第5話
第四章
1
日本人会を訪ねた一週間後の夜、シュンタローはアパートでその日買い求めたロック音楽のCDを聴いていた。誰かがドアをノックする音が聞こえた。リサだろうか。シュンタローは音楽を止め、ドアの覗き窓から外を窺った。
そこには黒の皮ジャンパーにジーンズ姿の男が立っていた。鼻の下に髭を蓄え、眼は細くて鋭い。長髪を束ねている。何処かで見たような顔だが、果たして誰だろう。
" May I ask who you are ?" (どちら様ですか)
シュンタローはドアフォンに向かい、英語で尋ねた。
「国吉だ。開けてくれ」
太い日本語の声だった。シュンタローは耳を疑いながら、もう一度覗き窓からその顔をじっくりと見つめた。少々暗いが、そう言えば国吉の顔だ。あれから二十九年経ち、当然老けてはいるが、顔の特徴はそのままだ。シュンタローはチェーンをはずし、ドアを開けた。直に見つめると、確かに国吉だった。
「国吉! お前、やっぱりニューヨークに居たんだな」
シュンタローは国吉を冷ややかな表情で見つめていた。
「小暮、頼みがある」
国吉はいきなり切り出した。
「頼み? よく俺に頼み事なんか出来るものだな。武士の情けだ。中に入れてやろうか?」
「時間がないんだ。ここで用件だけを話す」
国吉は廊下の辺りを見回しながら、声を落として話し始めた。何かを警戒している様子だった。
「実は、WTCのY銀行に俺の娘が勤めている。名前はアキコ。ノグチ・アキコだ。三日後の十一日に娘がオフィスに出勤しないようにしてくれ。十一日だ。何故そんな突拍子もないことをいきなり頼むんだと訊かないでくれ。今言えない事情があって、俺が関わることは出来ないんだ。だから、こうしてお前に頼んでいる。どんな方法でもいいから、とにかく娘を出勤させないで欲しい。一生に一度のお願いだ。お前しか頼る人間がいない。いいか、十一日だぞ」
「おい、待てよ。一体どういうことなんだ」
「小暮、頼んだぞ!」
そう一方的に言うと、国吉は娘の写真をシュンタローに手渡し足早に去って行った。
シュンタローは訳がわからず、呆然とドアのところに立ちつくしていたが、思い直したようにアパートの前まで走った。黒いセダンが通りを走り抜けて行った。国吉の姿は既になかった。若いガードマンがシュンタローを見つめていた。
「君、今の男をアパート内に入れたね。まずわたしの部屋にコールを入れて本当のことを言っているか確かめないと、君がここにいる意味がない」
「だってあの人は、ミスター・コグレの親友だって言いましたよ」
ケロリとした顔だった。
「あいつが拳銃強盗だったらどうする? 居住者の安全を守るのが君らプロのガードマンの仕事だ。以後気をつけろ」
ガードマンはふてくされたような態度で頷いた。
国吉は、何故俺がここに住んでいることがわかったのだろうか。それに、あいつに娘がいたなんて聞いた事も無い。シュンタローは手渡された写真を見た。年の頃なら三十前後だろうか。ID写真のコピーと思われるその写真で、娘はやや緊張した面持ちで正面を向いている。眼や口元は国吉に似ているような気がする。裏には「野口明子、Y銀行ニューヨーク支店預金課テラー主任」とワープロ文字で打った紙が貼り付けてあった。テラー(Teller)は窓口係である。
シュンタローはもう一度アキコの写真を見た。年齢からすれば、一九七二年国吉が大学から姿を消し、海外に出掛けた頃生まれた子供だろう。あいつはあの頃、学生運動の同じセクトの女と同棲していた。その女がアキコの母親なのだろうか。でも姓は野口で、久子と同じだ。アキコは久子の娘なのか。それに何故娘を十一日にWTCのオフィスに出勤させないでくれなどと変なことを言うのか。十一日って一体どんな日なんだろう。それに理由を言えない事情って何だろう。
二十九年ぶりに突然現れて、不可解なリクエストを残して去って行った国吉の様子に、シュンタローは狐につままれたようにポカンとしていた。
2
翌日になっても、国吉の不可解な言動が頭を離れなかった。あの時強引に理由を問い質すべきだった。シュンタローは後悔していた。久子のことで険悪なまま別れた俺に頼み事をして来るところを見ると、国吉はよほど切羽詰まった状況に置かれているのだろう。そうでなければ、あのプライドの高い男が俺に頭を下げてものを頼むなんて考えられない。いずれにしても、あと二日しかない。どうすればいいんだろう。どう考えても俺ひとりでそんなことはできそうにない。全く知らない娘に「出勤するな」と正面切ってはとても言えたものじゃない。
シュンタローの頭に浮かんだ協力者は、同じWTCに勤めるリサしかいなかった。気まずい状態になっているが、頼めば何とか力になってくれるだろう。一人よりも二人の方がどちらにしてもいい。よし、連絡をとってみよう。
シュンタローはまず詫びを入れた。そして、アキコの件について話すため、アパートに呼び出した。リサは直ぐにやって来た。
「その女性は確かにクニヨシ・ヒデオという人の娘なの?」
リサが訊いた。
「国吉はそう言っている」
「その娘を十一日にWTCのオフィスに出勤させないようにしてくれと言ったのね」
