第9話ヒトとSF

 「SFってなんなんだろう? ――異質との邂逅――」とも関係する話になります。


 まずはじめに、「人間は人間自身、あるいはその集合体である社会が想定してるほどの知性はもっていない」という前提を述べておきます。それと、どんなのでもいいので会議でも思い浮かべてください。「フランケンシュタイン; あるいは現代のプロメテウス」が生まれた(他にもここを原点として生まれている作品がありますが)、「ディオダディ荘の怪奇談義」のような特殊な場合を除き、「三人寄れば文殊の知恵」ということはまずないということも、先の前提から予想されます。さらに、歴史的に各国であった「異端」とか「思想犯」という考え方や、スターリン時代や文革のように、「人間は知性を怖がる、あるいは憎む」ということも、前提から予想できるかもしれません。


 なぜ、このような前提を述べたかの説明が必要でしょう。

 人間関係は普遍的な問題、あるいは永遠の問題というようなことが文学界隈で言われていたように思います。それはなぜなのでしょうか? ホモ・サピエンスが現れてもしかしたら50万年も経っているのに。それは、結局「人間は賢くない」からにすぎないからと考えるのが単純です。

 なぜ賢くないのか? これは、一つの脳には一人分のモデルしか収まらないからでしょう。「一人分のモデル」というのはその人の考え方も含みますし、その人が持っている現実の世界についての知識も虚構の世界についての知識も含みます。

 ですが、これは単純な話であるとともに、奇妙な話でもあります。「その人の考え方」については、「一つの脳には一つの人格」と言ってみましょう(解離性云々についはわかりません)。ですが、脳には現実の「世界」のモデルだけでなく、虚構の「世界」のモデルも入っているのです。なのに他の人格のモデルすら収まらない? 奇妙な話です。

 この奇妙さを解消する方法の一つは、たぶんこういうものでしょう。つまり、「何についてのものであれ、そもそもいくらかでも詳細なモデルなど脳には収まらない」と考えることです。収まっているという感覚は幻想にすぎないと考えてみることです。

 世界について言えば、もちろん、部屋の中で紙くずを丸めてゴミ箱に放り投げれば、その軌道がどうなるであろうかはそれなりに想像がつきます。では、それは人間の知性の問題なのでしょうか? 進化の過程で、その手の物理的運動を計算する回路、あるいは訓練されればそれを計算できる回路が、脳に発生していてもおかしくはないでしょう。もちろん、それは特定の部位ではなく、複数の部位からなる複合的な回路かもしれません(結局はそれが前頭葉なのかもしれません)。脳はあちこちに専門的な部位(なんとか野とか第何野とか言いますが)があること、そして部位によっては神経細胞による特徴的な構造があることがわかっています。第一次体性感覚野や第一次視覚野(低次の聴覚野にもだったように思います)には、カラム構造があるように。そして、それらや、それらの連携としての機能は、通常は自動的に機能しています。

 また、人格あたりについては、悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのかという問題もあります。運動準備電位がなんとかとか、色が変わる光の点を見せてどうとかなどなど、「意識は幻想である」、「記憶はいつ作られるのか」という議論がかなり昔からあります。

 つまり、脳は自動的な動作をする機能の集合でしかないのかもしれません。意識や知性は、へたなフィードバック回路があるために生じている結局は幻想かもしれません。あるいは、言語を操る能力を得てしまったために生じている幻想なのかもしれません。「意識や知性は幻想」とは言わなくても、意識や知性は脳の機能の余剰分によって供給されているのかもしれません。「あなた」は、摂取したエネルギーの1%だけをつかってあなたの脳が生み出しているだけなのかもしれません。


