第24話 番外編 —— Science Fictionを書こう1 ——
どうすればSFを書けるのだろう。そのための思索の試みです。
このエッセイは、次のスライドを元にしています。
Science Fiction を書こう
https://docs.google.com/presentation/d/1B7F7DqaVBJoP-VtwJaAsLNecG_3X4jxlgJwQofJDRqQ/edit?usp=sharing
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Science Fiction あるいはSciFi、SciPhiなどの略記あるいは名称がある。このエッセイでは、それらを書く際に考える必要があることを考えてみたい。
まず、Science Fiction として書かれるものとはどういうものが理想と言えるだろうか。これまでの議論から、Science Fiction には「疑問」あるいは「哲学的問い」が必要だという立場を取っていることは了承してもらおう。これらはテーマあるいは大テーマと考えてもらってもいい。
Science Fiction として書かれることが適切であるのは、その「哲学的問い」を Science Fiction として書くことが効果的、あるいは適切であるものだ。
そのため、「哲学的問い」が不在であるものや、あるいはテーマないし大テーマが以下のようなものは、Science Fiction として書かれる理由がない (小説家になろうのジャンルを参考にしている):
* 恋愛
* ファンタジー
* フェアリー・テイル
* 純文学
* ヒューマンドラマ
* 歴史
* 推理
* ホラー
* アクション
* コメディー
* 童話
ただし、これらではあっても、それが即 Science Fiction とはならないことを意味するわけではないことには注意が必要だ。見た目がコメディーであったとしても Science Fiction となる例はある。『銀河ヒッチハイクガイド』シリーズなどは、ナンセンスも含み、またナンセンスに絡めて大きな問いを持っている。
だが、まずはこれらが大テーマに該当するなら、それを Science Fiction として書く理由はないとしておこう。
では、Science Fiction として書かれるに値する「哲学的問い」あるいは大テーマとはどういうものだろう。「SFってなんなんだろう?」の最初にも書いたことだが、次のようなものを挙げておこう:
* 時代の科学的、技術的な知識に基づき、未来についてのエクストラポレー
ション(外挿)に挑む、そんな、進歩の概念と結びついた教育的文学
〔「SF文学」より、ヒューゴー・ガーンズバックの言〕
* 科学知識をエクストラポレートすることに留まらず、小説の筋立てにおけ
る発想においても科学的な手続きを真似たり模倣したりする〔「SF文学」
より、ジョン・W・キャンベルの言〕
* 『思索小説』という語を用いて [略] 創られた環境下における登場人物の
反応や世界認識が、発明品や人物、あるいはその両方について、なにかを
明かす〔「SF文学」より、ジュディス・メリルの言〕
* つねに根本的な違和感を、それが近未来の話であろうといつまでも余韻が
残る感動を、そして知的な、むしろ心地よいズレの感覚を供する〔「SF文
学」(ジャック・ボドゥ, 文庫クセジュ, 白水社, 2011年)〕
ここではとくに4つめの言葉を重視したいと思う。「根本的な違和感」、「知的な、むしろ心地よいズレの感覚」という言葉は「哲学的問い」とここで言っているものを端的に現わしている。私は、Science Fiction は哲学の学派の一つと考えていますが、その根拠の一つはこのような言葉によるものです。
なお、これらの言葉からは「すこしふしぎ」なども許容する解釈もできる。そういう解釈を否定はしませんが、「すこしふしぎ」的な作品をもう一度読み返してみてはどうだろうと思う。実際のところ「すこしふしぎ」ではなく、この2つの言葉に実に忠実であることがわかるかと思う。
また、ここで Science Fiction における Science (あるいは Scientific) とはどういうものかも、すこし考えてみよう。
Science Fictionにおける Science (あるいは Sceientific) とは、「現実の科学(的)」であることそのものではない。このこと自体には説明はいらないだろう。ではなんなのか? これは上の2つめの言葉が、その説明となるだろう。この言葉に従うなら、創作における考え方自体が科学的であることが求められる。
そうであるなら、「科学的な考え方」とはなにかという話になる。これに答えるのは難しい。現実においては、まずは反証可能性の有無により、対象が科学的であるかどうかを問うことができる。だが、創作であるなら反証可能性によって、あるいは反証可能性のみによって、それが科学的であるかどうかを問うのは難しい。要は「ここはこういう設定である」という箇所は、すくなくとも作品内においては反証を認めない (それに対しての反証を試みるという作品でない限りだが)。
では、創作においての「科学的な考え方」とはどういうものと考えればいいだろうか。その回答の一つは、おそらく、創作中において設定や話の運びに対して常に疑問を持つということだろう。
科学も哲学も、つきつめれば「疑問を持ち続ける」ことと言える。科学も哲学も、近くを基準としても数百年、もうすこし長く見れば数千年、さらには何万年 (あるいは百万年) に亘って疑問を持ち続けている。そのこと自体が、科学を科学足らしめ、また哲学を哲学足らしめている。
そのように、創作中において設定や話の運びに対して常に疑問を持つことが、Science Fiction であることの条件であるとも言えるだろう。これについては、「還元」として以前触れたものも含まれることに注意して欲しい。「その設定は、つまりなんなのか?」という疑問だ。
このあたりについてもすこし考えるために、物語を構成する次の要素に関して考えてみよう:
* ガジェット(小物)
* 世界観
* ギミック(仕掛け)
* 出来事
* 情緒: 青春、恋愛
* 思想、思索、思弁
では、ガジェットから始めよう。
