第14話

第十三章



 シュンタローが捜査当局にデータを提出したというニュースが大きく報道されてから三ヶ月が経っていた。FBIはプリズンの実態解明をほぼ終了していた。逮捕された組織のプリズン担当幹部の裁判での証言から、FBIはプリズンを急襲し、改造人間はすべて特殊治療のための病棟に収容され、ICチップの除去手術を受けて人間性の回復のためのリハビリを受けた。泳がされていた自爆テロ用の改造人間の特定も進み、全員が同じく病棟に収容された。

 プリズン解明の過程で、北村の死の真相が明らかになった。当局が押収した改造人間のリストの中に北村の名前があったのだ。幹部の証言によると、北村は組織を裏切った国吉の居所を突き止めるために、舞から出てきたところをリサの工作グループに拉致され、プリズンに運ばれた。リサは、シュンタローの口から出た日本人会のベテラン事務員北村が国吉の居場所を知っている可能性があると睨み、その時点から北村をマークしていたという。

 北村はプリズンで日々拷問を受けたが、国吉の居場所を決して吐こうとはしなかった。いや、北村は実際知らなかったのである。激しい拷問により、北村はしばらく生死をさ迷う状態に陥った。ようやく意識を回復した頃、リサの進言を受けて幹部は北村の脳にICチップを埋め込むように指示し、北村は改造された。

 ところが、何らかの原因で機器の誤作動が続き、北村はマインド・コントロールによる命令を完全には実行しなかったため、「不良品」として殺害された。リサは国吉への死の宣告の意味を込めて、北村の身元がすぐわかるように日本人会のIDカードをわざと遺体に残し、遺体を海に流したという。

 シュンタローはその証言内容をFBIの担当官から聞き、自分の軽はずみな発言が北村を死に追いやったと悔やんだ。

 光太郎は当時シュンタローがリサの正体を知らなかったことを強調し、うな垂れているシュンタローを逆に慰めた。

 北村の死は国吉にとっても晴天の霹靂(へきれき)であった。北村はシュンタローの一言でリサにマークされてしまい、いずれは拉致され、殺される運命にあったとしても、北村が、自分がうっかり忘れた電子手帳をとりに行った帰りに拉致されたことに、国吉は言いようのない罪悪感にうちひしがれていた。北村が亡くなり、光太郎がシュンタローと共に自分が入院している病院を訪れた時、光太郎からいきなり息子を殺したのかと詰問され、反発してしまったことも心残りだった。

 ある日国吉は光太郎にハウスまで来てもらい、謝罪した。

「お父さん、息子さんが亡くなったことに改めてお悔やみ申し上げます。彼が亡くなってしまったのも、そもそもわたしが彼を強引にアメリカに連れて来たことに遠因があります。お父さんに、人間の心を忘れた者に本当の革命は起こせないと言われた時、わたしの心は大きく揺らぎました。お父さんに心の中を見透かされてしまったような気がし、動転したのです。わたしはその直前、アメリカに来た当時からの同志であった人物をテロで亡くしました。ヒラムと言いますが、彼は同志に殺されたのです。その時、革命という御旗を振りながら、自分なりに頑張って来た意志が脆くも音を立てて崩れ去りました。同じ頃、実の娘が誘拐され、内縁の妻と共に身代金を持って出掛けることになりました。わたしが日本を発つ前に生まれた娘ですので、それまで一度も会ったことのない娘でした。そのせいでしょうか、最初娘のことで組織に脅された時には、実の娘を放り出して逃げたのです。わたしは本当に情けない父親でした。そんな思いがあったせいか、身代金を持っていく時には、殺されても娘を救いたいと思い、妻と一緒に出掛けたのです。結局娘は無事に救出され、わたしはようやく娘に顔向けが出来るようになった気がします。娘と言う実感が湧いてきたのです。息子さんを亡くされたお父さんの前で、無事だった娘の話をするのは大変心苦しい限りですが、わたしの心の変遷を知っていただきたいと思い、話させていただきました。そういう意味で、お父さんがおっしゃった言葉、もう一度繰り返させていただきますが、人間の心を忘れた者に革命なんか起こせないという言葉が身に沁みます。わたしはずっとエセ革命家だったんです」

