七月二十二日金曜日。夏休みが始まって、三日が経った。

 お母さんが昨日から職場に復帰したため、平日の昼間の今、家には誰もいない。

 薄暗いリビングを抜けた私の足は、自然とお母さんの部屋へ向かっていた。


 廊下の突き当りにあるその部屋。扉は開きっ放しになっている。

 部屋に踏み込む手前で、立ち止まる。ずきずきと体のどこかが疼いた。ほんの少しだけ躊躇した後、私はお母さんの部屋にゆっくりと足を踏み入れた。


 少し前まではなかったお仏壇がその部屋には存在している。畳の部屋がお母さんの部屋しかなかったために、ここに置かれることになったらしい。

いつもはお母さんの場所である、お仏壇の前。私はそこに正座をして、お仏壇を眺めた。周囲は黒々としているのに、中はきんきらで、なんだか異様だった。こんなに間近で見るのは初めてだった。

 遺影を見る。まだ、自分が死ぬだなんて思ってもみなかった頃の、その笑顔を。


 私の膝の上に温かい雫が落ちた。ぽろぽろと、堰を切ったかのように、それは止まってくれない。

 お母さん。

 私にも、こんな風に泣きたくなることが、あるんだよ。

 悲しいのは、お母さんだけじゃないんだよ。

 気付いてほしいなんて、そんなのは私の身勝手だ。

 私は、手の甲で乱暴に目元を拭うと、立ち上がって、そのまま外に出て行った。

 真夏の日差しは今日も健在なようで、信じられなぐらいの暑さを作り出しながら、容赦なく肌を焼いた。

 私はくたばりそうになりながらも、ぐんぐんと影のない道を歩いて行った。

 夏ってこんなに暑かったっけ。

 ふと、そんなことを思う。きっと忘れているだけで、昨年の夏も一昨年の夏も、同じくらい暑かったのだろうけれど。

 また、冬になれば私はこの暑さを忘れてしまうのだろう。今、冬の寒さを忘れてしまっているのと同じように。そうして、いつか、いつか忘れてしまっていることにも気付かなくなるのだろう。


 死んでしまった人も同じなのだろうか。

 忘れなかったとしても、記憶は薄れていく。今、頭の中の大部分を占めていたとしても新しい別の何かに書き換えられて、いつかは思い出すだけになってしまう。それはなんて悲しくて寂しいのだろう。

 横断歩道に差し掛かる。信号は赤だった。車は全く通っていなかったけど、私はその場に立ち止まり、信号が変わるのを待った。

 ミーンミンミンと蝉の鳴き声が耳障りに響いている。長い間土の中で眠っていた鬱憤でも晴らしているのかな。そういえばセミは短命だとかなんとか良く聞くけれど、それって人間に比べたらの話じゃないのか。何で違う生物と比較して短命だなんて言うのか、よく分からない。


