第9話
この場では、君だけが彼女の涙にはらはらしている。
健ちゃんの申し出を受けることが、どうして彼女の気にそぐわないのか君にはわからない。だが、健ちゃんが作ったレシピ通りのホットサンドで彼女が泣いていることは確かだ。
彼女にとって、そう歳の離れていない従兄の健ちゃんはどんな存在だったのだろうか。君は、目の前に居る二人の対照的な面を見ている。健ちゃんは彼女よりも二つ歳上でただ料理人になるためだけに邁進してきた結果、こうして堂々たる料理人になっている。彼女がこの店の切り盛りをする様になったのは、大学を出たものの、その後のことを決めていなかったからで、そもそもこの店に居ること自体、彼女の意に染むものかどうかは、君の知る限り、誰も突き詰めて確認はしていない。
彼女は、この店の食事の盛りをそのままに、良く言えばオーソドックス、悪く言えば大雑把だった味を整え、メニューの味を一新した。この店の客の誰もがそれを歓迎したし、代替わりすることで、新しい客も増えている。暇な時間帯はあるものの、長居できる居心地の良い店という点で、十分な場所を作っていた叔母さん以上の仕事を、彼女は自然にこなしている気がする。
君の想像できる範囲で、彼女の反応の理由を単純に考えるなら、彼女は健ちゃんに対してコンプレックスを感じているというところだろうか。健ちゃんが見ているもの、考えていることは君には想像もつかないが、彼女は従妹として健ちゃんが修行に出、フランスに渡り、引く手数多の状態で日本に戻って仕事している様をずっと見ている。彼女も、料理人の修行をしたわけではないが、管理栄養士の資格を資格を取り、結局はずっと食品にまつわることをしている。
君から見て、健ちゃんと彼女に違いがあるとすれば明白だ。ただ料理を提供することしか考えていない健ちゃんには、無駄や迷いの様なものが一切無い。しかし、健ちゃんのこの極端さは、多分誰にも真似できない。
「俺が教えるのもリチャードや田中さんの力借りるのも、そう変わらないだろ」
健ちゃんはなおも冷静で、口調も至って真面目だ。それはつまり、健ちゃんが彼女の言葉にも涙にも全く頓着していないということの証拠でもある様に思える。だが、君にはどうすることもできない。彼女への助け舟があるとも思えないし、健ちゃんを納得させることもできそうにない。
「ここは喫茶店だよ健ちゃんの店とは違う」
「塩加減にフレンチも喫茶店もあるか」
「ある」
「塩にあるのは味と加減だ。顔洗え。すぐにわかる」
「ある」
「やってみてから言えよ」
「それじゃダメなの」
「覚えても使わなきゃいいだろ」
「どういうことよ」
「やってみてから選べばいいじゃないか。とりあえずイメージした通りの味がいいのか、何か違うもので補強するのか」
果たしてそんなことができるだろうか。健ちゃんの口ぶりからすると、何か基本的な手順か何かのアドバイスの様だった。果たして知ってしまった後でも、敢えてその方法を使わないという選択ができるものだろうか。
「こんな上品な味じゃダメ。もう少しどたっとしたいの」
「今の感じならケチャップでもデミソースでも、ちょっと足すだけだろ?」
「なんでそうくるのよ」
「違うの?」
彼女が、もう一度、大きく息を吸って両手で涙を拭った。
「それでいいと思う」
「できてるんだよ。教えてやる」
彼女が絞り出す声の調子も彼女の涙も、健ちゃんはどこまでもものの数に入れない。自分の目の前で泣いているのが従妹だからというよりも、自分の正しさに対する単純で揺るぎない自信に裏打ちされた何かが、健ちゃんをそうさせている様に見える。君はふと、何かが上手くいかなくて泣く子供の気分というのは、どんなものだろうかと考えてしまった。
多分、健ちゃんにとってはその程度のことだ。健ちゃんはもうできる側に居て、こんなことで泣く必要はないと、そんな言葉を使うことができる。その結果に導くためのプロセスや教えられる側が何を感じるかは関係ない。ただ、出来るか出来ないか、知っているか知らないかという簡単な切り分けしか必要としなくなっている。
彼女がもし健ちゃんからなにがなんでも教わりたくないのであれば、健ちゃんが諦めるまで頑に拒否し続けるしかなかった。彼女にはその選択肢しかなかった。こうやって言葉を交わすことで、拒否できない方向に向かうことは明白だ。彼女自身、もともと解決策を必要としている。やってみてからではダメだ。彼女は正しかったが、もうこの場をどうにかすることが彼女にはできない。
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