月白のアウローラ

梶倉テイク

月白のアウローラ

 人々が言う黄金の世紀だとしても、この“街”は何も変わらずただ煤けた暗い黄昏の街だった。

 この“街”に名前はない。あったとしても忘れられ、ただ“街”とだけ呼ばれる鉄と蒸気の街。


 人は重機関都市だ。最先端都市だとかいうけれど、ここはただの街だ。

 人が住んで、営みがあって。死んで。生まれて。育って。ここにある。何も変わりはしない。

 駆動する機関エンジンの音と噴き出す蒸気が街を覆い、回転する歯車の音が響く。

 それは耳に心地が良い。ここは、淡く明るい黄昏の街。数多くの列車や船行き交う街。


 回転悲劇の螺旋は廻り、ここにただ一つの欠片が堕ちる。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「ん……」


 朝。大機関メガエンジンの目覚めと共に“街”が目を覚ます。それに伴って耳に届くのは近隣の“機関群エンジングループ”の駆動音。

 目覚めと共に“街”中に張り巡らされた蒸気導管スチームパイプに蒸気が通りはじめ、熱を上げる。同時に機関を冷やす冷気が“街”にうっすらと昇って来る。


 その音は、轟音というほどではない。

 その熱は、火傷するほどではない。

 その冷気は、凍えるほどではない。


 気にしなければ。慣れてしまえば。あってないようなもの。

 けれど、意識すれば、気がつく程度にはいつもそこにある。

 気が付いてしまえば私は眠ってはいられない。


 ベッドから起き上がり、とろんとした微睡を堪能してから起き出して、蒸気歯車ギアスチーム式の壁掛け時計を見る。

 “大機関”と数多の“機関群”が停止していた時は、止まっていた時計が動き出している。

 カチ・コチと音を鳴らして、都市中央駅に存在する中央時計セントラル・タイマーの標準時間に調整されているそれを横目に思う。


――個人機関パーソナルエンジン欲しいな。


 個人機関でもない限り、“中枢大機関”や“機関群”が稼働していないと機関機械エンジンマシンは使えない。

 安くなってきているとはいえ、まだまだ値は張る。庶民であり駅員でしかない私では手が出ない。


 個人機関は貴族や金持ちなどの一部の上流階級だけの特権。

 ただの庶民は“中枢大機関”や“機関群”に頼るしかない。それでも昔よりは遥かに便利になった。


 特に、公園でゲートボールに興じるお年寄りたちは昔を思い出して口々にそう言う。ことあるごとに。

 それでも不便に思ってしまうあたり、人の欲望とは限りない、と私は思いながら白い息を吐く。


 その間に、機関の目覚めに合わせて動き出し、せわしなく、くるり、くるりと回っていた時計の長針と短針が止まる。

 合わされた時刻は五時を半分以上回ったくらい。もうすぐ六時といったくらい。


 いつもと変わらない時間。そんなことを思いながら寒さに身を震わせる。

 季節的には春ではあるが、もとよりこの“街”は春も夏もそこまで暑くならない。その上、空を閉ざす黒雲のおかげで朝は冷え込む。迷うことなく私は暖房機関ヒートエンジンキーを回す。


 古い初期型の暖房機関。だからか音と振動が最新式に比べて遥かに頭に響く。近づけばもっと。

 けれど、温風を吐き出す暖房機関からは離れられない。

 部屋が温まるまでそうしている。ただ、いつまでそうしてはいられない。

 今日は仕事の日。寝起きのままではいけない。だから、洗面所に向かう。


 脱衣場にもなっているそこで私は寝間着を脱ぐ。そのまま寝間着は洗濯機関ランドリーエンジンへ。そのまま洗濯を始め、それを尻目にお風呂場に入る。小さな浴槽とシャワーがあるだけな簡素なお風呂場。

