5
――耳慣れた声が聞こえた。私を呼んでいる。
そっと目を開けると、辺りは真っ白な靄のようなもので覆われていた。ここは、どこだろう。私を呼んでいるのは、誰なのだろう。私は、声のする方へ視線を向けた。
顔は見えない。けれど、ひどく悲しんでいることが、何故だか手に取るように分かった。
その声は確かに私の耳に届いているのに、何を言っているのかは分からない。私は何かを叫んだ。何を叫んだのか、自分でも良く分からない。でも、きっと、私の声は届かなかったのだろうと思う。
だったら、もういっそ、終わらせてしまおうか。
ふわふわと、私は声の主の方へ、漂って行った。地面が存在しないから、一面の靄と同じように漂うといった感覚だった。死後の世界ってこんななのかなとぼんやり考えた。
いくら進んでも、いっこうに、声の主との距離は縮まらなかった。私が進むのと同じだけ、声の主は遠ざかって行くのだ。そして、私が近付こうとすればするほど、声の主は悲しそうにする。
逃げないで。行かないで。
私はほとんど無意識に、だけど確かにそう言った。
それでもやっぱり、私の声は届かない。
不意に、誰かの声が聞こえた。
さっきよりも明瞭に、私の耳に入ってくる。
「―――と」
最初に聞こえたのとは、別の声だった。視線を彷徨わせてみたけれど、誰の姿も見えない。最初の声の主は、いつの間にか消えていた。私は心細くなり、泣き出しそうになりながら靄の中を進んだ。
今度はちゃんと声を聞くから、姿を見つけるから、もう一度だけ戻ってきて。
もう一度――
「山元!」
はっと目を開けると、私を上から覗き込んでいる村瀬と視線がぶつかった。全身をじっとりとした汗が覆っていた。
意識が覚醒してくると、アブラゼミの鳴く声が、ジージー……とあちこちから聞こえ始めた。どれだけ眠っていたのか、景色は橙色に染まり始めている。体を起こすと、水平線の向こうに夕日が眩しく光っているのが見えた。
「大丈夫?」
村瀬はそう言って、気遣わしげに私を見た。
「……大丈夫」
何が、とは聞かない。何も無いのだから、大丈夫と答えておけばいい。
「あっそ。ならいいけど」
村瀬は立ち上がって、ぐーっと伸びをした。
「俺そろそろ塾行くけど、山元はまだここにいんの?」
「や、私は……もう帰る」
「じゃ、途中まで一緒に行こうぜ」
私は頷いて立ち上がった。隣に並んだ村瀬の身長は、私よりも十センチ以上は高い。出会った時は、これほどの差はなかったのにな、と思った。
どちらからともなく、私たちは歩き始めた。浜辺を抜けて、坂道を上り始める。夕方でも、じめっとした暑さはご健在だ。
坂道を上りきり、しばらく歩いたところでY字路に差し掛かった。その中央にぽつんと置かれている標識の手前で、私と村瀬は立ち止まった。
「じゃあ、私、こっちだから」
「ん。……あ、待って」
左の道に進もうとした私を、村瀬は引き留めて手招きした。何だろうと思って村瀬のいる右側の方に行くと、彼は、Y字路を作り出している塀を指差した。
そこには、一枚のしょぼくれた張り紙があった。簡潔に言うと、地元で行われる花火大会の告知の張り紙だ。適当な花火のイラストを背景に、花火大会開催と大きく書かれた文字。その下に、七月三十一日(日)二十時よりと日程が書かれてある。
「……これがどうかしたの?」
「どうっていうか。山元、花火行かねえの?」
「行く予定だったけど」
私は張り紙から視線を逸らした。
「行けなくなったから、行かない」
花火だけじゃない。お祭りも、プールも、もう行けない。二度と行けないのだ。
不意に目頭が熱くなり、私は手の甲に爪を立てた。
「じゃ、俺と行こ」
「え?」
出し抜けに言われ、一瞬理解が追いつかなかった。何を言っているんだ。というか、何が「じゃあ」なのか。
「日曜なら、ちょうど塾も休みだし。七時半にここ待ち合わせで」
「ちょ、ちょっと待ってよ。行かないよ、私」
「いいじゃん。成仏するまで暇つぶししてるんだろ?」
そんなの、適当に言ったことに決まってるじゃない。と思ったけど、私はぐっと言葉に詰まってしまった。
「んじゃ、決まりな」
いや決まりじゃない。
「でも……えっと。その、塾の人たちとかに見られたら、村瀬が変な風に思われるんじゃないかな」
私は言葉を探りながら、そう言った。
「大丈夫だろ。てか、俺そろそろ行かないと遅れるし、もう行くわ。じゃあ、またな」
