幽霊少女は生き返らない。

雨宮れん

 二〇××年七月九日、私は幽霊になった。

 うだるように暑い、真夏の昼間のことだった。


 その日は土曜日で、外からは蝉の鳴き声が聞こえ始めていた。扇風機を回していても汗がだらだらと流れ出てくる。

 お母さんエアコンつけてもいい? ダメよ。お昼ご飯までは我慢しなさい。ケチー。

 リビングからすぐ近くの台所では、お母さんが昼ごはんの用意をしていて、いい匂いが漂ってきている。今日の昼ごはんはそうめんじゃないみたい、と内心で少し喜んだ。


 私はリビングのソファに寝そべって、テレビを見るともなしに見ていた。開け放した窓から、時折風が入り込み、白いカーテンを揺らす。そんなささやかな風なんて、少しの涼にもならないくらいに、暑い日だった。

 ねえお母さん。暑いし、アイス買ってきてもいい? 何言ってるの。もうすぐお昼ご飯できるわよ。自転車飛ばしてってすぐ戻るからさ! もう、早くしなさいよ。箱で買ってくるからご飯のあとで一緒に食べよ! 何か希望ある? じゃあ、ミルク味のやつ。おっけー!


 そして、これが、最後の会話だった。

 家から少し離れたコンビニに行くために、自転車を走らせていたところに、大型のトラックが突っ込んできて、ほぼ即死だったらしい。

 それからの私が聞いたのは、誰かが泣き叫ぶ声や、それを宥める誰かの声。ぽくぽくぽく……と永遠のように鳴り響く木魚の音。それに合わせて、無限に続いていくかのようなお坊さんの読経。私は後ろの方に座って、ただ、その光景を眺めていた。なんだかまるで現実感がないような感じがした。耳を澄ませると、昼と夜を間違えたのか、場違いな蝉の鳴き声が聞こえてきた。


 後ろの方に座りながら、私は、命って呆気ないなあとぼんやり考えた。

 だって昨日まで普通にご飯を食べて学校に行って、おもしろくもないテレビを見て笑って、眠くなったら寝て。まだ十四年しか生きてなくて、未来があることに何の疑いも持っていなくて、死ぬことなんて考えたことすらなくて。そんな風に、当たり前に、生きていたのに。

 それがたった一度の不運で全て奪われてしまうなんて、ああ、なんて呆気ない。

 なんて呆気なくて、理不尽なんだろう。


 そうして、その日から、私は幽霊――亡霊? いや、そんな言葉の違いなんて些末なものだ。

 とにかく――私は、幽霊になったみたいだ。

 幽霊になった私のことを見てくれる人は、もういない。

 いない。

 どこにも。

 もう誰にも、私は見えないんじゃないかと思ってしまう。

 それなら、いないのと同じだ。

 少し時間は流れ、七月十八日の月曜日。

 私は家の中にいた。

 学校に行く必要はない。


 自室を見渡して、時計のところで目をとめる。時刻は、午後十二時を回っていた。お昼時だというのに、階下の台所からは何の気配も感じられない。

 そういえば、この前の土曜日にお母さんが作っていた昼ごはんは、ロールキャベツだったみたいだ。結局食べられなかったけど。


 私は座っていたベッドから立ち上がり、すっと自室を出た。音もなく階段を降り、リビングに向かう。

 やっぱり、そこには誰もいなかった。もちろん台所にも。

 電気もテレビも点いていない、しんとした室内。窓は全て閉め切られていて、蝉の鳴き声もろくに聞こえてこなかった。

 リビングを抜けて、廊下に出る。

 廊下の、一番奥にある部屋の扉が開けっ放しにされていた。お母さんの部屋だ。

 私は、そっと部屋に近づき、中を覗き見た。

 明かりは点いていない。今日は曇り気味だから、差し込む光は少なく、薄暗かった。


 お母さんの部屋は、この家で唯一の和室だ。布団が敷きっぱなしにされているけれど、お母さんはそこに寝てはいなかった。

 もう一歩、部屋に近づき奥を見ると、お母さんの後ろ姿を視界に捉えることができた。

 お母さんは、黒と金でできた、長方形のおっきい仏壇の前に座っていた。その中には、眩しいまでの笑顔を浮かべる女の子の写真が飾られている。


 毎日、事故があった時間近くになると、お母さんはこうしてお仏壇の前に座って、肩を震わせ始める。後ろからは見えないけれど、きっと、涙で畳を濡らしているのだろう。毎日、毎日。同じ時間に始まって、それはいつ終わるかは分からない。私はその光景を、同じように毎日眺め続けている。