 時間がないから流石に浴槽は使えない。だから、シャワーだけ。


 お湯のひねりを回して、シャワーの前から退く。刹那、お湯が出た。

 それと同時に足に感じる火傷しそうなほどのお湯。視界が一瞬にして真っ白な湯気に覆われた。


「今日は、熱いのか」


 最新式ではないから、シャワーはいつもおおざっぱだ。熱すぎたり、冷たすぎたり。極端。

 この部屋に来たばかりの頃はよくひっかかっていた。今では慣れたもの。身体が勝手に避けるようになっている。


 お湯はしばらく出しっぱなにしておけば良い感じの温度になる。頭からお湯を被り、身体についた煤や汚れを落としていく。

 やはり、目が覚める。芯が起きたとか、そういう感覚。朝だと、認識して。ようやく、起きたと感じる。朝には強いが、このシャワーの感覚だけはやめられないと思う。


「ふう」


 シャワーを浴びて。風呂場から出て。一息付く。軽い息。

 髪を軽く乾かして櫛で髪を梳く。

 やっぱり、シャワーは偉大だ。寝癖でボサボサだった髪も、ほら簡単に元通り。


――腰まで届く綺麗な真っ白な雪を思わせるプラチナブロンドの髪。

――私の自慢。

――だけど、こういう時は少し鬱陶しい。


 いつも思う。バッサリと切ってしまえばどんなに楽だろう、と。

 よく手入れの行き届いた綺麗な髪と人は言う。でも、自分ではよくわからない。むしろ邪魔とも思う。


 切ってしまえば楽で良い。街を走り回る浮浪児の男の子のように短くしたらどんなに楽だろうか。

 でも、なかなか切らせてもらえない。せっかくの長い綺麗な髪だから、といつも彼女は言う。

 だから、なんだかんだ言って、切らずに伸ばしている。


「うん、よし」


 ともかく、髪を梳いて、結んでまとめてしまってから部屋に戻る。クローゼットから駅員としての制服を取り出して着替えてしまう。白のシャツにスカート、それと黒のストッキングを履いて、赤いリボンを結び様々なホルダーの付いたベルトを締める。

 リボンは曲がっていないか、襟はたっていないか、ベルトはずれていないか鏡の前で確認。


――ん、オッケー。

――今日は、調子が良い。


 駅員としてはもうあと二つ。薄紫色の黒い上着と帽子。用意はするけど、今は着ない。着るのはエプロン。汚れても大丈夫な本来なら職人用の黒くて大きい奴。それを着てキッチンへ。

 冷蔵機関フリーザーエンジンを覗き、残り少ない食材の中から幾つかを手に調理を開始する。作る料理は1人分。簡単なものを少し。昼のお弁当も一緒に。


 さっさと作ってさっさと食べてしまって。エプロンを脱ぐ。片付けもそこそこに肩掛けの大きなカバンを手に、さっきは着なかった上着を着て帽子をかぶり部屋を出る。


 202号室の真鍮の鍵を閉めて、それを上着のポケットに。階段を下りて、大きくもないエントランスホールで郵便を確認する。

 何もなし。いつも通り。新聞は買うから届かない。大家さんは掃除に使えるというが、ほとんど部屋にいないのだから掃除もなにもない。


 私は無言でアパルトメントを後にする。共用の可愛くもない無骨な黒い日傘を手にして、外へ出る。時間にして八時。銀の永久歯車懐中時計を見て確認。

 通りには、降り注ぐ煤避けの傘を差した女性や、コートを着た人々でごった返している。仕事や学院や学校に行く者たちの通勤、通学風景。いつもと同じ光景。


 少し視線を上げるれば、“街”のどこからでも見える天を貫かんばかりに巨大な“大機関”が見て取れる。

 中央区からほど近い安いアパルトメント。立地としては最高だけど、降る煤の量は郊外の比じゃない。でも、その分温かい。


 吐く息は部屋と比べて白くなく。日傘を差して、帽子を目深に。そうやって人波に乗る。目指す場所は駅。

 そこが私の仕事場。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 この“街”の駅は大きい。大機関がまさに駅であるからだ。多階層中央駅。“街”の中心にあり放射状に張り巡らされた線路網は“街”を出て隣町へと世界を広げている。

