第8話.帆を持たない船 Ⅰ

 生きることに意味なんてない。

 私たちはただ生まれたから生きて、そして死ぬまで生きてるから生きるだけ。


 生きることに意味なんてない。






 沼の生臭い匂い、草のまとわりつくような匂い。

 掃き溜めみたいなあの場所には、クソみたいなあいつがいた。

 沼のほとりに建つ、古びた粗末な小屋。

 建物に使われている木の板は腐っていて、今にも床が抜け落ちそう。

 あいつはいつも大きないびきを立てて眠っていた。

 私たちはいつも、部屋の埃っぽい物陰に隠れながら、あいつに見つからないように生きてきた。

 あの小屋の部屋はひとつ。あとは、屋根裏に近い二階。

 でも危なくて二階には行けない。ほとんど床板が腐りかけてるから、いつ床が抜けるか分からない。だからやっぱり一階のどこかで逃げ回るしかない。

 この家には、ご飯もお金も無い。だから、自分たちで荷物運びや案内人とかの仕事を見つけては、日銭を稼ぐしかなかった。でも、あいつが寝ている間じゃないとだめ。

 だって、もし起きてきたあいつが私たちを呼んだ時にいなかったら、烈火のごとく怒り狂うから。

 そのくせ、呼んでいないにも関わらず私たちが視界に居るようなことは、あいつの世界ではあってはならないことらしい。瓶を頭に投げつけてきて、出ていけ目障りだと叫んでくる。

 父親様の用が無いのに、辺りをうろつくようなことがあればお仕置き。用があるのに呼んでも来ない、いない時にもお仕置き。ひどい時は、自分に用があるのを察して側にいなかったからお仕置き。

 呼んで無いのに、居たらお仕置きって今言わなかったっけ。

 あんな奴の思考回路が、私たちの血にも流れてるんだよ、気持ちわるくて仕方がない。

 そうして父親様がお呼びの気分にも関わらず、すぐ来れないような不届き者にはお仕置きの時間。街を狂ったように叫んで探し回る。そうしてもし見つかったら、あの薄汚い小屋に連れ戻される。あいつが思う存分、私たちの顔や腹を蹴ったり殴ったりして気が晴れたら、あとは二人して長い間吊るされる。

 うす暗い蔵の中、首を縛られて、足がギリギリつく高さで吊るされる。

 少しでも気を抜けば首がしまる。足が疲れ果てて、もげそうなほど痛くなってても、絶対に足を休ませることなんてできない。

 縄はその瞬間にも、首に食い込まんと目論んでいるのだから。

 暗さのあまり、相手の怪我がどれぐらいかも分からない。喋りたくとも、喉が閉まって言葉にならない。時間が分からないことは、――かった。

 でもそれは時間についてだけ。

 死んだって、あいつに対して――いなんて思いたくない。

 とにかく、呼んだらすぐ来る、自分が望む時には時は絶対に居ること。それがあいつの中での絶対の掟らしい。だから私たちはあいつの起きる時間、寝る時間に気をつけて外で稼いでいた。

 他に食べる手段といえば、食べることが禁止されている、家にあるものをこっそり食べるとか。

 あいつが食糧の残りとか把握してるわけないし、少しくらいなら分かる可能性は低いけど。でもそうなると、食べられる量はほんの少しだ。

 やっぱり自分たちで食べものを手に入れる必要がある。

 あいつに見つからないように生きながら、あいつが望む時にはすぐ側にいることを心掛けて生きる。

 これが私たちの生きる意味ならば、私はどうやって自分の生を受け入れればいいんだろう。

 生きることに意味なんか、ありませんように。

 どうか私の命が、あいつに楽させるために生まれた命だなんて思わせないで。

 あいつ曰く、私たちは二匹で一個らしいから、どっちか片方が気に入らないことをすれば両方お仕置きだった。

 それが何もしていない方だけに絞る時もあるし、まあ一番多いのがやっぱり、気に入らないことをした方だけをなぶることだよね。

 それでも、まだ隠れながら住む日常は楽なものだった。

 あの日々はもっとひどい。

 あいつはどこかのゴロツキの下っ端で、ボスの気にいる余興さえ披露すれば、この家を自分のものにして好きなように暮らしていていいという約束でここに住んでいた。更には、暮らせるだけの食べものをその時に持ってきてくれるから、働きさえしなくていい。