 光太郎は国吉の言葉をひとつずつ聞き漏らさないように耳を傾け、国吉の眼を見つめていた。国吉が話し終えると、光太郎は目をつぶり、しばらく何かを考えていたが、目を開けて国吉に言った。

「ひとり息子の光一は、妻の加寿子とわたしの心の中にこれからも生き続けます。国吉さんも早く回復され、ご家族と共に幸せに御暮らし下さい」

「お父さん、本当にすみませんでした!」

 国吉はベッドから降り、床の上で光太郎に向かい、土下座した。国吉の肩がぶるぶると震えていた。

「どうぞ面を上げてください。」

 光太郎がゆっくり国吉の肩に触れた。国吉は光太郎に抱きつき、泣きじゃくった。


 

 国吉は自らの公判でナイヤックの現金輸送車強奪事件にヒラムと共に参画していたことなど、これまで関わった工作の全容を自供した。

 組織の壊滅を受けて、シュンタローは晴れて自由の身となり、しばらくは無闇に外出しないこと。FBIの警備要員が遠巻きにシュンタローの身辺を護衛することなどを条件に、ハウスから離れることになった。


 シュンタローはとりあえず住まいをマンハッタンのハドソン川沿いにあるウェスト・エンドのアパートに移した。日系の塾はハウスに収容された時点で辞職願を出していた。

 ハウスを出て一週間経った頃、シュンタローは久しぶりにユキオと会った。ハドソン川から対岸のニュージャージーを望む丘は、吹き曝しの風が吹き荒れていた。厚手のマフラーを首に巻き、ポケットに手を突っ込みながら、二人は沈みゆく真冬の太陽に向かって歩いた。

「ぼくナオミと結婚することにしました」

 突然ユキオが言った。

「結婚? それはおめでとう」

 シュンタローの脳裏に快活なナオミの姿が浮かんだ。

「それでこれからもニューヨークに?」

「テロが怖いのでどうしようかと思っていたのですが、ナオミはまだニューヨークでアートの勉強がしたいと言うもんで、仕方なく・・・・・・」

「俺をテロ組織の手から救った男が何を言っているんだ。大丈夫だよ」

「いや、今でもあの時のことを思い出すと震えが止まらなくなるんです」

 ユキオは身を切るような風に肩を振るわせた。

「そうか、結婚か。俺には出来なかったことをさっさとやってのけるんだね」

 シュンタローは微笑んだ。

「小暮さんはこれからどうされるんですか?」

 ユキオがシュンタローの横顔を見つめた。

「この半年間余りにも目まぐるしかった。しばらくは休息しながら、ゆっくりこれからのことでも考えてみようと思っている」

 落日がその日最後の輝きを見せ始めていた。

「ひょっとしたら、太陽は落日の頃が一番明るく照り輝くのかも知れないね。そう思うと、齢(よわい)五十を越えたこの俺も、少しは元気が出て来るような気がするよ」

 シュンタローは白髪混じりの揉上げに手をやりながら、落日に染まるハドソンの川面に眼をやった。


 シュンタローが久子と出くわしたのは、久子が国吉と面談に行った裁判所の廊下だった。公判が終わり、FBIの担当官に付き添われて廊下に出た時、シュンタローが公判中に目が留まった久子に良く似た女性とすれ違ったのだ。今度ははっきりと目が合い、シュンタローから声を掛けた。