 けれど、誰もその先を知らない。そこに隣町があるとは知っていても、本当にあるのかどうかはわからない。そこから帰ってくる人がいるのだからあるのだろう。


 そんなことを考えながら、私は駅員室へと入る。歯車が回る機関式ロッカーがあるだけの部屋。誰もいない駅員室。既に誰もかれもが仕事に出ているらしい。

 個人機関札パーソナル・カードを通し棚から今日の仕事場を見る。


「今日は、下か」


――昼 地下九番ホーム


 昼は地下の九番ホームで仕事である。昼は良いが、問題は夜。


――夜 同ホーム


「…………はあ」


 内心わかってはいたが、溜息を吐く。今日は外れくじだ。九番ホームは駅員の人気がない。何せ、あそこは一番夜に近いから。あとついでに水が多いから。

 とはいえ、仕事は仕事。気合いを入れなおし、売店で新聞を買って、読みながらエントランスを抜けて地下ホームへと降りていく。


 放射状に九つ。地上と地下、それと空へ列車や船を走らせる。

 地下九番ホームは、文字通り地下にある九番目のホームで、その17番線と18番線は海への行き帰りの列車を送る。地下ホームの中で一番低い位置にあるホームであり、そこは水であふれている。


 そういった客しか来ないから。そういった客が利用するから。

 今日もまた、九番ホームは水であふれている。靴を濡らして、飛沫を受けながら、今日もまた、仕事をするのだ。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 17番線と18番線の列車を迎えて、送り出す。

 ただ、それを繰り返しているうちに昼になる。作っておいた昼食を摂って、仕事を続ける。


 そんなおり、ちょうど昼も回り、紅茶時も過ぎた頃。夕刻へと差し掛かったあたりだろうか。まだ列車も来ない時。

 しん、と静まり返った九番ホームにばしゃり、ばしゃりと、誰かが歩いてくる。ここにそんな音を立てる存在は人しかいない。私と同じ駅員か、珍しい客か。駅員はないだろう。だから、珍しい客。人の客。


 その私の予想は正しくて、暗がりの中に火が見える。それは煙草の明かりだった。人である証。本当に珍しい人の客だった。

 それは、くわえられた紙巻煙草の火。“街”でも珍しいなかなかに独特な銘柄の煙草の香りが漂ってくる。


 普段は嫌いなこの癖の強い煙草の匂いも、この生臭く磯臭い九番ホームにおいては、フローラルな香りと同じだった。錯覚だろうけれど。

 そうやって明かりの下にやってきたのは男だった。


 長身の男。黒いコートに黒い服。シャツは白いのが定番だけど、男に限ってはその全てが黒。どこか遠くの異国を思わせる真っ黒な人。

 目つきが悪い男。何もかもを見下したような男。けれど、どこか寂しそうな男。何もかもに絶望したようで、何もかもを眩しがっているような、そんな男。


 男は何もしない。ただ、その燃えるような瞳を私に向けて、ただ向けているだけ。何もすることなく私を見てくる。ただ、それだけ。

 ここを利用する人間・・は珍しい。でも、ないわけではない。極稀というだけで。


 だから、気にせず私は、夕食である携帯保存完全栄養固形食品をかじりつつ、列車を待つ。昼間と同じように列車を迎えて、送り出す。けれど、彼はそこにいる。ただ、黙って私を見ている。

 黙ってみているだけで何もしてこないようなので、私は特に何かすることもなく仕事を続けた。

 彼から漂う雰囲気が話しかけるなと告げていた気がしたからだ。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 そうして、夕暮れを告げる鐘の音が響く。