 ボスに気に入られたあいつの余興とは、実の子どもをいたぶるショー。

 とは言っても、ただ単純に殴ったり蹴ったりするだけじゃ何も面白く無い。そんな安直なこと、つまらなすぎてショーになんてならない。私だってできる。

 あいつのしていたことは、自分の家族を死なない程度に、どこまで、どんな面白い手でいたぶるのかを追求した末にできるひとつのショー。

 刺激的なショーを披露できるかどうかは、そのアイディアと工夫にかかっている。

 だから例えば、足の肉を削いで骨を露出させたままにしたらどうなるか、とか。

 ちなみにこれは、私たちを産んだ母親がされたこと。もう死んだけどね。骨はさすがにだめだったみたい。

 母親が死んだら少しは私の溜飲も下がると思ったけど、せっかくそうなったのに別に嬉しいってこともなかった。熟れるのを待ち望んでた果物が、大して熟れてもいなくてがっかりって感じだったな。

 でも母親が死んだあとに、自分たちがされたことを思い出してもそこまで気分を害さなくなったから、少しはあれも私の中で得になったのだろう。

 何はともあれ、死んでしまったら次のショーができないから殺さない。

 逃げられても次のショーができなくなるから殺さない。

 子どもを工夫していたぶるショーしかあいつはできないから、私たちがいなくなればあいつの唯一の利用価値もなくなって、その先はもう見えている。

 だから必死。死なせないようにいたぶることに必死ってなに。でも、必死って必ず死ぬって書いてあるよね、死ねよ。

 あの日も余興がはじまった。あれが私の中で、未だに大きなしこりとなって残っている。

 あの日に披露していた余興。

 双子の兄を、腕も足も折り曲げて、体を曲げればやっと入るような、小さな樽に押し込める。

 竹筒のようなものをさして、空気の通り道だけ作る。

 それを土に埋める。

 三日間、身動きも取れない狭いところで、何も与えられずに生き抜けたらショーは成功。

 あの時の男たちの下卑た笑い声。汚い、汚い、汚らわしい。

 「おぅい、三日ってさすがに死んじまうだろぃ。」

 「生きてたら、いつもの何倍も褒美をやる!」

 「だぁっははは。本当にひでぇよなぁ、狂ってやがる!」

 そう言われて、誇らしげに顔を輝かせているあいつを蹴とばしてやりたい。

 あいつが意気揚々と片割れに近付いていって、ああ、いよいよショーが始まろうとしている。

 「汚ねぇんだよさわんじゃねぇ! 離せ! ふざけんな、殺してやる……絶対に殺してやる!!」

 吠えるリクを、図体のでかい、人間の形をした汚いいきものが抑えつける。たくさんで踏みつける。片割れにつばを吐く。

 片割れが動かなくなる。水をかけられて、意識を戻す。

 そうして、樽に詰めた。



 手下たちが見張りながら、ほんとうに、ほんとうに埋められたまま、たべものも音もひかりも無い世界に私の片方は閉じ込められた。三日という時間が、ほんとうに過ぎようとしていた。

 ――くて――くて、二晩をすぎてあと一晩という時。見張りが寝ている隙をついて、私はそこに忍び寄った。水と食べものを持って、見張りの寝息に耳をひそめながら、音を立てないように双子がいる所へとかけよった。

