第9話
年が明け私は幾つかの大学を受験し文京区白山にあるT大学の法学部に合格した。特に法律の勉強がしたかった訳ではなく三兄がそうだったからという単純な志望動機でしかなかった。T大学は白山と埼玉の朝霞台それに鶴ヶ島にキャンパスがあり一,二年の一般教養は埼玉の朝霞台三,四年は白山そして体育の授業は鶴ヶ島と三つに別れていた。私は大学に入学したら陸上をやりたいと思っていた。高校時代県の大会で三位になり福岡の大学や企業から勧誘されたが当時の私はただ東京の大学に行きたいという思いが強くそれを断った。浪人しているとき自分に自信が持てなくなったのも陸上を辞めたからではないかと思っていた.しかし私にはそんな余裕はなかった。学費は母や兄達が援助してくれたが生活費は自分でアルバイトをして稼がなければやって行けなかった。結局私は陸上をやることを諦めた。私はアルバイト情報誌で原宿駅近くの焼き鳥屋を見つけそこで働くことにした。
大学に入学しても予備校時代と変わらない生活だった。昼間は朝霞のキャンパスに通い夕方からは原宿の焼き鳥屋でアルバイト。変ったのは予備校が大学になっただけだった。大学では少人数の語学クラス内で何人かの友人ができた。そしてその友人の友人や知り合いといった具合に増え十人位のグループになっいた。彼らとは卒業まで一緒で卒業時にはみんなで伊豆にレンタカーを借りて卒業旅行に出かけた。しかし私はその直前に東京に住む叔母の義母が亡くなり旅行には参加できなかった。その時の写真には私以外の全員が笑顔で映っている。彼らの出身地は九州の熊本や地元東京,近県の埼玉、千葉それに新潟、北海道とさまざまだった。彼らとは一緒に講義を受けたり学食でよく雑談をしていた。その中でアルバイトをしているのは私ともう一人だけで他は親からの仕送りだけで十分生活できているようだった。彼らとはときには一緒に池袋や新宿に飲みに出ることもあったが、それは数えるくらいで自然と学内だけの付き合いになっていた。私の中に恵まれた彼らの環境を羨む気持ちとともに自分の置かれた境遇を歯痒く思う気持ちがあったのは確かだった。彼らと付き合っていくうちに私は自分が彼らとは何かが違うと感じ始めていた。彼らは普通の学生らしく屈託なくサークルの話や音楽、趣味の話に興じていた。しかし私は表面上は彼らの話を聞き相槌を打ったりしていたが心の底から楽しむことはできなかった。私はそんな自分が嫌でたまらなかった。何故友達と話をしていても楽しむことができないのだろう。その疑問は時間が経てば経つほど私の中で大きくなっていった。そして友達との関係だけでなく日常生活でも何を見てもやっても心から楽しいと思えなくなっていた。私は以前にもまして小説や心理学、哲学,人生論の本を読み漁った。
大学二年の秋私はバイト先で一人の女子大生と出会った。その当時私は焼き鳥屋の主人の紹介で新宿の三井ビルにある洋菓子店の喫茶店で働いていた。そこに彼女も以前からいる友人の紹介でバイトとして入ってきた。彼女はモデルのように背が高く彫の深い顔をしていた。彼女と一緒の日は週に三日ほどだったが私はその日が待ちどおしくて仕方なかった。彼女に出会ってから私は四六時中彼女のことばかり考えていた。彼女のことを想っている時は幸せな気持ちだった。仕事が終わり新宿駅までの短い時間、学校や音楽のことなど話しながら歩いた。ある日の帰り道私は勇気を出して好きな人はいるのか聞いてみた。今付き合ってる人はいないが別れた彼氏のことが今でも好きだと彼女は言った。予想はしていたもののやはりショックだった。それでも私の彼女への想いはますます募るばかりだった。
「君の面影を追い求め
荒れ果てた荒野をさまよい歩く
どこまで行けば
心安まる別天地があるのだろうか」
これはその頃の日記に書いた詩で当時の私の心情がそのまま綴られている。私は自分の想いを彼女に打ち明けることも出来ず悶々とした日々を送っていた。そんな私の気持ちを知っているのはバイト先の先輩だけだった。青森出身のその先輩は同じ地方出身の私に親切に仕事を教えてくれた。コーヒーの淹れ方やスパゲッティ、パフェの作り方もみんなその先輩に教わった。そんな先輩に私も親しみを覚え私生活のことも話すようになっていた。翌年の三月その先輩が家業を継ぐためバイト先を辞めることになった。先輩は私のために彼女とその友人を飲みに誘ってくれた。場所と時間は彼女たちに決めてもらい、六本木駅で待ち合わせして私たちが向かったのはキサナドゥというディスコだった。ヤシの木や砂、貝殻でトロピカル風に飾り付けられた店内は真冬にもかかわらずアロハシャツやTシャツ姿の男女で溢れていた。先輩と私はなんとなく場違いの場所に来てしまった気がしてお互い顔を見合せた。空いている席に着きそれぞれ飲み物を注文し、しばらくして彼女と友人はダンスフロアーへ降りて行った。私と先輩も少し戸惑ったが彼女たちの後に続いた。ディスコへは大学の友人達と二回ほど行ったことがあったが私の踊りはとても見られたものではなかった足のステップも分からずただ音に合わせて体や手足を動かしているだけだった。先輩もお世辞にも上手いとは言えなかった。それに引き換え彼女たちは音楽のリズムに合わせステップを踏み上手に踊っていた。そして私はきらめく光の中で舞い踊る彼女をまぶしく見つめていた。激しいビートの曲が何曲か続いたあと次第に照明が暗くなりミラーボールの光が回転しメリージェンの曲が流れ始めた。フロアには幾つかのカップルが体を寄せ会い踊っていた。私も彼女を誘った。私は彼女の腰に軽く手を添え、彼女も私の腰に手を回した。生温かい彼女の体に触れる手が微かに震えていた。それは私にとっては心躍る夢のような時間だった。その店で暫らく過ごし私と先輩は自宅に帰る彼女の友人と別れ彼女が姉と住んでいるマンションに向かった。彼女は千葉出身で同じく都内の大学に通う姉と一緒に暮らしていた。私たちはキッチンのテーブルを囲み三人でまた飲み直した。いろいろ雑談しているうちに話は彼女の恋愛の話になった。彼女には二年近く付き合った彼氏がいたが半年ほど前に別れたことその彼は彼女に対して冷たいけれどそれでも好きだということを話した。私はもう何も言えなかった。彼女の元彼のことは何も知らなかったが彼女がそれほど好きな彼から彼女を奪う勇気も自信も私には無かった。その夜はそのまま彼女のマンションに泊まり先輩と雑魚寝した。翌朝目を覚まし窓の外を見るとうっすらと雪が積もっていた。私と先輩は彼女が用意してくれたコーヒーとトーストで朝食をとり彼女に礼を言ってマンションを出た。駅までの道すがら先輩は失恋した私を慰め、いい人がきっと現れるから気を落とすなと元気づけてくれたが白と黒の雪景色のように私の心は沈んでいた。
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