとセルルは、頬を膨らませて、


「女の子を猛獣扱いするの? いくら優しいわたしでも、それはちょっと怒るよ?


 そもそも、わたしは食いしん坊なわけではなくて、ただ朝ごはんを食べないと力がでないのであって……うぅ、時雨のばーかばーか!」


 時雨は、「はいはい」と適当に流して、一流執事のようなたち振る舞いで、セルルに紅茶を差しだす。


「どうぞ、お譲さま」

「………ん。気が利く、苦しゅうない」


 どうやら機嫌は直ったようだ。


 二人は朝食を食べ終え、お茶を飲んで一服して、ようやく学校へと向かうことになった。結局二人が家を出たのは、予定の時刻よりも二時間遅かった。



      †     †




 外に出ると熱くも寒くもない。丁度いい温度だった。六月の半ばなので、そろそろ春も終りだ。


 時雨の通うエデンは、時雨の家から徒歩十五分ほどのところにある。


 精霊学に特化したエデンがあるせいかこの街は他の街より精霊に好意的な人が多い。しかしそれでも百年前の戦争のせいで精霊を嫌う人は少なくなく、二人の特異な関係を公にすることは出来なかった。


 時雨とセルルは、二人がよく利用する生花店や八百屋などが並ぶ商店街を抜けて坂道を登る。この坂道がなかなかの曲者なのだ。時雨のような遅刻常習者にとっては特に。


 今日の時雨は完全に遅刻なので周りを見渡しても誰もいないが、普段ならあきらめずに限界ギリギリの顔で走る奴、あきらめて優雅に歩く完全に開き直っている奴など、まさしく十人十色と言った感じだ。


 時雨とセルルは、途中まで二人並んで歩く。時雨が左でセルルが右、いつも通りの形だ。


「もう春も終りだねぇ」

「そうだな」


 校門まであと少しの所で二人は足を止め、路地裏に入る。二人が並んで歩くのはここまでだ。セルルはいつもここで霊体化して、時雨の中に入る。時雨はいつも、少し心苦しい気持ちになるのだが、こればかりはどうしようもない。


「じゃあ時雨、今日も一日がんばってね!」


 時雨はいつものように校門をくぐる。この学校は精霊の研究に関して名をあげた学校なので、歴史という点ではどの学校にも見劣りする。しかし、それゆえ校舎は新しく非常に綺麗であり、それが理由でここを志望する生徒が少なくないらしい。


 時雨は、ガラスが張り巡らされた渡り廊下を抜けて教室に向かう。すると抜こう側から歩いてくる人に声を掛けられた。


 少し怒った口調で「また遅刻?」と。


 声を掛けて来たのは、時雨の担任の由衣原夏目。

 

 夏目を一言で表すと、大人の女と言ったところだろうか。身長は時雨と同じくらいと高く、スタイル抜群。出るところは出ているし、締まるところは見事に締まっている。まっすぐに伸びた腰まで届くほどの黒髪と合わさって、大人の色気を醸し出している。


 その綺麗な黒髪や、豊満な胸で、学校の男どもの憧れの的になっているとかいないとか。他の先生とは違い、生徒と年齢が近いこともあって生徒から非常に人気がある。一部の生徒から『なっちゃん』と呼ばれ親しまれている。


 夏目は学園長の娘で、学園長が時雨とセルルの面倒を見ている上、自分の子供のように可愛がっているので、夏目も二人に対して弟または妹のように接してくれる。


「もうッ! 時雨ったら、どうせセーちゃんに起こしてもらったんでしょ?。あんまり迷惑かけちゃだめだよ?」


 時雨が、全くその通りだから反論のしようがないので黙っていると、夏目が続けた。


「まぁいいわ。それよりセーちゃん元気? いるんでしょ?」


 すると時雨の頭の中でセルルの声がする。「元気だよー」と。


 本来なら実体化して会話をしたいところだろうが、誰が見ているとも知れない学校の廊下、しかもど真ん中で姿を突然表す訳にはいかない。特異な存在として少なくない差別を受けてきた二人にとっては重大な問題だ。


「元気だってさ」


 時雨が答えると、夏目は頷き、


「そっか、それならいいわ。はやく教室にいくのよ?」


 そう言うと、すれ違いざまに時雨の頭をとびきりの笑顔で撫でる。


「なでなで、っと」


 いつも夏目は事あるごとに、時雨やセルルの頭を撫でる。


 正直、時雨は頭を撫でてもらうのは嫌いじゃない。今までずっとそんな優しい人たちに出会って来なかった。ゆえに、誰かに触れてもらえることは幸せだと知っている。そんな小さな幸せを夏目に頭を撫でてもらうと実感できる。


 だが、問題がある。


 夏目は、時雨の頭を撫でる場所とタイミングをまったく選ばない、まったく。クラスメイトが大勢いる教室でも平気で撫でるし、教師の巣窟職員室でも。


 確かに、夏目に撫でてもらうのは嫌いじゃない。でも、さすがに場所とタイミングくらいは選んでほしい。時雨ももう子供じゃないのだから恥ずかしい。時雨は、頭を撫でられる幸せを感じながらも、回りに誰かいないかを懸命に確認する。幸いなことに、今が授業中なこともあり、回りには誰もいなかった。


「へへっ、またあとでね」


 夏目は、そう言い残し階段を下りて行った。


(ったく、人の気も知らないで………)


 時雨は、夏目の後姿を見送り、教室に向かう。


 教室の前に着いたのは、ちょうど授業が終わりに差し掛かった頃だったので、邪魔をしないように、休み時間になるのを待って教室に入った。


 時雨が教室、二年A組に入ると、クラス中の視線が時雨に向けられた。時雨はいい意味でも悪い意味でも目立った存在なのだ。遅刻の常習犯で休むこともしばしば、だが一方で成績優秀、挙句顔も悪くないとくれば目立つのも道理というものだ。