 足が震えて走りにくかったけど、その時はもう必死で、そのことには気付きさえしなかった。

 土に頬をつけ、お腹の底から空気をぜんぶ絞りだすような心地でささやき声を叫ぶ。

 「……お兄ちゃん、お兄ちゃん! 生きてる? 私!」

 「いき、てる……。あぁ……あ……。」

 土の底から、死にそうに弱々しいけれども声が。確かにそこで声がする。それが聞こえた時は泣きそうになった。

 震える手で、焦る手で水筒のふたを開けようとする。上手く力を込められず、何度も指を無駄に滑らせた。

 「待ってて、筒から、少しずつだけど水を……」

 「……て。」

 「え?」

 「たす……けて……」

 私はあの瞬間を忘れられない。

 私の片割れの、「たすけて」。

 たすけて、なんて言ったこと無いよ。だって助けてくれる人なんていないもん。

 そんな建前の理由が、心のなかでぺりぺりと音を立て、薄く薄くはがれ落ちる。

 そんなんじゃない。

 助けを求める、ということはきっと負けだから。

 どんなに辛い時であっても、プライドだけは捨てたくない。

 助けてなんて絶対に言いたくない。

 心の中で、過去の私が叫ぶ。

 片割れは、私のもう片方だから同じことを感じているはず。

 それなのにそう言った私の片割れ。

 水筒を持っていられなくなる。

 土に左手をついて、頬とひざに支えられた水筒を、包むようにくっつけている右手で顔を覆う。

――いったいこの二日間、どれほど辛かったのだろう、どれだけ孤独だったのだろう。

――どんなに私に向かって、助けを求め続けたのだろう。

 その言葉を聞いた時、胸が潰れそうなほど辛くなった。

 そして初めて聞いた片割れの弱音が聞こえた時、私の心が叫びだしたんだ。

 こわい。

 怖い、怖い、怖い!

 隠れるのが、吊るされるのが、殴られるのが蹴られるのが。あいつが、あいつといるゴロツキが、片割れが――もう一人の自分が痛めつけられることが!

 ずっと心のどこかに閉じ込めて隠して、気がつかないようにしていた。無意識に押さえつけていたふたが開いてしまった、もう取り返しがつかない。

 「うっ……」

 ぱた。

 「うぇっ……えっ、ひっく……う、うえぇ……」

 ぱたぱた、ぽた。

 涙が、涙が土に当たる。

 私の片方が埋まる場所へと、落ちていく。

――泣いてる場合じゃない、泣いてる場合じゃないのに。

――声を出したらあの見張りたちが起きてしまう。早くしないと。とにかく、水だけでもあげなければ。

 頭はそう叫んでるのに、なのに何で心は違うことを感じてるの。

――たすけてあげないと。

――助けてあげないと! 私の、私のもう片方が苦しんでる。はやく、はやくここから出してあげなきゃ!

 分かってる、土から掘り起こしてお楽しみを台無しにしまえば、もっとひどいことになる。

 私が今やるべきことは、片割れに声をかけて落ち着かせること。励ましてあげること。そしてこの細い筒からほんの少しずつ水を入れて、なめさせてあげること。

 筒は細い。食べものを入れてしまえば詰まって、空気の通り道が無くなってしまうかもしれない。

 とにかく片割れに穴の位置を聞いて、昼間に光の差していた場所を聞いて。樽の中で体はどういう体制になっているのか。この状態で水を流しても大丈夫そうか。

 それを、それを聞かなくてはいけない。私が口にすべきはそのことだ。

 なのに。

 「お、にいちゃん……。お、にい、ちゃぁあ……」

 馬鹿、馬鹿、馬鹿!!!

 泣くな馬鹿! それどころじゃない、助けたいなら今すぐ冷静になって行動しろ!

