七月十九日火曜日。

 夏休みが始まる前日。つまり、今日は学校で終業式が行われる予定の日だ。

 幽霊になってしまった私だけれど、最後の日だし、学校に行ってみようと思った。


 自室を出て、階下に下りる。リビングには、やっぱり誰もいない。

 ほとんど無意識に、お母さんの和室に向かっていた。ドアは半開きになっている。中を覗くと、布団の上でお母さんが寝息を立てていた。事故がある前は、絶対に私より早く起きていたのだけれど、あれ以来、起きるのが少しばかり遅くなっているようだった。

 仕事の方は休暇を貰っているみたいだから、何の問題もないのだけれど、なんとなく私は寂しい気持ちになる。

 行ってきます。

 口の中でそう言って、私は家を出た。


 外では、灼熱の太陽がコンクリートをじりじりと焼き、熱帯を作り出していた。まだ朝だというのに、こんなに暑かったら日中はどうなるのだろう。

 私は、ゆっくりと中学校までの道のりを歩いた。


 蝉の鳴き声。生ぬるい風。湿った空気。空に浮かぶ入道雲。あちこちに、むせ返るような夏のにおいが充満している。まだ始まったばかりの夏のにおいが。

 そういえば、プールと、花火大会と、お祭りに行く約束をしていたっけ。夏の三大イベントだなんてはしゃぎながら、ずっと楽しみにしていた。

 その約束は、ぜんぶ、消えてしまったけれど。

 プールも、花火も、お祭りも。もう、私には何の意味もない。

 

 十分ほど歩いたところで、私の中学の制服を着た生徒がちらほらと見え始めた。みんな明日から夏休みが始まる解放感からか、きゃらきゃらと騒ぎながら歩いている。私は幽霊らしく、道の隅の方を息を殺して歩いた。

 薄汚れた校舎。校門に舞う砂埃。同じ服を着た無数の人間。私が嫌いな学校の気配が、相変わらず、そこにはあった。あまり、久しぶりだという感じはしない。


 下駄箱を通り抜け、階段を一段ずつ上る。廊下をまっすぐに歩き、二年三組の教室にするりと入った。まだ教室にいる人間は少ない。

 私の席は、窓際の一番うしろ。誰にも気付かれずに身を潜めることができる、お気に入りの席だ。


 私の机の上には、花瓶が置かれていた。

 生けられているのは、白いユリの花。

 いつからそこにあるのか、花弁の端の方は、茶色く腐り始めていた。水はほとんど干乾びていて、痛々しい。もし花に声帯があったら、悲鳴をあげていそうだ。

 どうせ置くなら、水くらい換えてくれたらいいのに。

 内心で呟いて、自分の席に座った。片肘をついて、窓の外に視線を投げる。グラウンドは太陽のせいでぎらぎらと凶暴に光っていた。こんな炎天下で活動しなきゃいけない運動部は可哀想だなあ、なんてことを思ってみる。


 教室がにわかに騒がしくなっていった。幾多の声が重なり合い、ただの雑音のようになって私の耳に届く。

 私には関係のないその声たち。意味がないのなら、聞こえていないのと同じだ。

 視線だけを室内に向けると、小さな人の輪がいくつもできているのが見えた。肩を叩き合いながら、友達どうしでおかしそうに笑っている。くだらないことを話しながら、くだらないなんて微塵も思わないで話している。私は視線を窓の外に戻した。

 もう教室内はたくさんのクラスメートで溢れている。でも、誰も私の座っている席には近付こうともしない。当たり前だ。私はここにいるけれど、いないのと同じなのだから。


 きぃん、こぉん、かぁん……と予鈴がなった。それでも、騒がしさはいっこうに収まる気配はない。笑い声が聞こえるたびに、私は耳を塞ぎたくなった。

 やっぱり来るんじゃなかったなあ、と後悔の気持ちが生まれる。一度来てしまったからには、最後まではいるつもりだけど。

 五分後、本鈴が鳴るとほぼ同時に、担任の教師が教室に入っていた。いつもぼさぼさの頭で、全くやる気というものを感じられない、理科担当のおじさん教師だ。面倒くさそうに「座れー」と声を掛ける。クラスのみんなが徐々に席についていく。少ししたところで、喧噪はようやく収まった。朝のショートホームルームが始まる。

 先生は連絡事項だけを淡々と伝えると、夏休みのしおりなるものを配り始めた。表紙には、ネットのどこかのサイトから適当に拝借してきたのであろうヒマワリのイラストがプリントされている。

 それから、今から始業式が始まるから体育館に集合という旨を伝えたところで、ホームルームは終了した。

 みんなは、おしゃべりの続きを再開しながら、次々と廊下に出て行った。私は、ほとんど誰もいなくなった後で、教室を出た。

 

 体育館には、教室なんかとは比べものにならないくらい大量の人間がいた。こんな風に大量の人間を見るたびに私は、いったいぜんたい今までどこに身を潜めていたのだろうと疑問に思ってしまう。

 学級委員の女の子が「並んでー」とクラスメートのみんなに声を掛けていた。おしゃべりを続けながらも、みんなはぞろぞろと並び始める。私は列の一番後ろで息を潜めていることにした。


