第七話 ある男が楽しみを見つけるまで 起

 書斎の棚の上に置いてある一つの写真。大きな庭のある屋敷の入り口の前で、左側に父親らしい男性、右側に母親らしい女性、中央にその子供であろう少年が並んでいる。それを手に取って懐かしそうに見つける紳士。それを見て彼は思い出す。自身の生涯の楽しみを見つけたその日のことを。


   *


 物には魂が篭るという言葉を聞いたのは幼少期。父親からだった。私の父はいつもみすほらしい格好をしていた。穴のあいたジャケットをつぎはぎで補修したものをいつも着ていた。周囲からの評価は偏屈者。人の意見を聞き入れないからである。そんな父が私に言い、初めて響いた言葉がそれだった。


 それが何歳の頃のことかははっきりと憶えていない。ただ、それはそよ風吹く初夏の頃だったかと思う。空は少しの白い雲があるが晴れており、強過ぎず弱過ぎずの適度な日差し、ふわっとそよ風が窓を開けたリビングを吹きぬけていた。

 閑静な住宅街。上品で高級住宅街と言われるそこに、程々の広い芝生を伴った庭とともに洋風の高級でも低級でもない普通の家が建っていた。それが私の住む家だった。

 その日は日曜日であり、私はリビングの端に置いてある花瓶を運び、水を入れ替えようとしていた。家の手伝いである。母親に頼まれて。母のことはあまり憶えていない。これから数年で母は亡くなることになるからだ。父が言うには、優しい人だったということだが、それでは説明になっていない。その根拠となるエピソードが私の中には欠けているのだから。

 黒い花びらを持つ花がその花瓶には差してあった。当時は分からなかったが、つい先日思い立って調べてみたら、それは黒百合だった。飾るような花ではないと思うのだが、なぜそれはそこに差してあったのだろうか。

 その花瓶は当時の私の胴体程度の大きさであり、頑張れば何とか運べる程度の重さだった。しかし、それを持つと視界がほぼ塞がれ、足元が見えない。私は何かに毛躓(つまづ)く。


ガシャーン!


 両手が塞がっていた私は受け身が取れなかったため、頭を少し打ってしまっていた。幸い、頭部前面をこつんとぶつけただけだったので、大事には至らなかったが。とは言っても、ふらふらして、波打つ水面に映る風景のように視界が歪んだことは今でも鮮明に覚えている。頭の打った部分を押さえる。すると、べったりと赤い液体がこびりついた。それがアイボリー色の床へとぽとぽとと落ちていく。しかし、そこには先客がいた。水と花瓶の破片と散った黒い花の断片である。そこに落ちた赤い液体は、淡い紅の沁みとなり、広がっていった。そこには何ともいえない美しさがあった。それに私は暫く見とれていた。


 足音が聞こえてくる。走って駆けてくる音。二種類の音。それがどんどん大きくなっていく。私は我に帰ってその音の発生源の方を見つめる。リビングの入り口。そこに立っていたのは父と母だった。

「大丈夫、○○?」

母は私の名前を呼び、青褪めた顔で額の傷を見つめる。触る。べたりとついた私の血。

「母さん、僕は大丈夫だよ。それより、ごめんなさい……、花瓶割っちゃった。」

それは母が一際大切にしていた花瓶だったのだ。だから、私は最初に母に謝った。

「いいのよ、大丈夫なら。止血したら一応病院行きましょうね。私は救急セット取って来るから、あなた、この子のこと暫く見てて。」

父の方を向いてそう言ったあと、母は小走りでリビングから出て行った。父は母を呼び止めようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。溜息をつく父。なぜなら、母は物を探すのが致命的に下手だったからだ。


 父はその辺にあった無機質な四角い金属製の箱を持ち出す。大きさは割れた元花瓶がすっぽり納まる程度。側面には取っ手が取り付けてある。

「お前も手伝いなさい。」

父は少々不機嫌そうに私に指示する。私は仕方なさそうにその指示に従い、父が渡してきた白い手袋を受け取る。それを装着してだらだらと破片を回収し始めた。同じように手袋を装着した父は手際よくさっさと破片を回収していく。

「この花瓶は母さんと私の思い出の品なんだ。」

「そうなんだ。」

興味なさそうにそっけない返事をする私。父に目線を向けもせず、手元を見ながら作業を続けている。

「この花瓶はな――。」

何か話す父。しかし、私はそれを聞きたくなかった。下を向いて顔をしかめ、破片を先ほどよりも乱暴に箱へ放り込む。その音に父の声がいい塩梅に打ち消されていく。

「まあ、聞け。これを割ったお前にはその責任がある。」

珍しく父は食い下がるように私に構ってきた。破片の音より大きな声で。普段ならこの素っ気ない対応で父を煙に巻くことができるのだが。だからこそ、私は興味を持った。あまり物事に拘りのなさそうな父がそれについて私に聞かせようとしたのだから。


 私は、手を止め、父に問いかける。

「分かった、聞くよ。でも何でそんなにこだわるの?」

「聞けば分かる。」

そっけなく父は返答するが、その口元は緩んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魂の塵 鯣 肴 @sc421417

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