action1-8
七月。初夏は終わりを告げ、本格的な夏がやってきた。六月の中旬から梅雨に入り、連日天気は雨ばかりだ。
多くの者達が梅雨を嫌うが、紡は嫌いではない。降り続く雨は全てを洗い流してくれているような気がする。
この街の汚れが、雨と一緒に流れていく。だから雨上がりの街は好きだ。雨粒を纏った街路樹や建物が雲の合間から顔を出した光に反射して輝く様子は、少しだけ汚れが流され綺麗になった街を紡に見せてくれる。
しかし今は梅雨で、しばらくはその光景も見れそうにない。自室の窓からしとしとと降り続く雨を眺めた。
街の東部にはドーム状の建築物がある。元々は研究所だったらしい。周りを大小様々な建築物が囲み、その間を縫うように道がはしっている。
建物は扇子を広げたような形をしており、屋根は緩やかなカーブを描いて、一寸のズレもなくぴったりと建物の形に収まっている。
集会ホール。今日はここで街の研究会による発表会が開かれる。年にこの時期だけ開かれる発表会は、毎年多くの科学者や研究者が訪れる一大イベントだ。
二日前、既存の情報から手掛かりらしいものを見つけられなかった紡に、咲夜がこのイベントに誘ってくれた。
気休めのつもりで誘ってくれたのだろう。丁度咲夜もこのイベントに行くようだったので、紡も休日を兼ねて来させてもらっている。
「すまないね、紡君。せっかくのオフだっていうのに、僕とこんな所まで来てもらって」
申し訳なさそうに笑う咲夜の隣で、紡は辺りを見渡した。外装はコンクリートで冷たい印象を受けたが、ホール内は落ち着いたアプリコットの壁とブロンドの床、天井から吊り下げたライトがホール全体を照らしていて、暖かい印象を受ける。
「いいえ。実は私、一度は来てみたかったんです」
「そうかい? ならよかったよ」
既に多くの人達で溢れていたホールの隅から隅まで視線を巡らせながら、入口のモニターに表示されていた本日の演目を思い浮かべた。
<本日の演目 [国家承認丸薬 NADR]について>
Non(ノン) Adverse(アドバース) Drug(ドラッグ) Reaction(リアクション)、通称NADR(ナダー)。
生体を構造する細胞には広大なネットワークがある。神経系、内分泌系、免疫系の三つだ。投与された薬物は血流だけではなく、そのネットワークを通じて、各器官へ届く。
しかしネットワークは無数に分岐しており、標的以外の器官にも薬物の作用が届くことがある。結果、望まない有害作用が起きてしまう。それが薬物有害反応(ADR)、副作用。
薬物のほとんどは肝臓で代謝ーー初回通過効果を受け、薬効を失ってしまう、つまりは解毒される。
肝臓での代謝を受けず、薬効を失わずに血流にのり、全身へと分布されるのは三分の一程度だ。
NADRは肝臓での代謝を受けながらも薬効を失わせず、全身に作用させることが出来るばかりか、神経系ネットワークにも作用し有害作用をブロックするのだという。
「ーーNADRは主作用と副作用、二つの作用を切り離すことに初めて成功した薬物なのです」
多くの科学者や研究者が熱心に研究成果に耳を傾けている。そんな中、パンフレットの内容に目を通しながら、紡は是非試薬にと渡されたシートを見た。
プラスチックで一錠ずつ包装されたのが全部で五組、合計十錠のNADRの試薬。
見た目は普通の錠剤。しかしNADR単独では効果がなく、他の薬物との服用により効果を発揮するらしい。
政府からもラボでも安全性が確立されている薬物。これを歓迎する所は多いだろう。特に薬物を多用する医療機関は。研究成果と薬効の説明の声が耳を素通りする中、紡はどうも釈然としなかった。
何故、今の時期に発表したのか。新薬ならば、勿体ぶらずにさっさと発表してしまった方がいいに決まっているのに。手の中で是非試薬にと渡されたシートが、一瞬光ったように見えた。
「なかなか興味深い研究発表だったね」
「そうですね。これから多くの業界で使われていくみたいですし」
夕焼けの朱から夜の黒に染まった街を、本部に向かって紡と咲夜は歩く。この時間になっても車通りと人通りが多かった大通りは、連日のクローン暴走事件の影響で疎らに人が居るくらいだ。
通り沿いの店も多くが早々に閉店している。いつもの喧騒はなく、とても静かだ。湿気で湿った夜風が、蝶の正装である黒の制服のスカートを撫でる。
「でも、気になるのはどうして今頃になって発表したのかってことだね」
咲夜は立ち止まってパンフレットを取り出した。数ページ捲った所を紡に見せる。紡は示された所を見てみた。
「ほら、ここにNADRは二〇四八年にはもう完成しているんだ。なのに、二年の間を空けてからの今回の発表は、些か引っかかる所だよね」
ページには「二〇四八年 NADR完成」と確かに表記されている。二年もの空白の時間があることに、咲夜も気付いていたようだ。
「改良を施していたんでしょうか?」
「改良……か。だとしても二年も必要になるのかな」
二人で道の真ん中に立って考え込んでいたが、咲夜は一つ溜息をつくとパンフレットを直した。
「ここで考えても仕方ないか。僕達に出来るのは、事態が起こった時に速やかに対処することだ。後は、何も起こらないことを祈るぐらいしか出来ないよ」
そう言って、咲夜は先に歩き出す。紡は表記されている二年もの空白が気になって仕方ない。
ふと見上げると、灯りに誘われたのか街灯の周りに虫が群がっているのが見えた。強い光は虫を呼び寄せる。その光景は政府や上層部にいいように扱われている紡達を、切実に表しているみたいで。
紡は苦虫を噛み潰したように、極めて不愉快そうに顔を顰めた。
「紡君、街灯がどうかしたのかい?」
「あ、いえ。何でもないです」
隣を歩いていた咲夜が不思議そうに、紡と街灯を見比べる。やがて何かを感じ取ったように、優しく紡の頭を撫でた。
「さあ、早く帰ろう」
前を向いた咲夜に気付かれないように、紡はそっと撫でられた頭に手をやる。
(さっきの咲夜さんの仕草。前にも、誰かが同じことをしてくれた気がする)
「置いていっちゃうよ?」
「ま、待ってください!」
慌てて後を追った。その時、ポケットから例の試薬のシートが落ちたことに紡は気付かずに行ってしまう。
地面に落ちた試薬のシートを、ふらりとやってきた男が拾い上げた。
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