「久子、久し振りだね」

 久子はうっすらと微笑を浮かべ、立ち止まった。

「本当にご無沙汰ね、小暮君」

 二人は雪が舞い始めたマンハッタンの舗道に出て、とあるカフェの扉を開いた。

「国吉はこれからどうなるの?」

 長く伸びた髪を掻き揚げながらシュンタローが尋ねた。

「組織壊滅のための情報をFBIに渡す代わりに、これまでの自分の罪を相殺してもらう司法取引に応じたから、ある時点で自由の身になるのじゃないかしら。ただ日本で犯した罪というか、容疑の方はどうなるのか。日本の警察とICPOとの協議になるだろうし、FBIはどういう見解なのか、そのあたりはよくわからない。ひょっとして、もう時効かもね。だってもう三十年ほど経つもの。そう言えば、小暮君老けたわねえ」

 久子が繁々と見つめながら頷いていた。君も同じだ、と口に出そうになり、シュンタローは咄嗟のところで言葉をかみ殺した。でも、久子は相変わらず大学当時の明るさや潔さを失っていないようだ。チャーミングな口元も変らない。

 シュンタローは学生時代の久子を思い出していた。

 

 あれは紛争が激しさを増していた一回生の夏のことだった。ノンポリだった二人は、キャンパスの封鎖が続き、授業がないことをいいことに北海道を旅して回った。当時バック・パッカーのように体の幅よりも大きなバッグを担いで旅行する若者が多く、その形から「カニ族」と呼ばれていた。

「俺たちも流行りのカニ族だな」

 シュンタローが久子のバッグを引っ張った。

「やめてよ! 体がぐらつくじゃない」

 久子が苛立った。北海道に入って一週間ほどが経っていた。

「そんなぐらいでカッカするなよ」

 シュンタローは久子の豹変ぶりに驚いた。それまで二人は楽しく旅をしていたのだった。大阪から特急白鳥に乗り、日本海側を一路青森に向け進んだ。深夜青森港を出航する青函連絡船に乗り、函館に渡った。午前四時半頃函館港に到着。その後余市から札幌に向かう。札幌で三泊し、バスで旭川に着いた。地元でアイヌの織物を展示する美術館などをめぐり、根室標津で花咲ガニを食べる前に然別温泉に立ち寄った。宿泊先はユースホステルが殆どで、勿論久子とは別室で泊まっていた。

 ところが、然別ではユースがカニ族で満室の状態で、二人は仕方なく安い旅館に泊まることになった。別々の部屋が取れず、同室となり、二人は妙にソワソワした気持ちで真夏の夜を過ごしていたが、そこは若い男と女。深夜になると、初めて同士がぎこちなく体を重ね合わせていた。

 それがきっかけとなり、翌日通りすがりの町の薬局でコンドームを買い求めて、二人は毎夜、知ったばかりの快楽の虜(とりこ)になった。

 帰阪してからも、シュンタローは久子との出会いを楽しみにしていたのだが、程なく久子は急速に国吉に接近していったのだった。

 シュンタローは何とか久子を国吉の「性の奴隷」にはするまいと、学生運動から引き離そうとしたが、久子は言うことを聞かない。

「何故なんだ。理由を言ってくれ!」

 シュンタローはある日久子に迫った。

「今日本のあり方が根本から問われているのよ。そんな大事な時にブルジョアジーみたいに男と女のちっぽけな幸せを求めようとしたわたしが間違っていた。北海道に行ってようやくそのことがわかったわ。これも経験主義の効用だと思う。わたしノンポリを捨てて国吉君らと連帯して帝国主義と戦うわ! さようなら」

 そう言い残し、久子はシュンタローの前から去って行った。

シュンタローは心の中にぽっかりと大きな穴が開いたような虚脱感に襲われていた。久子の心変わりに接し、女性不信にも陥った。心の痛手を少しでも癒そうと、シュンタローは一層学問に打ち込むようになっていった。