 時雨がクラス中の視線を軽くスルーして自分の席に着くと男子と女子一人ずつ近づいてきた。


「まぁた遅刻かよ、時雨」


 そう言って時雨の肩をぼんぼんと叩くのは秀一、通称「秀」。


 金の短髪で右の耳にはシルバーのピアスが二つ。一見すると顔は悪くないのだが、行動がバカっぽいうえにノリが軽いこともあって、人それぞれ好みの分かれそうな性格だ。極度の女好きで、秀いわく、「俺は女の子を愛するために生まれてきた」らしい。よく女の子を泣かせているとかいないとか。


 その一方で、秀はそのノリの軽さを活かしてクラスのまとめ役になったり、落ち込んでいる人を慰めたりと、なかなか役に立っていたりする。


「やめろよ、クソ虫。つかわたしの時雨に触るな。体中のありとあらゆるものを引っこ抜くぞコラ」


 時雨は、「誰がわたしのだ」と突っ込みたくなったが、今は置いておく。


 秀の手を制したのは蓮見、通商「涼」。秀の双子の妹だ。


 髪は茶色く、黄色いリボンで髪を結び、ツインテールにしている。その見事なツインテールや柔らかい笑顔でかなりモテるとかモテないとか。

 

 彼女の大きな特徴は「毒舌」だ。根は優しいのだが、基本的に言葉使いはかなり激しい。自分の気に入らないことや、おかしな態度をとる相手には容赦のない言葉の核兵器を浴びせる。


 この二人は双子であり、時雨と付属時代から同じクラスでセルルのことも知っている。親友という言葉が一番しっくりくる相手だ。


「ねぇ時雨、何で遅刻したの?」


 涼が時雨に聞くと、間髪入れずに秀が強い口調で言った。


「どうせ、寝坊だろ」


 時雨は相変わらず秀は鋭いなと思う。いつものことなので、気付かれても仕方ない。時雨が何も言い返すことができないでいると、横から声が掛かる。


「橘君。遅刻届頂戴。先生に渡しておくから」


 時雨が、「どーも」とお礼をいいながら遅刻届を手渡す。


 彼女は坂崎芽衣このクラスの委員長。髪の色は黒く、長くも短くもない。黒い大きめのメガネをかけており、かなり地味だ。なんというか、完全な優等生と言う感じの女の子で、先生からの信頼は厚く、成績優秀、スポーツ万能で一部の男子に熱狂的な人気を誇っているらしい。時雨には理由はわからないが、秀が以前、彼女の魅力について力説していた気がする。もちろん聞き流したわけだが。


 坂崎は時雨と時々他愛もない会話を交わすことはあっても特に親しいという訳ではない。


 もちろん彼女はセルルのことは知らない。セルルのことを知っているのは、時雨の担任であり姉代わりの結衣原夏目、蓮見兄妹、それからこの学園の学園長だけだ。

 

 時雨が遅刻届の紙を坂崎に渡すと少しだけ二人の手が触れた。時雨が「悪い」と謝ると、坂崎は顔を真赤にして走って行ってしまった。


 するとまず秀が、


「おやおや~。いつから委員長とそんな仲になったんだい時雨ぇ~?」


 涼が、


「なに今の? いつの間に委員長にまで手を出したわけ? つかあの女、わたしの時雨に何顔を赤くしてんだか、剥げろ」


 双子が好き放題言っているのを時雨は聞き流し、頭のなかで委員長に心の中でもう一度謝ると追い討ちをかけるようにセルルの声が頭の中に響いた。


(趣味悪いね、時雨。何がいいの? まさかメガネ? メガネなの? 言ってくれればいつでも掛けてあげたのに………知的美少女セルルだね!)


 ………。


 時雨はいつものことながら言葉が出ない。


(俺、何もしてないよな?)


 時雨は心の中で疑問に思うものの、この三人が結託すると当分の間は、まるで暴走特急のごとく突っ走るので放っておくしかない。


 時雨は、三方向――一つは頭で響いているわけだが――から飛んでくる言葉の雨をひたすらに無視し続ける。


「はぁ………」


 時雨は、大きなため息をついた。




     †     †




 四時間目。精霊術の実践だ。時雨にしてみれば正直教科書に載っているような精霊術は何の問題もなくこなせるのでただ退屈なだけの授業と言っても差支えはまったくない。


 実践となると、必ずあるのが、まず初めに誰かにお手本を見せてもらいましょう、というやつだ。


 時雨はこれが嫌いだった。なぜなら、時雨の精霊術に関する才能の高さが学園の噂になるほどのものであるがゆえに、必ずどの教師も時雨にお手本をやらせるのだ。


 今日の授業の内容は、ぬるくなったペットボトルの中身を氷の精霊術で冷やすというものだった。案の定、担当の教師は、「それじゃあお手本を橘君にやってもらいましょう」なんて当然のごとくのたまった。


 時雨が嫌々ながら前に出ると、クラス中の約八十個の目玉が時雨に向けられる。

 

 時雨は小さくため息をつきながら精霊術を行使する。


 精霊術は、大気中に存在するエレメントと呼ばれる物質を体内に取り込み、人間の血液中に流れる霊力と反応させた後、精霊が無意識に発している『詩』に耳を澄ませ、自分の声を重ねることで発動する。性質上、エレメントの少ない場所、および精霊がいない場所では術を発動させづらい。


 時雨がぬるくなったペットボトルに手をかざすと一瞬にして凍って、温度があまりにも急激に変化したせいかペットボトルが割れてしまった。


 時雨は、やりすぎたと思いつつ席に戻る。


 クラス中の約八十の手から拍手が起こったが、担当の教師はここまでやらなくても………という顔をしていた。


「なんだよ時雨、力んだのか? カッコ悪いなぁ」


 秀が冷やかすように声を掛けてきた。


「別に力んだ訳じゃない。これくらいやっておけば、もうお手本を頼まれることもないだろ?」


 精霊術を行使するには、エレメント、精霊の『詩』を聞くこと、そして自らの声、が必要だ。しかし時雨は氷の精霊術に関しては、氷の大精霊をその身に宿しているのでどれも必要ない。ゆえに変幻自在とまではいかないが一番得意なのはやはり氷の精霊術なのだ。


