第15話




 キキュキュキュキュー。野鳥の鳴き声が白波打つ島の岸壁に木霊(こだま)した。一斉に飛び去った野鳥の群に加われず、丹念に削られた鋭い木製の矢に体を貫かれた鳥が一羽、羽が折れ力尽きて密林の手前の赤茶けた土の上に落下していた。木々の間から青白い顔を覗かせた男が、伸びきった前髪を片手でたぐり、弓を傍らに置いて、仕留めた獲物に目をやった。荒い息をしている。

男の額からは大粒の汗が流れていた。鳥の群を追って来たらしい。汚れで黒光りしたシャツの腕の裾をめくり、辺りの木から小枝を集め、火を起こし始めた。火がようやくちりちりと燃え盛るようになった頃、男は鳥から矢を抜いて、羽をむしり取り、裸になった鳥を火で焼き、そのまま口に頬張った。

 ニューヨーク州ロングアイランド沖の大西洋に浮かぶ孤島にも組織のプリズンがあった。島は強い海風で捻じ曲げられた蜜林に覆われ、古びたバラック風の建物が隠れていた。建物の内部にある死臭漂うプリズンの牢獄から、餓死した改造人間のものと思われる遺体が何体も重なり合って発見された。

 同時に島の岸壁近くにある洞穴の中で生存者がひとり救出された。男は他の人間が力尽きた後も、最後の力を振り絞って牢獄の格子を何らかの器具を使って破り、プリズンから外に出たらしい。そして島内にある果樹、野生の小動物や鳥を捕らえては食べ、飢えを凌いでいたと思われる。発見された時は瀕死の状態で、マインド・コントロールを掛けられた後遺症のような症状が見られ、救出に当たった捜査員に歯をむき出してつかみかかろうとしたという。

 その男がひょっとしたら北村光一さんらしいという情報をもたらしたのは、シスコだった。シュンタローはその報を受けて、探偵事務所に急行した。

 シスコは部屋のデスクで調べものをしていたが、シュンタローの姿を認めるとペンを置いて、デスク横にあるソファーに案内した。

「北村さんが生きているかも知れないということですね?」

 シュンタローが興奮を隠さずに言った。

「市警の知り合いから聞いたところでは、救出された男性は日本人で、年齢は五十歳台、本人にはマインド・コントロールの後遺症と見られる言語障害があり、詳しいことは一切聞き出せないでいる。そこでだ。その男性に至急面会して欲しい。君なら本人確認が出来るだろうから」

 協力を依頼され、シュンタローはその男が入院している病院に向かった。シスコに案内されて入った病室のベッドにはシーツを鼻の辺りまで被っている男が横たわり、目を閉じていた。

「申し訳ないですが、起きて下さい」

 シスコが男の耳元で呟いた。男はゆっくりと目を開け、顔を覆っているシーツを手で跳ね除けてシュンタローを見た。

「北村さん! あんた、生きていたんだね!」

 シュンタローは大きく頷いた。男は何か言おうとしたが、声にはならず、恥ずかしそうに横を向いてしまった。

 病室の戸口に立っていた刑事と思われる男とシスコが小声で話し合っていた。耳を澄ますと、二人の会話が聞こえた。

「これは捜査上のミスじゃないぞ。そのことはわかってもらわないと困る」

 刑事らしい男が早口で吐き捨てるように言った。

「いずれにしてもロングビーチ沖の水死体は北村さんじゃなかったことになる。警察発表が間違っていたとマスコミは騒ぐぜ」

「あの死体は全身が拷問で腫れ上がっていたし、しかも水ぶくれ状態だった。キタムラという名前のジャパン・ソサイアティのIDを所持していたし、血液型も一致していた。それに霊安室で日本人会会長も、キタムラだと認め、ジャパンから来た両親もわが息子だと断定したんだ。ただDNA資料を紛失したのは痛かった」

 刑事の顔が歪んでいた。その様子を見ながら、シスコが続けた。

「どちらにせよ、今小暮さんが確認したように、北村さんはここに生きている。あの水死体は全くの別人だったことが、これではっきりしたんだ。それにいくら北村さんを会長が確認したと言っても、あんなに拷問と海水で膨れ上がった顔じゃ本人かどうか確認するのはなかなか難しい作業だ。両親の方もあやしい。現に父親は、顔が異様に腫れあがっており息子かどうかはっきり認める自信がないが、最近の息子をよく知っている会長が本人と断定したので、やはり息子は殺害されたのかと思わずにはいられなかったと証言している。母親は動揺が激しく、醜い死に顔は正視できなかった」