「SFってなんなんだろう? 番外編 ——SFの読みかた——」にても触れたが、先ごろツイッターで流れた話題として、「ガジェットによってSFになる」的なものがあり、個人的にはがっかりした。ガジェットによって、その作品が Science Fiction になることはない。
なにかガジェットを思いついたら、「そのガジェットの役割」 (この「〜の役割」を、そのなんとかの「機能」と呼ぶ) を考える必要がある。そのガジェットの機能を果たせるいわゆる「普通のガジェット」 (おそらくは、より原始的なものを想定してみるのがいいだろう) が存在するなら
、そのガジェットを登場させる必要はない。
そのようなこと、つまり「還元」を、作中に登場するすべてのガジェットに対して考えてみよう。とくに、おそらくは作品のウリになるような、あるいは物語を牽引したり物語の中心に位置するようなガジェットについては、徹底的に考えてみる必要があるだろう。
ガジェットに対してのみではあっても、この「還元」を徹底した場合、いわゆるSFっぽさが消えてしまうかもしれない。そうであるなら、それはそもそも Science Fiction として書く理由がなかったのだということになる。
世界観についても同じことが言える。未来を舞台にしていても、それは実際にはローマ帝国の話に「還元」されるかもしれない (これはアジモフのファウンデーション・シリーズに対して実際に言われたことだ)。
ギミックについても同様である。なお、ここではギミックに次のものを含めて考えている:
* 仕掛け
* 効果
* およそプロット、トリック、レトリック、描写や表現
一部ギミックに含まれるだろうが、出来事 (イベント) についても同様だ。「宇宙船での殺人」という出来事を考えてみよう。これは「航海中の船での殺人」とどう違うだろうか。
情緒や情緒に訴えるものごとはどうだろう。これはギミックや出来事にも含まれるだろう。
思い出して欲しい。ここで重視しているのは「根本的な違和感」、「知的な、むしろ心地よいズレの感覚」である。いわゆる情緒や情緒に訴えるものごとは、彩りとしてはあったとしても、それ自体は Science Fiction であることを支えるもの自体にはなりにくい。
たとえば、ボーイ・ミーツ・ガールはどうだろう。どれほどガジェットなどに頼ろうとも、それはボーイ・ミーツ・ガールである。ここで、「異種族との」という条件を付ければどうかという話も出てくるだろう。だが、それはもう書かれている。よくよく考えなければ、もはやそれを Science Fiction として書く理由を見つけるのは難しいだろう。
さて、思想、思索、思弁だ。これもよく考え、また調査が必要だ。「よくある思索」は、Science Fiction として、今書かれる理由を持たない。ただし、「よくある思索」ではあっても、視点を変えることによって新しい疑問をもたらすことはある。
そして、「根本的な違和感」、「知的な、むしろ心地よいズレの感覚」をもたらすことができるのは、まさに思想、思索、思弁のみだ。
以上、次のようなことがらについて簡単に眺めて来た:
* ガジェット(小物)
* 世界観
* ギミック(仕掛け)
* 出来事
* 情緒: 青春、恋愛
* 思想、思索、思弁
いずれにせよ、持っている知識の量がものを言う。知識がなければ、「還元」ができないかもしれない。分析的に考えることができないかもしれない。既に書かれていることを知らないかもしれない。
だが、まずはこう言っておこう:
* ガジェットは作品を Science Fiction にはしない
* 世界観は作品を Science Fiction にはしない
* ギミックは作品を Science Fiction にはしない
* 出来事は作品を Science Fiction にはしない
* 情緒は作品を Science Fiction にはしない
* 思想が作品を Science Fiction にできる
これは、このようにも言えるだろう:
* ガジェットからの出発は間違っている
* 世界観からの出発は間違っている
* ギミックからの出発は間違っている
* 出来事からの出発は間違っている
* 情緒からの出発は間違っている
* 思想からの出発だけが取り得る方法である
* 思想とは疑問である
* 根本的な違和感
* 余韻が残る感動
* 知的なズレ
つまるところ、「思想や疑問こそが出発点である」と言えるだろう。ただし、出発点とは言っても、それは書き出しの部分という意味ではない。構想の出発点だ。出発点となる思想や疑問を持たないかぎり、Science Fiction を書くことはできない。安寧、安心、理解、共感からの出発は Science Fiction ではない。なぜなら、それらは「根本的な違和感」、「知的な、むしろ心地よいズレの感覚」をもたらさないからだ。
結末についても書いておこう。たとえば、推理小説において、結末は結論であるかもしれない。だが、「根本的な違和感」、「知的な、むしろ心地よいズレの感覚」を求める Science Fiction には結論は存在しない。ただ、結末があるのみだ。その結末は結論ではない。むしろ、「以上、問題提起を終了する」であるにすぎない。そして、問題が提起されたことによって、あるいは提起された問題によって、「根本的な違和感」、「知的な、むしろ心地よいズレの感覚」に、読者は向かう。
最後に、こう書いておこう。あなたには Science Fiction は書けない。
なぜそう言えるのだろう?
簡単なことだ。クラークの言う魔法の世界に、すでにあなたたちは住んでいる。あなたが「科学的」と思うことのほとんどは、実質的に魔法である。たとえば、スマートフォンがどのように動いているのかを、あなたはそれなりに的確に説明できるだろうか。おそらく、ほとんどの人ができないだろう。それはつまり、「魔法のタイル」と同じだ。そのような魔法の世界に住んでいる人々に科学的であることは理解できないだろう。ゆえに、あなたには Science Fiction は書けない。
これに反論するのは極めて簡単だ。なにごとについてであれ、勉強すればいい。たったそれだけの単純な行為によって、十二分の説得力を持って反論できる。
以下、次回に続く。
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