 そのあと、実際にクラス全体で実習なわけだが、時雨はやる必要はないので適当に授業をやり過ごした。


 精霊学の授業の帰り、廊下を歩いていると、双子の兄が声をあげた。


「ひ・る・め・し! ひ・る・め・し! さぁ、屋上へゴ―だ!」


 時雨と涼は頷き、屋上に向かった。


 この学園には屋上は合計で五つある。時雨たちがいつも昼食を摂っているのは、そのうち、最も高さがあり、見晴らしの良い屋上だった。学園の中で一番高い場所は中央塔にそびえる時計台なのだが、そこに屋上はなく、整備の人間以外立ち入り禁止なので一般生徒は入ることができない。


 本来なら時雨たち愛用の屋上も立ち入り禁止なのだが、誰もこないのでこっそり使っていた。軽く秘密基地と言ってもいいかもしれない。ここならば、セルルが学園内で安心して実体化することが出来る。


「ところでさぁ、時雨。おまえ委員長のことどう思ってんの?」


 突然、何の脈絡もない話を双子の兄である秀が降って来た。


「はあ? お前突然何いってんだよ?」


 予想もしていなかった話を突然振られ、戸惑う時雨。その様子を見た秀は、


「時雨は焦っている。 ………もッ、もしや時雨! これはフラグが立ったのかッ!?」


 時雨が、あきれ顔で「おいおい」と突っ込みをいれるも、秀は言葉に力を込め真剣な口調で言う。


「いいか、時雨。ここでロマンを持たなくてどーすんだよ!メガネっ子だぞ?最高だろ!! それ以外にも例えば、はじめはお前を恨んでる少女がだんだんとデレデレになっていくとかな………俗に言う主人公嫌悪系のツンデレってやつだ! いや待て、ここは実はその娘はものすっごい電波な感じだったりするのか!? はたまた意表をついて実はお嬢様なのに超オタクだったり……!?。時雨、たぶんここはお前が貧乳萌えか巨乳萌えかでヒロインが変わってくるぞッ!」


「「「いっそ死んでしまえばいいのに」」」


 時雨、セルル、涼の三人が同時に発した言葉は一字一句同じだった。この時三人はシンクロ率百二十パーセントを超えていただろう。今なら、ラスボスも一撃の超必殺技なんかも軽々と出せるかもしれない。


 まるで氷河期に突入したかのような視線が秀に突き刺さっているが、秀はそんな視線に気付かず独り言を言っている。


 すると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。


 冷たい視線を向けていた三人がどこぞのバカをおいて教室に戻ろうとすると、慌てて秀が追い付いてくる。


 追いついた秀が涼に、「双子の兄を置いて行くなんてなんて酷い妹だ」、「お兄ちゃんをもっと大事にしろ」、「この子には妹としての再教育が必要ですよ時雨さん!」だとか嘆いている。


 最終的に時雨に話が振られたので、何でそうなるのかと自問したが、同意しなければいつまでも騒いでいそうな勢いだったので一見すると真剣そうに見える顔を作り深く頷いておいた。その後、


「ほら見ろ! 時雨だってああ言ってるぞ! お前には妹としての自覚が足りないんだよ!」


「一辺死ねよ。大事にしてほしいなら、まず自分の態度を改めろ、このフナムシが。なんでこんな奴と双子なんだか………」


 双子が言い争っているがいつものことなので気にも留めず、時雨は双子の前を歩く。すると、昼休み終わりと同時に時雨の中に戻っていたセルルが、少し恥ずかしそうに時雨に話しかけてきた。セルルは霊体化しているので声は時雨以外には聞こえない。


(ねぇ、時雨………男の子ってあーゆうのが好きなの?)

(あーゆうの?)


 頭の中で疑問が生まれると、それを察したセルルが続けた。


(ほら、その………さっき秀が言ってたよ。なんだっけ? え~っと……ツ、ツン……デレ?)

(………おい)


 時雨は、まだその話続いてたのかよ、と思ったが、どうやらセルルの中ではまだ完結していないようだった。


「ん~……どうだろうな。まぁ、嫌いじゃないっていうか……」

(どっちなの? はっきりしないのはダメだよ?)

「ま、まぁ、時と場合によるんじゃないか?」


 時雨がそう言うと、「ふ~ん」と一言言うとセルルは黙った。


 時雨はセルルが納得したのかしてないのかいまいちわからなかったが、とりあえずは納得したということにしておいた。




     †     †




 その日の帰り道、帰り道が違うので秀、涼の二人と別れ、商店街をセルルと二人で歩く。セルルは実体化しているが、もし誰かに見られても、かなり色の白い外人さんくらいに思うだろう。時雨の中から出てくる所さえ見られなければ問題はさしてない。


 二人の会話の話題は、夕食について。この時間は大抵がこの話題だ。


「今日、夏目は仕事で遅くなるから来れないかもって」

「そっか、じゃあ夜ごはん何にするの?」

「食べたい物あるか?」

「う~ん、ありすぎてわかんないなぁ。時雨にお任せで」 

「そうだな………もう夏も近いしな………」


 時雨は空を見上げて、季節を感じる。もう夏が近い。ほぼなっていると言ってもいい。


(そう言えば、花見出来なかったよな………そうだ!)


「じゃあ完全に夏になる前に春っぽい料理なんてどうだ?」

「いいねぇ! それでいこう! 今日のごはんは春っぽい料理!」

「よし、決まりだな」


 こうして二人の夕食は「春っぽい料理」に決まった訳だが、そこで時雨の動きが少し止まった。


「なぁセルル、春っぽい料理ってなんだ?」


 夕食の方向は決まったものの、具体的なものが思い浮かばない。春っぽい料理っていったいどんなものがあるのか? 時雨は考えを巡らせる。夏にはそうめん、冷やし中華、ざるうどん。なぜ麺類ばかりなのだろう、という疑問は置いておく。冬なら湯豆腐、鍋、シチューなどなど。いろいろあるが……いやまて、秋が抜けている。


(………秋の料理ってなんだ?)


 夏と冬には大きな季節的な特徴があるので、代表的な料理が簡単に頭に浮かぶ。夏は暑いので、冷たいもの。冬には寒いので暖かいもの。しかし、春と秋は?