「そうだ。国吉は理由を一切言わなかった。だから、何のことだかさっぱりわからない。理由も言わずに頼み事をされても、俺にはそれに応じる義理はない。しかも、頼み事の内容が変だ。でも、あいつの眼は娘を一心に思う父親の眼をしていた。あいつがあんな眼をするのを初めて見た。だから、言う通りにしてやりたい。リサ、何か名案はないかね?」
「わたしに任せて。何とかするわ。お互いに知らないけど、その娘さんとは同じWTCで働いているんだから」
「ちょっと聞かせてくれないか、どうやろうとしているのかを」
「それは事が終わってから話すわ。今は駄目。任せてくれるわね?」
「ああ、女同士の方がうまく行きそうだから任せるよ。但し、事後報告は必ず頼むよ」
「OK」
リサはそう言うとアキコの写真を受け取り、直ぐにアパートから出て行った。
3
翌日ジェニーという友達がニューヨークにやって来た。シュンタローはリサに指定された地中海料理のレストランに出掛けた。夜の帳が降りたマンハッタンの舗道には、夜を楽しもうとする人々が繰り出し、活気を呈していた。
レストランの入っているビルは直ぐに見つかった。エレベータで三十九階に昇り、店に入ると、リサとジェニーは窓際の席に座っていた。巨大な摩天楼のビル群から洩れる光が二人の背景に輝いていた。二人は深刻な話でもしているのか、表情が硬かった。シュンタローに気付くと、二人の表情は一変した。
「よく来てくれたわね。噂のジェニーよ」
シュンタローは差し出されたジェニーの手を握った。ジェニーは金髪を頭の後ろで束ね、目鼻立ちも典型的な白人で、体はリサより一回り大きかった。
「はじめまして。ジェニー・ホールデンです」
シュンタローは二人の向かいに座った。
「フロリダはお楽しみだったそうで」
「ええ、とてもいいところよ。シュンタローは行ったことがある?」
ジェニーが尋ねた。
「いや、まだこちらに来たばかりなので。よく旅行されるんですか」
「ええ、暇があればいつも」
「ニューヨークは初めてだとか。どうですか、印象は」
「わたし都会は好きよ。物が直ぐに揃うし、何と言ってもニューヨークはどの分野でも最先端を行く都会でしょ。すごく気に入りそうだわ」
ウェイターが注文を取りに来た。三人はテーブルワインと地中海の特別料理を頼んだ。すぐにワインが運ばれて来た。
「夜景がとても綺麗ね」
ジェニーがワイングラスを手に持ちながら窓を振り返り、うっとりとしたような声を上げた。
「初めてだから印象的なのね。わたしはもう慣れちゃって」
リサが夜景を見ながら言った。
「お住まいはどちらですか?」
シュンタローが尋ねた。
「フロリダ半島のオーランドです」
「きっと年中暖かなんでしょうね」
「そう。ニューヨークは冬とても寒いと聞いているから、住むとなればちょっと覚悟が要りそうね」
ジェニーが微笑んだ。
シュンタローは黙って二人の会話を聞いているリサの方に眼をやった。リサの表情は、ジェニーと二人きりで話し込んでいた時のように硬かった。
何か心配事があるようだ。一体どうしたんだろう。
シュンタローはワインを飲みながら思案した。
4
九月十日の深夜。シュンタローはアパートのベッドでロックを聴きながら、ウィスキーを飲んでいた。翌日は塾が休みだったので、非番のリサと会う約束をしていた。何処に出掛けようかと心が騒いでいた。年甲斐もないなと苦笑しながら、シュンタローはサイド・テーブルで二杯目の水割りを作っていた。電話が鳴った。リサだった。
「シュンタロー、同僚から電話があって悪性の風邪で高熱が出たから、明日の勤務を代わってくれって言うのよ。悪いけど、明日会うのは無理だわ。ごめん」
「そうか、それは仕方がない。またの日にしよう。ところで、例の件はうまく行きそうかい?」
シュンタローは気がかりになっていることを訊いた。
「アキコさんの件は大丈夫。明日は出勤しないわ」
「そうか。安心した。いや、どんな意味があるのかさっぱりわからないから、ヤキモキしていたんだ。有難う」
「今何してるの」
「君のことを思いながら、琥珀の酒に親しんでいるところさ」
「相変わらずキザね。じゃあ、おやすみ」
電話がぷつんと切れた。
翌朝目覚めると、カーテンの隙間から陽光が洩れていた。シュンタローは思わず眼を閉じた。
遠くから微かに聞こえて来るものがあった。耳を澄ますと、それはサイレンの音だった。その音は次第に大きくなり、やがて轟音になった。緊急車両が続々と大通りを駆け抜けて行く。一体何だろう。これはただ事じゃない。腕時計は十時を少し回っていた。リモコンでテレビをつけた。映し出されている画像は初め悪夢でも見ているような感じだった。眼を擦ってみた。間違いなく目覚めている。だったらドラマなのか。きっと醜悪なドラマに違いない。映像の中でWTCのツイン・タワーに飛行機が突っ込み、噴出す炎と黒煙を上げながらツイン・タワーが崩れ落ちていた。
ふと、昨夜の電話を思い出した。リサは同僚の代わりに出勤すると言っていた。WTCのあのレストランに。
シュンタローは凍りついた。
リサ! まさか・・・・・・巻き込まれた?