「だが、我々市警としては知人や両親の遺体確認で本人と断定された上に、所持品や血液型などを考慮してあの遺体をジャパン・ソサイアティのスタッフ、キタムラと断定したんだ。我々の責任じゃなかろう」

 刑事が釈明した。

「それがどれだけ通用するかな。特に北村さんのIDカードについてはどう説明するんだ?」

「これまでの調べで、事故で死んだ工作員リサがクニヨシへの見せしめのためにキタムラのIDをわざと死体に残したとされている。水死体で発見された人間とキタムラは、状況から見て同じプリズンにいた可能性が高い。あのプリズンは改造人間の不良品を収容する所にもなっていたようだし、死体は山ほどあった。リサがキタムラの殺害を命じた時、実行犯が別の人間をキタムラと見間違い、ポケットにIDを放り込んで殺害した可能性は充分に考えられる」

「とりあえず市警としては、あの遺体は一体誰なのか至急に調べ直すことだな」

 刑事を睨んでから、シスコの目はシュンタローに向けられた。

「小暮さん、申し訳ないが、至急日本の両親に連絡を取って、ニューヨークに来てもらってくれ。わたしが付き添うから電話は市警から掛けるといい。長距離電話代もバカにならないからな」

 シスコは微笑んでいた。シュンタローは死んだものとばかり思い込んでいた北村が生きていたことに少なからず驚き、頭の中が混乱していた。


 日本人会会長水原も北村が生きていたことに仰天したひとりである。市警立会いの下で北村の死を公式に認めていたため尚更であった。

「わたしはあの暗い霊安室の中でスポットライトに照らし出された顔を見た途端、すっかり冷静さを失ってしまいました。その顔が余りにも醜かったからです。わたしは北村君が今まで一度もなかった無断欠勤をしたことで、犯罪に巻き込まれたのではないかという思いを強く心の中に刻み込んでいた記憶があります。そのせいか、北村君が組織から酷い拷問を受けたと警察から聞いていたので、あの醜い顔を見た途端、遺体を北村君と思い込んでしまったのです。申し訳ありませんでした」

 

 シュンタローは日本に連絡すると共に、北村の件をハウスにいる国吉に知らせた。国吉は驚き、喜び、シュンタローと病院に北村を訪ねた。

 北村は目をつぶっていたが、二人がベッド・サイドに座ると、ゆっくりと目を開けた。

「北村、わかるか? 俺だ、国吉だ」

 国吉は北村の虚ろな目を見つめた。北村は天井を見つめてじっとしていた。

「組織のプリズンでマインド・コントロールをかけられていたらしい。そのせいで言語障害が残り、まだ記憶や意識が完全に戻っていないと医者が言っていた」

「なるほど。俺のこともわからないようだな。元に戻るんだろうか?」

 国吉は不安げな様子だった。

「ご両親には知らせたのか?」

「ああ、もうこちらに向かっているはずだ」

「それにしても良かった。少なくとも命だけは永らえたんだからな」

 国吉は天井を見つめたままの北村の顔を覗き込んだ。その途端、北村が歯をむき出し、国吉の喉の辺りに噛み付いた。

「痛い!」

 国吉は北村をベッドに押しやった。喉仏を少し外れたところから出血していた。

「お前のしたことを恨みに思っているのかも知れないな」

 シュンタローは喉にハンカチを当てている国吉の顔を見た。

「俺はこいつの人生の軌道をぶっ壊してしまったんだからな。恨まれても仕方がない」

 国吉が白い歯を見せた。


 翌日北村の両親が病院に到着し、息子と対面した。シスコも同席していた。

「光一、よくぞ無事だった!」

 父親の光太郎が北村に話し掛けた。母親の加寿子はやさしい目で光太郎に寄り添いながら光一を見つめていた。担当医が病状を説明した。

「長い期間拉致され、島に放置されていた結果、身体の衰弱は激しかったのですが、その面はかなりの回復を見ました。血圧もほぼ正常に戻りましたし、不整脈も消えました。しかし、その間に施されたマインド・コントロールの副作用で言語障害が残り、記憶障害も出ています。ご本人はマインド・コントロールに対して強い拒絶反応を示していたようで、国吉さんに噛み付いたのも、そのひとつの名残と思われます。すなわち自分に対して危害を加えそうな人間に先制攻撃を加えようとするのです。このような症状は入院加療である程度は治りますが、時間はかかると思います」