 日が落ちて、全てが闇に包まれる時間。仕事の時間も残り半分。気も抜けてくる頃。でも、気を抜いては駄目。駅員の仕事は夜が本番。

 人がまばらになる頃。良いかな、と煙草を咥えて火をつける。紫煙を吐き出して一息。


「けほっ、かほっ」


 やっぱりむせた。大人ぶって買ったそれ。喫茶店をやっている友人に子供、と馬鹿にされたから買ったもの。でも、煙草はやっぱり好きにはなれそうにない。

 それ以上吸う気なんてなくて。火をつけたそれを捨てて、懐へと戻す。ふと、何かの息遣いを聞いた気がした。


――気のせい?

――いや、気のせいじゃない。


 それは、確かに聞こえたのだ。しん、と静まり返った九番ホーム。

 列車の時間はまだ先。息遣いを吐くような客は1人。でも、彼のじゃない。彼の息遣いは静かだ。そこにいるだけのそれ。

 けれど、感じた息遣いはそんな静かな物じゃない。獲物を狙う、それ。


「…………」


 私は黙って、腰のホルダーに手を伸ばす。そこに入った機関機械を取り出すために。

 きっと、そこにいるのだ。息遣いの主は。見えない、名前のない怪物が、そこにはいるのだ。


 この“街”、重機関都市と呼ばれる最先端の街。科学と錬金術、最先端の技術が生まれて、消えて、生まれて、羽ばたいていく。

 この“街”。ただ、住人に“街”としか呼ばれない名も無き忘れらたこの街で、消えるはずの名も無きものたち。


 この世に最後に残ったもの。最終Last幻想Phantasm。闇に潜むものども。あるいはただの異形たち。

 これはそんなものたち。闇に生まれ、闇に住み、闇で生者を貪る恐怖のカタチ。あるいは、狂気のカタチ。あるいは怒りのカタチ。あるいは、悲しみのカタチ。


 出会ったのは何度目だろうか。私はそう目の前に潜む怪物に思いを馳せる。聞こえてくるのは鋼の足音。鋼の軋む音。たくさんの機械が蠢く確かな音。

 それは怪物の動く音。暗闇に鋭く、響いて。

 私は、ただ帽子を深く被り直す。


――カチリ


 そう歯車が切り替わる音が聞こえた。

 いつしか、九番ホームは姿を変えている。そこは、九番ホームではなくなっている。何もない黒い、暗い場所。そこはただの闇の最中。


 そこにいるのは私と、怪物だけ。怪物は闇の中でしか生きられない。

 誰もが消えたその場所で、ただ己のカタチを現すのだ。

 カタチがなければ、そこにはいないから。

 カタチがなければ、見れないから。

 カタチがなければ、倒すこともできないから。


『GRUAAAAA――!!!』


 そうして、異形は姿を現す。

 全身を苔に覆われた鋼。さながら大柄な巨漢やら水車や水門を思わせるそれ。水を支配することへの怒りのカタチ。

 私はただ、帽子を目深にかぶり、


「――起動Start


 起動の言葉を口にした。


――手の中の機関機械が起動する。

――それは確かな熱量を持って。

――それは確かな冷気を持って。

――それは確かな駆動を持って。


 それは起動する。熱量を生み出し、冷気を吐き出し、心臓の鼓動のように駆動を始める。

 それは弱く。徐々に、徐々に。力強いそれへと変わる。それはさながら生き物のように蠢いて、右腕を這う。


 それは掴んだ右腕をそれは這う。カチリ・カチリと音を鳴らして、這いあがっていく。そうして肩まで覆うそれ。ぎちり・ぎちり、と音を鳴らしてそれはカタチを作っていく。

 歯車が組み合わさってカタチをなす。そうして、鋼は姿を現す。

 それはかいな。鋼の腕。蒸気科学が生み出す怪物を破壊するモノ。


――カタチは腕。

――ツクリは鋼。

――ヤクは破壊。


 出来上がる。

 それは、粉砕するもの。異形を殺すもの。闇を払うカタチ。破壊する腕。


 鋼の機械が私の腕を覆っている。複雑な機械群が私の腕を覆って形を作っている。

 まさに、巨腕。鋼の巨腕。鈍の輝きを放つもの。私の魂の輝き。


真理機械時計クロックエクスマキナ


 真理機械時計。

 魂の輝きを見せるもの。魂の形を見せるもの。魂の役割を見せるもの。


 高次心理学と機関科学エンジンサイエンス歯車工学ギアエンジニアリング、そして、少しの錬金術の結晶。さる高名な数学者が、かの演算機関の前身たる階差機関を設計した彼の数学者が遺したもの。

