第8話

 高校を卒業した私は東京の予備校に通うため上京した。この頃には中学の時の事件のことは完全に忘れ去っていた。東京では長兄のマンションに同居することになった。長兄は神田にある中華料理店のマネージャーをしていた。朝は十時ごろ家を出て帰りは夜の十二時を過ぎることもあった。長兄とはひと回り年が離れていたのでいっしょに暮したのは小学校に上がる前までくらいだった。母の仕送りだけでは生活できないので長兄の紹介で新橋のすきやき屋でアルバイトをすることにして予備校は学費の関係から後期から通うことになった。東京へは母も一緒に上京した。途中広島にいる三兄の所に立ち寄り長兄のマンションに三日ほど滞在し東京見物をして帰って行った。その母を新幹線のホームで見送るとき私は寂しさとともに何か大事なものが私の心から無くなるような不安を感じた。

母が帰ったその日からすきやき屋でのバイトが始まった。昼前、長兄と一緒に店に行き店長を紹介されそのまま仕事に入った。食器の片付けや皿洗いが主な仕事で朝一〇時から午後三時までの時間だった。最初の一ヶ月は東京での新しい生活に慣れるのに精一杯だった。それまで何もかも母にまかせっきりで簡単な料理は作れたが洗濯などしたこともなかった。それに人の多さとバスや電車の乗り継ぎも慣れないことばかりだった。それでも二ヶ月程経ちそんな生活にも慣れてきた頃一人で部屋にいると無性に寂しさや不安を感じるようになっていた。長兄とは朝起きた時顔を合わせるぐらいでバイトが終わって帰ってきてもそれから寝るまでは一人きりだった。その頃私には高校時代から交際している一学年下の彼女がいた。私が奈保子と付き合い始めたのは高校三年の初夏だった。私は陸上部、奈保子はバスケット部に入っていた。私は彼女といつ出会ったのかはっきりとは覚えていなかった。体育館で彼女が練習している時なのか廊下ですれ違った時なのか思い当たらなかった。ただ当時陸上部の部室とバスケットの女子の部室は隣会わせだった。もしかしたらその時彼女と出会ったのかもしれない。私は陸上部のマネージャをしている彼女の同級生に頼み奈保子に付き合ってほしいと伝えてもらった。返事を聞くため部活が終わった部室の前で私は奈保子と初めて言葉を交わした。当初彼女は付き合っている人はいないが好きな人はいると断ってきた。私がそれでもどうしても付き合いたいと言うと奈保子は漸く考え付き合ってもいいと言った。その奈保子のことを想っても寂しさは消えなかった。好きなはずなのに心からそう思えない自分がそこにはいた。その彼女に卒業したら東京へ来てほしいと手紙を書いたがそれは難しいという返事だった。私はますます孤独になっていた私は受験を控え勉強をしなければならないのに全く手に付かなかった。部屋の片づけや洗濯もおろそかになり食後の食器も流しにそのままの事もあった。そんな私に長兄はちゃんとやれと叱ったがその時ばかりはきれいに片づけてもしばらく経つとまただらしなくなった。そのたびに長兄に叱られた。私はそんな長兄に段々反抗心を持つようになった。そして勉強しなければいけないのに勉強しない、片づけなければいけないと分かっているのに片づけない、そんな自分に自信を持てなくなっていた。バスや電車に乗っても自分を見ている人がいるとおかしな格好をしているんじゃないかと他人の目が気になって仕方なかった。そのころ書き始めた日記にも自分に自信が持てなくなった、自分が何者か分からなくなった、と書いている。高校を卒業するまでそんな疑問を持ったことは一度もなかったが私は単純に浪人の身だからそう思うのだろうと考えていた。しかし私の中では何かが確実に変わり始めていた。私は勉強に身が入らず部屋にあった本を読み耽った。この本は長兄と一緒に住んでいた三兄,従兄弟達が置いて行った本だった。小説から哲学、歴史、心理学、人文学、学生運動などいろんな本が揃っていた。そんな中で私の目を引いたのは学生運動が激しかった昭和四十年代に二十歳の若さで自殺した立命館大学の学生高野悦子が残した日記「二十歳の原点」だった。その純粋さの故学生運動の嵐の中で自ら命を絶った彼女に私は共感するとともに自分も彼女のように死ぬのではないかという不安に襲われた。私が日記を書き始めたのは彼女の影響だった。私は自分の心にある何か得体の知れないものの正体を見つけるかのように他の本も読み漁った。しかしいくら読んでも答えは見つからなかった。それどころかますます混迷するだけだった。ただ高校時代に何気なく本屋で手に取ったゲーテの格言集が私の心を癒してくれた。難しすぎて分からないところもあったが理解し共感する部分も多くあった。それを読むと不思議と心が安らいだ。私は本の裏表紙に「吾が人生の羅針盤」と書き記し肌身離さずその本を持ち歩き事あるごとに開き目を通した。