 「うぁ、ああぁ……。」

 「う、うぇ……ひっく……。」

 兄も泣いている。二人で、土越しに泣いている。

 爪を立てて土を、ざり、ざりとひっかく。

 まるで、掘り起こそうとでもしているかのように。

 結局、水すらもあげることができずに私は見つかって引き離された。

 引きずられて、泣きながらお兄ちゃんと叫んで。

 今思うと、あれはかえって良かったのかもしれないと思う。

 だっていつもふてぶてしい態度の私たち。その片方が泣いて叫んでいるんだもの。

 余興の一環としてはかなり満足させられたと思う。それもあってか、結果的に報酬もより多かった。だから、あそこから出た時片割れに、たくさんの食べものを食べさせてあげられた。

 それを思うと、本当に良かった。

 次の日。泣き腫らして赤い目をした私を押さえつけながら、男たちが片割れの埋まる土を掘り起こそうとする。

 勝手に助けて、余興を台無しにしようとした私をあいつは烈火のごとく怒り狂っていたが、私の泣いている姿にゴロツキたちは気を良くして、ご機嫌に笑っていた。

 結果的にはあいつも「よくやった、お前がやってくれた余興のおかげで報酬もたんと増えた」と言っていたし、何とか助かった。

 もう私の泣き腫らした姿だけで、ゴロツキたちはかなり面白いものが見れたという顔をしていた。土を掘り起こしている間、その様を見ながら、ちらちらうすら笑いをして私を見てくるゴロツキたち。

 どんな反応をするのか、さも楽しみという顔だ。

 そしてようやく、樽が土から持ち上げられた。

 胸がきゅっと締め付けられた。

 注目がそこに集まる。

 緊張の中、ふたが開いた。

 「生きてる!!」

 笑い声に似たはやし声がたてられる。

 生きてる。

 生きてる、生きてる!

 私は押さえつけていた男の手を思い切り噛み切ろうとした。あの時歯に当たっていた何やら硬いものは、たぶん骨だ。

 私は土へと叩きつけられて、何とか上手いこと男の腕から逃れた。

 視線も構わず、震える足に鞭打ってそこまで猛然と走る。

 そこにいた男たちをつき飛ばさん勢いで、樽へと駆け寄る。

 「……! お兄ちゃん!!」

 そこからは、凄まじまい臭気。そしてただでさえ痩せていたのにさらにガリガリになり、傷という傷が膿んだ兄の姿。

 そのあまりの痛々しさに、また涙が出た。

 その様を見て愉快そうにしている男たち。

 死ね。

 樽を引き上げた男が、これ見よがしに片割れが入っている樽を蹴り飛ばして横に倒した。

 その衝撃で、樽から片割れの体がずるっとでてくる。

 私は泣きながら死体のようなそれに駆け寄り、抱きかかえて片割れのことを呼び続けた。

 「お兄ちゃん……! お兄ちゃん!」

 うっすらと開いている目と口。口が、「い」の形に動こうとする。

 ばっ! と、体に縛って隠していた、ほんの少しの水が入った筒を体から取り外す。片割れの首を膝で支えて、頭を抱え上げる形で水を飲ませる。

 咳き込みながら、必死に飲む。

――ああ、水が足りなすぎる。

 周りを見ると、賭けの結果とやらでやんややんやと盛り上がっており、誰も私たちをもう見ていない。

 賭けに助けられた。

 そう思って、見つからないように、急いで家へと運ぶ。

 もう、誰も私たちのことなんか構いやしない。

 汚いけど、まだきれいな方のシーツに寝かせて片割れに水を飲ませる。

 かきこむように水を飲んで、やっと一息ついた。ほんの少し安らいだような顔になる。すぐにこのために洗ってきれいにしておいた服に着替えさせて、水を張った桶と布を持ってくる。