 起動したそれ。完成したそれ。異形を殺すための武器。


「はああああああ!」


 気合いと共にそれを振るう。ただ、振るう。

 特に私のは破壊するのには特化してるから。触れればヤクに従って、終わるのだ。

 これはそういう機械だから。そう、それで終わり。

 鋼鉄の拳が、私の振るう巨大な腕が全てを砕くのだ。いつものように。いつもの通りに。


『GRAAAAAAAAA――――!!』


 砕く。砕く。砕く。

 ただの一撃で、溢れる異形を砕く。だが終わらない。溢れ出すかのように異形は現出する。


「ミスったかなー」


 腕を振るいながらそうごちる。これならば別のカタチの方がよかっただろう。少し敵が大きかったから砕く専門の心を具現したというのに。


「まあ、いいか」


 もう少し軽い方がよかったが仕方ない。この教訓はまた別の機会に使えばいいのだから。今はとにかく目の前の仕事をするのだ。

 闇に近い、この場所で、異形を砕くのだ。


 そうしてしばらくして新たに現れる異形。四体。今日はこれで最後だろうと思った。一体が一際大きい。期せずしてどうやら私の選択は間違いではなかったと証明された。

 腕でなければ砕けないだろう。それほどまでに最後の一体は巨大だった。それだけに恐ろしいと感じる。鋼が複雑に絡みつき奇特な回路を形成している。


 それはまるで咆哮のようにがちがちと鳴っている。鉄さびの臭いが充満し、水の匂いが増す。大元の気配。あれを破壊すれば終わり。

 そう思って腕を振るう。


――けれど。

――けれど。


「えっ――!」


 現れた異形の3体ほど潰して、最後の1体に真理機械時計を振るった。破壊されるはずだ。

 けれど、異形はまだそこにいた。腕を受け止めて。そこにいた。


――なぜ、なぜ。

――なんで、壊れないの。


 壊れないはずがない。

 でも、異形はまだそこにいて。叫びにも似た声をあげている。

 気がつけば、水が辺りを覆っていた。何もないはずの暗がりに水が満ちていく。膝まであがる水。


――駄目、駄目。

――このままでは。

――でも、真理機械時計は通じなくて。


『……ノマレ、シズメ……ミズハ、ワレラノ、セカイダ……』


 悲鳴に混じって響く確かな声。怪物の声。それに驚く間もなく、水が押し寄せる。

 流される。引き込まれる。水底へ。


――水が私を飲み込む。

――そのほんの刹那。


「ああ、なるほど、得心がいった。そうか、そうか。お前か、ヴォジャノーイ」


 男の声が響いた。

 誰もいないはずの暗がりで、誰もいないはずのここで、誰もいない場所から声がする。


 暗がりに浮かぶ炎の灯り。見覚えのあるそれ。煙草の火。独特の癖のある匂いが立ち込めて。それと同時に燃えるような瞳が闇に浮かぶ。

 私にはわからない。誰なのか。いや、いいや、わかっている。わかってはいるが、理解が、認識が、何よりも脳が進行する事態に追いつかない。


 ただ、暗がりから男が出てきた。それだけがわかる。


――駄目、駄目。


 それに近づいてはいけない。それは人が相手にできるようなものではない。

 前に立てば例外なく流されてしまう。引き込まれてしまう。水底に。

 そんな恐怖。けれど――。


『……オ、オマ、エ、ハ、ダレダ……ナゼ、ノマレ、ナイ……』

「はは、お前こそ誰だ」


 ――男が漏らしたのは感情の感じられないただ形だけの嘲笑。暗がりの中で肩を竦めるのが見えた。目の前の異形に向かって。

 信じられない。暗闇の怪物。異形との戦いのエキスパートたる駅員ですら叶わなかった相手を前にして笑うなど、ましてや嘲笑するなど正気の沙汰ではない。


