第6話
「つまるところこれは現実なんですか夢なんですかそれともどっちでもないんですか?」
誰も映らない洗面所の鏡に問いかけても何の答えも得られなかった。
「だっておかしいじゃないですか」「何が?」「だってほら、これはあまりにも……」「非現実的?」「現実が現実的だったことが一度でもあるのか?」「命の話だよ」
色々な声が響いてきた。あるいは響いていなかった。頭が熱でぼやーっとしてきて無性にプールに入りたくなって塩素の匂いが恋しくなった。
「想像の話だよ」「世界の話だ」「たったひとりでいたいということ」「誰も信じないということ」「自分すらも」
鏡はぐるぐると棒付き飴のように銀色に溶けだしてでろでろと排水口に流れていった。水道が壊れて勢いよく水が流れ出した。
「だから鏡は君を見捨てた」「あるいは君が」「鏡はここに存在しない」「鏡がなければわからない」「君は不安定だ」「不安定なら不安定なりの生き方がある」「無理矢理にでも安定させなきゃ」「諦めろってことだ」「なのに君はそれを選べない」「未練があるから」「なのにやり方は忘れているから」「忘れたままでいいの?」「思い出した方が」「本当にいいの?」
よくわからなくてもう午後三時だから何か生産的な活動をしなくちゃいけないと思った。だって俺は今日まだ何もしてないから。何もしてない昼下がりほど心に来るものはなくてそのまま嘔吐してやろうかと思ったけど洗面所には綺麗な緑色の水が張っていて、いつか咲く花のためにもやめようと思った。
「もっと深くだ」「深く深く深く」「もしくは素朴に?」「あなたのことを縛るのは」「あなたすらも」「きっと本当は」「だけど怖いの?」「怖がるということ」「臆病に」「闇の中にひとり放り出されることを冒険と言うのか?」「でもきっと」「それでもきっと」「君は」「あなたは」
「本当は」
これは夢の話でしたか?
*
部室に入ったら知らない女の人がいた。まあここも大学だしそういうこともあるだろうと思ってとりあえずいつもの席に座ってアニメを見ることにした。教育系の枠でやってたアニメ。見てるだけで頭が良くなりそうだなと前々から気になっていたやつだったからちょうど良かった。登場人物が美形の天才ばっかりのやつ。
「聞いてくれよ瀬長くん」
突然知らない人が話しかけてきた。しかも俺の名前を知っていた。怖い。誰なんだ。もしかして学科にでもこんな人がいたんだろうか。ゼミとか第二外国語のクラスが被ったりしてない限りは基本的に交友関係が発生しないタイプの大学生活を送っているから全く心当たりがない。
「朝起きたらすっげえ美少女になってた……」
「………………はあ」
曖昧に頷いた。どういう理由があって知らないナルシストの方がこの小汚い部室でアニメを見ているんだろう。全然関係ないけど年末に軽くでもいいからこの部屋の掃除をした方がいいと思う。昼の陽射しの強い日なんかハウスダストが幻想的な光を放っている。
「確かにさ、毎日寝る前に『起きたら美形になってますように!』って念入りに祈ってたけどさ、いざなってみるとちょっと引くわ……」
「はあ……」
基本的によくわからない人の言っていることにはうんうん頷いておくのがいい。画面では美形のラスボスキャラが主人公に対する並々ならぬ執着心を露わにしていた。
「もう鏡の前で一日中へらへらするくらいしかやることがないよ……」
「大丈夫ですか?」
「ダメだよ」
「あっ先輩だ」
「今気付いたのかよ」
いつものやりとりが発生したのでそこでようやく川染先輩だと気付いた。
「いや気付きようがなくないですか。顔全然違うじゃないですか」
「だから起きたら美少女になってたって言ってんじゃん」
「はあ……」
何言ってんだこの人と思いながら先輩の顔を見た。確かに小綺麗にはなったと思うけど(失礼極まりない言い方だけど、徹夜でアニメ見て酒を飲んで床で寝ているような人なので、先輩は基本的に疲れ切った感じの顔をしている)、美少女と言われてもピンと来ない。というか現実の人間の美醜の判別が相変わらずあんまりうまくいかない。同性なら最近はちょっとわかるようになってきたんだけれど。
「先輩の中ではそういうのが美少女なんですね」
「待て待て待て。なんだその不安になる反応は。美形だろ?」
「はあ」
「えええぇ……。これ結構理想の顔まんまだと思うんだけどな……」
粘土でもこねるように自分の顔をぺたぺた触る川染先輩。そういうのが理想の顔なんだ、と思って顔をまじまじ見つめたけれど、どういう設計意図があるのかはわからなかった。
「まあ自分が満足してるならよかったじゃないですか。こんなところでアニメ見てないで外出てちやほやされてきた方がいいんじゃないですか?」
「私の美形願望は鏡見るたびに美形が映ってたら一生気分が良いだろうなあ、とかそういう考えから来てるからなあ」
なんじゃそりゃ、と思わなかった。結構わかる気がする。鏡見て好みのキャラデザのアニメキャラが映ってたらその日はおおよそ楽しい日になる気がするから。先輩は、それに、と言って億劫そうな仕草で立ち上がって窓辺に近付いて行った。
