第10話感動とSF
んと、雑談(?)の部分で、長いエッセイになってしまいましたが……「SFってなんなんだろう? ――ヒトとSF――」を書いてから、思ったことです。
もしかしたら、SF読みと他のジャンルの愛好家では「どこに感動するのか」とか、「どう感動するのか」というあたりに違いがあるのかもしれないと思ったのです。根拠はまったくありません。「ヒトとSF」を書いて、もし、そうなのだとしたら… と、もやもや思ったことです。
「ヒトとSF」でジャック・ボドゥの言として、これを挙げました:
* つねに根本的な違和感を、それが近未来の話であろうと
いつまでも余韻が残る感動を、そして知的な、むしろ
心地よいズレの感覚を供する(ボドゥによる)
またこうも書きました。
>なにか居心地の悪さを感じさせるというようなこともあるでしょう。
さて、どこにもやもやとしたかわかるでしょうか。ポドゥは「心地よい」と言っており、私は「居心地の悪さ」と書いています。私はその違いを意識することなく――少なくともほとんど意識することなく――、両方を並べていました。なぜこんなことが起きたのでしょうか?
「何も考えていないから」
うん。まぁ確かにそれは否定できません。
では、なぜ「何も考えず」に平気で並べてしまうのでしょか?
ここが書いてからもやもやっとしていたところです。一言で言ってしまえば、「心地よいズレ」も「居心地の悪さ」も私にとっては同じ意味だからです。なぜこんなことが起こるのでしょうか? と、もやもやっとしていると、冒頭の「SF読みと他のジャンルの愛好家では『どこに感動するのか』とか、『どう感動するのか』というあたりに違いがあるのかもしれないと思った」というところに行き着いたわけです。
私はSF読みですので、他のジャンルを愛好される方の気持ちは推測するしかありません。というわけで、なんの根拠もない推測を、以下に述べることになります。まったく見当違いということもあるでしょう。その際はひらにご容赦を。あるいは、むしろ指摘していただけるとありがたいです。
もしかしたら、他のジャンルの愛好家の方々は、小説でも映画でも終わったときに感動したというのは、「共感した」とか、「安心した」という時なのではないでしょうか。そしてそれは、「自分の価値観、あるいは感覚を改めて確認できて安心した」ということなのではないでしょうか。さらには「やっぱりそうなんだ」、あるいは「やっぱりそれでいいんだ」という安心なのではないでしょうか。(えと、ミステリ好きの方は、もしかしたらこれとは違うかもしれません。「どういうことなのかが、わかってよかった」という感じなのかもしれません。)
では、SF読みはどうなのか。もちろんSF読みにもいろいろいますが。自分の想像の範囲外のことについて「これってどう思う?」と示されたときに、まず感動します。その後の展開や結末があたりまえ、つまりは自分と同じと言えるようなものであれば、幻滅します。もちろん、その間のストーリーが無くて構わないわけではありません。ですが、自分の想像の範囲外だったもの――あたりまえすぎるものも含めて――を指摘されると感動し、さらに想像の範囲外の展開がなされると感動します。
異質であること。どこまでも自分の想像外であり、異質であること。まさにそこに感動するように思います。(まぁ、それが正のフィードバックになって、たまに「何が書いてあるのかすらわからない」とか、へたをすると「ほとんど物理的にとでも言えそうなくらいに読めない」という作品が現れることもあります。)
もしかしたらこの違いがあるのではないかと思ったのです。この違いゆえに、私にとっては「心地よいズレ」と「居心地の悪さ」が同じ意味になるのです。
ここまでが本論です。以下は、半分雑談です(半分は関係しているわけですが)。
さて、「ミステリとSF」においては、「SFは最初に盛大にネタばらしする(ものもある)」というようなことを書きました。ネタばらしした上で、「想像の範囲外云々」というようなことを起こすのはかなり難しいであろうことは想像に難くないと思います。しかも、「言ってねーじゃん。後出しじゃん」もなしでです。