 紛争がキャンパスから姿をほぼ消した頃、就職活動に入り、商社の入社試験を受けて合格。入社後は海外出張など多忙で、女性とつきあう暇もなく、婚期を逃したと言うのが世間への言い訳だった。本当は女性と付き合うのはもうこりごりだと思い込んでしまっていたのかも知れない。

 商社を辞めて新天地アメリカにやって来た時、リサに出会った。そのリサに再び裏切られることになった。よほど俺は、女性とは縁がない男だという思いが心を掠めた。ユキオがナオミと結婚すると話した時、正直うらやましかった。もしも大学時代、あの紛争さえなければ、久子と俺は結婚していただろうか。

 

 三十年ほど経った今、当時恋人と思い込んでいた久子は、ここマンハッタンで俺の前に座っている。その落ち着き払った様子を眺めていると、国吉と久子を取り合ったことが脳裏をかすめた。

「久子、今なら聞いていいだろう? 学生時代君は国吉を選んだ。あれでよかったのか?」

 久子は口元をすぼめ、一瞬驚いたような表情を見せたが、次の瞬間体を揺すり、大声で笑った。

「小暮君って相変わらず初(うぶ)なのね。突然何を言うのかと思ったら」

 シュンタローは少し顔を赤らめた。

「いや、ごめん。久子の顔を見た途端、すっかりあの頃に引き寄せられてしまったんだ。許してくれ」

「いいわよ、謝らなくても。あなたの心はあの頃とちっとも変っていないわ。うらやましい!」

「君はそんなに変ったのか?」

「ご想像にお任せするけど、わたしも本当はそんなに変っていないわ。国吉に対する気持ちはあれから比べると随分変ったけれど・・・・・・」

 久子が思わせぶりな表情を見せていた。

「それはどういう意味か聞いていいかい?」

 シュンタローは久子のプライバシーを覗いてみたい気がしていた。

「国吉はもうテロリストじゃない。だから、もうわたしのお金は必要ないってことなの」

 久子は平然としていた。

「お金だって?」

「そう、闘争資金のことよ。アメリカと日本に別れたまま何十年と夫婦みたいに振舞ってきたけれど、国吉がわたしを必要としたのは革命遂行のための資金をわたしが持っていたからなの。愛情なんかじゃない。彼の革命ごっこを今まで支えてきたけど、もうこれでおしまいよ」

「君はそう国吉に言ったのか?」

「言わなくても彼自身充分感じてるわよ。だからわたし、国吉とは別れるつもり。これで娘と二人で静かに暮らせるわ。だって国吉というだだっ児(こ)がいなくなるんだもの」

 久子はそう言い終えると、コーヒーカップを飲み干した。

「小暮君はこれからどうするの?」

 久子の目がシュンタローを捉えていた。

「このままこちらにいるか、日本に帰るか、迷っているんだ。ある意味気負ってアメリカで永住でもしようと思ってやって来たけれど、思いがけず大変な目にあったし、正直疲れ果てた。これからのことを考えるには、もう少し休養が必要だ」

「いずれにしてもニューヨークにはもうしばらく?」

「ああ」

「じゃまた何処かで会うこともあるかも知れないわ。お元気でね」

 久子はテーブルにチップと二人分の代金を置き、立ち上がった。

「いや、ここは俺が・・・・・・」

「いいわよ。じゃあね」

 シュンタローは久子の後ろに続いた。

「あら、まだ降ってるわ。この分じゃ今夜も降り続きそうね」

 久子は雪を払いながら、通りでイェロー・キャブを拾った。乗る前に久子はシュンタローの方を振り返った。

「ほら、一回生の夏一緒に北海道に行ったじゃない。あれはいい思い出だわ。あれから国吉をはじめ、色々な男と付き合って来たけど、何と言っても小暮君はわたしにとって最初の男性だった。あの頃の初(うぶ)さが堪らない。今もそうだってことがわかったし、会えてよかったわ」