「ここの外なんてないしなあ」
「はい?」
「いやだってさ」
「滅んじゃったろ? 世界」
「そういうアニメ見たんですか?」
「え、いやそういうアニメも見たけどさ。実際滅んでるじゃん」
ほら、と先輩が窓の外を指さすから俺は仕方なく立ち上がって窓の外を眺めた。
廃墟だった。どこまでも続く廃墟。あるいはその言葉にすら及ばず荒野が。どこまでもどこまでも広がっている。
「いやおかしくないですか」
「何が?」
「昨日までありましたよね? 滅んでませんでしたよね?」
「さあ知らないけど」
先輩は雑に答えて椅子の上にどっかりと座る。
「もう終わりだからね。私たちにできるのはこの大学に残された歴史的文化資料であるアニメーションを発掘してだらだらと生命を消費することくらいしかないよ」
「なんですかそれそういう設定なんですか」
「そういう設定なんだよ」
先輩は興味なさげに答えてアニメ視聴に戻った。アニメでは味方のライバルキャラが敵側のエースポジションで登場する熱い展開になっていた。
「なんでもかんでも私たちは『そういう設定』が存在しているから、ってことで受け入れるしかないのさ。どれが本当でどれが嘘かなんて初めからわかりっこなかった」
「胡蝶の夢ですか?」
「世界五分前仮説かもね。でも今はそんなのいいじゃん。名前をつけることがそんなに大事?」
「じゃあ何が大事なんですか?」
「目の前にあることを受け入れることだよ。それ以外に必要なことなんて何もない」
「そんなことは――」
「あるでしょ。君はそれを知ってるよ。どうして君は私が君の知ってる先輩だなんて思ったの?」
虚を突かれて答え損ねてしまった。
「『いつもと同じやりとりをしたから』――。たったそれだけが君にとっての川染沙月のアイデンティティだったから、たとえ顔が全然違う人でもその条件さえ満たせば川染沙月として認識してしまう。同じだよ。『自分が存在している』という条件があらゆることを現実として認識させてしまう」
「いや……」
その考えはおかしい。
「『自分が存在している』という条件だけでは夢だって現実として認識してしまって区別がつきません」
「ついてないだろ?」
先輩は水のように軽く言う。
「誰も夢と現実の区別なんてつけられてないんだよ。ただそれらしいことをそれらしく認識していて、うん、夢の中でどんなに奇妙なことが起こっていてもごく自然に受け入れてしまうことってよくあるでしょ? それが現実でも起こっていないと君は言える?」
「でも、そんなのは――」
「わかってるくせに」
先輩は言った。テレビを見ていた。テレビにはいつの間にかアニメは映っていなくて、この部屋の監視カメラの映像が流れていた。ふたりが座っていた。それだけだった。
「もっとほら。魂がさ。緑色のこう水みたいなやつがさ。すぱーってなってさ。いや違うな。もっとえーっと。ね、なんか綺麗なものがさ。抽象の綺麗なやつがさ。宇宙とか世界とか自分とかそういうのよりももっと本質的なっていうか真実っぽい何かがさ。わかるだろ? うん、わかってるはずだよ。ね。わかるよね」
先輩は急に人懐こい顔でにっこりと笑った。心の壁をひとつも置いてないような笑顔だった。
「広がるやつですよね。広がってないやつ。ひとりのやつ」
「そう! それだよそれ! ……あれ、ひとりならなんで私たちはふたりになってるんだ?」
「ひとりだからですよ」
「ひとりじゃないからじゃないか?」
「……そうでしたっけ。先輩って俺でしたか?」
「ううん、どうだったっけ」
先輩は首を捻ったけれど、俺にはもう先輩の顔は見えなかった。テレビの中にはバーチャルAIアイドルが映っていて、夜の空にはスペースシャトルが飛んでいて、あらゆる場所から光が落ちてきていて、部屋は小汚いけど落ち着いて、そういえば神様ってどこに行っちゃったんだっけと思った。
「ねえ先輩」
「なんだい後輩」
「俺って神様でしたか?」
「そりゃそうでしょ」
「じゃあ先輩は神様でしたか?」
先輩はいつの間にか消えていました。あの夜食べたラーメンの味を思い出して、あれも滅んでしまったんだなあと悲しくなりました。というか何もかもが悲しかったんです。何もかも悲しいなあと思ったらボロボロ涙が出てきてアニメが見たいなあと思いました。アニメが見たいんです。わかりますか? アニメを見ますよ。ねえ、面白いアニメが見たいんです。でもダメなんです。そこにいるのは俺じゃないんですよ。ああでもそれって全然仕方ないことでしょ? 仕方ないことなんですよ。だって全部俺だったらそれって凄まじく。
凄まじく。
綺麗な音楽が聞こえてきた。綺麗な音楽だけ聞いていたいなあと思った。綺麗な景色じゃダメなのかなあと考えた。
「大丈夫ですか?」
自分で答えることもきっとできました。
でもね、もう初めから何もかも終わっていたんです。
終わりです。
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