第3話
翌朝ホテルを出て焼野海岸のきららビーチに車を走らせた。そこはまきと一緒に行った想い出の場所だった。その途中に竜王山という小さな山がある。私は以前まきから桜の名所だと聞いたことを思い出した。何度も小野田には来ていたが一度も行ったことはなかった。道に迷いながら漸く竜王山にたどり着き、まきが喜んでくれそうな満開の桜を探して車を走らせた。途中何台かの車とすれ違ったがまだ朝の早い時間ということもあって人影はまばらだった。山の登り口あたりは桜の木も数えるほどしかなかったが山を登るにつれ数が増え満開の桜が空を覆い尽くしていた。
「まきにもこの満開の桜を見せたかった」
私は心からそう思った。空一杯に咲き誇る桜の花の華やかさとは裏腹に私の心は深く沈んでいた。もっと綺麗な桜をと思っているうちに車は山頂にたどり着いていた。そこは広い駐車場で小野田の市街が見渡せた。私は車を降り、病院のある方向に携帯のカメラを向け写真を撮った。病院が何処にあるのかは分からなかったが、その病院のベッドに横たわっているまきの姿が頭に浮かんだ。私は登ってきた道をまた引き返した。しばらく下ると白一色の桜の花の中に色鮮やかに咲き乱れる黄色い菜の花が目に飛び込んできた。華やかだがどこか寂しさを感じさせる桜の白い花の中で菜の花の黄色い色は私の心を少しだけ明るくしてくれた。よく見るとその花の下には一匹の黒い猫が寝そべっていた。私は車をその猫のすぐそばに停めたが黒猫は体を起こしただけで全く逃げようとしなかった。私は桜と菜の花だけの写真とその下で毛づくろいをしている黒猫の写真を撮った。他にも何枚か写真を撮り竜王山を後にしてきららビーチに向かった。きららビーチは7年前まきが結婚していると知って初めて会いに来たとき一緒に行った場所だった。私はそのとき歩いた砂浜の写真を数枚、携帯のカメラに収めた。きららビーチはもともと何の変哲もない海岸だったが人工の砂浜が造られその周りにレストランや温泉施設等が整備されていた。その一つにきららガラス未来館があった。
「工房でガラス細工を造る体験ができるの私もやってみたい」
と楽しそうに話していた。いつか一緒に行こうと約束していたが。結局一度も行くことはなかった。私はガラス細工を買っていこうと思った。未来館はビーチの北のはずれにあり、同じ敷地内にガラス工房があった。私は扉をあけ工房内の店に入った。壁際の棚には色とりどりのガラス細工の作品が並べられていた。どの作品も綺麗でどれにするか迷ったが、私の目を引いたのは楕円形のガラスの中に銀河のようにワインレッドと白の渦が巻きその周りに星のように気泡が浮かんでいるペーパウェイトだった。
「これならまきも喜んでくれるだろう」
ワインレッドの落ち着いた色と照明の光で輝く大小の気泡がとても気に入った。それだけではなにか寂しいのでそれとおそろいの丸い形をした一輪挿しを買って店を出た。時計を見るともう十一時近くだった。私は途中コンビニに立寄り竜王山ときららビーチで撮った写真を印刷し、まきのためにサンドイッチとお茶を買って急いで病院に向かった。
昨日と同じようにエレベータを降りナースステーションの前を通ってまきの病室の前に立った,が衰弱しやせ細ったまきの姿を見た私の心はもう昨日と同じではなかった。
「遅い。もっと早く来ると思ったから買い物、頼もうと思ってたのに」
扉を開け部屋に入った私の顔を見て少し怒ったようにまきが言った。
「ごめん、ごめん竜王山に行って桜の写真撮ってたから遅くなった」
私はガラス工房の手提げ袋から写真を取り出し一枚づつまきに手渡した。
「綺麗、満開やね」
「これ菜の花の下に黒猫が居たんだ」
私は菜の花と桜の花の下で毛繕いをしている黒猫の写真を渡した。
「ほんとだこの猫、菜の花の首飾りしてるように見える」
まきは嬉しそうに言った。
視力の落ちているまきにはそう見えたのだろうが実際には首飾りに見えた花は猫の頭の上にあった。写真を見て嬉しそうにしているまきを見ていると本当のことを言う気にはなれなかった。他の写真も一通り見終わるとまきは
「ありがとう」
そう言うと、横になっていても見えるようベッドの端に置いてあるティッシュの箱に写真を並べ立てかけた。
「それは?」
手提げ袋を見てまきは訊ねた。
「あ、これ、これはガラス細工。一度行ってみたいと言ってたから買ってきた。気に入るかどうか分からないけど」
私は箱からペーパウェイトと一輪挿しを取り出しまきからよく見えるようベッドのテーブルの上に並べて置いた。
「綺麗。ありがとう。でも高かったでしょ、そんなにお金使わなくていいのに」
まきは申し訳なささそうに言ったが、これくらいのことしか今のまきにしてやれることはなかった。
「これに欲しい物が書いてあるから買ってきて」
まきは小さなメモを渡した。
氷の入れられる水筒(小さいの)
バンデリン湿布薬
メモにはそう書かれていた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
私はメモを受け取り病室を出た。廊下には食事が載せられた配膳車が用意され昼食の準備が始まっていた。私は病院から車で10分ほどの所にあるドラッグストアとホームセンターで買い物を済ませ、途中のコンビニでおにぎり三個とお茶を買って病院に戻った。病室に入るとテーブルの上には食事が置かれていたが、手を付けた様子はなかった。
「水筒はこれで良かった?」
私は買ってきた子供用の小さな水筒と貼り薬をテーブルの上に置きまきに聞いた。
「うん、これでいい。あまり大きいと持てないから」
「湿布貼ろうか?」
