第2話
私は扉を開けた。そしてベッドに横になっているまきを見て目を疑った。
「これが、あのまき・・・」私は心の中で呟いた。私が想像していたまきの姿はそこにはなかった。手も足もやせ細り、お腹だけが異常に膨らみ、顔は肉が削げ落ち目も窪みまるで老人のようだった。変わり果てたまきの姿に私は言い知れぬ不安を感じた。リハビリをするほど回復しているんじゃなかったのか、私はまきの旦那の言葉が信じられなかった。まきは私の顔を見てびっくりしていた。まさかやってくるとは思っていなかったようだった。
「どうしたの?」その声はか細くしぼりだすようだった。
「やっと時間ができたんで、お見舞いに来たんだ」私は冷静を装ってそう言ったが声がうわずっているのが自分でも分った。
「吉田さんが電話したんだ」まきは自分の旦那のことをいつもこう呼んでいた。
「いや俺のほうから電話して教えてもらった。」
「そう、わざわざありがとうね。トイレに行ってたらドアをノックする音が聞こえたけど、あなただったんだ」
トイレは給湯室をはさんで隣にあった。
「これ、お見舞い」私はネーブルの入った袋とネックレスの箱を取り出した。まきはベッドに仰向けになったまま顔だけをこちらに向けた。
「食べる?」私は袋からネーブルを一個取り出しまきに聞いた。
「ううん。今はいい。それは?」ネックレスの入った箱を見てまきは訊ねた。
「これはトパーズのネックレス。まきの誕生石。これより大きいのもあったけど、まきにはこれが似合うと思って。付けてみる?」私は箱を開け銀色の四つのハートに囲まれ淡いブルーに輝くトパーズのネックレスをまきに見せた。まきに誕生石を贈るのは初めてだった。
「きれい」まきは嬉しそうに言った。
「でもこれは家に帰ってから付ける。じゃないと、もったいないもの」
「そう。じゃ、ここに置いとくね」私は箱を閉め、テレビ台の上の棚に置いた。
「ネーブルは、誰か来た時に食べてもらえばいい」そう言って壁側の棚にネーブルの入った袋を押し込んだ。
「お父さんが一日おきに来るけど、あの人は食べないから」まきがぽつりと言った。
「お父さんが来てくれるんだ」私がそう言うとまきはこくりと頷いた。
私は少しだけほっとした。まきと父親との間はうまくいってるとは言えなかった。まきの生母との別れ、継母との再婚、その離婚と再々婚、それらがまきの人生に大きな影響を与えていた。それでもまきは父親が来てくれる事を嬉しそうに話した。
「お父さんも身体悪いからその検査に。そういえば前に来たときお父さんに父の日のプレゼント買ってくれたよね」思い出したようにまきが言った。
「お父さんとても喜んでた。ありがとう」それはもう7年も前のことだった。
「ところでリハビリしてると聞いたけど、どうなの?」
「うん、膝がね、よく曲がらない」と言って膝を曲げようとしたが、ほんの僅かしか動かなかった。
「リハビリをして歩けるようになれば家に帰れるから頑張らないとね。それに宮崎にも帰りたいしね」まきは諦めていなかった。リハビリをして足が動くようになれば退院できると信じていた。
「そうだね」としか私は言えなかった。
病室に入ってまだ数分しかたっていなかったが、まきは喋るのがとても辛そうだった。私もまきに掛ける言葉が見つからず二人とも黙っていた。
「お腹が痛い」膨らんだ腹を押さえ突然まきが言った。そしてゆっくりと腕を伸ばし枕もとのナースコールのボタンを押した。
「大丈夫?」と訊ねたが、私はただおろおろするばかりだった。
「大丈夫。看護婦さんが痛み止め持ってきてくれるから」
「どうしました?」スピーカーから看護師の声が聞こえた。
「お腹が痛くて」まきは辛そうに言った。
「分かりました。痛み止め持って行きますね」
しばらくして手に薬を持ち看護師が入ってきた。
「はい、痛み止めです」そう言って薬の包みをまきに手渡した。
「ありがとう」薬を受け取り、まきは水の入ったペットボトルを取ろうと上半身を起こそうとしたがなかなか起き上がれなかった。私はベッドの枕元に行き、まきの薄くなった背中に手を廻し体を支えた。
ペットボトルを手に取ると、まきは薬を口に入れ飲み込んだ。そしてまたベッドに横になった。
「お客さんだったですね」私のほうを見て看護師がまきに話しかけた。
「そう。九州から来てくれたの。旦那はこんな時間にはこないし、誰かなと思ったらこの人でびっくりした」まきは微笑みながら答えた。
「九州からですか、それは大変でしたね」私を見て看護師は言った。
「そんなことないですよ。高速を使えばすぐですから」
