第22話 番外編 ―― SFはいかにファンタジーに回帰したか ――
日本のweb小説におけるSF、商業日本SFを読み、感じたところを書くなら、この副題になる。
だが、「SFはいかにファンタジーに回帰したか」という副題は、実は二重の意味で正確ではない。
簡単な話から片付けよう。
「ファンタジー」とあるが、トールキンやル=グインの作品のようなファンタジーに回帰したわけではない。
であるから、ここで「ファンタジー」という言葉を使うのは、あまり適切ではない。もちろん、SFも逃避文学という意味での「ファンタジー」ではあるが、副題における「ファンタジー」とは、その意味での「ファンタジー」でもない。
とりあえず、適切な言葉がないのだが、「ファンタジー」と呼んでおくのもまったく不適切というわけではないと思うので、ここではひとまず「ファンタジー」としておく。
第二に、ジュール・ヴェルヌが『20世紀のパリ』が出版できなかったことにより−−それだけの理由ではないとしても−−、SFという概念を完成できなかった。というのも、『20世紀のパリ』以降においては−−つまり、出版された彼のSF作品のすべてだが−−、SFというよりも冒険に重きが置かれているように思う。
つまり、正確を期すなら「回帰した」とは、かならずしも言えないのだ。
「回帰した」と言うのであれば、すこしばかり条件が必要になる。ヒューゴーやキャンベルが主導した、いうなればハードSFへの指向を経て、日本SFもその影響を受けたとしてという条件だ。
だが、それゆえに「回帰した」という表現が使えるという側面もある。
この二つを考えると、日本のweb小説におけるSFや、商業日本SFがなにに回帰したのか、回帰した先のファンタジーとはなんなのかを考えることができる。
ここでは三つめの要素も考えてみたい。日本においてどれほどの影響があるのかはいまひとつわからないが、スチーム・パンクについてだ。スチーム・パンクそのものは、はじめからファンタジーであった。『ディファレス・エンジン』など一部の例外はあるが、おおむねファンタジーであった。
ここにおいての「ファンタジー」とは、トールキンやル=グインなどによる「ファンタジー」に、つまりかなり狭義の「ファンタジー」に、いくぶんなりとも近いだろう。
では、副題における「ファンタジー」に話を戻そう。
その「ファンタジー」とはなんなのか。言うなら、それそのものではないにしても、おそらくは「スペオペ」とひとまず考えるのがいいだろう。
もちろん、スペオペにかならずしも該当しない日本のweb小説におけるSFや、商業日本SFにおいても、やはり「ファンタジーに回帰した」と感じるものに少なくない割合で出会う。だから「回帰した先のファンタジーとはスペオペである」とは言ってしまうのも、あまり正確ではない。
なのだから、ここで「スペオペ」と書いたのは、「スペオペ」そのものを指しているわけではない。
ここにおいて重要なのは、一つには、ヴェルヌが書いた「冒険」であるということだ。ヴェルヌの作品とはすこしばかり毛色が違うとしても、スペオペの基本の一つは冒険だろう。
もう一つの要素は、「わかりやすさ」とも言えるだろう。たとえば、あるいはつまり、「敵がいる」というだけで−−その敵がなんであれ−−、その作品の構図はわかりやすいものになるだろう。
この「敵」についてはすこしこまかく見たほうがいいだろう。つまり、まずは “Villain” と “Antagonist (反主役)” だ。もちろん、この二つは自明なものとして区別できるとはかぎらない点には注意が必要だ。だが、その敵が “Villain” であるならば、「スペオペ的である」とは言えるだろう。
「敵」にはもう一つある。それが「ディザスター」だ。「ディザスター」においては、おおむね主人公側は、それに打ち勝つか、打ち負かされる。あるいは、「モンスター」、とくに「怪獣など」−−あるいはゾンビの大群など−−も、基本線としては「ディザスター」となる。モンスターが明確に人間、あるいは主人公側に向かってくれば、およそ主人公側は打ち負かされるだろう。モンスター同士が勝手にプロレスをしていても、そのあおりに打ち負かされるだろう。
このあたりでの「打ち勝つ」か「打ち負かされる」かであるという点は、 “Villain” の場合においても同様であり、またそのあたりのこまかい議論は必要ではない。
すこし話を戻そう。ヴェルヌは「冒険」を書いたが、「冒険」、あるいは「冒険」の対象は “Villain” だろうか、 “Antagonist” だろうか、それとも「ディザスター」だろうか。
ヴェルヌの場合、ここの区別はかならずしも明確ではない。
ただし、ヴェルヌによる「冒険」は、「自然は人間によって打ち負かされるもの」という視点があるとも言える。
さて、これで副題における「ファンタジー」の意味がすこしなりとも明確になった。つまり「打ち勝つ者」、あるいは「打ち負かされる者」がある程度の線で明確なものだ。それはやはり狭義の「ファンタジー」ではないし、かならずしも「スペオペ」でもない。
だが、パルプ雑誌系SFはおよそスペオペであったのだから、上記のことから「広義のスペオペ」という定義もできるかもしれない。あるいはそのまま「パルブ雑誌系SF」と呼ぶこともできるかもしれない。
では、「SFはいかにファンタジーに回帰したか」という問いを、考えてみよう。まず、「SFはファンタジーに回帰した」という命題は真であるとする。それが真だと思えたから、そういう副題で書いているわけだからだ。
これがスチーム・パンクに限定した話題であれば話は簡単で、「回帰しておらず、もともとファンタジーである」と、おおむね言える。この点については、「狭義のSF」としてのスチーム・パンクという、開きかけた大きな扉を閉じてしまったと感じざるをえない。
ほかの場合、かならずしも各作家が回帰したわけではない。要はアマチュアであろうとプロであろうと、書き手に人数の問題であるように思える。
では、なぜ「広義のスペオペ」作家が増えたのか、あるいは「狭義のSF」作家が減った、あるいは増えなかったのか。
たとえばとしてだが、工学博士の称号を持つミステリ作家がいる。この人は、たまにSF風味の作品も書くのだが、正直なところ、書けば書くほど馬脚を現わすことになっている。この例だけから断言はできないが、「狭義のSF」は書くことが単純に難しいとは言えるのかもしれない。
そして、おそらくは日本SFにおいて無視できないのは野田 昌宏の影響だろう。もちろん、氏の功績を否定するつもりはないし、否定されてはならないものだ。だが、それはそれ、これはこれだ。この話題にかぎるなら、氏の影響はあまりに大き過ぎた。氏の影響により、「SFとはこういうもの」という認識において、こう言うことができるなら、「わかりやすさ」を重視しすぎる結果になった。
さて、これで〆めるが、この「わかりやすさ」という言いかたには疑問を持つ人もいるだろう。設定が凝っている「広義のスペオペ」はいくつもあるのだから。そういう人は、先の「SFってなんなんだろう? 番外編 ―― SFの読みかた ――」を読んでみて欲しい。凝っているように思えた設定が、実は虚無であるにすぎないと気付く人、作品もきっといる/あるだろう。
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