action1-18


 二〇五〇年、八月十日。時刻は正午。

 事態が急変したのは、紡が東部の見回りをしている時だった。ふと、鼻腔を何かの匂いが掠めた。匂いは生臭く、それでいて鉄臭い。路地の奥から漂ってくるようだ。


 「これは、血の匂い?」


 クローンは身体能力の他に、人間よりも五感が鋭く出来ている。その鋭さは野生の動物に近い。何故、五感が鋭いのかはよく分かっていないのだ。元の人間を複製する際に生じたDNA間でのエラーなのか、はたまたクローンになったことで目覚めたものなのか。


 紡はまだ見えない路地の奥を見据えるかのように目を細めた。嫌な感じがする。警戒をしながら、路地へと足を伸ばした。

 耳が痛くなる程の静寂。いつもなら遠くに聞こえる喧騒が、今日に限って聞こえてこない。


 一歩ずつ奥に進むにつれ、血の匂いはより濃くなってくる。袖口で鼻を覆いながら、紡は進んだ。濃度の高い匂いに咳き込みそうになる。もしかしたら、一人だけではないのかもしれない。さらに濃くなった匂いを前に、頭の中で警鐘が鳴り響く。


 (ここまで濃い匂いは嗅いだことがない。今の状態は非常に危険だ)


 満足に新鮮な酸素を吸えない。鼻がいいと言うのは時には便利でもあるが、不便にも感じる。特に初めて濃い匂いの中に入った紡は改めてそう感じた。


 少しでも気を抜けば正常を保っている頭の中を一気に匂いで埋め尽くされてしまいそうな恐怖感。匂いの濃度が最高潮に達した。もう少しで匂いの発生現場に辿り着く。


 息を殺し、ホルダーからリボルバーを取り出して構えた。一歩、また一歩と確実に現場へ近づいていく。そっと壁からギリギリ相手に見えるか見えないかのラインで顔覗かせ、辺りの様子を窺った。


 全神経を目と耳に注ぐ。人の気配は感じられないが、まだどこかに潜んでいる可能性は大きい。警戒を緩めることなく、足を踏み出した。忙しなく視線を動かす。


 さほど大きく開けた空間ではないが、どこか空気がひんやりとしている。周囲に気をつけつつ歩いていると、つま先に何かが当たった。足元へ視線を移して、目の当たりにした光景に絶句する。


 仕事でこういうものを見慣れているとはいえ、顔を顰めずにはいられない。きっと紡より仕事のベテランでも、これを見れば紡と同じ反応をしたことだろう。


 地面に広がるのは人一人分とは考えにくい夥しい量の血。赤い海が広がっていた。海の中心に倒れているのは、クローンリストには載っていないことから人間である可能性が高い。


 風に乗り血の匂いに混じって、腐った匂いがする。辺りに倒れているのは四人の人間。遺体の損傷が激しく、だいぶ腐食が進んでいる。死後五日はたっているだろう。こんな状態のまま、今まで通報がなかったことは不思議だ。


 この街には路地が多い。密集する建物の間には路地が出来る。誰も通らない、なんてことはない。巡視ロボットが二十四時間体制で作動している。何かしら記録は残るようになっているのだ。それに記録の一部は本部にも提供される。ネルヴォイでここ一週間の東部の巡視記録を呼び出して確認してみたが、全てが異常なしで括られていた。


 「ハッキング及びデーターの改ざん」


 目前の表示を見ながら、こめかみを押さえる。今の今まで散々解決にこぎつけることが出来なかった暴走事件が、ついに殺人事件へと悪化してしまった上に、情報保護セキュリティシステムが世界一の街の巡視記録をハッキングされた挙句に、データーを改ざんされたのだ。


 これでこめかみを押さえずにいられるものか。本部に緊急連絡をしようとラインを繋いでみたが、どうにもノイズがひどい。


 現場をなるべく離れたくはないのだが、ノイズがひどければこちらの内容は向こうに伝わらない。仕方なく、紡はノイズが少ない大通りへ向かうことにした。


 道を引き返す紡の背後で、何かの影が揺れたことに気づくことはなかった。




 それは突然だった。路地から大通りへ向かう道を急いで歩いていた紡の背中を、物凄い衝撃が襲ったのだ。


 「うぐっ」


 咄嗟のことで受け身をとる時間さえ取れず、諸に衝撃を食らう。体が大きな音を立てて地面に叩きつけられたのを感じた。

 痛みで霞む意識の中、耳元で聞こえたのは獣のような咆哮。


 背中越しから感じる確かな殺気に、体をうつ伏せのまま反射的に横に転がす。そこに、間一髪で相手の拳が振り下ろされた。


 アスファルトの地面にヒビが入り、衝撃でめくり上がる。すれすれのところで攻撃を交わし痛む背中の傷に顔を顰めながら、紡は立ち上がった。


 そして目の前にいる相手を見て、息を呑むどころか呼吸さえ忘れる衝撃を受ける。

 相手はまだ若い少女だった。綺麗だったであろう茶髪を振り乱し、瞳は赤く染まっている。口は塞がらずに絶えず涎が滴り落ちている。その姿はまさにーー末期段階の暴走者だった。


 (やっぱり、事件は終わってなんかいなかった)


 動かす度に痛む背中の傷に舌打ちをする。本部と連絡を取りたくてもネルヴォイはさっきの衝撃で左眼から外れて、どこかに落ちてしまった。

 つまりは救援すら呼べない状態なわけで。


 「やばいかも……」


 紡の首筋を冷や汗が流れ落ちる。腰につけたホルダーにはリボルバーがあるが、痛む背中では構えることは出来ても、発砲による反動に耐えられるかどうかすら怪しい。


 そもそも背中の傷の程度がどのくらいかも分からない状態で、下手に攻撃は仕掛けられない。


 (どうする。どうやって、この窮地を脱すればっ)


 そんな紡の心境など暴走者が知る由もなく。咆哮を上げながら、なおも襲いかかってきた。次々と繰り出される攻撃を交わしながら、なんとか反撃のチャンスを窺う。


 と、少女の手が紡の首筋を掴んだ。喉元を圧迫感と息苦しさが支配する。


 瞬時に、殺されると思った。首筋を掴んでいる手を外そうと試みたが、上手く外せない。足掻こうと体を動かせば、痛みで顔が歪んだ。


 次第に視界が霞み、意識が朦朧としてくる。充分な酸素が取り込めないせいか、唇が紫色に変わっていく。


 目前に忍び寄る死の気配に諦めかけた時、首筋を締めていた圧迫感がなくなった。体は重力に逆らわずに落下する。落下の衝撃で意識が一時期的に覚醒する。


 状況把握のために顔を上げた紡の瞳に映ったのは、黒いパピヨンの制服に身を包んだ誰かの後ろ姿であった。


 庇うように立っているその後ろ姿を見て、ひどく安心して涙ぐむ。ああ、来てくれたんだ。その後ろ姿を最後に、紡の意識は途絶えた。


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