 春は桜が綺麗でぽかぽかしていて気持ちいい。秋は紅葉が綺麗で熱くも寒くもなく過ごしやすい。そのくらいならわかる。しかしその特徴は視覚に大きな影響はあれど、夏や冬に比べて寒いや熱いなど極端な特徴がない気がする。だから、時雨はいまいち「春と言えばこれ!」、「秋と言えばこれ!」という食べ物が思い浮かばなかった。


 ふと時雨が横を見ると、セルルが「う~ん、う~ん」と口のあたりに左手を当てて唸っている。おそらくセルルも「春っぽい料理」が思いつかないのだろう。


 時雨もセルルと一緒に唸ることにする。歩きながらひたすらに唸る男女二人組。端からみればこれほどおかしな光景にはなかなかお目にかかれないだろう。


 二人が唸り続け、五十歩くらい歩いたところでセルルが体に稲妻が走ったように反応し、時雨の方にものすごいスピードで振り向いた。その顔は、自身に溢れている。おそらくものすごくいい言葉が出てくるに違いない。時雨が期待に満ちた視線をセルルに向ける。するとセルルが自慢げに口を開いた。


「ふふん、ワトソン君。君は大事なものを見落としていたよ。わたしは気付いてしまったのだよ。最も初歩的なことに」


 どうやら今のセルルは、「美少女探偵セルライナッ! わたしにかかればどんな難事件もイチコロよ!」みたいな感じなのだろう。


「春と言えばねぇ………」

「春と言えば………?」


 時雨はじっとセルルの目を見た。セルルも口元に笑みを浮かべながら時雨の目をジッと見る。そして、大きな声で宣言した。


「桜だよ!」


 はい?


「だーかーら、桜だよ! 春と言えば桜でしょ? まったくぅ、こんな簡単なことを忘れてるなんて時雨はうっかりさんだね~。ばーかばーか!」


 ………いや、違う。これはセルルが悪いのではない。


「春っぽい料理といえば」という課題について唸っていたはずなのに、いつのまにか「料理」の部分が抜けて「春といえば」という課題になり、挙句真剣にその答えを出してしまっているセルルが悪いのではない。


 悪いのは、そんなうっかり天然大精霊セルライナさんに期待してしまった自分が悪いのだ。そう思って時雨は自分を納得させた。


 当のうっかり天然大精霊セルライナさんは、「どうしたの?」、「具合悪いの?何か悪いものでも食べた?」なんて無邪気に問いかけてくる。


 確かに時雨は若干具合が悪い。だが、セルルの天然はいつものことなので「お前のせいだばかやろー」なんてことは言わずに、一言言った。「料理な」と。


 時雨の言葉を聞いたセルルは一瞬固まった後、いつもは絹のように真っ白な肌に覆われた顔を真っ赤に染め上げ、少し口を尖らせて、


「しっ、知ってるもん。じょ、冗談だもん。ば、ばーかばーか!」


 そんなセルルに時雨が、ジトーと音が聞こえそうなくらいの疑いの眼差しを向けると、セルルが口を膨らませて時雨に思いっきり頭突きを仕掛けた。


「痛ってぇな! なにすんだよ!」

「ふん!」


 セルルはそっぽを向いて、何か一人でブツブツ言っている。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。普段なら適当になだめるところだが、今は早く夕食の買い物を終わらせたいので、口の膨らんだ大精霊さんは放っておいて、行きつけのスーパーに向かうことにする。


 一人ごとを言っていたセルルは時雨が自分を置いて歩き出したのに気付くと、走って追いつき、そっと時雨の手を握った。


 二人が手を繋いで向かったスーパーでは「春の味覚堪能キャンペーン」なるものをやっていた。


「唸ってないで、早く来ればよかったな」

「ホントだね」


 二人は、呆れたように笑い合う。


 他愛もない会話をしながら商店街を歩いていると、殺気とも悪寒とも言える妙な気配を感じた。時雨は咄嗟に辺りを見渡す。


「……お前も感じたか? セルル」


 時雨が聞くとセルルが軽く頷く。


 放っておいても構わないが、はっきり言って気持ち悪い。もし何か面倒事ならさっさと振り払うのが一番、そう思った時雨はセルルの手を取ると突然走りだした。


「ちょ、ちょと、時雨どこ行くの?」


 セルルが驚きながら付いて来る。


「殺気の主をあぶりだすんだよ」


 時雨がそう言うと、セルルは顔を歪めた。完全にめんどくさいらしい。おそらくそんなことよりも、夕食のメニューの方が大事なのだろう。


 時雨がセルルの態度は一切無視して走り続け、着いたのは町はずれにある公園だった。時刻もだいぶ遅く、日も暮れてしまっているので周りには誰もいない。もし誰かが時雨の後を付けていたなら、ここにいるのは時雨とセルルを含めて三人だけだ。


「いいかげん出て来たらどうだ?」


 時雨はそんなに怒っていた訳ではないが、あえて少し怒ったような口調で言った。


 今までも、学園で目立つ存在ゆえの嫌がらせや、ストーカーまがいのことをされたことがあったが大抵は少し威嚇しておけばすぐにやんだ。


 ゆえに、今回も同様に少し強めに威嚇しておけばすぐにやむだろうという楽観的な、むしろ願望にも近い考えをもっていたのだが、今度の相手はそうもいかないようだ。


 数秒後、黒い影が現れた。


「………」


 辺り一面の暗闇を纏って現れた人物は、全身を黒いマントで覆っていた。フードを深く被っており、男とも女ともわからない。わかるのは身長が高いと言うこと、

 

 それとフードから覗く銀色の長髪。全身の黒さの中に唯一の異色。僅かに覗く銀色は鋭利なナイフを連想させた。


「何の用だ? あんたみたいな変な知り合い俺にはいないんだが」

「もともと、知り合いそのものが少ないけどね」


 セルルがニヤリと笑いながら続けた。


 「だまれ」と時雨が睨むと、セルルは舌を少し出して笑う。


「………」


 時雨の問いに黒いマントの人物は答えない。


 時雨とセルルは顔を見合せて、考える。


 いったい何者なのだ、この黒マントは? 何故自分たちをつけていたのか? 男か女か?