「吉田さん、この後点滴をしますね。点滴の注射針は大丈夫ですか?」看護師はまきの右腕に刺されたままになっている注射針を確認した。注射針はまきの血管に突き刺さったままテープで止められ、その上を包帯で巻かれていた、
「動くと痛いのよね」看護師が出て行ってからまきは言った。
再び扉がノックされ点滴の溶液の入った壜を持って看護師が戻ってきた。その壜は小さく黄褐色の液体が入っていた。もちろん、私には何の薬か全く分からなかったが強い薬のように思えた。
看護師は壜をスタンドに吊り下げるとまきの右腕の注射針に管を繋いだ。
「点滴の速さはこれくらいでいいですか?」弁を調整しながら看護師が聞いた、
「うん。大丈夫」か細い声でまきは答えた。
「終わったら呼んでくださいね」そう言い残すと看護師は部屋を出て行った。
小さな壜から黄褐色の液体が一滴々々、音も無く静かに管の中に落ちていた。まきはうつろな目で天井を見上げ、時折テレビの画面に目をやっていた。テレビからは東日本大震災の捜索の様子や各地の桜の開花のニュースが流れていた。私は震災のニュースにはとても触れる気にはなれなかった。まきも一言もそのことには触れなかった。
「ここらあたりももう満開だろうね」テレビを見ながらポツリとまきが言った。
「うん、来る途中にも咲いてたけど満開だね」
「ここじゃ見れないもんね。きれいだろうなあ」残念そうにまきは言った。
まきに満開の桜を見せたいと思ったがそれは到底無理な話だった。ベッドのまきに目をやるとしゃべり疲れたのか目を閉じ眠っているようだった。私はただ点滴の瓶から落ちる滴を目で追っていた。
「点滴まだ残ってる?」しばらくたって、目を覚ましたまきが訊ねた。
私はスタンドに目をやった。点滴液は壜の口に少し残るだけになっていた。
「もうすぐ終わるよ」
点滴液が無くなったのを確認するとまきはナースコールのボタンを押し点滴が終わったことを伝えた。
しばらくして先ほどの看護師が戻ってきた。
「お疲れ様でした」そう言って点滴の管を注射針からはずしスタンドを片付け始めた。看護師は時折まきに話しかけていたがその明るさが私の心を余計暗くさせた。注射針の上に巻かれた包帯を取り替えると看護師は
「もうすぐ夕食の時間ですから」と言って部屋を出て行った。
携帯を見ると五時半を過ぎていた。
「ねえ、下の売店に行ってサンドイッチとお水買って来て」
「えっ、サンドイッチ、それどうするの」
「夜中食べるの。夕食はあまり食べれないから」
私は一階にある売店に行きサンドイッチとペットボトルの水を買ってきた。
「今夜はどこに泊まるの」まきが訊ねた。
「いつものところ」
「ああ、あのカラオケ屋さんの隣の」
「そう、まだチェックインしてないけど大丈夫だと思う」
「じゃそろそろ行かないとね」
「そうだね。また明日来るから」私は椅子から腰を上げハンガーに掛けたジャンパーを手に取り羽織った。
「明日は何時頃宮崎に帰るの?」
「お昼頃出ようと思ってる」
「そう・・」まきは寂しそうに言った。
「じゃあまた明日」私は扉を開けながら振り返りまきに言った。まきは小さくうなづき力なく手を振った。
私は扉を閉め廊下に出た。そしてナースステーションの横を通りエレベータホールに向かった。ナースステーションには6、7人の医師や看護師が詰めていた。
「この人たちはまきが助かるのか助からないのか知っている」
私はまきの病状を聞いてみたい衝動に駆られたが、家族でも身内でもない他人の私に教えてくれる筈もなかった。
病室を出てからも衰弱したまきの姿が目に焼きつき頭から離れなかった。
「幾つになっても可愛く綺麗でいたい」
と言っていたまきの心中を思うと可哀相でならなかった。
私は病院を後にしてホテルに向かった。チェックインを済ませ部屋に荷物を置き道路を挟んで向かいにあるパチンコ店に入った。いつもならもう晩酌をしながら食事をしている時間だったがとてもそんな気にはなれなかった。何も考えたくなかった。私は適当に台を選び何も考えずただ無心に玉を弾いた。勝ち負けはどうでも良かった。少しの時間でもまきの事を忘れていたかった。私は閉店まで打ち続けた。パチンコ店を出てコンビニに立ち寄り、ふだんは飲まない紙パック入りの日本酒と弁当を買ってホテルの部屋に戻った。酔って何も考えずただ眠りたかった。弁当を食べ酒も飲み干し、ベッドに入ったがまきのことが頭から離れずなかなか寝付けなかった。
「満開の桜を見せてあげたい」
病院から一歩も出られないまきのためにせめて写真でも綺麗な桜を見せてやりたかった。
「病院に行く前に桜の写真を撮りに行こう」
私はそう決めようやく眠りに就いた。
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