第10話
四月、三年に進級し私は白山キャンパスに通うことになった。田んぼや畑に囲まれのどかな雰囲気だった朝霞とは対照的に白山は隙間なくビルや住宅が密集していた。専門課程の講義が始まっても私は法律の勉強に興味が湧かず授業中も小説や心理学、人生論の本ばかり読んでいた。大学には気軽に話せる友人達がいる、バイト先にも気心の知れた同僚がいるそれにも拘らず私は不安と孤独感に苛まれ夜も眠れない日が続いた。何故こうなってしまったのだろう私は自問しそれれまでの人生を振り返った。しかしいくら考えても答えは見つからなかった。私はもう限界だった。自分自身ではどうすることもできなかった。私は浪人時代に別れた奈保子に連絡を取った。奈保子は高校を卒業後奈良の看護学校に進学したと前年の夏帰省した際同じ看護学校に通う同級生から聞いていた。私は図書館の全国電話帳で電話番号を調べ学校に電話した。しかしその時奈保子は東京に修学旅行中で不在だった。私は親戚の者だと嘘を言って彼女が入っている学生寮の住所と電話番号を教えてもらった。自分から別れておきながら今更連絡できた義理でないことは十分わかっていたが私は自分の近況ともう一度やり直したい旨の手紙を書き奈保子に送った。あの時の私にとっては奈保子だけが生きる希望だった。私は祈るような気持ちで奈保子からの返事を待った。しかし手紙を出してから五日経っても奈保子からの返事は無かった。私は半ば諦めかけていた。手紙が届いたのはそれから二、三日してからだった。家に帰り郵便受けを開けると見覚えのある字の手紙が届いていた。奈保子からだった。私はすぐに封を開けエレベータの中でそれを読んだ。
今目の前にあるロウソクにマッチで火を灯すのは簡単だがそれが正しいのか間違いなのか今の私には分からない。
私は新しい生活にも慣れようやく貴方のことも整理が付いたのに今頃手紙を寄こす貴方の気持ちが分かりません。
貴方も私のことは忘れて新しい人を見つけてください。さよなら。
奈保子
彼女の言うように私ももう一度やり直すことが正しいのか間違っているのかは分からなかった。しかしもし間違っているとしても私は彼女の優しさに救いを求めるしか他に道はなかった。私は奈保子に会いに行くことに決め彼女に電話した。突然の電話に奈保子は戸惑っていたが橿原の八木西口駅で待ち合わせる約束をした。
品川駅から新幹線に乗り京都駅で近鉄京都線に乗り換え八木西口駅に着いたのは昼過ぎだった。東京を出る時は降ってなかった雨も京都に近づくにつれ雲行きが怪しくなり橿原に着く頃には本降りになっていた。私は改札を出ると待合室の長い椅子に腰掛け奈保子が来るのを待った。私はズボンのポケットから煙草を取り出し火を点けると気持ちを静めるようにゆっくりと煙を吐いた。煙草を吸い終わり窓の外を見ると藍色の傘が駅の入り口に近づいてくるのが見えた。その歩き方は奈保子に間違いなかった。私を見つけると奈保子ははにかみながら駆け寄ってきた。それは三年前と同じ笑顔だった。あいさつを交わし私たちは近くの喫茶店に入った。久しぶりに会って話すこともいろいろあったはずなのにその時何を話したか覚えていない。奈保子は通っている茶道教室のお茶会が宇治であるから一緒に行こうと誘った。私たちは喫茶店を出ると電車で宇治に向かった。私は茶道の経験は全くなかったが隣に座った奈保子の見よう見まねでお茶と菓子をいただいた。奈保子はそんな私を見て楽しそうにしていた。お茶会が終わったのは夕方近くだった。それまで降っていた雨も上がり雲間には青空が覗いていた。私たちは宇治から京都駅行きの電車に乗った。京都駅に着くまでの間二人とも何も話さなかった。切符を買って改札口に向かう間私は何か言わなければと思ったが言葉が思い浮かばなかった。そして別れ際思わず結婚しようと口走っていた。奈保子は驚いた顔をしていた。私も言った後から馬鹿なことをしたと後悔した。三年ぶりに再会したばかりなのに結婚を口にする自分が信じられなかった。
奈保子と付き合い始めたと言っても奈良と東京では月に何通かの手紙と電話のやり取りだけで私の生活は以前と何も変わらなかった。ただ奈保子とやり直すことができたことで私の中にあった孤独感は少し薄らいでいた。しかし漠然とした不安はまだ心の中に残っていたそれは自分が今の生活に満足していないからそう思うのだろうと私は思った。その年の夏休み私は宮崎に帰省した。奈保子は看護学校の友人達と小浜に旅行し遅れて帰省した。私は奈保子が帰るのを待って家の近くの海岸に遊びに誘った。奈保子の家から私の家の最寄り駅までは電車を乗り継いで1時間程の距離だった。私たちは駅で落ち合い近くの海岸まで歩きテトラポットの上に腰掛けた。私は途中京都で買った水晶のペンダントを奈保子に渡した。それからしばらくは取り留めのない会話が続いたがふと話が途切れ二人とも押し黙った。私は奈保子の肩を抱き寄せその口びるにキスをした。
夏休みが終わり東京に戻った私は長兄のマンションを出ることにした。すれ違いの長兄との同居はもう限界だった。その頃中学、高校と仲の良かった親友が高校の後輩と一緒にアパートを借りて住んでいた。親友が引っ越すとき一緒に住まないかと誘われたがその時は大学から遠すぎるからと断った。しかし今となってはこのまま長兄と暮らすよりはと思い引っ越すことにした。九月の中旬私はレンタカーを借り友人に東山のマンションから川崎市のよみうりランド前駅近くのアパートまで荷物を運んでもらった。六畳と四畳半台所、風呂トイレ付きのアパートでの3人の共同生活が始まった。
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