第25話 番外編 —— Science Fictionを書こう2 ——
どうすればSFを書けるのだろう。そのための思索の試みの2です。
このエッセイは、次のスライドを元にしています。
Science Fiction を描こう2
https://docs.google.com/presentation/d/1UPiz9vS-EUR_Dy9FfCuADCCez-bFV2V6j6FHZLPrPO8/edit?usp=sharing
Science Fiction を書こう3
https://docs.google.com/presentation/d/11Q1gHic97hunaWFqxeAUbqtfMQo2t1rjYWsB4kNErXg/edit?usp=sharing
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「SFってなんなんだろう? 番外編 —— Science Fictionを書こう1 ——」では、 Science Fiction とは「疑問」、「哲学的問い」、「思想」であると書きました。では、その「疑問」とはどういうものを指しているのでしょうか。
ここで言う「疑問」や「哲学的問い」とは、ありきたりの疑問ではありません。もっとも、これは視点にもよるのですが。ともかくは、「あたりまえ」として考えもしないもの。「あたりまえ」であり意識することもなく、思い付きもしないもの。すぐに思い付く「疑問」は、ここで言う「疑問」ではありません。そのような疑問は、むしろ「安寧」、「安心」、「理解」、「共感」を得るためのものであり、つまりは簡単に「答え」を思いつくものです。それでは、「根本的な違和感」、「余韻が残る感動」、「知的なズレ」には至りません。まぁ、この「答え」についても視点によるのですが。そのような観点から、疑問を認識し、あるいは疑問を作り出す必要があります。
さて、上の段落において、「疑問」についても「答え」についても、「視点による」と書きました。この、「視点による」とはどういうことでしょうか。これは簡単に答えることができます。「子供の『なぜ?なに?』」を思い受かべてください。あるいは思い出すとか、子供向けのTV番組を観てみるとかでもかまいません。まずは、それらが、ここで言う「疑問」であり、「哲学的問い」であり、「思想」であり、あるいはそれらに繋がるヒントとなります。
「子供の『なぜ?なに?』」が? と思われるかもしれません。ですが、科学も哲学も、それを百万年考え続けています。そして、答えはなにも、あるいはほとんどなにも出ていません。
つい最近のことについて考えてみましょう。ニュートンは運動の法則をまとめ、重力の概念を導入しました。しかし、重力とはなんなのかはわからないままでした。アインシュタインは重力とは時空間の歪みであるとしました。しかし、その歪みの起源はわからないままでした。ヒッグス粒子がほとんど確認され、質量の起源はわかりました。しかし、なぜこの状態であるのかはわからないままです。
このように、「りんごはなぜ落ちるのか?」という子供の疑問にありそうなものも、結局今もわかっていません。
これに対し、ニュートンの式、アインシュタインの式を用いることで答えになると思われるかもしれません。しかし、科学も哲学も、その段階では満足しておらず、また充分な答えであるとも思っていません。
ちょっと寄り道をしましょう。
こんな疑問を考えたことはあるでしょうか?
「私たちの太陽は、この宇宙においておよそ何世代めの恒星に相当するでしょうか?」
ちょっと考えてみてください。
さて、ちょっと考えてもらったところで、まずはこういう計算をしてみましょう。まず、宇宙の年齢は150億年ほどとします。そして私たちの太陽の寿命は100億年ほどであり、現在50億年ほどが経過しているとします。そこで、150億年から50億年を引くと、100億年ほどとなります。すると、私たちの太陽が標準的、あるいは平均的な恒星であるなら、1世代めではなく、2世代めかもしれないと想定できます。
しかし、ここで単純な疑問が湧きます。それは水素、ヘリウム以外の元素が、たった1世代の恒星群 (そして、それらはおそらく巨大な恒星であり、それゆえ寿命も短かかったと考えられます) でこの太陽系のようなものを構成できるほどに生成されるだろうかというものです。そこで、私たちの太陽は、すくなくとも2世代め以降、たとえば3世代めかもしれないと考えられます。
実際、現在の宇宙科学では元素の割合などから、私たちの太陽は3世代めか4世代めだろうと言われているようです。
その推測に対して、はるかに少ないデータから想定した「すくなくとも2世代め以降」という推測は悪くない推測でしょう。
ここで述べている「疑問」とは、こんな単純な疑問でいいのです。こんな単純な疑問から、1世代目の恒星がほとんどを占めていた宇宙とはどんな宇宙だっただろうか。あるいははるか先の世代の宇宙はどんな宇宙なのだろうか。「疑問」は次々と湧いてきます。
あるいは、こんなことを考えてみましょう。
計算のアルゴリズムは自然でしょうか? これは「アルゴリズムとして自然なのか」という意味ではありません。アルゴリズムが自然の存在なのかという疑問です。
これについては、現在「Wolfram言語」を作っているS. Wolframが、昔 “Scientific American” (日本では『日経サイエンス』) に、このようなことを書いています:
| 科学の法則は,現在ではアルゴリズムと考えられている。それらの多
| くは,コンピューター実験によって研究されている。物理的システム
| は計算システムと考えられており,コンピューターが行なうのと同様
| のやり方で情報を処理していると考えられている。
(別冊サイエンス 74, “コンピューター・ソフトウェア, 9 科学と数学のソフトウェア”, pp. 108 - 121, 日経サイエンス社, 1985.)