それは書き手だけではなく、読み手の問題でもあります。というのも、大雑把に言えば「想像の範囲」がどの程度のものなのかが問題になるからです。そして、SF読みはかなりの程度訓練されてしまっています。
この状況は、別のかなり困った状況を呼び込みます。科学的にせよ、人間の内面にせよ、状況にせよ、ともかくSF読み以外の方にとってはSFを難解なものにしかねないのです。それはSF離れとなり、販売部数の減少につながり、SFの衰退につながるかもしれません。そしてそれは実際に起きてしまいました。
さて、ここで救いの手が現れました。もしかしたら意外に思われるかもしれませんが、日本においてはラノベです。(もちろん、マンガの存在を無視しているわけではありません。いちおう「なろう」の範疇として活字に注目しています。系譜とかもひとまず置いときます。)
そもそもSFの暗黒時代をもたらしたのは何だったのか。まぁ私は暗黒時代という表現を使っていますが、それは本当に暗黒時代だったのか。「ミステリとSF」のP.S.としても書きましたが、暗黒時代の、とくにまさしく暗黒時代そのものであったSF作品には「こんなこともあろうかと」とか「実は」とか「新元素」とか「突然の発見や発明」というのが溢れていました。悪い言い方をすれば、安直なものです。ですが、その暗黒時代にSFと称されていたものが売れていなかったのかというと、むしろ逆です。安直なものが売れている。商業的にはそれでも構わないでしょう。ですが、ヒューゴーもキャンベルも「それってどうなの?」と言ってしまった。
安直という言葉を、「わかりやすい」とか、あるいは他のどういう言葉に置き換えて見ても、おそらく「SF読みは(あるいは私は)、暗黒時代そのものであった作品を悪いものと見ている」と思われることは承知していますし、それを否定しません。
ですが、否定できないのは、その時代のSF(と称するもの)には活気があったということです。読書習慣とか識字率とか人口とか時代的背景とか、影響する要因は多々ありますが、まちがいなく売れており、読まれており、ワクワクとドキドキにあふれていた。これはどうあがこうと否定できません。そして、もしかしたらヒューゴーとキャンベルの言葉も、だからこそ言えた――商業的にも、可能性としても――のかもしれません。
ヒューゴーとキャンベルの「それってどうなの?」は、SFがSFたる本道(つまりはシェリーとヴェルヌとウェルズの系譜)に戻ることを、さらにはそれを突き詰めることに道を拓きました。ですが、それは良し悪しはともかく先鋭化への道であり、広く読まれるという道を閉ざすことでもあった。そこの乖離をどうにか埋めないことには、SFは文学としての「異端の文学」ではなく、そもそもの「存在としての異端」にしかならなくなってしまう。
そこにラノベが現れた。(系譜とか年代とかは、ひとまず置いておいて。)
ともかく虚構の世界で、それも逃避文学の範疇でワクワク、ドキドキしてもらわないことには何もはじまらない。ワクワク、ドキドキだけでも充分。先鋭化を目指す人がいるなら、SF読みとしては大歓迎。ヒューゴーとキャンベルと多くの作家のお陰であらゆる方向に先鋭化した大地が広がっていますし、さらなる異端や先鋭化を受け入れる素地も出来上がっている。SFという未開の惑星は、売上とかという話ではなく、その広大さゆえに純然たる人口不足となっている。書き手であっても読み手であっても、開拓者を求めている。
と、まぁ実際に私はそう思っています。
えと、雑談の部分も一応「感動とSF」に繋がったかなと思いますが。いかがでしょうか?(何が?)
P.S.
ちょっと気になって脳内でどうにか検索してみたところ、「SFという未開の惑星は~開拓者を求めている」の部分は、もしかしたらアシモフがエッセイでほとんど同じことを書いていたかもしれません。
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