action1-9


 翌日、定期巡回をしていた紡は、路地で一人の男性が地面でのたうち回っているのを発見した。速やかに本部に救援要請をし、男性の上に跨り暴れ続ける体を押さえつける。


 耳を塞ぎたくなる断末魔のような絶叫を上げ、めちゃくちゃに手足を動かす。眼の焦点は合っておらず、気が狂ってしまっているのは明白だった。


 「いったぁ」


 男性に腕を噛みつかれる。歯が深く皮膚に食い込み、血が滲み出した。痛みから押さえつけていた全身の力が緩む。とても細身であるとは考えられない力だ。


 それが油断となったのか、ほんの少しの力の緩みにつけ込まれて、体を物凄い力で壁に突き飛ばされる。


 「……かはっ」


 背中を強く打ちつけて、呼吸が止まり意識が一瞬だけ飛ぶ。しかし、すぐに回復して体を起こした。そして地面でまだのたうち回っている男に跨り、拘束を試みる。


 「あ"あ"あ"あ"あ"あ"っ!!」


 最早、“あ”に濁点がついた叫び声は叫び声というよりも断末魔に近い。目を血走らせ、口から泡状になった唾液を垂らしながら男は体を仰け反らせる。


 喉元を掻き毟り、手足をめちゃくちゃに動かし、海から陸に打ち上げられた魚のように体を痙攣させている姿は、思わず目を背けたくなる。恐らく一種の中毒症状を起こしているのだろう。


 麻薬と同じだ。手足をめちゃくちゃに動かしてはいるが、時々怯えた表情をして何かを払いのけるような動作をしている。幻覚でも見ているのだろうか。そんなことを考えていると、抵抗する男の力がより強くなった。


 元々男と女では力の差がありすぎる。自我や理性を失って持てる力を解放した男に、いくら戦闘訓練を受けているとはいえ、女であることに変わりない紡では敵わない。


 再び跳ね除けられそうになった時、要請を受けた本部から救援が駆けつけた。


 男五人掛かりで薬で気を失わせて、何とか押さえつけることが出来た。幸いとも言えるべきか、男性は自失状態ではあったものの完全な暴走状態ではなかったようだ。


 医療班に噛みつかれた腕を手当てされながら、紡は辺りを見渡した。壁には爪で抉られたような跡。アスファルトの地面には恐らく男性のものであろう血液が付着している。


 余程強い力でぶつかったのか、壁にところどころヒビが入っているようだ。先程の細身の男性がしたとは思えない惨状に、ただ言葉を失う。あの体のどこにそんな力が?


 「弓槻さん、男の手にこんなものが」


 処理班の女性一人が何かを持ってきた。薬物のシートのようだ。そのシートにどこか見覚えがある。よく見ると、それは昨日貰ったNADRの試薬だった。まさか、これを飲んで狂ったというのだろうか。


 「念の為、開発班に回しますか?」

 「そうしてください。もしかしたら、何か分かるかもしれません」

 「分かりました」


 (昨日の今日で……単なる偶然?)


 副作用を起こさない薬物として作られたNADR。おかしい。ラボで作られた製品は、安全性が保証されている。新薬も当然保証されている。危険なものではないはずだ。


 それなら何故、試薬を飲んだ男性が狂うような事態になったのか。単独では効果は対して期待出来ないはずだ。成分に問題があるのか。


 (単独で服用しないといけない作用がある?)


 もしもそうなら、新薬と暴走事件に何か関係性があるかもしれない。


 「弓槻さん、あまり無理はしないでくださいよ? この間もクローンに左肩噛まれた挙句に抉られたばかりなんですから」


 医療班の男性が淡々と慣れた手つきで傷口を消毒しながら、お小言を言ってくる。諦め半分、心配半分といったところだろう。


 「すみません。なるべく、怪我には気をつけてはいるんですが」

 「気をつけて怪我が減るんなら、僕ら医療班は要らないですよっ……と。はい、これで大丈夫です」


 止血をした後、傷口を念入りに消毒し、清潔なガーゼを当てて包帯を巻いてくれた。


 「ありがとうございます」


 暴走者と対峙してしまえば、怪我なしではいられないのが事実だ。これからも医療班にはお世話になりっぱなしになることだろう。そして、右腕に仰々しく巻かれた包帯を見ながら、この事件が終わる頃には自分はミイラみたいになっていそうだと思った。


 手当てを受けた後、紡は現場を医療班と処理班に任せて、男性が連れて行かれたというラボに向かうことにした。




 「完璧な暴走者じゃないクローンを収容したのは、今回が初めてですよ」


 ラボのクローン収容管理担当である白衣を纏った女性の後を、黙って紡はついていく。元は淡い銀に輝いていた廊下も壁も、今では長年の汚れを蓄積して燻んだ鈍色になっている。


 「でもこれで、少しは進展するんじゃないですか?」


 前を行く女性は笑顔で振り返ってきた。事件解決の糸口らしきものをやっと掴んだのだから、嬉しくなるのは当然だろう。一方紡は、男性と上手く意思疎通が図れるかどうかが気がかりであるため、女性の問いかけに対して曖昧な言葉で返していく。


 普通は、紡のぞんざいな受け答えに腹を立てるところではあるが、今回は糸口らしきものを掴めたかもしれないということもあり、女性は気にしない。


 「さぁ、ここですよ。先程収容された暴走未遂のクローン男性は」


 長い廊下をだいぶ奥へ歩いたところで、女性は一つの強固な鉄扉の前で足を止めた。

 紡が扉にある覗き窓の前に立つと、女性は後方に下がった。聴取ならびに面会がこれ以上無理だと判断した場合、側で迅速に対処するためである。


 「こんにちは」


 覗き窓から中を見ながら、紡は畳四畳程の部屋の真ん中で、ひどく姿勢を崩して座っている男性に声をかけた。ぴくりと男性の肩が反応する。


 「いひひっ」


 男性は顔を上げると、いやらしい笑みを浮かべた。瞳は紡をしっかりと捉えている。しかし、今までの暴走者とは違い自失状態であった男性は襲いかかろうともせず、値踏みするように紡を見つめていた。


 「貴方は、どうしてあの薬を飲んだの?」

 「ひひっ」


 問い掛けるも返ってくるのは引き攣ったような笑い声だけ。やはり自失状態になったとはいえ、一時的には暴走未遂状態だったのだ。意思疎通は図れないか。


 諦めて帰ろうと踵を返した時、男性が不意に言葉を発した。


 「……薬を手にした瞬間、誰かが頭の中で飲めって言ってきたんだ」

 「え?」


 慌てて覗き窓を覗き込んだが時既に遅く、男性は言葉は発さずにいやらしく笑うだけだった。


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