 故人のために作られたお仏壇。

 お母さんはそれに向かって、ずっとずっと手を合わせている。

 私は、叫び出したくなった。

 そこには誰もいないんだよ、と。

 私は後ろにいるのに。どうして、こっちを見てくれないの。

 叫んだって、この声は届かない。

 届かない。

 お母さんは振り返らない。

 ずきずきと胸が痛んだ。

 私は、踵を返し、自分の部屋に戻って行った。

 

 しばらく、ベッドに寝転がってぼうっとしていた。そのまま長い時間が過ぎたように感じたけれど、時計を見ると二十分も経っていなかった。私は起き上がり、あることを思い出して、勉強机に近付いた。

 思った通り、机の上には私の日記が放置されたままになっていた。最後に書いたのは、七月八日の金曜日。それ以降は、書けなくなった。最後に書いた日から、ずっと机の上に放ったらかしにされていたみたいだ。


 今どき手書きの日記なんて、アナクロ過ぎて笑われるかもしれないけれど、私は結構好きだった。ブログなんかだと、人に見られるのが恥ずかしいというのもある。

 この手書きの日記は、私の唯一の趣味とも呼べるものだった。

 小学三年生から中学二年生の今まで、私はずっと日記をつけていた。日によって短かったり長かったりはするけれど、ほとんど毎日、忘れずに書いていた。

 きっかけは、そう。両親の離婚だった。


 私がまだ幼かったころ、お母さんとお父さんは、夜になると決まって言い争いを始めていた。私は自分の部屋にこもり、泣きながら布団の中にくるまって、声がやむのを待っていた。

 二人は、私がいる前だと喧嘩をしない。私がそれを嫌がることを分かっていたのだと思う。だから、私は夜の寝る時間だけがいつも怖くてたまらなかった。きっと言い争いの声が私に聞こえてしまっていることを、二人は知らない。それならば、私は知らないふりをしなくてはならない。そう思って、ただじっと耐える日々が続いた。


 そして、私が小学三年生の秋、ついに両親は離婚をした。

 当然のように、お母さんの方に引き取られることになった。

 後から聞いたのだけれど、離婚の決定的な要因は、お父さんに他に女の人ができたかららしい。これは、お母さんから直接聞いたのではなく、近所の噂好きのおばさんから聞かされたことだった。

 旦那さんに浮気されるなんて、お母さん大変ね。

 どことなく楽しそうに言ったおばさんの甲高い声は、決して忘れることはなかった。それ以来、私はそのおばさんが嫌いになった。


 家からお父さんはいなくなり、言い争いに怯えることはなくなった。でも、私は悲しくてたまらなかった。その悲しみを吐き出す方法として、私は日記を使ったのだ。

 最初は日記帳じゃなくて、ただのノートに思いを綴った。当時小学三年生だった私が書いた文章は、今から思えば支離滅裂で、小っ恥ずかしいものなのだけれど、それでも一生懸命に、書いた。

 それから、私は、悲しいことや辛いこと、嬉しかったことを日記に綴るようになった。一年で一冊消費していたから、この日記帳はもう六冊目だ。これからもずっと続けて、冊数はどんどん増えていくと思っていた。でも、六冊で終わりだ。

 そう、終わり。これから増えることはない。

 また胸の奥の痛みが蘇り、私はぎゅっと唇を噛み締めた。

 

 私は、お母さんとあまり仲が良くなかった。

 いつからか、不機嫌なわけでもないのにぶっきらぼうな返事しかできなくなって、話したいことはあるはずなのに、自分から話しかけることはほとんどなくなっていって。気付けば私はお母さんと上手く言葉を交わすことができなくなっていた。

 そんな私を、お母さんはたまに叱りつけることがあった。何かあるなら言いなさい。そう言ったお母さんに、決まって私は、何もないよ、とそれだけを返した。だって、自分でも原因は分からないのに、いったい何を言えっていうの。


 いや、仮に言いたいことがあったとしても、私は同じ返事をしただろう。家族と言い争いなんて、したくない。近しい人が諍う姿がどれだけ悲しくて怖いかを、私は知っている。私は、幼いころの私を怯えさせていた両親のようになりたくはなかった。

 それでもいつか、生きていればいつか、私がもっと大人になれば、またお母さんと楽しく言葉を交わせる日が来るんじゃないかって、そんなことをばかみたいに信じていた。

 夢は、夢のままで終わってしまったけれど。

 お仏壇に向かい、悲しみに暮れるお母さんの背中が脳裏を過る。

 小さくなってしまった、その背中。

 私を振り返ってくれることはない、その背中。

 ああ、きっとお母さんは私を許してくれない。

 許してくれない。

 ごめんなさい。

 むしむしと熱がこもった室内で、ぽつんと呟いた。


 

 

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