 と、まぁこんな具合で充分ではないかと思います。長い前置きでした。もちろんこれは意図的に話を運んでいます。というのも、「人格は尊い」とか「知性は尊い」とか「愛は尊い」という類のものが、先入観としてあるかもしれないと危惧したからです(んと、上記の実験とか観察とかについては、1%のくだりも含めてでっち上げではありません)。というのも、たとえばあなたが「愛は尊い」と考えているとしましょう。そこに私が「なぜ愛は尊いのか教えてください」と質問したとしましょう(私は実際に聞くと思いますが)。もしそういうことが起こったら、あなたはどう感じ、あるいはどう考えますか? 場合によっては理由の説明の試みすら放棄するでしょう。それではこの稿としてはちょっと都合が悪いのです。

 では、「人間関係は普遍的な問題、あるいは永遠の問題というようなことが文学界隈で言われていたように思います」のところに戻ります。SFでも結局はそこを問題にしているものが多いのです。ただ、他のジャンルにあるように(そのように私には見えるように)、「愛は尊い」というようなことを前提として出発し、「やっぱり愛は尊いよね」という結論で終わるとは限らないだけです。SFの他には風刺小説(「ユートピア」、「われら」、「素晴らしき新世界」、「1984」など)だけがそういうことをやっているように思います。

 誰だかの説教では、「人は生物種であって、人間というのは他人との関係を持っていることを言うのだ」というようなものがあったように思います。くだらない話です。「人」も「人間」もホモ・サピエンスを、あるいはそこに属する個体を指しているだけです。それになんらかの付加的な意味や価値を持たせようとする。そこからすでに「他人を理解できない」という迷宮に陥っているだけにすぎません。あるいは「他人を理解しようという努力を放棄することの理由」にしているにすぎません。

 さて、そういうところを描く場合、登場人物がすべて人間であっては話を進めにくい場合があります。人間が相手だと、「一人分の人格」が勝手にそれを登場人物に当てはめ、理解できるという幻想を持たせるかもしれないからです。あるいは異質な人間を描いた場合、簡単に「普通じゃない」と切り捨ててしまうかもしれません。それ――理解にせよ拒絶にせよ――では困ります。なぜなら、まさにそこを問題にしたいのですから。暗黒時代の、とくに当該の作品を除けば、宇宙人、ロボットや人工知能、複製人格コピー、復元人格、知性化体、未来人や過去人、他のホモ属などなど(ホモ・サピエンスという生物種に限らないので、これらをまとめて「ヒト」と呼びます)が登場するのは、つまり「問題を浮き彫り」にするためです。

 その迷宮そのものを見せるにはヒト(とくにホモ・サピエンス以外の)を登場させるのが、手っ取り早いし、おかしな「自分の投影」を見てしまうことも避けやすくなるだろうし、わかりやすくなるというわけです。さらには、風刺小説の場合にそうですが、特殊な状況を用いることでも同じような効果が期待できます。

 そして、SFでも風刺小説でも、持ちだした疑問に対して答える必要はありません。それでは「やっぱり愛は尊い」というように思考停止や価値観の押し付けにしかなりませんから。結論じみたことでまとめているSFもありますが、そこをその作品の結論と読むのはどうかと思います。疑問を提示し、考える。結論あるいは結末は、作品はともかく終わらなければらないための便法でしかない。終わることよりも、疑問そのものを読者の頭に植えつけることが重要なのです。

 ジャック・ボドゥの言などとして、先にこういうものを紹介しました:


* 超越を認識することの象徴こそがSFの本質

 (アレクセイ&コーリイ・パンシン「丘の向こうの世界」)

* つねに根本的な違和感を、それが近未来の話であろうと

 いつまでも余韻が残る感動を、そして知的な、むしろ

 心地よいズレの感覚を供する(ボドゥによる)


 これらは、少なくともその一部は、「他者」を、ここではホモ・サピエンス以外のヒトを登場させることで見えやすくなることで現れる効果ではないかと思います。そして、「やっぱり愛は尊い」という結末であったとしても、なにか居心地の悪さを感じさせるというようなこともあるでしょう。

 SF、とくに思索小説スペキュラティヴ・フィクションとは、そのように疑問を――もしかしたらなにがしかの「根源的な疑問」を――提示することをなによりとするジャンルと言えるかと思います。

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