カピバラの海

十一

生ぬるい海は閉ざされて

 なんで僕は死ぬことができないのか。

 考えるまでもない。簡単なことだ。

 孤独に慣れ過ぎてしまったからだ。


 中高生のころ、いじめらていたわけでもなければ友達がいなかったわけでもなく、ましてや失恋をしたわけでもないのに意味もなく死にたくなったりしたものだが、考えてみればそれも当然のことだ。どっちつかずだったのだ。みんな仲良くなんて馬鹿げたスローガンを掲げ友達ごっこをしていた小学時代を引きずり、当たり障りのないように立ち回ってそれなりの人間関係を築いてみたものの、周囲に迎合している自分にどうしようもない違和感を覚えていた。しかし、だからと言って自分を貫き通して一匹狼を気取るような勇気もなかった。半端に群れ半端に孤独だった僕は、まわりに馴染むことも孤独を飼い慣らすこともできずワンオブゼムの寂しさを持て余しながら、日々、死んでしまいたいと願っていた。リストカットなんて能動的な行動はおこさなかった。痛いのは嫌だ。音もなく、痛みもなく、誰にも知られないままこの世から消え去ってしまいたかった。亡くなりたかったし、そしてまた無くなりたくもあった。夜、布団に入って目をつむり睡魔がやってくるのを待ちながら、このまま目が覚めなければいいのにと何度望んだことだろう。


 けれど、いまではもう死んでしまいたいとさえ思わない。

 僕の生活は孤独とともにあった。

 アルバイトをしている時間を除けばずっとひとりでいる。ひとりで出かけ、ひとりで遊び、ひとりで食事をする。


 大切なものはひとりの時間。もはや他人は自分の時間を奪っていく煙たい存在でしかない。バイト仲間から飲みに行かないかと誘われても、ごめん今日はちょっと……と曖昧に言葉を濁して断り、休みが取れないからとうそぶいて盆暮れ正月にさえ実家に寄りつかない。同窓会の案内の往復はがきが来ても不参加に丸をつけポストに投函。そうやって数少ない知己とのの接点すら最小限に留め、なるたけ人と深く関わらないように努めていた。密な関係など持ったところでやっかいなだけだ。大学時代で懲りた。


 ときには人恋しさに駆られたりもする。けれど、誰かとつながりをもてば、それだけで自分の自由な時間は奪われていく。その場限りの関係であればぞんざいな態度を取っていても問題ないが、これからもつきあいがあるとなればそうもいかない。交流があるからこそ気を使わなければならない。頼みごとをされれば、にべもなく断るわけにいかず貴重な休日を潰し、逆にこちらが頼みごとをすれば今度はそのお礼に頭を悩ますはめになる。そればかりか、さらに厄介なのは相手のほうでも気を使っているという事実だ。当然、それに対しても配慮をしなければならない。気を使われていることに対して気を使うというまったくもってアホらしい配慮の連鎖。たとえおせっかいであってもこちらを慮っての行動であるとわかればこそ無下にもできない。気苦労をしょいこむばかりだ。円滑な人間関係を壊さないために気力と時間が削られていく。そうしてストレスを抱えこむの想像すると全てがわずらわしくなり、新たに他人と交わろうという気がなくなってしまう。


 だいたい、人恋しさに駆られるとき、その感情は肉欲の色を帯びており、だから僕が欲しているものは快楽をもたらし寂寞感を埋めてくれる道具としての人でしかない。自分に都合のいい使い捨ての女を、性欲のはけ口としての女を求めているだけだ。けっしてそれ以上の何かを求めているのではない。恋愛感情も連帯感もいらない。強い感情の結びつきは邪魔なくらいだ。しがらみにしかならない。だから、意志のない人形でいい。つまるところ押入れから引っ張り出してきたオナホとローションを片手に、HDD内、あるいはネット上に溢れたオカズのうちから好みの一本を選べばいい。マウスのワンクリックで、モニターのなかに鮮やかな光の像として情婦たちは具現化し、なまめかしい身体で、つやっぽい声で僕の官能をくすぐってくれる。ヴァーチャルで満たされず人肌に触れたくなったのならば、お金を下して風俗へ行けばいい。一発抜けば人恋しさなど忘却のかなただ。


 ひとりでいることを最優先する生活。これはある種の依存症なのではないかと思わなくもない。アルコールやギャンブル、買い物、セックス、そうした空虚感を埋める手段それ自体が目的と化し生活の中心となってしまうのが依存症だ。依存の対象をなによりも優先するようになり、それ以外のものは次々と切り捨てられ、生活は閉じていく。どこかでこんな、話を聞いたことがある。なんでも末期のアルコール依存症患者が住む部屋はすごく殺風景なのだとか。物がないのだ。症状の悪化と禁断症状でまともに働けなくなりアルコールを得るための資金も底をつき、終いには家電や家具を売ってまで酒を買うようになるためらしい。


 僕は自分の時間を確保するために他人のつながりを最低限にとどめている。誰かといなければならない時間は耐え忍ぶべきものであり、いわば生活の余剰だ。他者を切り捨てた僕の生活は完全に閉じきっているのではないか。

 けれどそれの何がいけないというのだろうか。ギャンブルや買い物による浪費はいずれ身を亡ぼすことになるが、孤独だからといって死んでしまいはしない。誰にも迷惑をかけてはいない。なにより僕はこの暮らしに不満など抱いていない。この生活から脱したいなどと思ってもいなければ、孤独感に苦しめられてもいない。


 僕はひとりきりの日常を満喫していた。

 一日の終わりには、ベッドの上で柔らかな布団に抱かれながら次の平穏な日に思いを馳せる。思春期は遠い昔。死の暗い引力に惹きつけられることもなく、あるのは明日への期待。気ままに好きなことをして過ごす新たな一日を想像し、あれをしようかそれともあれを……と悩んでいるうちに僕はゆっくりと眠りへと沈んでいく。

 そして夢を見るのだ。

 孤独の海を泳ぐ夢。見渡す限り誰もいない海で、飽くことなく生ぬるい水と戯れ続ける。

 外敵のいない海。

 僕のためだけの海。

 そこは巨大な水槽のなか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る