第5話 灰原敦
一体どれほどの時間が経ったのだろうか。
信じられない光景を目の当たりにして、美咲は呆然と立ちつくしていた。
前にも述べたように、美咲はオカルトや心霊といった類のものを一切信用していない。よくテレビで特集されるような「〇〇さんが実際に体験した怖い話」についてもそうだ。現に美咲は、生まれてこのかた十六年間、一度だってその手の体験をしたことはなかった。
当たり前である。この世界で起こりうる全ての現象は、ある一定のルールに則った物理法則によって支配されており、例外は存在しない。美咲は別段、理系科目が得意だったというわけではないが、それでも世間一般程度の知識はあった。
彼女に言わせれば、「時が止まる」なんて話はバカバカしいにも程があるものだ。
しかし。だったなら。
今、目の前で起きているこの現象は何なのだろうか。
何もかもが止まってしまった世界。しかも、なぜか美咲は意識を持ち、動くこともできる。もしかすると、これは彼女が無意識のうちに起こした現象なのだろうか。この世には実は神様がいて、死にたくないという強い気持ちを叶えてくれた、とか。
いずれにせよ、真相は闇の中である。彼女自身、何が何やらさっぱりだった。
「あ」
ふと、あることに気づいた美咲が声を漏らす。
「今のうちに、みんなを避難させないと」
頭の中からひっきりなしに疑問符が湧いて出てくるが、今は後回しである。なぜ時が止まったのか、とか、なぜ自分だけ動けるのか、とか。そんなことは後で考えればいい。
トラックの進路からずらすため、硬直したオケ研メンバー達に駆け寄り、体ごと持ち上げる。しかし美咲の意に反して、彼らの体はまるで地面と接着剤で固定されたのようにビクともしなかった。
数十秒間の格闘の後、どうやら無駄であると悟った美咲はハァと溜息をついた。
「……どうしよう」
時間の経過が妙に長く感じる。もっとも、時が止まった世界で「時間の経過」というのも、おかしな話ではあるが。
いつまで時が止まったままかはわからない。もしかすると、今すぐにでも動き出すかもしれないし、何時間もこのままかもしれない。どちらにしろ、できるだけ早く彼らを車線の外に逃がすべきだろう。
しかし現状、美咲にできることがあるかと言われれば、何もない。動くことは出来るし、固まったものに触れることもできるが、動かしたり壊したりすることは出来ない。先程、試しに空に浮かんでいる木の葉を思いきり殴ってみたが、結果は同じだった。
焦る気持ちを紛らわすかのように、その場でピョンピョンと飛び跳ねてみたり、凝り固まった体をぐっと伸ばしてみる。武道を習っていたことの名残で、何か困ったことが起きるとストレッチしたくなるのは美咲の癖だった。緊張していた筋肉がほぐされ、少しだけリラックスする。が、依然として何も変わったことは起きない。
もしかすると、このまま永遠に時が止まったままなのではないか。ずっと一人ぼっちになってしまうのではないか。言いようのない不安が美咲の頭をよぎる。
しかし、結果としてその懸念は杞憂に終わった。
ジャリジャリジャリ。
遠くから、硬質の何かがアスファルトと擦れるような音が聞こえた。その音に美咲はハッと息を飲む。間違いない。誰かが歩いているのだ。
慌てて振り返ると、案の定、大通りの遥か向こう側にこちらへ向かってくる人影があった。その姿に美咲はほっと胸を撫で下ろす。
きっと美咲の他にも、この世界で動くことのできる人がいるのだ。早く会いに行って、今の状況について相談しよう。
そう思い「おーい!」と叫ぼうとして、美咲は異変に気が付いた。手が、足が、視線が。ピクリとも動かないのだ。まるで全身が石像になってしまったかのように。
意識こそあるものの、これでは会話どころか、手話の一つさえ行うことができない。
おまけに今、美咲は体を伸ばした状態のまま固まってしまい、オカ研の面々と共にトラックの進路上にいる状況である。万が一今時間が流れだしたら、五人とも確実に跳ねられるだろう。それだけは何とかして避けなくてはならない。
どうにかしようともがく美咲であったが、しかしそんな彼女の思いとは裏腹に、一度止まってしまった体は全くと言っていいほど動かなかった。
「なんとか間に合った」
そうこうしているうちに、気が付けば目の前に一人の男が立っていた。
身長190センチはあろうかという大柄な体に、視線だけで他人を射殺せそうな恐ろしい顔。極めつけに、私立高美濃学園の制服を着ていたその男に、美咲は見覚えがあった。
(あれ。こいつは確か……)
数千人の生徒数を誇る私立高美濃学園の中でも、最も恐れられている人物の一人。あの怖いもの知らずな凜子がぶつかっただけで震え上がり、土下座するほどの危険人物。
新入生の灰原敦が、そこにいた。
(なんで、よりによってこんな危険人物が……)
「おい、〔千鳥〕。遊んでないでさっさとやるぞ」
誰に対しての言葉だったのか、灰原がそう言うと、肩から青い鳥のぬいぐるみがひょっこりと頭を出した。
『へいへい。分かってますって。あーもう旦那。そんな怖い顔しないでくださいよ』
「……誰のせいだと思ってんだ」
『ナハハハ。ですよね~』
さも当然のように会話するぬいぐるみ。時が止まった世界に、喋るぬいぐるみ。常識はずれな出来事の数々に美咲は眩暈が覚えたが、ぐっとこらえる。
(あれ? ていうか灰原君、そんなに怖い人じゃなさそう?)
