無色の壁のむこうには

 信号が青になったのを確認しハンドルを右にきって埠頭へと入る。道路の両サイドは駐車場になっていた。右手は三階建ての立体駐車場で、左手は本館の下に設けられたピロティ形式の駐車場だ。ぱっと見たところどちらも空いているようなので、車を入れやすい左手の北側駐車場に停めることにする。入館時に道路を渡らなくてもよいのがすばらしい。


 駐車場の入口には、A型の立て看板が歩道の縁石に寄せるようにして置いてあった。まばゆい朝の日差しが、白トタンに赤文字のコントラストいっそう際立たせていた。利用料金がひと目でわかる。


 宝くじ売り場にも似た簡素な造りの料金所のかたわらで、ウインドブレーカーを羽織った初老の男性がパイプ椅子に腰かけている。上下紺で統一した警備員風のコスチュームからして所員なのだろう。しかし、ウインカーを出しても、立ち上がるような気配はなかった。ガソリンスタンドよろしく軽快な先導があるものと思いこんでいたので肩すかしをくらう。わざわざ屋外に陣取っているのに腰さえ上げないのかよと内心毒づいてみたが、よくよく見れば誘導灯を持っていない。ただの料金収受員らしい。まぁ彼らも人だ、詰所にこもりきりで窓口業務はごめんこうむるってことか。今日みたいな晴れた日は、日当たりのいい場所に席を構えて日向ぼっこをしながらのんびりと客を待ちたくもなるだろう。運転中に目にした冴え冴えとした秋空を思い出し、僕はひとり納得した。


 ゆっくりと車を寄せつつパワーウィンドウを開く。吹きこんでくる風は乾いていて、車内の空気に慣れきった肌には少しつめたかった。


 全開になった窓から顔を出し、おはようございますと声をかけるべきか悩む。そのつかの間の逡巡がいけなかった。頭の音を口に出そうとしたときには、すでに「五百円ね」と係員が値段を告げていた。喉もとまで出かかっていた言葉をひっこめ、声に促されるままに財布から百円玉を五枚抜き出す。冷静に考えれば先に声をかけられたからといって挨拶をしてはいけないという道理はないのだが、出端をくじかれてタイミングを逸した僕は、黙ったまま窓から手を出し係員に小銭を手渡した。「はい、どうもぉ」と気の良い返答に次いで、この奥へと進んでください、と手振りを加えて指示をされる。係員は鷹揚とした物腰で、せっつく様子はなかった。後ろに車がつかえているわけでもない。だというのに早く車を出さなければと気がせいだ。挨拶のできず無言で押し通した気まずさか。抱く必要もない切迫感を胸に、僕は小さく頭を縦に振り首肯とも目礼ともつかない中途半端な会釈をして窓を閉めそそくさと車を発進させた。車が動き出してすぐに後悔する。せめて、ありがとうくらい言っておけばよかった。だが、わざわざ引き返してありがとうと告げるのもおかしいので車をそのまま進める。


 駐車スペースには大型バスが一台と普通車が数台あるだけだった。それでも壁際に控えていた制服姿のガードマンが律儀に誘導灯を振って奥へと導いてくれた。


 車を停め時計を確認すると開館時刻ちょうどだった。敷地の隣を走る幹線道路を通り、入口を確認したのが一時間ほど前のこと。早く着きすぎたので少し行ったところにあったファミリーマートに寄り、小腹がすいていたので焼そばパンともちもちくるみパンとペットボトルのレモンティーを買って車内で一服し、それからカバンに入れてあった文庫本を繰って時間を潰した。頃合いを見計らってコンビニを発ったとはいえ、まさかこんなにぴったりに着くとは。


 車を降りようとドアを開き、思わず身をすくめた。十月も終わりの週、太陽の位置がまだ低いこの時間は気温も上がりきっておらず、少し陰に入るだけで体感気温がぐっと下がる。ピロティの下、そのほの暗いふところには、明け方のひんやりとした冷気が払われることもなくわだかまっていた。ボタンダウンシャツに薄手のニットカーディガンでは寒い。襟を正すようにしてシャツの首元を閉めながら車外に出て伸びをした。吸いこんだ外気に気道が掃かれ体の熱が奪われていくのは、すがすがしさよりもつめたさが勝っていた。けれど、肺に充満した空気を吐き出すと不思議な爽快感がある。冬の色を帯びはじめた空気はうすく、吸いこんだ息は体のぬくもりをのせたぬるい呼気となって天へと吐き出される。それが体内にこごっていた疲れを宙に放って風に吹き送るようだ。