 など、様々な疑問が数秒のうちに浮かんでは消えていった。


 時雨とセルルが考えていると、黒いマントの人物が一歩踏み出した。 時雨が黒いマントの動きに気付き、そちらに視線を向けた。


 その刹那、


 時雨の眼前に黒いマントが迫っていた。


(嘘だろッ? なんだよこのスピードっ!)


 時雨とセルルは身を翻して、黒いマントから距離を取る。その距離は五メートルほど。大した距離ではないが、あるとないとでは精神的な余裕が違ってくる。


「どういうこと? 時雨ッ!」


 セルルの疑問は、黒いマントのスピードのことを言っているのではない。


 黒いマントは、先ほど見せたようにとてつもないほどのスピードを持っている。ゆえに、今時雨たちとの間にある五メートル程の距離ならば、それこそ一瞬に埋めることができるはずなのだ。しかし、黒いマントは一切その場から動かない。


「俺に聞くか? その疑問」


 どうするべきか? 時雨は考える。


 黒いマントは、明らかに自分たちを狙っている。だが、明確な殺意は感じない。それこそ遊んでいるようなそんな感覚。しかしこのままおとなしく帰らせてくれそうもない。セルルもお腹が減っていたようだし、さっさと終わらせたいのだが。


(……ったく、やるしかないか)


 時雨は大きく息を吸い込み、目の前にいる黒いマントの人物を見据える。


「やるぞ、セルル」


 セルルは「え~」と抗議の声をあげたが、時雨が「ごはん!」と一言言うと、無言で頷いた。


 時雨が右手に力を込め、精霊術を発動させる。


 頭の中で構築すべき形をイメージする。その形状は剣。本来ならここで、大気中のエレメントの凝縮、精霊の『詩』を聞き自分の声を重ねる、という動作が必要なのだがセルルがいるため、氷の精霊術においてはどちらも必要ない。


 時間にして一秒かかるかかからないか。時雨の右手に細身の氷の剣が現れる。過去の戦争において人間側が使ったと言われる『氷の魔剣アイスコフィン』を模して作りだした、時雨愛用の精霊術だ。


 剣を手にした時雨が、黒マントめがけて突っ込む。


「はぁぁぁぁァ」


 五メートル程の距離を数歩で縮め、全体重を掛けた渾身の一撃を黒いマントへと向ける。時雨の動きを見ても黒いマントは一切動かない。何を考えているのかわからないが時雨にしてみれば好都合だ。


(よしッ、いける!)


 時雨が相手に当たることを確信したその瞬間だった。


 ガキンッ! とぶつかり合う音が響き、時雨の攻撃は防がれた。


 黒いマントが右手に持っていたペンダントをかざすと、光を放ち、突如として剣へとその姿を変えたのだ。


 突然のことに時雨は一瞬混乱しかけるが、今はそんな場合ではない。


 一秒にも満たないであろうつばぜり合いを終えると、黒いマントが時雨の視界から姿を消した。


(くそッ! どこだ?)


 時雨が左右に視線を向けるものの、黒いマントはどこにも見当たらない。しかし、気配はある。気配は感じるのだが、その気配がどこから感じられるのかがまったくと言っていいほどわからない。


(落ち着け、落ち着くんだ)


 時雨は神経を研ぎ澄まし、周囲に気を配る。


 しかし残念ながら、敵もいつまでも待ってはくれなかった。


 時雨が気配を探っている隙に、黒マントが時雨の後ろに姿を現した。すでに黒いマントから伸びる腕は、高く剣を振り上げている。


(来たッ!)


 時雨が急いで後ろを振り向くが、間に合わない。


 剣は時雨の頭上へと振り下ろされ、間違いなくそのまま行けば、時雨の頭上に真紅の華が咲く。しかし、


 ニヤリ、時雨は笑った。


 剣が時雨の頭にあと数センチの所まで迫ったとき、ヒュン! という音と同時に黒いマントの横から氷の槍が放たれたのだ。


 セルルの精霊術。


 突然のセルルの攻撃を受けたことで、黒マントがバランスを崩す。直撃は体を捻り避けたようだが、それでも隙ができたことに変わりはない。


 その瞬間を時雨は逃さない。


「はぁぁぁァ!」


 黒マントの脇下に目がけて氷の剣を払う。


 時雨の剣の直撃を受けた黒いマントは、時雨から距離は取ったものの、ダメージを受けた様子はまったく見られない。


(なんなんだよ、こいつ。今ので無傷かよ………)


 時雨が眉間にしわを寄せて、黒マントを睨んでいると、


「こら~時雨ッ! なんて危ないことするの! わたしが助けなかったら死んでたよッ!」


 右手に買い物袋を持ったセルルが大きな声で時雨に言った。


「助けてくれるんだから問題ないだろ?」

「そうだけど……ッ!」

「ならいいだろ?」


 時雨は、頬を膨らませて怒るセルルのお小言を受け流して、剣を持つ右手に力を込める。


 黒いマントは、時雨に手を向けて、指先を上に二回クイっと上げる。「かかってこい」の合図だ。


 その意図を理解した時雨が笑う。そして大声で言った。


「いいぜ、やってやるよ!」


 時雨が黒マントに向けて駆けだす。黒マントも同時に駆けだし、二本の剣がぶつかり合……うと思われたその瞬間、時雨はすっと剣を引き、


 黒いマントの横を通りすぎた。


「………!」


 黒いマントが振り向き、時雨を見る。フードで覆われているため、表情を見ることはできないが、驚いていることは間違いないだろう。


 時雨が、公園の入り口まで走りきってから言った。


「いいかげん腹減ったんだよ。お前みたいな変態の相手をしてやるほど俺たちは暇じゃないんだ。悪いな」

「そーゆーこと」


 いつの間にか時雨の隣にいたセルルが続けた。


 黒いマントは、その場に立ったまま追って来る気配はない。安心した時雨とセルルが公園を出ようとすると、


 ドンッ!


