第4話

 私がまきと出会ったのは今から三十年前の大学四年の夏だった。東京の大学に通っていた私は卒業を控え車の運転免許を取るため日向に帰省していた。その日も市内の自動車学校で教習を受けその帰りに兄の家に遊びに行っていた。兄や二人の子供たちと夕食をとり、子供たちが寝静まったころ兄は私を義姉のいるスナックに連れていった。義姉はその店のママに頼まれ手伝いに来ていた。その義姉を迎えに行ったのだがそこで私の人生を左右してしまうほどの出会いがあるとは思いもしなかった。

ドアを開けるとスポット照明に照らされたL字型のカウンターの中に一人の少女がいた。彼女は私たちの方を見ると洗いものの手を止め

「いらっしゃい」

と明るく声をかけた。こういった店に来るのはもちろん初めてではなかった。東京でも何度か行った事があったし、そこで働いているのは大抵は私よりも年上の女性がほとんどだった。だから兄に義姉を迎えに行こうと言われたときもあまり乗り気がしなかった。どうせそこも以前、行ったことのある店と同じように自分より年上の女性しかおらず、子ども扱いされるだけだと思っていた。それに父親のこともあり水商売に対しても多少偏見を持っていた。しかしその考えは見事に裏切られた。今、目の前にいるその少女は夜の女よろしく化粧をしていたがそういう場所には不似合いなほど若かった。一目見るなり私の心は彼女に釘付けになっていた。薄暗い店の中で彼女の存在だけが光っていた。

私と兄は彼女と向かい合うようにカウンターに腰を下ろした。彼女はおしぼりを手渡しながら

「何にする?」

と兄に尋ねた。

兄はおしぼりで手をふきながら

「そうだな。ビールにしようか」

と答えた。

「ビールね」

彼女はちらっと私を見、カウンター奥の調理場に入っていった。

それと入れ替わるように義姉が調理場から出てきた。

「もう少しで終わるからちょっと待ってて。」

そう言うと手際よくグラスをカウンターに並べビールを冷蔵庫から取り出して栓を開けた。

「はいどうぞ」

そう言って兄と私のグラスにビールを注いだ。そして調理場にむかって

「まきちゃん。お通し持ってきて。」

と声をかけた。

「はーい。今持っていくね」

調理場から返事が聞こえた。

「まき」というのか。私は心の中でその名を呼んでみた。

「この人先生のだんなさんに似てるね」

お通しを持ってきたまきが私と兄の顔を見比べながら義姉に話しかけた。

「そりゃそうよ。だって兄弟だもの。」

笑いながら義姉は言った。まきも驚いたように

「あっ、そうなんだ。道理で似てるはずだ。」

と言ってけらけらと笑った。するとビールを飲んでいた兄が

「そんなに似てるかな。似てないと思うけど」

と不満そうにいった。

「うん、似てる似てる。目とか鼻の辺りががそっくり」

そう言って私の顔を覗き込み

「バンビの目みたい」

と言っていたずらっぽく笑った。

その日は閉店まで飲んでいた。どんな会話をしたのかは覚えていない。ただ店に居る間中私はまきを見ていた。ほかのお客に呼ばれ席をはずすとその後姿を目で追い。何かの拍子にまきと目が合うたび心がときめくのを感じた。それはそれまで出会ったどの女性にも感じたことのない感情だった。兄の家に戻り布団に入ってからも興奮は冷めなかった。まきのことを想うたび心が高鳴りなかなか寝付くことができなかった。

 私がまきの生い立ちや家庭環境を知ったのは三度目に店に行ったときだった。その日まきは店を休んでいた。それまでもママと話すことはあったが、たいていはまきが相手をしていたのでゆっくりと話をするのはその日がはじめてだった。

まきはママの娘だったが実の娘ではなかった。再婚した旦那さんの連れ子だった。彼女が三歳のとき両親は離婚し彼女は父親に引き取られ再婚したママに育てられた。両親が離婚したときまきには既に兄と姉がいたが父親の再婚によりママの連れ子の妹と父親とママの間にできた弟の二人が加わっていた。そういった複雑な家庭環境の影響もあったのか問題を起こし高校を二年で退学。その後大学生の彼氏と同棲したがその大学生とも別れて家に戻り店を手伝っていた。これがママが話してくれたまきの生い立ちだった。

それからも何度かまきに会いに店に通ったが学生の身ではそう頻繁に行くこともできず悶々とした日々を送っていた。そんなある日、夏休みで帰省していた高校時代の友人が訪ねてきた。私は彼を誘ってまきの店に行った。一人のときと違い友人と一緒ということもあってその日は話も弾んでいた。そしてそろそろ閉店の時間が近づいたころ唐突に

「ママ。今日私この人たちと一緒に帰る」

とまきが言い出した。私はびっくりするとともに天にも昇るほどうれしかった。店のお客と従業員と言う立場でなく対等の立場で接することができることがとてもうれしかった。私たちは三人で店を出ると近くの喫茶店に入った。