 傷口を洗う間、片割れは膿んだ所が染みるのを頑張って我慢してくれた。

 薬なんてないから、とにかく傷口だけはきれいにして、これもまたこのためにきれいにしておいた布で傷を覆う。

 よく我慢したね、の意味をこめて、一回だけ頭をそっと撫でる。

 脱がせた服を抱え、洗いに行こうとすると、片割れのかすれ声が聞こえた。

 すぐに振り向き、そばに駆け寄る。

 「どうしたの、お兄ちゃん。痛いの?」

 片割れからの反応は無い。

 辛抱強くじっとしていると、片割れの口がかすかにひらいた。

 「もう……や、だ……。」

 胸の奥で、何かが弾けた。

 涙が、涙が溢れた。

 片割れもまた、力なくすすり泣いている。

 二人で同じように息を殺して、静かに泣いている。

 片割れの辛そうな姿が、こんなにも見ていて辛いものだなんて思ってもみなかった。

 私は片割れの手をぎゅっと握って、「よくがんばった、よく、がんばったね……。」と、言い続けた。

 鼻と喉が時々詰まって声が出なくなったが、それでも、懸命に片割れのことをいたわり続けた。

 その後、さっきも言った通りいつもよりたんともらった報酬を、珍しくあいつは私たち双子へと分け与えた。当然、それをこっそり多めに盗むことも忘れずに。床下に隠して数日かけて消費させ、片割れの体力が戻るまで食べさせてあげられた。






 運命の日がやってくる。

 今日の稼ぎを確認するために、いつものように、家の近くに流れる川のほとりに二人でいたら。

 私の片割れの目が、どこか遠くに向き、そして切り傷だらけの手で指差した。

 「あれ……。」

 振り向くと、わずかに暗くなってきた川面を薄ぼんやりと照らしながら、何かが流れてきていた。

――あれは、前に一度見たことがある。確か、灯籠。

 死者を悼むという特別な日に、裕福な人間たちが流す慰めの代物がどうしてここに。そう思わずにはいられなかった。

 川の上を幽霊のように揺らめきながら通るそれを、私たちは目で追っていた。

 そして、立ち上がった。

 この灯籠が”流れ着く先にある物”を、何故だか私たちは分かっていた。

 そしてこの灯りを追わなければならないことも、分かっていた。

 私たちは走る。この灯りが到着してしまう前に、出口が閉ざされる前に。

 急いで急いで、辿り着いたのは、私たちの家がほとりに建つ、むっとした匂いがする沼。

 いつの間にか二人で手をつないでいたらしい。息を切らしながら、片割れが片割れを引っ張るようにして、ざくざくと色褪せた葦の葉を踏み倒す。

 西の空には、リンチで殺されたゴロツキの皮膚から見えた、肉片の赤を思い起こさせるような色が浮いている。

 その上から、徐々に降りていく夜のとばり。

 あの頃はそんな言葉、知らなかったけど。

 夜のとばりが完全に降りた頃。

 それまで何もなかったところに、無数の光が輝きだす。

 水の匂い。草の匂い。

 顔に当たるぬるい風。

 言葉をなくし、眼前の光景に圧倒されていた。

――ここはどこ?