 誰かと肩がぶつかった。


「「げッ!」」


 時雨とセルルは思わず同時に声をあげた。


 何故なら、その肩がぶつかった相手の恰好が異様だったからだ。全身を赤いマントで覆い、赤いフードを深く被っている。その異様さは黒いマントに負けずとも劣らない。


「………今日は仮装パーティかなんかあるのか?」

「………あるんだよ、きっと」


 小声で遠い眼をしながら、二人が会話をしていると、


「……ふふっ」


 赤マントが笑う。その声色から察するに女性のようだ。


「……無事かい?」


 仮装パーティのような、ど派手な赤いマントの女は時雨の頬に触れながら言った。時雨が何も答えずにいると、赤いマントを着た女は時雨の横を通り過ぎていった。




     †     †




 時雨とセルルは夕食を食べ終わり、各々自由に過ごす。


 セルルは齧りつくようにしてテレビを見ている。どうやらセルル御贔屓の演歌歌手が出ている音楽番組ようだ。セルルは渋いことに演歌が大好きだった。


(演歌が好きって……渋いよなぁ………)


 今出ているセルル御贔屓の演歌歌手の名前は小波香奈枝。まだ十代と若く、アイドル顔負けのルックスやその歌唱力で演歌界の至宝と言われるほどの人気者だ。


「いいなぁ~香奈枝ちゃん、かわい~なぁ~」


 セルルは視線だけでテレビを射ぬけるのではないかというほどの熱い視線をテレビに送る。


 時雨は演歌も小波香奈枝も、別に嫌いなわけではないがわざわざ音楽番組をチェックするほど好きではない。なので、ソファに腰かけてボーっと過ごすことにした。


 するとやはり思い起こされるのは帰り道にあった変態さんたちのことだった。


(あれはいったいなんだったんだ? 本当に仮装パーティでもあったのか? そもそも何であいつらは俺たちを襲った? 昼に感じた視線もあいつらなのか? それにあの赤いマントの女……まさか……)


 様々な疑問が流れ星のように浮かんでは消えていく。


 何の手がかりもない今の状況でいろいろと考えを巡らせてもしょうがないことはわかっているのだが、どうにも一度考え始めると止まらなかった。


(今までのようなただのチンピラやヤンキーとは違う……なんだ、俺はまさか変なことに巻き込まれているんじゃないだろうな……?)


 今まで喧嘩を売って来た奴らは、精霊術に関して学校でずば抜けた成績と実力を誇る時雨に勝って自分の強さ、才能を教師や知り合いに認めさせようとする輩がほとんどだった。しかし今回は違う。自分を認めさせるために時雨に挑むのであれば、絶対に名前を名乗るはずだ。なのに、あの黒いマントの人物は名乗らないどころか一言も喋らなかった。それどころか時雨に対して手加減しているような様子さえあった。


(なんなんだよ、いったい……)


 ドンッ!


 時雨が眉間にしわを寄せながら考えていると、セルルが時雨の隣に座り、体当たりしてきた。


「なんだよ?」

「なんでもないよ? ただ、いつもの時雨じゃないから大丈夫かなって」

「……別に」

「嘘ついてもダ~メ。時雨が悩んでる時は眉間にしわができるもんね」


 時雨は自分の眉間に手をやって確かめる。


「いったい何年一緒にいると思ってるの? わたしは、時雨以上に時雨のことわかるんだからね?」


 時雨はセルルの言葉を聞いて、お手上げといった様子で肩をすくめた。


「時雨が考えてるのってさっきの変態さんたちのことでしょ?」

「……ああ」


 時雨は観念して、考えていたことを全て話す。


 今までの輩とは少し違うこと、なんで自分たちが襲われたのか? などなど。

 するとセルルが一言。


「わかーんないっ!」


 その表情が、何故か少し威張ってみえるのは時雨の気のせいだろうか。


「……は?」

「だから、わ・か・ん・な・い!」

「わかんないっておまえ……。まぁ、俺もわかんないんだけどな」

「でしょ? だったら考えても仕方ないよ。もちろん今までとは少し違ったかもしれないし、これから何か起きるかもしれない。でもさ、今は何もわからないんだから心配しても無駄じゃない?」


 セルルの言っていることは正しいのかもしれないが、時雨はそんなに能天気でいいものかとついつい考えてしまう。


(……それでいいのか? でも……)


 時雨が再び、思考の海にダイブしかけたその時、セルルが言った。


「ね、時雨笑って?」

「ん?」

「だから、笑って?」

「突然そんなこと言われたって急に言われても無理だ」

「ダ~メ! ほらッ、笑って!」


 セルルは、突然時雨の脇に手を入れると、一気にくすぐり始めた。


「それッ、こちょこちょこちょ~」

「やめッ、ろよ、くッ、くすぐったいからやめてくれセルル! 悪かった俺が悪かった!」


 時雨がくすぐったさに耐えかねて、涙を流しながらセルルに許しを請うと、セルルは時雨の脇から一気に手を引き抜いた。


 時雨がくすぐったさから解放され、涙目でセルルを見る。するとセルルが不意に言った。


「やっと笑ったね? 時雨」

「え?」

「わたしね、時雨の笑った顔好きだよ? だから笑って。時雨が笑ってくれないとわたし、ヤダよ」


 セルルの表情はどこか寂しげで、時雨の胸を打つ。


「悪い」


 時雨はその一言に気持ちを込める。するとセルルが、小悪魔のような表情を浮かべて、


「いいよ、もう。時雨の情けない泣き顔も見れたからね」

「おまえなぁ……」


 時雨が呆れつつも優しい笑顔でセルルに声を掛けると、セルルが突然、


「あッ! そういえば時雨、今日あの赤いマントの人に頬撫でられてデレデレしてたよね! わたしは見逃さなかったんだからねッ!」

「はぁ? 何言ってんだよ」

「ちょっと! 時雨ッ!」


 時雨は説明するのがめんどくさいので何も言わない。もし無駄に喋って、セルルの変なスイッチを押しては敵わない。口は災いの元だ。


「さ~て、食器でも洗うか」

「何がいいの? あの赤いマント? マントがいいの? 時雨が着てほしいならわたし着るよ? 赤マント大精霊セルライナさんになっちゃうよ? それともあの口調? 真似しようか?」