「ううんいい。後で看護婦さんに貼ってもらうから」
まきは湿布薬を手に取り枕元に置いた。
「ご飯食べなかったんだ?」
「うん食べたくない。後でサンドイッチ食べるからいい。あなたは?お昼どうするの?」
「ここで食べようと思っておにぎりとお茶を買ってきた」
私はコンビニの袋をテーブルの上に置き椅子に腰を下ろした。そして袋からおにぎりを一個取り出し口に入れた。だが食事も摂らずベッドに寝ているまきを見ているとのどを通らなかった。私はお茶で口に残ったおにぎりを流し込み食べるのを止めた。その間まきは黙って天井を見つめていた。私も何も言わなかった。ただ重苦しい時間だけが過ぎていた。その沈黙を破ったのはまきのほうだった。
「そろそろ行かないとね遅くなるといけないから。それに今日はお父さんの検査の日だから見舞いに来ると思うし」
「そう・・だね」
私は促されるように答えた。もしまきがそう言わなかったら私はいつまでもまきのそばを離れられなかっただろう。私は心を決め、椅子から腰を上げ上着を羽織った。テーブルの上を見ると底のほうにに少しだけ水が残ったまきの飲み残しの小さなペットボトルが目に入った。私はそのペットボトルをおにぎりの入ったコンビニの袋に押し込んだ。
「我慢したらいかんよ。痛かったらすぐに看護師さん呼んで薬を貰わんと」
まきは小さくうなづき
「頑張らんとね。早く家に帰りたいし、日向にも帰りたいから」
と、か細い声で言った。それを聞いて私は涙が出そうになった。私にはそれは奇跡でも起きなければ無理なことの様に思えた。しかし治ると信じて癌と闘っているまきに涙を見せることはできなかった。
「うん、リハビリして歩けるようになったら帰れるから」
私は必死に涙をこらえ、まきに悟られないように明るく言ったがその声はかすかに震えていた。
「何かほしいものはない」
「冷汁が食べたい。前に送ってくれたの」
「わかった。帰ったらすぐ送るから」
私はコンビニの袋を手に持ち、扉に向かった。
「来月は無理だけど、6月にはこれると思うから」
扉を開け、振り向きながら私がそう言うと
「そんなに無理しなくていいから」
とまきは言った。
私は廊下に出て
「じゃあまたね」
そう言っていつものようにまきに手を振った。
まきはベッドに横になったまま私のほうを見て
「バイバイ」
と言って細くなった手をいつものように小さく振った。
これが最後かもしれないそう思うと私は直ぐには扉を閉めることができなかった。もしこのまま病状が回復せずまきが危篤になったとしても多分まきのだんなは連絡してこないだろう。家族でも親類でもない赤の他人の私がまきの臨終の場に立ち会うことなどあり得りうるはずがなかった。もしこれが最後になるのならまきに最後の別れを言いたかった。
「俺はまきと出会えて幸せだったよ。ありがとう」と。
しかし生きようと懸命に頑張っているまきにそんな言葉はとても口にできなかった。私の目はもう涙で溢れていた。私は涙で霞む目で最後までまきの姿を追いながら静かに扉を閉めた。まきの姿は見えなくなり目の前にはただ白い扉があるだけだった。しかし私の脳裏にはベッドに横たわるまきの姿が焼きついていた。私は涙をこらえナースステーションの前を通りエレベータで一階に降り駐車場の車に向かった。車に戻って独りになるともう感情を抑えることができなかった。病室に一人残されたまきのことを思うと胸が締め付けられ悲しみや、やり場のない怒り、そして何もしてやれない悔しさに涙がとめどなく流れた。
「何故、まきがこんな目にあわなければならないのか。まきがいったいどんな悪いことをしたというのか」
私は運命を呪い、もしこの世に本当に神様が居るのなら奇跡を起こし、まきを救ってほしいと心から思った。私は何度もまきの病室に戻りたい衝動に駆られた。しかし戻れなかった。今病室に戻ってもしまきが泣いていたら一緒に逝こうと口走りそうで恐ろしかった。まきを一人ぼっちにしたくはなかった。しかし死ぬ覚悟もできていなかった。私は病室に戻ることも帰ることもできず車の窓越しに白い病院の建物を見つめていた。
まきの実母はまきが十九歳のときやはり癌で亡くなっていた。まきは入院した母親を付きっきりで看病し最後を看取った。だからまきは癌患者の最期がどんなものか知っていた。そんなまきがリハビリをすれば家に帰れると本気で考えているとは私には思えなかった。もしかしたらまきは私以上に絶望し本当は「死にたくない」と泣き叫びたかったのかもしれない。でもまきは取り乱すこともなくいつもと同じように小さく手を振った。それはまきの私への最後の優しさだったのかもしれない。そう思うとまた涙が目に溢れた。私はそのまきの気持ちを受け止めようと決めた。私は車のエンジンを掛けた。そしてもう一度まきのいる四階に目をやり病院を後にした。
目の前を流れる風景は涙で歪んでいた。それでも構わず私は車を走らせ小野田インターから高速に入った。少しでも早く小野田の街から離れたかった。いつまでも愚図愚図して居るとまきの許へ引き返してしまいそうだった。小野田から遠ざかるにつれ私は次第に落着きを取り戻していた。しかしどんなに遠く離れてもベッドに横たわるやせ細ったまきの姿が頭から離れず、その姿を思い浮かべる度言い知れぬ恐怖を感じた。私は別府で高速を降りると駅前の駐車場に車を停めタクシーを拾い夕暮れ迫る歓楽街へ向かった。相手は誰でも良かった。ただ脳裏に焼き付いたまきの姿をかき消してしまいたかった。そうしなければ心が壊れてしまいそうだった。
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