ここにおいて、「アルゴリズムは自然である」とするならば、新しいアルゴリズムは「発見」されたものであり、「発明」されたものではないことになります。
そして、物理的システム、つまりは自然そのものがアルゴリズム的に計算しているのだとしたら、いったいなにを計算しているのでしょうか。あるいはシミュレーション仮説というものがありますが、物理的システム、つまりは自然そのものがアルゴリズム的に計算しているのだとしたら、その意味においてこの宇宙にシミュレーション仮説はあてはまるのではないでしょうか。
上の例と同じく、「疑問」は次々と湧いてきます。
では話を戻しましょう。
「SFってなんなんだろう? 番外編 —— Science Fictionを書こう1 ——」ではこう書きました:
* ガジェットは作品を Science Fiction にはしない
* 世界観は作品を Science Fiction にはしない
* ギミックは作品を Science Fiction にはしない
* 出来事は作品を Science Fiction にはしない
* 情緒は作品を Science Fiction にはしない
* 思想が作品を Science Fiction にできる
では、ガジェットやギミックなどは Science Fiction には不要なのでしょうか。もちろん、ガジェットも世界観もギミックも出来事も必要です。ただし、それは、それらによって作品が Science Fiction になるという意味ではありません。それらによって、作品による「疑問」や「哲学的問い」を、より効果的に提示することができる場合があるということです。
ガジェット、世界観、ギミック、出来事は、「疑問にとって、それらは何なのかを考える」必要があるでしょう。これは、およそ「還元」と等しいと考えていいでしょう。細かい話をするなら、「還元のために、それの『機能 (役割)』を考える」と言ってもいいかと思います。「疑問」に対して「それでなければならない」ならば、それらがどのようなものであっても使うのに躊躇はいりません (社会的に見て倫理観が問題になるとかなんとかという問題はあるかもしれませんが)。ですが、「それでなくてもかまわない」なら、一旦考え直す必要があるでしょう。
なお、Science Fiction においては (あるいはほかのものでも)、世界観や世界設定は重要だということには、同意していただけるかと思います。では、なぜそれらは重要なのでしょうか?
「読者や視聴者を惹きつけるため」でしょうか。その認識であれば、根幹から誤解していると言っていいでしょう。
世界観はガジェット、そしてギミック (の一部) を成立させます。それはつまり、それらによってより明らかになる「疑問」を提示するための舞台であるわけです。もちろん、世界観そのものがより強烈に「疑問」を提示することが望ましいことは言うまでもありません。
つまり、世界観の提示が「疑問」、「哲学的問い」の始点であることが重要です。
ところで、「疑問」、「思索」、「哲学的問い」と書いていますが、それらを考える主体は誰でしょうか?
ちょっと本流の文芸あたりについて同じことを考えてみましょう。というか、考えるまでもなく本流の文芸あたりにおいては、「疑問」などの主体は著者、作者のものです。これは自然主義が日本の文芸あたえた影響から、すこし脇道に逸れた、しかしそれが本流となってしまった考え方でもあります。著者の疑問・思索・思弁を書くなら、日記帳に書いておけばいいでしょう。著者の疑問・思索・思弁には意味も理由も必要性もありません。私のことがらの小説。私の疑問・思索・思弁。これらは「私」で完結しています。それらの文芸は Science Fiction の体をとっていようとも、存在意義はありません。
しかし、 Science Fiction においては、その「疑問」の主体は異なります。「SFってなんなんだろう? 番外編 —— Science Fictionを書こう1 ——」で「以上、問題提起を終了する」と書いたように、「疑問」や「思索」の主体は読者や視聴者です。だからこそ、 Science Fiction には存在意義があります。これは論文などと似た側面でもあります。
以下、次回とし、次回で「Science Fiction を書こう」は終わります。次回は「還元」について、例を挙げて考えてみます。
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