 光太郎らは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていた。

「北村さんは、完全にはマインド・コントロールがかからなかったようなので、人間爆弾として使えず、いわゆる不良品の烙印を押されて島に流されたようです。島に収容されてからしばらく経って組織が壊滅し、島にいた組織の連中は北村さんらを牢獄に放ったらかしにしたまま逃亡したようです。もしも北村さんが牢獄を破ることが出来なかったとしたら、他の収容者と同じように餓死して亡くなっていたでしょう。その点非常にラッキーでした。それから、北村さんと間違われたロングビーチ沖の水死体ですが、市警のその後の調べで、北村さんと同じ島に収容されていた在米韓国人だとわかりました。体つきなどが日本人とよく似ていた点も北村さんと見間違われた大きな原因だったようです」

 シスコが事情を述べた。

「その方には親族がおられるのかしら? あなた、シスコさんに訊いてみて」

 加寿子が光太郎を促した。

「天涯孤独らしいよ」

「では、わたしたちが誤って葬った韓国人の方の遺骨は、無縁仏として新たに納骨する必要がありますね。そうですね、あなた」

 加寿子は光太郎の顔を見た。

「そうだね。丁重に納骨しよう。どうぞ我々にお任せ下さい」

「それではそのようによろしく願います」

 シスコが言った。



 それから二ヶ月が経った。北村は治療の甲斐あって徐々に記憶を取り戻し、光太郎と加寿子を父母と認識するまでに回復した。ただ、国吉に対しては噛み付くような仕草をするので、治療のため国吉は面会禁止となった。

 シュンタローは日本に帰国する決心をし、仕事を探すために一時帰国をした。日本は景気が後退し、五十歳台での再就職は門戸が厳しく閉ざされていたが、アメリカでの塾講師の実績が評価され、大手の私塾に就職が内定した。

 国吉はFBIとの司法取引により無罪扱いとなったが、当面は身辺警護のためハウスで暮らすことになった。日本国内での容疑については、ICPOを通じて日本警察に取り扱いを一任することになった。

 久子は国吉と別れ、明子と共に帰国して、明子の実の母親、光代の墓に明子の無事を報告した。

 

 シュンタローが帰国する日がやって来た。JFK空港には、見送りに来たユキオとナオミの姿があった。

「小暮さん、やっぱり日本に帰っちゃうんですね」

 ユキオが残念そうにシュンタローを見つめた。

「君らは結婚してもこちらに残るんだろう? えーい、うらやましい!」

 シュンタローはおどけて見せた。

「国吉さんは無罪になったそうですね」

「ああ、謀略組織をぶっ潰したからね」

「それに北村さんも生きていたんですって?」

「あれは奇跡だな。本当に驚いたよ」

「謀略事件に巻き込まれた人間が相次いで生還したんですね。小暮さん、国吉さん、久子さん親子、それに北村さんか」

「謀略の戦場から生還したのだから、謀略からの帰還というべきなのかも知れないな」

 シュンタローは教壇で英語の和訳を考える時のように、言葉を選んでみた。

「大学の時、国語の先生が笑いながら言っていましたよ。小暮さんのような英語の先生は、まるで国語の先生みたいだって。英語を和訳するためにどんな日本語が適当なのかって、いつも考えてばかりいるからですよ」

「なるほどね。でも、こんな風にのん気に言葉を選ぶことができる自分が嬉しいよ。一歩間違えば、謀略の戦場で殺されていたかも知れないからね」

「全くです。ところで、団塊世代はこれからどんな道を歩んでいくんですか?」

 ユキオが興味深そうに尋ねた。

「国吉は帰国したら塾を開きたいそうだ。若者を対象にした私塾をね」

「国吉さんが塾を? 何だか怖そうだな。いきなりぶん殴られそうで」

 ユキオが微笑んだ。

「本当だね。だけど、本人はいたって真剣そうだった。世界同時革命という看板を降ろして、将来の世界のために若者世代を大いに鍛えたいそうだ」

「へえ、ボクは遠慮しておきます」

「俺は相変わらず英語塾の講師だ。また受験英語と格闘することになるな」

「よかったですね。再就職おめでとうございます」

「君には命を救ってもらった。今でも感謝している」

 シュンタローがユキオと握手した。

「ユキオが小暮さんの命を救ったって? それって一体・・・・・・」

 ナオミが首を傾げていた。

「ナオミさん。ユキオ君は、本当はとっても勇気がある頼もしい人物だ。君が男を見る目は正確だ!」

「小暮さん、それ一体どういう意味なんですか? 教えてください。おい、ユキオ。教えろよ」

「小暮さん、やっぱり女は怖いものですねえ」

「全くだ」

 シュンタローとユキオは、一緒に声を上げて笑った。空港内にはシュンタローの乗る飛行機の搭乗アナウンスが響き渡っていた。  

                                


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