 深呼吸のあと軽くストレッチをする。腕を下しながら首を回せば盛大に音が鳴る。ずっと運転しっぱなしでほとんど同じ姿勢を保ってしていたし、その上コンビニの駐車場ではうつむいて文庫本を繰って時間をつぶしていた。肩も重くなるはずだ。筋肉が十分にほぐれたら、後部座席からボディーバッグを取り出し、忘れ物がないかチェックしてから鍵を閉めた。


 駐車場は、道側と壁側にそれぞれ一列ずつ駐車スペースを配してあり中央を通路が貫く構図になっている。存外に奥行きがあってどれほどキャパがあるのか判然としないが、それでもあまり多くの車は停められそうにない。壁側の一部にバスを停めるスペースもあるもののそれと合わせても五十台いけばいいほうだろう。あくまでメインは南側の立体駐車場ということなのか、あるいはそれほど埋まらないのか。


 駐車場と道路の境界は植栽で区切られていた。寄植えの灌木のむこうの42号線を普通車やトラック、バスと種々の車がひっきりなしに通っている。片側二車線の国道は、出勤で混む時刻を越えても交通量が多いものと見え、信号が赤になると車が数珠つなぎに並んで視界をふさいだ。往来する車の切れ目からは、道路に併走するように敷かれた線路が見える。ガードレールをまたいで赤茶けたレールや枕木がのぞいている。土手のように道床を盛って周囲より高くした場所に線路を設けてあるらしい。沿線には雑木林らしい森林や小規模な宅地があった。


 見たことのない風景と、行き交う車のナンバーに散見される三重みえの文字が実感させる。

 ここは見知らぬ土地だ。


 ついに一人旅になぞ来てしまった。

 自分だけで行動するのが当たり前の生活を送っていれば、買い物や外食は言うまでもなくカラオケやボーリングであろうとお一人様で行く。遠乗りというのではないがカーステレオでお気に入りの音楽をかけながらドライブをすることもある。けれど、それでも一人で旅行はしたことがなかった。一人旅に抵抗があるわけではない。単純にバイトのシフトのせいだ。バイトにはだいたい週五か週六での割合で出ている。それほど多くの人数で回しているわけではないので、まとまった連休を取ったり急に休んだりするのは難しく、泊りがけの旅行など不可能だった。日帰りであればできなくもないだろうが、週休の二日のうち一日を旅行、余った一日を休養に充てるとそれだけで休暇が終わってしまう。そうなると、わざわざ遠方へ繰り出して疲れるよりは普段どおり家で気楽に過ごした方がいいと安易な選択肢に流れていた。どこか知らない土地へ行ってみたいという気分を多少持ち合わせていたものの、時間に余裕がなく、旅行から縁遠くなっていた。そんなときだった。アルバイト先の店舗が一部改装をすることになったのは。工事の入っている間は営業できないので、バイトはみんな一週間ほど休みをもらえた。まとまった休みというせっかくの機会を逃さない手はなかった。


 こんなの二度とないかもしれないと意気ごみ、旅の行き先を考えた。とはいえパスポートがないので海外には行けないし、国内にしても泊りがけの計画をたてようにも特別行ってみたい場所があるわけでもなかった。自分の部屋に馴染みすぎたせいで、旅館やホテルではくつろげないだろうと容易に見当がついたので日帰りに決めた。余裕があれば中休みをはさんでまた日帰り旅行へ行くのもいいかもしれないが、まずは休みのはじめにひとっ旅だ。


 遊園地は趣味じゃない。そもそもテーマパークの類は、カップルや家族連れのメッカであってひとりで訪れるような場所ではない。仏閣めぐりや動物園は天候に左右されてしまう。

 ということで水族館にした。

 近場となると大阪と三重、京都、岐阜が候補として挙がるが、淡水水族館にはあまり興味を惹かれないので後ろ二つは除外。海遊館はちいさいころに家族旅行で行ったので三重を行先に選んだ。