 久子はウィンクをして、そそくさとイェロー・キャブに乗り込んだ。

 あいつも少しは俺のことを覚えていてくれたか。シュンタローは降りしきる雪の中を走り去っていくキャブを見つめていた。



 その日開かれた公判で国吉は北村の殺害について参考人として証言に立った。そのせいか、国吉はFBIのハウスにある部屋に戻っても北村のことが脳裏を離れず、北村と出会った頃のことを思い出していた。

 

 北村が十七歳の春、日航Y号が富士山上空で赤軍派の学生らに乗っ取られる事件が発生した。Y号は福岡の空港で燃料を補給した後、赤軍派が要求する北朝鮮の首都ピョンヤンに向け離陸した。ピョンヤンと思い込ませて、密かにソウルのキンポ空港に着陸したものの、赤軍派はそれを見破り、結局ピョンヤンに飛んだ。

時あたかも大阪で万国博が開幕し、高度経済成長が高らかに宣言された頃であったが、第二次安保の政治的な季節でもあった。

 A大キャンパスでは、国吉をリーダーにした全学闘争委員会が教養部と学部建物を封鎖し、大学当局の要請で封鎖を解こうとした機動隊と衝突を繰り返していた。

 組織オルグの過程で、高校生に対する闘争参加の呼びかけが行われ、北村もA大キャンパスに赴き、国吉と対面した。北村はあどけないニキビ面を国吉に向けていた。

「この前赤軍の連中が飛行機を乗っ取って北朝鮮に行ったのを知っているだろう? 北村君はどう思った? 赤軍の行動を」

 ヘルメットをかぶり、手拭で顔を被った国吉が尋ねた。

「この前国吉さんの書かれたパンフを読ませてもらいましたけど、赤軍派は世界同時革命を起こすための基地を作るため、革命の首都ピョンヤンに部隊を送ったらしいですね。この世界から帝国主義の反動勢力を一掃するための勇気ある行動だと思います」

「よし! その調子だ。君らはまだ高校生だが、これからの日本を我々と共に変革していく重要な役割を担っている。特に世界同時革命の遂行では、世界各国の同志と強い連帯をしなくてはならない。俺は間もなくアメリカの革命勢力と連帯する行動を起こすつもりだ。北村君、俺と一緒にアメリカに行こうぜ」

「はい!」

 北村の目は輝いていた。その時すでに国吉逮捕の日が迫っていた。それを察知した国吉は北村を抱きこみ、アメリカ行きを急いだ。

「久子、もうしばらくは会えないと思うが、後のことはよろしく頼む。ドサクサに紛れて頼むが、闘争資金だけは必ず送ってくれ。落ち着いたら連絡するからよろしくな」

 国吉は空港で久子と別れた。別れ際に国吉は北村を久子に紹介した。

「彼にはニューヨークで日本人会に潜入してもらおうと思っている。俺と日本との連絡係だ。また追って連絡を入れるから。お前と俺との関係は警察には知られていないとは思うが、俺の行方についてしつこく訊かれる恐れもある。気をつけてくれよ」

 国吉は久子の手を握り、久子も握り返した。

「英雄、元気で。連絡待ってるわ。世界同時革命万歳!」

 久子は微笑みながら、国吉と北村を搭乗口まで見送った。

 国吉はその時北村の表情に言いようのない不安が広がっているのを見た。主義主張は頭で理解させ、家は帝国主義の元凶だと言って親とも別れさせたが、いざ生まれ育った国を離れ、異国に旅立つとなると、おのずから湧き出て来る不安が顔を覗かせたのだろう。ひょっとすると父親や母親の顔が浮かんだのかも知れない。