 だというのに、男はヴォジョノーイと。まるで語りかけるように。読み上げるかのように。ただ、ただ朗々と。

 言葉を紡ぐ。


「水底に住まうもの。自由な水を愛するもの。水底より来りて、深淵へと引きずりおろす苔むした悪意。水を支配することへの怒りのカタチ。あるいは、水そのもの。

 何とも、あからさまなことだ。実にわかりやすい。分かりやすいがゆえに、幻想として成立しうる。ああ、なるほど、確かに、そうなるのは当然だ。だが――」


 そうして、男は無慈悲に、淡々と、感情の乗っていないその声でその宣告を叩き付ける。


「――だが、無意味だ。お前の怒りは届かない。お前の嘆きは癒されない。お前の渇きは満たされない。ただ永劫、そこにあるだけだ。

 ゆえに、宣言しよう哀れなるものヴォジャノーイ。幻想になれぬ哀れな者よ。

 ――お前は、ここで終わる」


 男が右手を伸ばす。何かの扉を開くように、男は右手を伸ばす。


「我が過去を刻みし欠片が一つ」


 男が伸ばしたその右手。

 それに、何かが集まる。それは彼の背後から。まるで、何かの扉が開いたかのように。何かが、いや、誰かが。


――それはここにあるものだった。

――それは当たり前のものだった。

――いや、それは、ヒトだった。


「分かたれし双子星の片割れ」


 それは女性だった。少女のようで、老女のような、若く美しい女性のカタチをとった純白の何か。

 解けるように、解けて、それは男が伸ばした右手へと絡みついていく。


「純白の女王。それは穏やかなる治世の証」


 取り巻いて蠢くものが見えている。白い液体。もしくは、粘液上の、半固形である何か。周囲に浮かんで伸ばされた右手を蠢いて這って、変えていく。それは、カタチとなる。


「守護する雪。それは後悔なき安息」


 冷気が渦巻いて。蠢く白が奇妙な紋様を描き出して揺れる、揺れる、揺れる。歪み、揺れて、それは現れる。

 それは杖。純白に見えるほどに黄金に輝く杖。王の証。伸ばした右手におさまって――。


――私は幻視する。

――女の姿を。


 それは戴冠式。輝かしき記憶の欠片。安寧の時代。動乱もなく。後悔も未練もなにもなくただ満足だけがそこにある。右手の杖がその証。ここにいることがその証。

 浮かぶのは原初の風景。雪降りすさぶ城。女王の国。


「終わりだ」


 男の言葉で蠢く白が動きを止める。半身をすら飲み込んだそれは、急速に退いていく。

 そして、それは全てを凍りつかせる。圧倒的な冷気の奔流。けれどそれは決して敵意あるものではなくて、全てを包み込む雪の優しさだった。

 本来の用途とは違うのだろうけれど、相手との相性のおかげで、冷気はここにいる全てを凍りつかせて。


――砕く。


 元の形が何であったのかさえわからない。ただ、氷塊はばらばらの破片へと変わる。ただ、刹那の間に。凍りつかされて、砕かれる。


『GYAAAAAAAAAAAA――!!!』


 ヴォジャノーイの悲鳴が響いて、すぐにかき消えて。粉々の塵へと帰る。


――理解ができない。

――認識が追い付かない。

――脳が全てを拒否する。

――あれは同じく、暗闇の怪物のはずだ。

――あれはは自分と同じく、人間のはずだ。


 だというのに。


『……ギィ、オ、オ、ァアア……タ……ス……ケ――』


 響くのは、怪物の悲鳴。絶叫。断末魔。破壊できなかったカタチ。それがまるで、赤子のよう。

 怪物が、破壊される。一切の躊躇なく。一切の慈悲もなく。


「不死のヴォジャノーイであるならばこの程度で死ぬな。

 真に幻想であるならば、真に幻想であらんとするならば、この程度で死ぬな。己のままに否定された伝承が事実であったと言い放て。支配者の全てをその濁流で押し流してみせろ」