 セルルが横で騒いでいるが、時雨の耳にはそのほとんどが聞こえていなかった。


 セルルには話さなかったが、あの赤いマントの女、雰囲気、声、それを時雨は知っているよな気がしていた。


(有り得ない。大丈夫だ。そんなことは有り得ない……)


 時雨の脳裏に浮かぶのは一つの顔。それは酷くおぼろげで霧が掛ったように、輪郭が定まらない。だが時雨の記憶の引き出しに確かに存在する。遠い昔の記憶、時雨の人生の分岐点。


(有り得ない……あいつがこんな所にいるはずがない)


 ここにいるはずがない。そう、信じたかった。


 かつて時雨を殺そうとした、自分の母親がこんなところにいるはずがない。




     †     †




 その日時雨は夢を見た。十年前の夢を。


 時雨にとって忘れられない事件。そして忘れたい記憶。


 時雨は生まれた時から他の人とは違っていた。


 体十に氷を纏って生まれ、挙句中から女の子が出てきたのだから普通ではないのは明らかだ。


 成長してからもそれは変わらない。物心ついたときから同年代の子供とは別次元の精霊術を使うことができた。そのせいで多くの人間が時雨を恐れて遠ざかって行った。


 それは時雨の両親も例外ではない。関わろうとするときは科学者である自分たちの研究のためだけで、『家族』としての関わりなど皆無だった。


 時雨は人間が嫌いだった。


 人間とは自分たちとは違うものを排除しようとする生き物だ。時雨は周りにいる人間たちが自分へ向ける奇異の視線や態度、それらを実感するたびに人間という存在の器の狭さ感じてしまった。その感覚は幸か不幸か時雨から他人への興味を奪ったと同時に孤独や寂しさといったものも奪っていった。


 何故自分が嫌いな存在と仲良くしなければならないのか。 自分にはセルルがいる、だからそれ以外のものは必要ない。それが時雨の価値観だった。


 だから誰からも相手にされないこともむしろ好都合だった。


 ゆえに、幼少期の時雨はセルルと二人で、平穏とは言えないまでも、特に問題もない日々を送っていた。誰とも関わらず、ただセルルと二人でいる。孤独でありながら孤独ではない生活。


 しかし、ある日を境にそんな日々は崩れることとなった。


 幼いころの時雨は時折、自分の中にあるセルルの力が大きすぎてうまくコントロールできない時があった。疲れている時、悲しい時、病気の時、時雨の精神、など様々な条件下でそれは起こった。


 発作が起これば、徐々に手足の指先から順に体が凍っていくのだ。いつもは手袋や、靴下などでごまかしていたのだが、そのときは普段よりも力の暴れ方がひどかった。


 時雨は自分の部屋でのたうち回り、大声を上げた。頭の中でセルルの叫び声も同時に響く。


 すると、時雨に無関心だった両親もさすがにやって来た。おそらくは研究のため。時雨の力の暴れ方を把握しておきたかったのだろう。案の定両親は、時雨を見つけるなり口を塞ぎ、両手足を押さえつけた。様々な機械を時雨に取り付け、様々な薬を投与した。一時間以上もその状態が続き、時雨の発作が治まったところでようやく両親は時雨を解放した。


 時雨が落ち着きを取り戻し、両親の顔を見ると、何も言わずに部屋を出て行った。今思えば、この時の両親の表情は、何かを決心した表情だったのかもしれない。


 事件は、次の日の夜に起きた。時雨が眠りにつき、少しした時のことだった。


 体の自由が利かないことに気付き、ふと目を開けると誰かが自分の体を抑えつけていたのだ。眠りが浅かったのが幸いし、完全に意識が覚醒する。


 時雨が目を開けて、自分の身体を抑えつけていた手を振り払う。そして、その手の主へと目を向けると、そこには時雨の母親の姿があった。


 なんでこんなことを自分の母親が、とは思わなかった。今まで、進んで殺そうとはしなかったのは殺す必要がなかっただけ。もし研究のためならば喜び勇んで殺すだろうと思っていたからだ。


 要するに時雨はモルモットだったのだ。研究のための実験材料。


 ついに来たのか、と漠然と時雨とセルルは思った。いつかこうなるだろうことはなんとなく予測していたからだ。相手が自分たちを殺しに来るのなら、それが誰であっても――たとえ母親で会っても――容赦はしない。容赦をすれば殺されるのだから。


「……いつかはこうなると思っていたよ」


 生きるために時雨は反撃する。精霊術を行使し、氷の槍を母親に向けて飛ばす。

当たれば間違いなく体を貫き、母親をただの肉片に変えるはずだ。


 しかし、そうはならなかった。飛ばした氷の槍が隣から放たれた何かに阻まれたのだ。


「……剣?」


 時雨が不審に思い、もう一度精霊術を行使しようとしたそのときだった。


 ドゴッ! と鈍い音が響き、時雨の後頭部を強い衝撃が襲った。時雨はその場に倒れ、うめき声を上げる。後頭部はジンジンと熱を持ち、鼓動の音に合わせてズキズキと痛む。そのまま意識を失いそうになったが、何とかこらえる。


「時雨ッ! しっかりしてッ!」


 セルルが実体化して、時雨に声を掛けたてくれたことで、意識を失わずに済んだ。振り向けば、時雨の後には小型の剣を手にした父親が立っていた。


 時雨は、セルルの肩を借りて懸命に立ち上がり、精霊術を行使する。しかし、その僅かな隙を突いた父親が時雨を蹴り飛ばす。


「今は大事な実験の途中なんだ。モルモットは反抗しちゃいけないだろう?」


 時雨とセルルは距離を取るべく後ずさるが、後頭部を怪我している時雨は思うように体が動かない。


(くそッ! まずいな………これじゃホントに殺される………)