「北村、親と別れるのが辛いのか?」

 国吉が北村を睨んだ。

「いや、そんなことはありません。帝国主義の元凶はばっさりと切り落として来ましたから」

 北村は顔を引き締めた。

「そうか。それならいいが・・・・・・」

「国吉さん、日本人会って何ですか?」

 機内で北村が尋ねた。

「ニューヨークに住んでいる日本人のための会だ。北村には、出来ればそこの職員にでもなってもらおうと思っている。革命のための連絡係だよ」

 窓から通して見えるガラス越しの通路に警官の姿が映った。国吉は思わず体を座席に沈めた。


 あれから三十年近く経った。北村はもういない。ニューヨークに来てから、北村はうまく日本人会に入り込み、俺の「便利屋」としてよく尽くしてくれていた。

しかし、殺害される二週間ほど前、北村はえらく深刻な声で俺の掛けた電話に出た。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

 俺はただならぬ気配を感じた。

「国吉さん、ちょっとお会いして話したいことがあります。会ってもらえませんか?」

 北村の声は電話の向うで微かに震えているようだった。北村がそんな態度を見せたのは、アメリカに来て初めてだった。

 俺は時間を作り、その昔アイリッシュ・マフィアの根城だったヘルズ・キッチンと呼ばれるエリアにあるベトナム料理屋で北村と会った。

 北村は麺を注文してから黙り込み、麺が運ばれて来てからも食べようとはせず、ようやく重い口を開いた。

「国吉さん、わたしはこの三十年近くあなたのためというか、世界同時革命のためにと思い、頑張って来たつもりです。でも、最近わたしは日本に残して来たおふくろと親父のことが気になるようになりました。高校の頃から止まったままの親の顔が時々夢に現れます。一人っ子のわたしに深い愛情を注いでくれたおふくろと親父です。このまま年月を重ねていけば、お互いのその後を知らないまま、死別してしまいます。わたし自身ももうすぐ五十になります・・・・・・」

 俺は北村が何を言おうとしているのかが推測出来た。

「ちょっと待て! お前は敵前逃亡するつもりか? 俺たちの同時革命をめざす固い誓いは何処に行ったんだ! 勝手なことはさせんぞ!」

 初めて弱気を見せた北村に、俺はキレた。湯気が上っている麺料理に箸をつけないまま、俺は椅子から立ち上がった。店員が何事かと奥から様子を窺っていた。

「次に俺の前に顔を見せる時までに、徹底的に自己批判しておけ。そんな日和見主義でどうするんだ! 反動勢力に手を貸してどうするのか!」

 俺は下を向いたまま黙り込んだ北村をその場に残し、立ち去った。その瞬間、日本を出発する時の北村の不安そうな顔が蘇った。


 自己批判、日和見主義、反動勢力。今思えば、何と虚(むな)しい言葉なんだろう。よくわからない抽象的な言葉をさもわかったように振り回していた自分が恥ずかしい。

 北村は日本を出てから自分の気持ちを押さえ込み、大義のためと思い切り、俺の後をついて行こうと背伸びしたんだろう。

 この三十年間、家庭を持つわけでもなく、恋人をつくるわけでもなく、ただひたすら俺と約束した空疎な大義のために自分を押し殺して来た。だが、もうこれ以上耐えられなくなったのに違いない。

 かく言う俺は組織とトラブルを起こし、追われる身になった。ヒラムが殺られ、俺の中で世界同時革命というスローガンがぶっ壊れてしまった。糸の切れた凧のように風の為すがままになった。そんな情けない姿を自分が曝(さら)しているのに、北村がそうなるのは許さなかった。なんと卑怯なことをしてしまったのか。  自己批判すべきは自分だったのだ。あの時、あいつの立場で物事を考える余裕さえあれば、こんなことにはならなかったのではなかろうか。

 悔やんでも悔やみきれない気持ちに何度押し潰されそうになったことか。

 三十年もわからなかった一人息子の居場所がやっとわかった時には、あのお父さんとお母さんに残されたものと言えば、息子の死に顔だけだった。それも拷問でパンパンに腫れ上がり、海水でふやけた醜い顔・・・・・・。

 国吉は改めて自分のしでかした罪の深さを呪った。

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