「これからどうしようか?」

コーヒー飲みながら私はまきに尋ねた。

「海に行きたい」

まきは即座に答えた。

「これから?」

友人はまきに聞き返した。

「そう。今から」

まきは灰皿でタバコをもみ消しながらそう答えた。

「どこの海?」

友人がまたまきに聞いた。

「小倉ヶ浜がいい」

コーヒーのカップを置きながらまきは答えた。

「よし。じゃあ行こうか」

伝票を取り上げ私は先に席を立った。

表通りにでてタクシーを拾い海に向かった。海に抜ける防風林の道の入り口に着いたのは夜中の一時過ぎだった。私たちは暗闇の中、月明かりを頼りに海辺に続く松林の中を歩いていった。海が近づくにつれ波の音が次第に大きくなる。やがて松林を抜けると目の前に月に照らされ銀色に輝く海が広がっていた。夏とはいえ夜の海辺は肌寒い。私たちは風がよけられそうなくぼ地を見つけると焚き火をするため枯れ枝や流木を探した。焚き火を囲んで砂の上に座りとりとめのない会話が続いた。その間も私はオレンジ色の炎に照らされるまきの横顔を友人に気づかれないよう盗み見ていた。そのとき私は友人を一緒に海に連れてきたことを後悔していた。

私のまきへの気持ちを知ってか知らずかお構いなく友人はこの小さなキャンプファイヤーを楽しんでいるようだった。そんな友人に彼女と二人きりになりたいから帰ってくれとはとても言い出せなかった。そんな私の気持ちが通じたのかまきと二人きりになる機会は意外にも早く訪れた。焚き火をしているとは言っても冷たい砂の上に長時間座っていると体が冷えてくる。私は用を足したくなった。

「ちょっとトイレに行ってくる」

と言って立ち上がろうとした。するとまきも

「私も行く」

と言って立ち上がりジーンズについた砂を手で払いのけた。

「それなら向こうの野球場のトイレに行こう。ここじゃできんもんね。」

私は冷静を装いまきに話しかけた。内心はくらくらするほど心臓が高鳴っていた。

私とまきは友人を一人残し砂浜を歩き出した。

「暗くて怖い」

まきがぽつりと言った。

私が黙って左手を差し出しだすと、まきも何も言わずその手を握り返してきた。初めて触れたまきの手は冷たく華奢だったがその指はしっかりと私の指を握り締めていた。

「ハンカチ持ってる?」

野球場のトイレにたどり着くとまきがたずねた。

「いや持ってない」

そう答えるとまきはジーンズのポケットから白いハンカチをとりだし私に手渡した。

「ありがとう」

私はハンカチを受け取った。

「先に済ませたら待っててね」

そう言い残すとまきは少し離れた場所にある女子用トイレに駆け込んだ。

用を足して外に出たがまきの姿はまだなかった。私はハンカチを手に持ってまきが戻るのを待った。暫くしてまきが戻ってきた。私は少し湿ったハンカチをまきに差し出した。

「ありがとう。待たせたね」

そう言ってハンカチを受け取り、手を拭うときれいにたたみなおしてポケットに仕舞った。

私たちは来たときと同じように手をつなぎ友人の待つ海辺へ向かって松林の中をまた歩き出した。私は戻りたくなかった。まきと二人だけでいたかった。このまま友人の居る場所へ戻ればもうまきと二人きりにはなれない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。私は意を決しつないだ左手でまきを引き寄せ抱きしめるとその唇にくちづけた。まきは抵抗しなかった。私の腕に身を任せ崩れるように砂地の地面に身を横たえた。私はサマーセーターの上からまきの胸に触れた。

「胸はだめ」

制するようにまきは小さくそう囁いた。

私は何もいわず胸から手を離した。私たちはお互いを求めるように激しく口付けを交わした。まきがそのときどう思ったのかはわからないが私は幸せだった。それまで何人かの女性と出会い付き合ってきたが、これほど安らぎと幸福感を感じたことはなかった。

どのくらいの時間そうしていただろうか。ようやく私たちは起き上がり服についた砂と枯葉を払い落としお互いの顔を見て照れくさそうに笑った。

海辺に戻ると友人は肩肘を立てて寝そべっていた。私とまきは何もなかったかのように自然に振舞おうとしたが、お互いの気持ちを確かめ合った後ではその想いを隠すのは無理だった。私は友人が見ているのも構わずまきの足を枕に横になった。まきは黙ってその細い指で私の髪を優しく梳き始めた。月も沈み真っ暗になった夜空には星が瞬き、寄せては返す波の音しか聞こえなかった。頬から伝わるまきのぬくもりを感じながら私は

「これでもう独りじゃない、独りじゃないんだ」

と心の中で何度もつぶやき、この幸せがいつまでもつづくと信じて疑わなかった。

夜明けまで海辺で過ごし、まきと別れ家に帰った私は眠ろうと布団に入ったがまきの事が頭を離れずなかなか寝付けなかった。いつの間に眠ったのか目が覚めるともう昼過ぎになっていた。ほんの何時間か前に別れたばかりなのに私はもうまきに会いたくなっていた。少し迷ったが私はまきに電話をかけた。

「はい斉藤です」

電話に出たのは小学生くらいの男の子だった。

「あ、甲斐というんだけど、お姉さんいる。まき子姉さん」

そう言うと電話の向こうで男の子がまきを呼ぶ声が聞こえた。

「まき姉ちゃん。電話」

「誰から?」

「甲斐さんていう男の人」

私は優しい声を期待してまきが電話に出るのを待っていた。しかしまきの声はどことなく沈んでいた。

「もしもしまきだけど。なに?」

「ちょっと声が聞きたくて。少しは寝た?」

「うん少し・・」

まきの声は明らかに迷惑そうだった。私は少し不安になっていた。それでも思い切って

「これから会えない?」

と聞いてみた。

「いまから?」

「そういまから」

「・・・いいよ。じゃ三時に」

少し間があってまきが答えた。

「場所は?」

「場所は私の家の前」

「分かった。じゃ三時に」私がそう言い終わるとすぐにまきは電話を切った。

待ち合わせの約束をしたにも拘らずあまり乗り気でないまきの様子が気になったが私は出かける準備をした。

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