 こんな川は見たことがない。こんなに澄んだ、美しい水を私たちは目にしたことがない。

 辺りを見渡すと、いつの間にか川の隣をなぞるように屋台のような露店が立ち並んでいる。それはまるで灯火。死者の魂を慰める、灯籠流し。

 さっきまで何も無かったのに。すぐそこにたくさんの露店が明かりを灯して立ち並んでいる。

 それは見たことのない初めての光景。

 しかし最も初めてだと感じたのは、この穏やかな空気だった。

 たくさんの人がごちゃごちゃと歩いていて、店の人は商品を手前に置いたままなのに、何やらパイプをふかしたりしてゆったりくつろいでいる。

人がたくさんいるにも関わらず、穏やかで、和やかな空気。

 活気づいた呼び込みや、話し声や笑い声に満ちている。

 こんな、こんな平和そうな世界を私たちは知らない。

 この光景を見ていると、どうしようもなく涙が出そうになった。私たちは、二人で手を握ったまま、何も言わずに立っていた。

 そしてすぐ鼻についたのが、初めて嗅ぐ香ばしい匂い。

 見て、あそこに肉みたいなのがある。

 本当だ、おいしそう。

 食べたことないね。

 食べたことない。

 露店売りなんかしているくせに、見えにくそうなかぶりものなんか被ってぼけっとしている、何かの肉を売る店主。

――絶好の獲物だ。

 何も言わず、顔も見合わせずにどちらともなく握っていた手を離す。肌に感じるお互いの空気が意思を酌み交わす。

 あの店主が、次に動きを見せた時――

 「だめですよ、そんなことしたら。いくら私でも、夜の市場での盗っ人は庇えないですから。」

 唐突に、頭の方で聞こえた声。

 驚いて、片割れと左右前方に飛び退く。着地と同時にその声がした場所を振り向く。

 男とも女とも分からない、ただ子どもではない大人の声だった。

 体を覆い隠す真っ黒のローブ。ローブに隠され体の形は見えず、細いかガタイが良いのかさえよく分からない。

 そして頭身を崩す不恰好な……

――スイ、カ……?

「それにあの肉は多分、人間の肉ですね。」

 彼だか彼女は、頭に大きなスイカを被っていた。

 瑞々しくてツヤがある、みどりのスイカ。目、鼻、口のところにはまるで顔を模したかのようにくり抜かれた穴があって、その穴の奥には暗闇の空間が広がっていた。でも何よりも、くり抜いた穴の隙間から見える、赤く熟れたスイカの身。

 それだけじゃない、このスイカ頭からは、甘い甘い匂いがする。恐らくこれは、スイカの匂い……。

 ざりっ。

 鼓膜が、私の片割れが足をかすかに動かした音を捉えた。

 神経が一瞬にして張り詰める。

――そう、お兄ちゃん。あなたも……。さすが、私の半身。

 片割れと意思の疎通ができたことを確信したらしく、すぐさま私の片割れが動き出した。

 片割れが、低い体勢で右側に回るようにして素早く走る。その時、地に指をかすらせた。

 スイカ頭の目――ふたつのほら穴が、走っている片割れの姿を滑るように追う。

 そして私の片割れは、大きなアクションで、落ちていた石をスイカの実に向かって思い切り投げる。

 スイカの頭は、それを体を反らすような形で避けた。

――ここだ!

 私はその曲げられた膝の裏に、思い切り回し蹴りをくらわせた。

 スイカ頭のバランスがぐらりと崩れる。

 「おぉっと。」

 私は手に、尖った大きな石を持っている。

――スイカ!!!

 食べたことのない果物。

 甘くて、おいしそうな食べ物!

 あの様子じゃ、あの皮の周りにはまだ赤いところがたくさんついている。

 いつも拾っていた、捨てられた腐りかけの野菜の皮。

 新鮮な皮を食べられるだけでもご馳走なのに、さらにあれには実が!

 全身全霊で鋭利な石を振りかざし、勢い余るほどの力でスイカを打ち砕いた。

 「はあ、はあ……。」

 肩で息をして、すぐさまそのスイカの破片を拾おうとする。

 「……あれ……?」

――中身が……無い。

 スイカの話じゃない、スイカを被っていたはずの誰かの頭が中に無いのだ。

 スイカの中身をくり抜かれてはいるのに。では一体……?

 「スイカ割りなんかしたら、世界60億のスイカ教信者が黙っていませんよ、お嬢さん。」

 心臓が跳ねる。頭の上で声。また。

 後ろを見ると、その誰かは割ったはずのスイカをまた被っている。同じように目も、鼻も口の形もくり抜かれていて。

 しかし私の足元には砕かれたスイカの赤い汁と、白や緑の破片が散らばっている。

 見下ろした際に、甘そうな汁のかかった自分の足が目に入る。うっすら赤くて、ひとの血みたい。

 「何なんだ、てめえ」

 スイカ頭をはさんで私の向かいにいる片割れが、唸るような声を出す。犬歯を剥き出しにして、睨みつけている。よかった、もう完全に元どおりだ。

 しかしスイカ頭はそんな敵意を気にする様子もなく、その上何やらマントの中の体がごそごそしだした。

よく見ると、あのスイカの帽子はさっきと少し形が違った。さっきのがまん丸ならばこっちは少しだけ楕円だ。もしかしたらさっきの被り物は、このスイカ頭の一張羅だったのかもしれない……。

