5

 君にとって、生きていくってどういう事だい? 僕には途方もない苦労に思える。目を縫われて、耳を塞がれて、両手両足を潰されて、茨の中を這って行くようなとてつもない苦痛に思える。棘に全身をズタズタにされて、もう嫌だと泣きじゃくって、それでも、生きていかなければいけないと、僕にとって生きる事はそんなものに思えるよ。




 君はとても可愛い子だった。もちろん、僕の記憶の中にある君は中学生と高校生の姿しかなかったけれど、でも、きっと子供の頃の君はこんな感じだと思ったし、きっとそうだったはずだって疑いさえもしなかった。僕は愛情をもって君に接したよ。抱き締めたし、頬擦りもした。夜は一緒に眠ったし、朝は一緒にご飯を食べた。歯磨きもしてあげたし、お風呂にだって入れてあげたし、オムツを変えるのもトイレの手伝いも僕一人で全部やった。お弁当を作って、布団を敷いて、誕生日をお祝いして、生まれてくれてありがとうって何度も何度も口にして、それから、それから、それから、それから。僕は幸せだった。あまりに幸せでいっぱいだった。本当に、君に逢えて、よかったって心の底の底の底の底から思っているよ。


 でも、君と一度だけ、大げんかをした事があったね。僕は君を外にも出さず誰にも合わせずに育てたけれど、僕がちょっと用事で外に出て行った隙に、君が僕の書斎の中に入り込んでしまったんだ。僕は君を怒った事なんか一度としてなかったけれど、書斎に入っちゃいけないって、それだけはきちんときつく言って聞かせておくべきだった。


「……ちゃん、どうしたの、そんな怖い顔で僕を睨んで。僕がいったいどんな悪い事を君にしたって言うのかな?」


 帰ってきた僕はその時はまだ君が何をしていたのか知らなくて、しばらくしてから君が後ろ手に何を持っているかに気が付いた。僕はそれを奪い取ろうとして、でも君はそれをさせてくれなくて、いつか見た事のあるような怯えた顔で僕を睨んだ。


「父さん、俺は、いったい何? 俺は人間じゃなかったの?」


「……ちゃん、落ち着いて。落ち着いて僕の話を聞いて」


「これ、俺の手術記録だろう。俺の体が弱いからって、生まれた時から何度も何度もやってきた。でも、全部、嘘だった。俺は人間なんかじゃなかったんだ!」


 君はそう言って手術記録を叩きつけて、机にあった鋏を掴んで喉に突き立てようとした。僕は君の腕を掴んで、君に刺さってしまわないように鋏を僕の腕に突き刺した。君は目を丸くして、けれどすぐに僕の腕から鋏を引き抜こうとした。鋏が動いて僕の腕はグズグズになっていったけど、でも僕は、決して鋏を君に渡しはしなかった。


「返せ、返せ!」


「馬鹿な事を考えるな! 君が死んだら、僕がどんなに悲しむのかそんな事も分からないのか!」


「俺にこんな事をしておいて、今更何を言っているんだお前はっ!」


 僕の説得を聞いても、君は鋏を奪い取ろうと躍起になっていたものだから、僕は鋏を引き抜いて遠くの方に放り投げて、僕よりずっと小柄な君を床の上に押し倒した。君は怯えた目で僕を見つめ、僕は言葉を探すのに必死だった。腕から肉が垂れてボタリと君の上に落ちたけど、そんな事全然気にならない程、僕は君を引き留める事で頭がいっぱいになっていた。


「ねえ、……ちゃん、いったい僕が何をした? 僕は悪い事をした? ただ、君の遺伝子を豚に入れて、豚の臓器を取り出して、それらを組み立てて君を作ったただそれだけの事じゃないか。もしかしたら器物損壊罪ぐらいにはなるのかもしれないけれど、別に人を殺したわけじゃなし、ねえ、僕は、いったいどんな悪い事を君にしたって言うのかな?」


 君は、何も言わなかった。心配になるぐらい真っ青な顔で、僕の事を見つめていた。僕は言葉を並べ立てた。だって君が必要だった。僕はただそれだけで必死に言葉を並べ立てたよ。


「そもそも人間って、いったい何を指すものなんだい? 六十億の細胞から出来ていて、胃や肺や腸や脳や色んな臓器を持っていて、手足があって、二本足で歩いたりして、言葉を使って人と話して、それから、ねえ、人間ってなんだい? いったい何をどうしたら、『人間』の説明が出来るんだい?」


