第7話
死ぬほど眠いけど寝過ぎてる気がして無理矢理起きようと思った。部屋はサウナみたいに暑くて口の中はカラカラなのに寝巻のジャージは湿ってて最悪だった。
「海パン……」
悪い犬みたいな声で唸りながらスマホを手に取った。九時四十分だった。
九時四十分だった。
九時四十分。
一瞬で眠気が覚めた。汗が全部冷や汗になって風邪引きそうになった。身体中の筋肉を緊張させながら飛び上がって、ヤバイヤバイバイト遅刻だとにかくなにから――、と考えたところで。
「んあ」
夏期講習、昨日で終わったんだった。
どっと疲れが押し寄せて。
なんだよ、って溜息をついて、そしたらとにかく汗まみれの身体が気になり始めて、とりあえずシャワーを浴びることにした。
ミーンミーンミーンジージジッジージー。聞き慣れた音楽が俺の過去の記憶を呼び覚ます。小学校の夏休みにビーチサンダル履いて足の裏汚しながら学校のプールに向かったあの日の記憶。何が言いたいかっていうとあの日に帰りたいってことなんだけど。
冷蔵庫を開けながら考える。何食おうかな。今冷蔵庫にあるもので済ませてもいいし、ここまで来たら昼にまとめて食いに出てもいい。どっちでもいいけれど。外の陽射しはフラッシュみたいに強いのに、微妙に日当たりの悪いこの部屋にはじとっとした、何となく背徳的な薄暗さがある。こういうアニメを昔に見たなと思った。こういうのが大好きなんだ。
色々考えた結果、水だけ飲むことにした。たぶん今の精神状態だと何か料理している間にめちゃくちゃ切なくなってくるから、昼に弁当でも買いに行こうと思った。
コップを片手に机の上のリモコンでエアコンのスイッチを入れた。なんで俺夏なのにエアコン入れずに寝てたんだろ馬鹿なのかなと思って、そういや寝苦しさでさっさと起きるだろとかそういう期待して寝たんだっけと思い出した。早起きして一日を有意義に使うつもりだったのにこの有様だ。たぶん連日の塾講バイトで思った以上に疲労が溜まっていたんだろう。脱水症状で倒れなくて本当に良かった。
テレビをつけて適当にザッピングしたけど特に見たいものもなかったのでニュース番組をつけた。政治の話をしていた。平日昼間っから見るニュースは最高……、でもないけどまあそれなりに落ち着く。
今日はどうしようかな、と考えた。バイトは今日と明日は休みだし、そういや今日は土曜だ。
「あー」
人生どうしようもねえなあ。
最近こういう思考のノイズが頻繁に入るようになってきた。まあどうでもいいんだけど。家にこもってレッツインターネットみたいな気分でもないし外に出ようかなと思った。外に出る用事を作ろう。本を買うかDVDを借りるか。どっちでも行くところ同じだな。プールに行きてえな。行って何するんだろ。海パン持ってねえ。
ミーンミーンミーン。
「ミーンミーンミーン」
虚しいなあ。
映画でも借りようと、そう思って外に出た。
灼熱の時代が来ている。
空から降り注ぐ日光と、コンクリが跳ね返す熱波で挟み撃ちの両面焼き。よくもまあこんな日にスーツで出歩けるもんだ、と信号待ちしながら周りをぼーっと見回していた。
蜃気楼が見えた。テンションが上がった。灰色の車道から上る熱が空間を歪ませている。こういうの結構好きなんだ。だけど目の前を通り過ぎていく自動車がものすごい熱気を放っているものだから、何かの罰ゲームなのかなって思った。金属だもんな、車って。こんな気温の日じゃあ赤信号の色だって攻撃的に見えるよ。
鳥の声がして信号が青く変わった。爽やかな色合いが何かの冗談みたいなミスマッチだった。サンダルでぺたぺた歩いていくと、コンクリートの熱で火傷しそうな錯覚をする。子供の頃プールサイドで足裏がめちゃくちゃ熱くなって。プールから上がった後だとあの熱が気持ちいいんだ。そんなことを考えてたらまた切なくなって、こんな熱も愛おしく感じるようになる。
映画レンタルと本屋が合体した店についた。自動ドアが開くと健康に悪そうな空気が身体を急速に冷やしていく。入ってすぐ、店頭に今週の書籍売り上げランキング。なんか一ヶ月前も二ヶ月前も同じ本が並んでた気がしたけどこれそんなに面白いのかな。気になったけど、今日はあんまり本を読めるようなコンディションの日でもなさそうだからやめておいた。
映画コーナーでぼうっとしている。どれ借りたっていいんだけど、アニメ見たっていいんだけど。なんだっていいんだけど。なんだっていいんだけど。何十分くらい経った? 中学生くらいの集団が楽しそうにわいわい騒いでサメ映画を選んでいた。サメはいいよな。涼しそうだもんな。アニメ借りよう。でもアニメって巻数多いんだよな。やっぱやめよう。映画借りよう。映画、映画を借りよう。えーっとどれを。どれを借りればいいんだろう。なんだっていいんだけど。なんだっていいんだけど。
結局前にも見たことがあるアニメ映画を二本だけ借りた。外に出るとエアコンに慣れた身体が外気に息苦しく感じた。肺が焼ける。
後は飯を買いに行こうと思った。スーパーに行って弁当を買って。そんでだらだら食って映画見て寝ようと。そう思って歩いていたんだけど、ふといつもとは違う道を辿って帰りたくなった。