 東京に来てから五カ月が過ぎようとしていた。同じ高校から上京した友人たちもみな夏休みで帰省し始めていた。私も宮崎にいる奈保子に会いたかった。長兄に相談すると反対されたが私は言うことを聞かず帰省した。五か月ぶりの故郷は行く前と何も変わっていなかったが私は何かよそよそしさを感じた。家に帰って母の顔を見ても昔のようには落ち着かなかった。私は早速奈保子に電話し翌日の放課後学校で会う約束をした。彼女に会えばこの心のもやもやが晴れると思っていた。しかし私を見つけ駆け寄ってくる彼女を見ても私の心は動かなかった。そして東京と宮崎で離れて暮らしている上にこんな気持ちのまま付き合うのは彼女に申し訳ないと思った。私たちは河川敷の堤防の上の道を河口に向かって歩いた。そして私は唐突に彼女に別れようと切り出した。彼女は立ち止り茫然と私の顔を見つめ好きな人が出来たの?と尋ねた。そうじゃないと答えたが私は彼女の眼をまともに見ることができなかった。彼女は何も言わなかった。私もそれ以上は何も話すことが無かった。私たちは道の途中で別れた。私は駅へ向かい彼女は学校へと歩いて行った。私は彼女のためにはこれで良かったんだとそう自分に言い聞かせた。彼女の気持ちなど何も考えていなかった。宮崎に帰ってはみたものの浪人の身ではやはり肩身が狭かった。進学や就職した友人たちと遊んでいても引け目を感じずにはいられなかった。私は予備校の準備があるからと口実をつけ予定を早めて上京した。

 母と三兄が用意してくれたお金を払い私は予備校に入校した。それに合わせバイトもマンション近くのレストランに替わることにした。予備校に通い始めても私は相変わらずだった。授業はまじめに受けたが家では教科書を開いても集中出来ず勉強もせず本ばかり読んでいた。予備校へ通い始めて二カ月程経った頃私は一人の女子学生と知り合った。授業の休憩時間隣に座った彼女がノートを見せてほしいと声をかけて来た。私にとっては東京で初めて出会った同年代の女性だった。それから私たちは一緒に授業を受けたり、喫茶店へ行くようになった。彼女は東京生まれの東京育ちで両親が仕事で海外に行っているため叔父さんと一緒に東中野に住んでいるということだった。彼女は服装も喋り方も都会的だったが顔立ちがどこか私の母に似ていた。そんな彼女に私は親近感を覚えた。年の瀬も迫った十二月の或る日受験を控え田舎に帰れない私のために母から米や餅,柿が入った荷物が届いた。もう夜も遅かったが私は彼女に柿をあげようと思い電話して会う約束をした。

 私は紙袋に柿を数個入れ待ち合わせ場所の代々木駅へ急いだ。予備校以外で彼女と会うのは初めてで私は少し胸がときめくのを感じた。代々木駅で落ち合った私たちはどこに行くというあてもなくそのまま山手線の外回りの電車に乗りこんだ。私たちは秋葉原で中央線に乗り換えお茶ノ水駅で電車を降りた。そこから千代田線の新御茶ノ水駅でまた電車に乗り表参道の明治神宮前駅に向かった。改札を出て地上に出ると道の両脇の街路樹には年末恒例のイルミネーションが飾り付けられいやがうえにもクリスマス気分を盛り上げていた。私はお袋から送ってきたと言って持ってきた柿の入った袋を彼女に渡した。彼女は柿のプレゼントに不思議そうな顔をしていたが快く受け取ってくれた。私たちは恋人同士のように手を繋ぎ表参道を青山方面に歩いた。私はもちろん楽しかったが彼女も満更でもないようだった。私たちはそのまま渋谷駅まで歩きまた山手線の外回りの電車に乗った。原宿駅を過ぎると代々木駅は直ぐだった。私たちはホームのベンチに腰掛け中野方面行きの電車が来るのを待っていた。私はもう少し彼女と一緒にいたかった。そして思い切って彼女に家に行ってもいいかと尋ねた。彼女はいいよとあっさり答えた。私はてっきり断られると思っていたので彼女の返事に驚いた。そして何故か急に不安になり自分から行ってもいいかと聞いておきながらやっぱり止めておくと口にしていた。彼女はわけが分からずきょとんとしていた。電話で会う約束をしたとき私はただ会って柿を渡せればいいと思っていた。彼女の家まで行くことまでは考えていなかった。高校時代二人の女性と付き合ったが私は手さえも握れないほど奥手だった。やがて電車が到着し彼女は帰って行った一人になって私は彼女の家に行かなかったことを後悔していた。十二月一杯で予備校の授業も終わり彼女と顔を合わせることもなくなった。その後大学に合格したとの電話が一度あったがそれきり彼女からの電話はなく私も連絡をとらず音信不通になってしまった。こうして私の東京での初めての恋は終わった。

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