 怪物は、砕かれる。凍らされて、悲鳴を上げて、懇願すらして、ただただ、絶叫のような悲鳴を上げて、砕かれる。あとには、ただ、なにも残らない。


――なんなの、これは。

――なに、これは。

――どうなっているの、これは。


 何も、何もわからない。いや、いいや、それでいい。わかりたくもない。わからなくていい。それが正しい。

 私はただ、見つめるだけ。目の前の光景を。恐怖すら感じる前に、ただ、狂った光景を見ているしかできない。だが、それでいいのだ。理解してはいけないと優しき女王が言っている。そうでなければ、狂うことしかできないから。それは女王が望むものではないから。


「哀れなヴォジャノーイ、お前の伝承は、これで終わりだ」


 そうして、全てが砕かれて。

 男が手残った怪物であった欠片は、最初から存在しなかったかのように消え失せた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


――そして、夜が明けて。


 夢、だったのだろうか。

 ホームが元に戻ると同時に、男は消えていた。跡形もなく。初めからそこにいなかったかのように。まるで闇と共に消えてしまったかのよう。


 けれど、けれど、そうではない。確かに。確かに男はここにいたのだ。磯の匂いに混じって、あの独特な煙草の匂いがする。

 確かに、男はここにいたのだ。

 だけど、どこにもいない。ただ、男がいた場所を私はただ見つめることしか出来ない。


「おーい、交代だ」


 呆けたように、壁を見つめていると、もうそんな時間か、交代の同僚がやってきた。


「…………」

「おい? どうした? 何かあったか?」

「……黒い服で、氷を使うハンターって、知ってますか?」


 今更だけど、彼がハンターであるのならば納得もできる。

 いや、いいや、できないけれど。ソロなんて、ありえないから。

 でも、でも、少しは説明になると思って。


「うん? なんだそりゃ? 聞いたことねえな。なんだ? 何かあったのかよ?」


 でも、返ってきた答えは期待したものではなくて。


「いえ、ちょっと、気になっただけです」


 私の様子に訝しむ彼に、私はなんでもないという。

 それゆえに、あの光景は異常。男の使った何かも、あのしゃべる異形も。何もかもが。


 何もかもが私の理解を超えていて、何もわからない。けれど、わかることが1つ。何かが起きようとしているのかもしれない。

 そんな、予感が1つあった。


 けれど、そんな予感も、駅を出る頃には忘れてしまって、朝の喧噪と共に、私はいつもと同じように行きつけの喫茶店へと向かっていた。黒い男のことを考えながら――。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「…………どこに、行っていたの」


 感情の一切ない言葉でアンティークドールのようなワンピースドレスを着た銀の少女が問いかける。感情の一切感じれない無表情を浮かべて。


「…………」


 その問いに黒い男は答えない。


「また、迷子?」

「…………」


 黒い男は答えない。


「行くぞ」

「…………」


 黒い男の言葉に銀の少女は頷いて。

 ただ、男と少女は暗闇を歩いていく――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月白のアウローラ 梶倉テイク @takekiguouren

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