 こうして僕は鳥羽水族館を訪れた。


 車を離れ案内板の矢印に沿って進んでゆき、券売機でチケットを購入しチケット片手に階段を登る。エントランスは二階にあった。


 観音開きのガラスドアを抜け、スーツっぽいタイトめの制服を着たもぎりのお姉さんにチケットを渡し半券を受け取る。映画なんかと変わらないプロセスだが初めての一人旅という意識がちらついていたせいか若干の恥ずかしさを覚えた。だが、同年輩とおぼしきもぎり嬢にハブアナイストリップとばかりに微笑まれると、その笑みの柔和さというよりも、それが誰にでも分け隔てなく向けられる自然で隙のないものであったために胸中にくすぶっていた照れくささは跡形もなく払拭された。笑みに多分にふくまれた職業的なにおいが僕をひとりのお客様にする。


 もぎり嬢に別れを告げ短い階段を抜けるとエントランスホールが現れる。照明を絞りぎみにしてあってうす暗いのも、床がカーペット敷きになっているのもますます映画館じみている。水の色をたたえ青白く光る水槽や、道の駅かドライブインといった風情の土産物屋が視界の隅に見切れていなければここが水族館だと思い出せなかったかもしれない。


 あたりを見渡しても客はほとんどいなかった。平日というのもあるが、なによりも時間が早すぎる。開館してすぐに、それもいい歳をした大人ひとりで来館するような物好きは僕くらいのものだ。


 ホールを横切り、まず目に入った大水槽を鑑賞する。透明なアクリルで覆われホール側に露出している部分だけで、横は優に十メートル以上、高さも五メートルはある。壁の奥にも水槽は広がっているらしく全体としてはいったいどれくらいの大きさになるのか想像もつかなかった。


 巨大な水槽のなか、底のほうではバラエティに富んだサンゴが雑木林さながらに茂っていた。色も形もまちまちだ。葉が落ちて裸になった広葉樹のような形状でパステルカラーの枝をのばしている華やかなものもあれば、まいたけそっくりに樹冠をふくらませた地味なものもあった。岩と大差ないものまである。大きさもさまざまだ。巨大なものは、根こそ地面に張っているものの水槽いっぱいまで垂直方向に発達しサンゴ礁を形成していた。

 サンゴの色彩の森を縫うように、あるいは木立なめるような軌道でいろとりどりの魚が泳いでいる。魚のほうも豊富な種類がいてきらびやかだ。ちょっとやかましいくらいに数が多い。魚群のすきまからは悠然と水をかくウミガメも垣間見えた。


 切り取られた海が水槽のなかにはあった。

 水槽に寄って、アクリルに顔をすりつけんばかりにして魚を視線で追う。名前のわかりそうなものはウミガメ、クマノミ、それにカサゴくらいしかいないが、名前などどうでもよくなるくらいに魚たちは個々が固有の存在感で生々しく動き回っていた。はたまた水中でじっと黙したたずんでいた。


 海中そのままの風景の迫力に圧倒されつつ、水槽に手をつき額を押しつけるようにして前のめりになって観察していると、そこにアクリルがあるのを忘れてしまいそうになる。だが、少し視線を横にやり斜めから水槽を覗きこむ形になると、アクリルの継ぎ目の部分が白っぽい面となって認識できる。国語辞典並みにぶ厚いアクリルの層が膨大な量の水を受け止めている、その事実を改めて思い知らされる。この平面にトン単位の力がかかっている。てのひらに触れたアクリルがいっそう冷たく感じられた。それは水の冷たさではない確かな手ごたえを有した、硬く、重みをともなった冷たさだった。


 しかしながら、正面を見たり、上を見上げて揺れる水面を見ている分にはアクリルそのものに関心が向くことはなかった。やがて、魚そのものへと意識が完全にシフトして、どこに視線を置いても水槽自体の存在は気にならなくなる。


 しばらく魚を観察していたら、今度は逆に水と魚に焦点を合わせすぎたのか、酔っているような感覚になった。ぶ厚いのに透明なアクリルが水中の青さをそのまま伝えてくる。アクリルそのものの存在は既に意識の外で、水中をじかに観察しているような錯覚に陥った。ダイビングをしているわけでもないのに、海をただよっているような浮遊感がある、足が床についている、その感触がひどくたよりない。平衡感覚があやしい。