 そんなことを考えていたら、被ったスイカを肩の上でぐらぐらさせながら、スイカ頭が聞いてきた。

 「お腹が空いたのなら、私の自慢のスイカを振る舞ってあげますよ。まあ、いつでもスイカ限定ですけどね。」

 いつの間にか、スイカ頭の手には大きくてまん丸の、とても美味しそうなスイカ。






 切り分けられたスイカは本当に真っ赤で、甘い良い香りがいっぱいした。

 あんなに甘くて美味しいものを、私は、そして私の半分は食べたことがなかった。

 この世界で一番美味しいものだって、本気で思ったもの。

 私と片割れは何も言わずに、がむしゃらになってそれを食べた。

 たくさんたくさん食べさせてくれて、いつ振りなんだろうと思えるほど満腹になった。

 私たちは今、少し小高い丘のようなところで、青々とした草はらに座っている。

 左が私、右が片割れ。そして真ん中でスイカの頭がぐらぐらしてる。

 目の前にたゆたう市場の光をぼんやりと見つめながら、そっと聞き逃したことを聞いてみた。

 「あなたは…誰?」

 「私はここの市場の主催者です。」

 間髪入れずに答えるスイカの主催者さん。

 「ここは……どこ?」

 それを聞くと、顔は見えないけれどもスイカの主催者さんがにんまりと笑ったような気配がした。

 ゆらりと立ち上がって、芝居がかった聞き惚れるような声で言葉を紡ぎ出す。

 「ここは夜の市場。

 市場に在るは、月明かりでしか咲かない花、 店主が吸血鬼、 後ろ暗い商品……。」

 くるりと回って、市場を背にする。

 歌うように、そのひとは朗々とうたい文句をそらんじだした。


 よってらっしゃい、みてらっしゃい。

 ここに来ればなんでもそろうよ。

 そろわないのは、お日さまが苦手な商品だけさ。

 昨日のものも、未来のものも、希望だって絶望だって、

 生き物だって概念だって、

 よくよく探せばみつかるものさ。


 そのままもう一度くるりと回って、私たちの方を向きながら、ぺこりとお辞儀。また芝居がかった動作もついてきてて、右と左の足を反対側のばってんにする。右手を振りかざすように上げて、頭と一緒に手も下ろす。

 「……私はあなたたちがここに来たい、と叫んでいたので、この場所を教えただけです。あなたたちの側にある川に、灯籠を流してね。」

 スイカの中で、誰かが笑っている。

 「……私、ここに来たい、なんて言ってない……。こっちも。

 だって、夜の市場なんて聞いたこともない」

 片割れの方を見て、互いに頷きあう。

 主催者さんは頭をぐらぐらさせて、何を考えているのか全くわからない偽物の顔をこっちに向けてくる。

 「ここでは、表の世界では売れないような後ろ暗い商品もある。

 あなた方はこの市場で売りたいものがあるらしくてここに来た。そう言っていましたよ。

 私は主催者ですから、もうこれ以上は何もしてあげられません。

 私の役目は店を出す知らせを受けること。

 そして、それを許すこと。

 とにかく私は、あなたたちから店を出す契約を求められました。

 今ここで、私はスイカに誓ってあなた方を夜の市場の出店者として認めることにします。

 あとは店を開くもたたむもご自由に……。」

 そう言うと、主催者さんはまるで夜の闇に溶けていくかのように見えなくなってしまった。

 闇に目を向けたままで、風に頬を撫でられる私と片割れ。すると。

 「そうそう、お二人の名前は?」

 闇の中から響くような声がした。そこにいるのか、それとも本当に消えてしまったのか。

 「名前なんて、無い。」

 私はその闇に向かって声を投げた。その声は、まるで闇に吸い取られるように、残響を残して消えていった。

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