 ぱっと信号が青に変わった。車どころか人一人いない道を歩く。吹いている風すらも生温い湿気を含んでいて、あまり爽やかな気分にはなれない。

やがて、風の中に微かな潮の香りが混ざる。この瞬間だけ、ほんの少し、気持ちが高揚する。


 夏休みの昼間だというのに、誰も寄り付かない小さな浜辺。寂しげなその姿が、私は好きだった。

 三日前にも来たのに、久しぶりな感じがする。早足でいつもの大きな木の下に向かった。

 近くまで来た時、私はあっと声をあげそうになった。誰もいないと思っていたその場所に、人がいたからだ。寝転がっているみたいだ。

そうっと近付いて、その人物を見る。顔の上にはキャップが被せられていて、見えない。見えないけど、それが村瀬大樹だということは、すぐにわかった。

 寝てるのかな。どうしよう。でも、避けるのも変だし。

 自分に言い聞かせつつ、当初の予定通り、その場に腰を下ろした。柔らかい砂にお尻が沈む。木の幹に背中を預けて、瞼を下ろした。

 やっぱりここは気持ちがいい。じっとりとした汗が引いていくのがわかる。何もせずにここで時間を使い潰すのも、悪くないなあ。

 生温い湿気た風も、潮の香りを含んでいるだけで、心地いいものになる。ここだけまるで別世界みたいだ。


「久しぶり」

 不意に声が聞こえ、私は目を開けた。視線を下げると、キャップをのかした村瀬大樹と目が合った。

「三日前会ったじゃん」

「うん。また来ねーかなと思って」

 言って、村瀬は体を起こした。背中や肩についた砂がはらはらと落ちる。

「昨日も一昨日も、ここ来てたよ俺」

「暇なの?」

「暇といえば暇だな」

 村瀬はうっすらと笑った。ここで沈黙が流れる。二人でいると喋っていないといけないような気がして、私は話題を探した。

「塾は? 夏期講習の時期でしょ」

 適当に共通の話題である塾のことを持ち出した。共通とはいっても今は違うけれど。

「昼の勉強会は自由参加だし、行ってない。おかんがうっさいから、行くふりだけはしてるけど」

「ふうん……行けばいいのに」


 去年の夏期講習は、私は自由参加の勉強会も、夜の通常授業も真面目に受けていた覚えがある。村瀬が来ていたかまでは流石に覚えていない。

「いいんだよ。面倒だし。別に勉強好きじゃねーしさ。そもそも塾だって、おかんに無理矢理通わされてるみたいなもんだし」

 村瀬はうんざりしたように言った。彼の見た目からは想像できないが、かなり厳しい家庭みたいだ。うっすらとその辺りの事情は前々から知っていたけれど、この様子からすると私の想像以上のようだ。

「なんか、大変そうだね」

 思ったままの感想を口にしていた。村瀬は首を横に振る。

「山元ほどじゃないよ」


 瞬間、顔が強張るのがわかった。

 泣いているお母さんの背中が脳裏を過る。

 決して振り返ることはない、その背中が。

 私の強張った気配を察知したのか、村瀬は慌てたように取り繕った。

「まあ、俺んちはそんなたいしたことじゃねえから」

「そっか」

 ここで謝ったりしないのが、村瀬の居心地のいいところだ。

 また、私たちの間に沈黙が降りた。今度口を開いたのは、しかし、村瀬の方だった。

「山元は、何しに来たの?」

「私は……ただの、暇つぶしだよ。前も言ったでしょ」

 そう。私がこの炎天下の中をわざわざ歩いてこんなところまで来ているのは、ただの暇つぶしでしかないのだ。

 意味なんて、ない。


「あっそ。じゃあ俺も暇つぶしってことでいいや」

 村瀬はまたその場に寝転がり、キャップで顔を隠した。

「寝るわ」

「おやすみ」

 村瀬はぴたっと静かになり、やがて、胸の辺りが規則的に上下し始めた。なんて寝つきがいいんだろう。というか、よくこんなところで眠れるなあと少しだけ感心する。


 私は、海の彼方に視線を投げた。

 水平線の向こうに、入道雲が見える。その雲の下には、私の知らない世界が広がっていて、そこに辿り着くことができたなら、自分の中の何かが変わる――

 なんてことはなくて、きっとどこに辿り着こうが、私はずっと私のまま、何も変わらないのだろうな。

 だって、幽霊になってしまった今でも、私は何も変われていないのだから。

 そもそも、変わる必要なんて、ないのかもしれない。どう足掻いたところで私はマザー・テレサやナイチンゲールのような偉人になれはしないのだから。


 ふ、と息を吐いて私はくだらないことを考えるのをやめた。村瀬の隣に、彼と同じように寝転がってみる。すると、微かな寝息が聞こえてきた。本当に寝ているみたいだ。


 寝てはいるけれど、村瀬が横にいるなら大丈夫かな――なんて思いながら、私は目を閉じた。海から吹いてくる風は、気持ちが良い。

 少しずつ、少しずつ、意識が遠ざかって行った。

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