「テステス」マイク越しに、教頭先生の声が響く。

 教室内より、何倍にも膨れ上がった雑音に、私は飲みこまれそうになる。ぐるぐる頭の中で渦を巻いて、平衡感覚がどんどん失われて、そのまま世界が暗転してしまいそうだ。


「では、これより始業式を執り行います。まず初めに、校長先生の挨拶です」

 瞬間、体育館内は水を打ったように静かになった。すうっと平衡感覚が元に戻ってくる。何百人という人間がいっせいに静かになるなんて、少しおもしろいなと、つまらないことを思った。

 校長先生は檀上に上がると、つらつらと益体もない話をし始めた。ろくに聞いてもいないのに、そんなことを決めつけるのは酷いのかもしれない。まあきちんと聞いたところで、きっと同じ感想しか浮かばないだろう。


 ようやく、話の終わりが見えてきたころに、校長先生は言った。

「みなさんに、悲しいお知らせがあります」

 今の今まで、意識の外だった校長先生の声に、全神経が向いた。悲しいお知らせが何かは分かり切っている。思わず耳を塞ぎたくなったが、私はそのままじっとしていた。

「一部の生徒にはもう伝わっているかもしれませんが、二週間ほど前に、二年生の山元美希さんが交通事故でお亡くなりになられました」

 体育館内がざわつく。隅の方に控えている先生の何人かが「静かに」と注意をした。

「みなさんで、山元さんのご冥福をお祈りしましょう」ごほんと咳払いをする。「それではみなさん、黙祷をお願いします」

 その言葉と同時に、周りの人がすっと瞼を閉じた。黙祷の意味が分からなかったのか、きょろきょろしている人もいたが、周りに倣って同じように目を閉じた。

 私は少しだけ周りを観察すると、顔を俯け、唇をぎゅっと引き結んだ。

 黙祷は死者の霊に祈りを捧げる行為。いったいこの中の何人が、心の中で、祈ってくれているのだろう。

 全員じゃなくていい。せめて、友達だけでも死を悼んでくれていたら、それでいい。

 終わりの声が聞こえても、私は顔を上げなかった。

 始業式は滞りなく終了し、クラスでのロングホームルームも、すぐに終わって放課後になった。

 私はすばやく教室を抜け出すと、まっすぐに下駄箱に向かい、校舎から出て行った。

 時刻はまだ、十二時前。今家に帰ったら、泣いているお母さんをまた見てしまうかもしれない。

 そう思って、私は、家に帰る道とは逆方向に歩き始めた。


 登校してきた時よりも、太陽は天高くに昇っていた。夏のにおいは、朝よりも更に濃くなっているようだった。

 ふらふらと誰もいない通りを南へ下っていく。目指す場所は決まっている。一人の時に私がよく立ち寄っていた場所だ。

 陰もない道をひたすらに歩いていると、首筋を汗がつぅと滴っていった。今日はなんて暑い日なんだろう。

 それでも歩みを止めずに進んでいると、風に乗って、潮の香りが漂ってきた。私の好きなにおい。夏の象徴のようなその香り。

 坂道に差し掛かり、早足になりながら下って行った。もうすぐ着く。


 ふわりと優しい風が私の髪を揺らめかせながら通り過ぎて行った。

 着いた。

 そこは、誰もいない小さな海だった。

 夏になっても全然人が寄り付かない、小さくて汚い、寂しい浜辺。雑草や小石、お菓子のゴミたちが砂の中から顔を覗かせている。

 私は、浜辺にところどころ生えている木の中でも、一番大きな木の下に座り込んだ。木陰になっていて気持ちいい。私の定位置だ。


 膝を抱えながら、穏やかに揺れる波を見つめた。寄せては返す、その様子が好きで私はよくここに来いた。何時間でも、そうしていられる気がした。

 ここに来るのも久しぶりだ。相変わらず、人は誰もいない。体育館にいた時とはあまりに対照的で、何だかおかしくなった。

 しばらく、呆然と波を見つめていたあと、私はその場に寝そべって、目を閉じた。

 視界を遮断すると、周りの音がより鮮明に聞こえるようだった。蝉の鳴く音が至るところから聞こえてきて、まるで包囲されてしまったみたいだ。蝉の声に交じって、ささやかな波の音も私の鼓膜を揺らしている。


 このまま、消えてしまいたいな。

 ここは、夏だというのに妙に涼しくて、心地いい。さっきまで流れていた汗は、すっかり止まってしまっていた。ここで消えてしまえるなら、それはそれでいいかもしれない。それに、柔らかい砂の布団も、悪くないし。

 周囲の音がゆるやかに遠ざかっていく。蝉の鳴き声や波の音が、まるで子守唄のようになっていくみたいだった。

 そのまま、暗闇に身を委ねようとした、その時だった。

「――山元?」

 声が、聞こえた。

 誰にも呼ばれることはなかったはずの、私の名前を呼ぶ声が。

 私は、ゆっくりと瞼を開けた。

 見なくたって、声の主は分かっている。

「こんなとこで、何してんの?」

 村瀬大樹。

 奇跡のように私を見つけた、私の友達。

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