「あ、ちょっと!」
村瀬は屈託のない笑顔を残して、走って行ってしまった。取り残された私はというと、途方に暮れるしかなかった。
突っ立っていても仕方ないから、とりあえず私は帰路につくことにした。
村瀬に強引に約束させられた花火大会は、地元民しか来ないような本当に小規模なものだ。申し訳程度に屋台も出ることになっている。それでも、この辺りで行われる花火大会としては唯一のものだから、地元の小中学生のその日の予定は、たいてい花火大会になる。
正直、あまり――いや、全く気乗りしない。今度会った時にでもきちんと断ろう。
溜息を吐いて、橙色に染まった道を歩く。
そういえば、今の今まで忘れていたけれど、事故が起きる前、お母さんに浴衣を買ってもらう約束をしていたことを思い出した。それを着て、花火とお祭りに行く予定だったけれど、お母さんはもうそんな約束は忘れてしまっただろう。仮に覚えてくれていたとしても、行けないのだったら意味はない。
なんだか急に私は悲しくなって、涙が出ないように、拳をきつく握りしめた。少しだけ歩く速度を緩める。
角を曲がろうとした時、甲高い声が耳に飛び込み、私はぴたっと足を止めた。その声は私の嫌いな声だった。
そろりと注意深く角の先を覗くと、そこには三人のオバサンがいた。そのうちの一人が私の大嫌いなオバサンだった。
まだ幼かった私に、楽しそうにお父さんの浮気話をしてきた最悪なババアという印象があまりに強く、何年経とうと、この人を嫌いじゃなくなることはなかった。そういうわけで、私はこのオバサンに近付くことすら嫌だった。遠回りだけど別の道を通って帰ろう、と引き返そうとした時、それは聞こえてきた。
「――山元さん家の美希ちゃん。事故で亡くなったんですってねえ」
その瞬間、私の体は金縛りにあったかのように動かなくなった。
「それで奥さん、塞ぎ込んじゃってるみたいよ。母子家庭だなんて、ただでさえ大変なのに大丈夫なのかしらねえ」
何であんたに、そんなこと言われなきゃいけないんだ。心配なんてしてないくせに、心配してるふりなんかするな。
私はさっきよりも強く拳を握った。動いて、私の足。こんな人の話なんて聞きたくない。聞きたくない。
「それにしても、本当にお気の毒よね。まだ中学生だったのに」
動いて!
いつの間にか金縛りは解け、私は駆け出していた。
脇腹が痛くなってきたところで私は立ち止まり、へなへなとその場に座り込んだ。
もう声は聞こえない。なのに、私の耳にあの甲高い声がへばりついている。
あの人は、あの日から何も変わっていない。毎日毎日、ああして人の不幸を貪りながら生きているのかと思うとぞっとした。
それと同時に、心の奥底から怒りがこみ上げてきていた。
握ったままの拳で、コンクリートの地面をどんっと叩く。
あんな奴、あんな奴、今すぐ殺して、ばらばらに解体して、もう二度と出てこられないように、地面の奥深くに埋めてやりたい。
でも私にそんなことはできない。殺すどころか、あのババアに恨み言の一つも言うことすらできない。
ぱたぱたと、さっきまで我慢していた涙が地面に落ちて、斑模様を作った。
悔しい。悔しい。
どうしてあんな奴が生きてて、どうして――
私の頬を滑る涙は、いっこうに止まる気配を見せてはくれなかった。あんな奴の言葉に深く傷ついてしまう自分の脆さにも、腹が立った。
こんなにも、悔しくて悲しいのに、私には何もできない。
その事実を変えることもできない。
地面から手を離して、目元を拭った。手にへばりついた砂礫がぱらぱらと膝の上に落ちる。それから、よろよろと立ちあがり、私はまた歩き始めた。
悲しみに暮れ、泣いているお母さんの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
お母さん。
もし、あのオバサンがお母さんを傷つけるようなことを言ったりしたら、私が殺してあげるから。呪い殺して、ばらばらにして、二度と出てこられないように、地面の奥底に埋めてやるから。
あのオバサンだけじゃない。お母さんを傷つける奴がいたら、私がみんなみんな、ばらばらにしてやるから。
だから、もう、泣かないで。
私に背を向けて、泣かないで。
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