「ねえ、説明出来ないだろう。そうだよ、人間なんて、本当はそれぐらい不確定で不安定ででぐちゃぐちゃしたものなんだ。人間が何かも分かっていないのに人間という言葉を並べ立てて、『人間ってこういうものだ』って誤魔化しているに過ぎないんだ。言葉という箱に詰め込んで綺麗に見せかけているだけなんだ。少なくとも僕には分からない。人間ってヤツがなんなのか、僕にはその説明が全くもって出来はしない」


「だから、ねえ、拘るなよ。そんな意味も分からない有機物の塊なんか。君はここにいて、立って歩けて、話が出来て、生きている、まるで人間みたいに。だったらそれでいいじゃないか。いったい、なんで、それ以上、気にする事があるっていうんだ」


「もしどうしても人間か豚かが気になるって言うのなら、僕も同じになってやる。僕の体に豚の臓器を組み込んで君と同じになってやる。それでも不十分だと言うのなら世界中の人間に豚の臓器を入れてやる。そうだ、そうしよう、それがいい。みんな同じにしてしまおう。そうすれば君が悩む事なんて何もなくなるはずだもの」


「そうだよ、君がなんだって関係ない。豚か人間か何かなんてそんな事は関係ない。人間だから価値があるんじゃない、君である事に価値があるんだ。自分が何者かだなんて、そんなどうでもいい事なんて考えなくていいんだよ。だって君は君だもの。僕が大好きな君だもの」


「大好きだよ、君だけが、君だけが唯一大事なんだ。君以外何もいらないぐらい、君が、君が、君だけが、君だけしか、君以外には、僕には、何も」


 そう言って、僕は君を抱き締めた。きつく、一生懸命、離すまいと。決して、何処にも、行かせたりなんかしないって。君は冷たく震えていた。その氷みたいな冷たさが、何故だか悲しかったけれど、でも、君がいてくれるから、それでいいと思っていたんだ。


 僕らはそれからもしあわせの中で暮らしていた。外に出る事はない、他の誰かと関わりも持たない。何処かで誰かが死んだってそんな事は関係ない。誰かが人を殺したってそんな事は関係ない。貧困や餓死や疫病や戦争で多くの人が死んだって、そんな事は関係ない、誰もが当たり前に甘受している平凡で平穏で平坦な平和。そんなありきたりで普通で日常茶飯事な幸福が、ずっと続いていくものだと僕は固く信じていた。


 君と暮らし始めて十数年が経った頃、君は随分病気をするようになっていた。目が急に見えなくなったり、耳が急に聞こえなくなったり、食べた物を全部吐いたり、手足が腐って落ちちゃったり。人間よりずっと早く死んでしまう豚の臓器だったから、不具合が出てきてしまったのだと後になって気付いたけれど、でも、その都度交換すればいいんだからって、移植すればいいんだからって、別に気にも留めなかった。君は走っていたし、しゃべっていたし、笑っていたし、ちょっとぎこちなくても、でも、君は、君だから、僕にはそれで十分だった。


 そんなある日の事だった。いつものように夕食を食べて、いつものようにお風呂に入って、いつものように寝ようとしたら、君はいきなり音を立てて後ろにひっくり返ってしまった。頭を打った音がして、僕は慌てて倒れた君に駆け寄った。君の目は裏返っていた。開いた口からはよだれが垂れて、全身はガクガク震えていた。息は止まる寸前だった。僕は大声で君の名を呼んだ。君は返事をしなかった。僕は君を抱えて手術室に入り、急いで様々な検査をした。君の脳はボロボロだった。先に不都合が出ていた他の臓器達と同じように、豚から出来た君の脳も、長年の酷使に耐え兼ねて少しずつ崩壊し始めていた。


 僕は原因が分かった時、ああ、なんだって思ったよ。確かにびっくりしたけれど、今までと同じように交換すれば大丈夫。またすぐに元通りになって、走って、しゃべって、笑ってくれる。僕はまだ君と、そんな幸せな日々を続けていられる。


 そう思って、僕は君の新しい脳を用意して、ボロボロになってしまった古い脳と交換したんだ。まだ君と、幸せな日々を、続けられるものだと信じていた。

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