『ところで旦那、こいつ見てくださいよ。このマヌケなポーズ』
(ん?)
突然、鳥のぬいぐるみは美咲を指差すと、お腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。なぜ笑われたのかが分からず、頭の中で首をかしげる美咲。
『トラックに轢かれる寸前って時に、この女! グラビアみたいなエロいポーズ決めてやがる! 絶対頭おかしいぜコイツ! つーか、こんなポーズしながら大通りを歩くって、自意識過剰なんじゃねえの? ギャハハハハ!!』
(ち、違う!)
「変態なんじゃねえの? ほっとけ」
(なっ……!)
両腕を頭の後ろに組み、足を交差したポーズのまま、顔を真っ赤にする美咲。もっとも、顔が赤くなったように感じたのは美咲だけで、実際には無表情のまま静止しているだけであるが。
ちなみにこのポーズは、なんとなく腕の筋肉を伸ばしたくなったから行った行為であって、全く他意はない。完全な勘違いである。ストレッチ中に体が固まってしまったのは、運がなかったとしか言いようがないが。
『記念写真でも撮っちまいますか、旦那! こんな頭のおかしいやつ滅多にいませんって! スカートでも捲っちまえば、それはもう最高のショットが……』
「俺に盗撮の趣味はねえ。それに、仮にも女子高生だぞ。いい加減にしろ」
(…………こいつらいつか殺す)
今日受けた辱めは忘れない、と美咲は心に誓う。頭の中では、目の前の男子生徒と鳥のぬいぐるみに、中学三年間の血と汗と涙のこもった空手パンチを炸裂させるシミュレーションが繰り広げられていた。
『まったく、旦那ったら頭が固いんだから。いつも頭の中じゃあ』
「うるせえ。馬鹿な事言ってないでさっさとやるぞ。そんなに長いこと時は止めてられねえんだ」
(ッ!? コイツ今何て……!?)
灰原の発言に美咲は目を見開いた。今の言葉が本当なら、この「時が止まる現象」は、目の前の男子生徒が意図的に起こしていることになる。しかしなぜ。どうやって。
混乱する美咲をよそに、灰原はゆっくりと美咲に近づくと、人差し指で美咲の額をトントンとつついた。
(何を……)
「
直後、美咲の視界が暗転した。
◇ ◇ ◇
「きゃあああああ!! ……ってあれ? うわぁっ!!?」
甲高い悲鳴を上げながら、美咲とオカルト研究部の面々はドスンと尻餅をついた。周囲には、さっきまでいたオカ研の部室が広がっている。
無言で辺りを見渡すオカ研の面々。きょろきょろと辺りを見回したり、自分の腕をじっと見つめてみたり。
「ね、ねぇ。今のって……」
やがて、恐る恐るといった様子で、凜子がつぶやいた。
「うおおおおおああああああ!! まさか私が怪奇現象を体験出来る日が来るなんて!! やっぱりあの都市伝説は真実だったんだ!!」
「悪霊退散!! 悪霊退散!!」
「ハァハァ、僕、感激です。はっ! 早くメモを取らなけば!! あぁ、今日は何て素晴らしい日なんだ!」
「すっごぉい……。私、瞬間移動って初めて体験したかも……」
「…………」
凜子の雄たけびを機に、部室の中が歓声に包まれる。半狂乱になって踊りだす凜子。悪霊退散グッズを身に着ける暗闇先輩。眼鏡を光らせ、隅っこの方でノートをとっている大筒先輩。天を見上げ、幸せそうな顔をする小坂先輩。
まさに十人十色の反応であるが、みんな共通して事の重大性に気づいていない。美咲はコホンと咳払いをつくと、大きな声でこう尋ねた。
「あの、すみません。何が起こったんですか?」
「うははははは! 都市伝説万歳!! ……って、あ、ミッキー! そういえば、ミッキーこそどうしたのさ! 急に苦しみだしたもんだから、私心配したんだけど! 体の方はもう大丈夫なわけ!」
「あ、うん。なんかわからないけど、もう大丈夫だと思う。で、さっきの話なんだけど」