 父親の手には赤黒い石が握られており、不気味な光を発している。


「……魔石ッ!?」


 セルルが驚きの声を上げる。


 時雨が『魔石』、という言葉に反応しセルルの方へ振り返ろうとしたそのとき、父親が手に持っていた魔石を時雨とセルルに向けた。


 ガクン、と時雨とセルルは二人同時に膝を付いた。突如としてナイフが現れ、二人の足に突き刺さったのだ。


 二人の足から真っ赤な血がドクドクと溢れ、立ち上がることも出来ないような痛みが襲う。


 父親がゆっくりと近づく。


「やはり、この魔石は完璧だ。精霊術の速度を確実に超える」


 父親が嬉しそうに笑いながら言った。


「……笑ってんじゃねぇよ」


 時雨が鋭い表情で睨みつける。


 父親は自分たちの勝ちを確信しているのか、表情を崩さずその手に持つ剣を振り上げた。


 時雨の肩に剣が振り下ろされ、皮膚を裂いた。


「がァァ………!」


 剣は時雨の血にまみれ、時雨の体を貫いて行く。


 時雨は自分の体がボロボロになっていく中で、父親が笑っているのを見た。


 時雨も笑った。意図したわけではなく、父親の笑顔があまりに醜く、見るに堪えなかったのだ。


 笑いながら時雨は考える。今まで生きてきた人生を。


 そんなに長く生きた訳ではない。まだこの世に生を受けて十年もたっていないのだ。そんなに多くの思い出がある訳でもない。そもそも生きていてよかった、そんな風に思えるような幸せな記憶なんてなかった。


 死ぬことに何も抵抗はない。


 そう思った時、視界の隅で声を上げて泣くセルルが目に入った。


(俺が死んだら………セルルも死ぬんだよな………それは………嫌、だな)


 人は死ぬ前に走馬灯を見ると言う。しかし、時雨はそんなものは見なかった。そもそも死ぬ前に見るようなたいそうな思い出がないのだから。


 だが、そんな時雨にも見えたものがあった。


 セルルが隣で笑っている風景。


 見えたのはそれだけだった。ただ、それだけだった。

 

 その瞬間、死ぬことがとても怖いことに思えた。


「なぁ、セルル。生きよう」


 泣きながらセルルが強く頷いてくれた。それだけで全身に血が通ったような気がした。それはまるで、ただの人形に魂が宿ったかのように。


 振り降ろされていた剣を咄嗟に素手で掴み起き上がる。


 そして、生気に満ち溢れた目で、父親を見据える。体中に怪我を負っているのも関わらず、その雰囲気は父親を圧倒していた。


「悪いな。まだ死んでやるわけにはいかない」


 剣を父親から奪い取り、横へと投げる。


「あぁぁぁああああ!」


 隣から迫ってきた母親を蹴り飛ばし、自らの足からナイフを引きぬくと、父親へと向ける。


 父親の腹にナイフが突き刺ささる。


 しかし、それと同時に時雨の脇腹からも血が噴き出した。


 父親の手に突如出現したナイフが時雨の脇腹に突き刺さっていたのだ。


 時雨と父親はもつれながら倒れ、時雨は意識を失った。




 夢の中で意識を失うのと同時に時雨の意識が覚醒する。


 時雨が大きく息を吐きながら目を開けると、セルルがじっと顔を覗き込んでいた。


「大丈夫? うなされてたけど」

「あ、ああ、大丈夫だ」


 時雨が言うと、セルルは心配そうな顔で時雨を見る。


「あの夢……見たんだね?」

「え? あ、いや……」


 時雨は言い淀む。するとセルルがグッと顔を近づけて、


「嘘つかないの。嘘ついたってわかるんだから。認めたくないのはわかるけどさ……」

「……ああ、ごめん」


 時雨は昔からよくこの夢を見ていた。最近はまったく見ていなかったので、もう大丈夫なのかと思っていたのだがそうではなかったらしい。いまだに過去にとらわれている自分が情けなくて認めたくなかったが、セルルにはお見通しだった。


「……でもさ、あの頃からすると時雨の人間嫌いもだいぶ治ったよね」


 セルルが時雨の気持ちを察して話題を変える。


「どうだろうな、自分じゃよくわからないな。でももし治ったなら冬霞さんや夏目、それに秀や涼のお陰だろうな」

「そうだねぇ~。引き取ってくれた冬霞にはいくら感謝しても足りないよね」


 時雨たちは事件の後に入院。退院してすぐ施設に預けられることになった。施設でも馴染めず殺伐とした暮らしを送っていたところを冬霞が引き取ってくれたのだ。


 両親とはあの事件以来会っていない。


 行方が分からず、事件もうやむやなままに幕を下ろしてしまっていた。


「それにしても、魔石……か」


 魔石。


 それは『霊戦』と呼ばれる、人間と精霊が争った大規模な戦争で人間側が使った兵器で、少なくない数の精霊を葬った。魔石の力によって人間側は敗戦を免れたと言われている。


 時雨の父親は魔石研究の第一人者であり、常に研究に明け暮れていた。だから戦時中に活躍した兵器である魔石を持っていても何ら不思議はない。


「時雨、またなんか考え込んでるね?」


 時雨が唸っていると、目の前にセルルの顔が出現した。その距離、数センチ。


「残念だったな、まだ考え込んでない。今から考え込むところだ」

「どっちでも一緒だよッ! もう明日も学校なんだから、早く寝るよ。寝坊してもわたし知らないからねッ!」


 セルルの言葉を聞き、時計に目を向けると、深夜すぎだった。どうやら予想外に話し込んでしまっていたようだ。


 このままでは本当に遅刻しかねない。つい最近も遅刻したばかりだ、これ以上すれば夏目にきつ~いお説教を頂戴してしまう。


「ヤバい、早く寝ないと!」

「あっ、時雨!」


 時雨が寝室に向かおうとしたところでセルルが呼びとめた。


「なんだよ?」

「子守唄歌ってあげようか?」


 二人とももう長い付き合いだ。それが本気で言っていることなのか、それとも冗談なのかくらいは、目を見ただけでわかる。


 時雨はすぐに冗談なのだと気付き、上目使いでセルルを見る。


 すると、二人は視線を合わせて噴き出した。


「おやすみ。時雨」

「ああ、おやすみ。セルル」


 セルルが霊体化して時雨の中へと戻る。


 時雨も、布団に入るとすぐに深い眠りに落ちた。



 魔石によって再び人生が大きく狂わされることなど、今の時雨たちには知る由もなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る