いつもは右に曲がっていく道をまっすぐに。案外こっちの方が近道かもな、なんて思いながら住宅街の間を抜けていく。シャッターの閉まった弁当屋。人のいない公園、こんなところにあるんだなんて。
「……瀬長くん」
名前を呼ばれて振り向いた。知らない人だった。その人は笑ってこう言った。
「やっぱり。全然変わってないね」
って。はあ、と答えて。俺はいつから変わってないんだろう。そんな風にふと寂しさがこみ上げた。
「わかんないか。結構変わったもんね。私だよ、私。川染」
「あ、ども」
「今は苗字変わったんだけどね」
ぺこり、と俺が頭を下げると先輩はへらり、と笑った。言われれば面影あるなあと思ったし、本人がそう言うんだから川染先輩ってことでいいやと思った。先輩は公園の方を指さして。
「ちょっと話してかない?」
と言うものだから、後輩として大人しくついていくことにしたのだ。
「最近どう?」
「ふつうです」
「どこに就職したんだっけ?」
「いや、してないですけど」
「…………」
先輩がマズいこと聞いたなみたいな顔をしていた。
「……えっと、私はね、最近結婚してさ。ついでにこのへんに越してきたみたいな」
「そうなんすか。おめでとうございます」
「うん、ありがと」
そんなもんかと思った。それきり会話が途切れてしまってまあつまりこれは俺のどのへんをつついていいのかわからないからとかそのへんが理由だと思ったので、こっちから話を振った。
「今期何見てます?」
天気いいですね、レベルの話題の振りである。オタクだったら大体これで間は保たせられる。果たして数年ぶりの先輩後輩の邂逅という場面に適したものかは知らないが。というか先輩はなぜ話そうとか言い出したんだろう。この人そういう人だったろうか。
「あー……、最近忙しくてね。さっぱり見てないわ」
「あ、そうなんですか」
「意外と見なくなってもなんとかなっちゃうもんだね。でも今度また見てみようかな。なんかおすすめある?」
「あー、あれの二期やってますよ」
ちょっと前のロボアニメの名前を出すと先輩はへえーと頷いた。あんまり興味なさそうだった。そういえばこれまで先輩とはアニメの話か人生の話くらいしかした記憶がない。アニメの話は先輩の方ができないし、人生の話は俺の方が(別にしてもいいんだけど気を遣われて)できないし、この場では何も。何もないっすね。
かなり立ち去りたい感じの気持ちになってきたんだけど、誘われた方が一方的に立ち去るというのも感じが悪い。俺はなんでここにいるんだろう。ミーンミーンミーン。
「蝉がなんで鳴くか知ってますか?」
「……求愛?」
「意味を求めて鳴くんですよ」
mean。なんでこんなどうでもいいこと言ったんだろうな。先輩も困った顔をしていた。でもずっとこんなどうでもいい話ばかりしてなかったっけ。先輩も「人生の意味が発生するような~」とか言ってなかったっけ。それを今掘り返したら変な嫌味に取られるかな。いつからどうでもいい話ができなくなったんだろう。人生がどうでもよくなくなっちゃったからかな。俺は今でもどうでもいいと思ってるよ。嘘っぱちじゃん。いっつも嘘。
「今、塾講バイトやってるんですよ。英語の」
「あ、へえー。そうなんだ。私も塾講はちょっとやったことあるよ。数学だけど」
それを取っ掛かりにして少しだけ学生時代の、全然その頃は知らなかった話をして。それから先輩が今してる仕事の話をして。結婚するまでの話を聞いて。ああ、だけどさ。こういうのこそどうでもよくなかったっけ。そういうのどうでもよかったじゃん。だから学生時代はそんなこと全然話さなかったんじゃん。なんで今こんな話してるんだろう。どうしてこんなことになってるんだろう。俺は変わってなくて、先輩は変わって、なんでこんな風に。変わらないのは俺なのにな。
「じゃあ、私そろそろ行くから。久しぶりに会えて楽しかったよ」
話はそれなりに盛り上がったみたいで、いい感じの切り時を見つけた先輩は、このへんに住んでるならまた会うことも会うだろう、と立ち上がった。昔はアニメ見ながら何時間も喋ってたけど、今は二十分もしんどくなってた。
先輩、と。最後に聞きたいことがあったけど、聞くまでもないと思ったから何も言わなかった。何も言わずに見送った。
蝉の音、蜃気楼。砂場の砂がめちゃくちゃ熱い夏の日に、俺はひとりで汗をかいていた。
弁当買って家に帰った。それから何もしないで壁を見つめながらボーっとしてたら一時間くらい経ってて、その弁当は夕食になった。
借りてきたアニメを見た。小学生の頃に見たアニメ映画。今でも覚えてるよ感動したこと。少年少女が冒険を。戦って。何のために戦うのか俺はわからなくなってる。何かもっと大事なことがあったはずなんだ。何かもっと大事なことがあって、それをいつの間にか。いつの間にか。
「帰りたい……」
どっか遠くに帰りたい。
言葉は小さくかすれて、涙はすっかり乾いてた。
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