 目がまわった。波の加減か魚の位置のせいか、ときおり水面から射しこむ光を鱗が反射してスパンコールのようなきらめきで目を刺す。見えないアクリルの厚みが距離感を不確かなものにし、湾曲したアクリルが視界の隅で像を歪ませ空間の認識を狂わせ、対流や波、魚の移動による水そのものの運動が意識を揺さぶる。大水槽のあらゆる要素が競合して僕を幻惑する。


 まぶたをしばたかせ鼻根部を揉み、その場を離れる。それでもしばらくの間は、たしかな足取りとは裏腹にふわふわとした感覚がつきまとって去らなかった。


 メインストリートに出ると明るくなったのもあって眩暈は鎮まった。光量の落としてあったホールに対し、窓のあるメインストリートは日光が射しこんでいるのだ。窓外には青く透き通った空と広大な太平洋。視界いっぱいに開けたその海は、水槽のなか、光に透かされながらゆらりゆらりと紋を踊らせていた水面と違い、煮凝ったように黒々としていた。小波が立っているはずなのに、およそ水らしくない硬質なものとして目に映る。アスファルトのようですらあった。


 海だ。

 冬の海だ。

 アクアリウムはアクアリウムでしかない。

 どれほど規模が大きくてもアクアリウムは海にはなりえない。そんな当たり前の事実をいまさらながらに実感する。

 それでも、と思い直す。

 アクアリウムにはアクアリウムの美しさがある。


 館内はいくつかのエリアの区分があり、メインストリートからそれぞれのエリアへと行けるようになっていた。学校になぞらえると、メインストリートは廊下、各エリアは教室に当たる。エリアの鑑賞は特に順序を決められておらず自由に見て回れるようなので、僕は適当に見歩くことにして、エントランスホールと通路が交わる丁字路を左に折れる。


 いくつかエリアを巡るうちに客が増えてきた。幼児を連れた夫婦だとか、大学生くらいのカップルが仲睦まじさを見せびらかせながら歩く。その傍らを小学生のグループが通り過ぎていった。おおかた修学旅行か校外学習だろう。場違いなスーツ姿は引率の先生に違いない。


 人が増えてはきたが混雑というほどには混んでおらず、ひとつの水槽をじっくり鑑賞いても邪魔なりそうではない。自分のペースで自分の好きなところに時間をかけられるのがひとりで回るメリットだが、もう少し客が多くなればまわりに迷惑がかかるのでそうもいかなくなる。土日に来なくて正解だった。


 三階へ上ったり地階へもぐったりと行きつ戻りつとしながら館の左翼部分を制覇した僕は、来た道を引き返し右翼の探索へととりかかった。

 ときおりショーの開演を告知するアナウンスが流れていた。その手の催しには食指が動かないのでそのまま水槽をはしごしてまわった。アナウンスが入るとどっと人が移動し、エリアによってはほぼ貸切状態となった。


 それでもスナメリやアザラシ、ペンギン、ラッコなんかはそれなりに賑わっていた。貝殻を毛深い腹に抱いたラッコの前では「ミジュマルだー」と叫んでいる子供がいた。カブトガニやオウムガイ、アズマニシキ、ジュゴンに興奮している子はいなかった。ジェネレーションギャプを覚えずにはいられない。


 ところで、スナメリやイロワケイルカがいてバンドウイルカがいないのはどういうことなのだろう。イルカの代表格がいないのにイロワケイルカなどというマイナーな種がいるのは奇妙だ。スナメリの秀でた額はいかにも頭がよさそうで、そのくりくりとした瞳と相まって愛くるしくもあるが、イルカと言えばバンドウイルカの見た目のイメージが強いせいで、背びれがないのにどうにも違和感が湧いて仕方ない。イロワケイルカにしてもパンダと重なるところがあるけど、シャチのなりそこないみたいにしか思えなかった。あえてメジャーを外すことで、オリジナリティを発揮しようという魂胆なのかニッチへのアピールなのかはわからないが、やっぱり有名どころがいないと物足りなさがある。

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