「何が起こったも何も、都市伝説通りだよ! ホラ!! 時刻だって午後4時40分!! 時間の辻褄もあう!! 私たちは裏路地からトラックの前、そしてこの部屋に向かって二回連続で瞬間移動したんだよ!!」
凜子の言葉に、先輩たちも相槌を打つ。
やっぱり、と美咲は思った。この場にいる誰も、灰原敦と時の止まった世界のことを認識できていない。つまり、時の止まった世界で動けたのが美咲だけであったように、あの場で彼の姿を視認できていたのも、美咲だけだったということだ。
「それだけ? 他に何かなかった?」
「ほか? 強いて言うなら、瞬間移動の直前に美咲が苦しみだしたことくらいだけど……」
凜子の言葉に、美咲はますます確信を強める。すると、何か思い出したように小坂が言った。
「それにしても、なんで二回も瞬間移動させたのかな。いたずら好きな幽霊さんなのかな?」
「あれですよ! トラックの前に放り出してビックリさせてからの、すかしっぺってやつ! ビックリしただろお前ら~みたいな!!」
「なんだぁ、やっぱりいたずら好きな幽霊さんなんだね~」
小坂先輩と凜子のやり取りに、美咲は心の中で「違う!」と叫ぶ。
墓地の前での出来事。あの時に感じた殺意は本物だった。美咲は超能力者でもなければ、そういった気配を察知できる武術の達人というわけでもない。しかし、あの瞬間に感じたおぞましい気配だけは、何があっても本気だったと断言できる。嫌がらせだとか憂さ晴らしだとか、そういう生易しい物ではない。
イタズラ好きな幽霊?
断じて否だ。幽霊だか何だかは分からないが、あれは五人全員を殺す気だったと美咲は確信している。
(そこに割って入って、あいつらが助けてくれたんだ。きっと)
時間の止まるタイミングから、彼らの言動。何から何までがそうだと告げている。動けないのをいいことに、美咲を散々コケにして辱めてくれたが、結果として彼らは命の恩人ということになるだろう。
彼らがなぜ助けてくれたのかは分からないし、なぜそんなことをしているのかもわからない。そもそも、裏路地で美咲たちを襲った化物の正体がなんなのかさえ、今の美咲にはわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
灰原敦は何かを知っている。
今美咲の頭の中を巡っている疑問の大半は、直接彼を問い詰めればわかることだろう。いずれにせよ、彼に会わないことに始まらない。あと、もののついでに散々辱めてくれたことへのお礼もしなくてはならない。
彼らはおそらく秘密裏に活動している。それは、件の都市伝説の内容からもわかることだ。彼らが表立って活動しているなら、少しは彼らについて触れられていてもおかしくはないはず。なのに一切それがないということは、彼らが誰にも事の真相について話していないからだと考えられる。
つまり、美咲が聞きに行ったところで、知らんぷりされる可能性は高い。
美咲はぎゅっと拳を握りしめた。なぜかは分からないが、自分でも心が高揚していくのがわかる。
「……なんか燃えてきた」
「ん? ミッキー今なんか言った?」
隣で首をかしげる凜子に、首を振って「なんでもない」と伝える。
(絶対しっぽを捕まえてやる)
開いた窓から暖かい風が吹き込み、美咲の髪をかきあげる。桜の花が舞い落ちる、暖かな春の午後。
美咲は以後三年間の学園生活を左右する、とある決断を下した。
退屈で平和な毎日との決別。
危険と隣り合わせの、情熱的な日々が幕を開く。
表の世界から裏の世界へと、美咲はそっと足を踏み入れる。
今。二つの歯車が噛みあい、ゆっくりと回り始めた。
「ねえ、凜子。私決めた」
「へ? 何が?」
美咲は、いまだ興奮冷めやぬ親友に向かってくるりと振り返ると、こう言った。
「私、オカ研に入る」
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