飛び起きてリサの携帯電話に掛けてみたが、通じない。後は何をしていいのか皆目わからない。ただオロオロするだけだった。テレビは緊急特別番組を組み、何度も繰り返してWTC崩落のシーンを伝えていた。
シュンタローは素早く服に着替え、大通りでタクシーを拾った。
「WTCだ。急いでくれ!」
シュンタローは座席からドライバー席の背もたれを強く揺すった。
「旦那、知らないんですかい? 飛行機がタワーに突っ込んで、タワーは跡形もなく潰れちまったんですよ。とても近付ける状態じゃないよ」
黒人の運転手が呆れたような表情で振り返った。
「いいから、いける所まで行ってくれ。早く!」
タクシーはスピードを上げてセカンド・アベニューを南に向ったが、すぐに大渋滞に巻き込まれた。WTCに通じる道路は緊急車両を除いて封鎖され、一般の車が全線で数珠つなぎとなり、ストップしていた。優先路線を緊急車両がサイレンを鳴らしながら次々に走って行った。
「優先レーンを走れ!」
「冗談じゃない! そんなことをしたらライセンスを取り上げられちまう。降りてくれ!」
シュンタローはタクシーを降り、舗道を走り始めた。しかし、現場が見えるところまでは余りに遠かった。そのうちに息が切れ、鉄柵にもたれ掛ったまま、舗道に跪いてしまった。
リサ、今度は、助けてやることは出来なかったのか!
シュンタローはハンドバッグ強盗からリサを救った時のことを思い出していた。そのまま荒い息を吐きながら、舗道にへたり込んだ。
しばらくしてようやく落ち着いた頃、シュンタローの脳裏に国吉の不可解なリクエストが蘇った。
「十一日、娘がWTCに出勤しないようにしてくれ」
国吉はWTCが破壊されることを知っていたんだ!
しかし、何故そんなことを知っているのか。ひょっとしたら、あいつはこの大事件に関与しているのだろうか。とすれば、リサはあいつに殺されたことになる。そんなことがあっていいのか! 国吉の鋭い眼が脳裏に浮かんだ。
緊急車両が次々に滑るように現場に急行して行った。
5
神戸の山手にある大邸宅の居間で、女が受話器を持ち、イライラしながら相手が出るのを待っていた。
「俺だ。何か用か?」
男が出た。
「明子のオフィスがあるWTCが破壊されたの、勿論知っているわね。明子と全く連絡が取れないのよ! アパートに何度も連絡しているけど、一向に出ないし。何か情報入ってない?」
「お前、銀行にも問い合わせたのか?」
「勿論。ニューヨーク支店は吹っ飛んだから、日本の本社にかけてみたけど、お話中ばかりで全然つながらないのよ。安否確認の電話が殺到しているみたいだわ」
「大丈夫だろう」
男が言った。
「どうしてそんなことわかるのよ! 死者が何千人も出ているのよ」
「落ち着け。俺が調べてみるから安心しろ」
「出来るだけ早く知らせてね。お願いよ!」
女が興奮して電話を切った。
6
リサの死が確実なものに思われた時から、シュンタローは抜け殻のようになった。塾を休み、しばらくアパートで呆然として暮らした。虚脱感が体中を覆っていた。リサはいつか帰って来るのではないか。いや、きっと戻って来る。何度そんな思いを抱いたことか。しかし時は流れ、シュンタローはリサの死という現実を受け容れるしかなかった。いつまでもこんな状態では生活が成り立っていかない。休暇をとっていた塾にも重い足を運び始めた。そんなシュンタローを慰めようとしたのは、ジェニーだった。彼女はニューヨークに移り住んで、シュンタローと付き合い始めていた。
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