第8話
健ちゃんがどうにかして語ろうと懸命になっている違和感が君にはどうにも理解できない。健ちゃんは今、修行ではない何かに戸惑いを感じているか、調理することというよりも、調理して誰かに食べさせるということに迷いを感じている様子だ。しかし、健ちゃん自身は料理を辞めようとかそんなことは毛頭考えていない。
「よくわからないね」
「自分でもよくわからないっす」
「ううん」
「いっそフランスに戻ろうかなぁ」
「そしたらどうなるの?」
「や。わかんないですけど、とりあえずいっぱいいっぱいな感じで過ごせる気がするんすよ」
「ふぅん」
健ちゃんの悩みが君にわからないのは、健ちゃんが上手く言葉にできていないからだけではない様な気がしてきた。
「なんかこう、ただひたすら調理のために調理するとか、そういうことなんすかねぇ」
「そういうことなの?」
「圧倒的に調理のためだけの調理とか」
「ううん」
「なんかないですかねぇ」
「や、全然わからない」
「うん」
「満漢全席みたいな感じ?」
「中華の?」
「そうそう。なんかずらっと並んでる宮廷料理みたいな、ああいうのって本当に並んでるのかな」
「宮廷。宮廷って今でもなんかあるんですかね」
「え。どうだろ」
「ヨーロッパの金持ちか……。インドってまだマハラジャとか居るんですかね」
「わかんない」
「マハラジャ……」
健ちゃんが何か独り合点した様で、君はそれで納得するしかない。
どちらにせよ、最後の一切れを前にひと呼吸置こうという君の望みは十分に果たされた。君の目の前に居る若い料理人はまだ何か考え込んでいるが、漠然としたものと対面していた一瞬前とは様子が違い、具体的な何かについて思いを巡らせている様だ。
「ただいま。あ、いらっしゃい」
彼女が帰ってきた。
「おかえり」
君と健ちゃんが声を揃えて彼女を迎える。
「あ、何食べてるの?」
彼女が買い物カゴをカウンターに乗せながら聞いた。
「ホットサンド」
「ホットサンド?」
彼女が怪訝な顔をする。
「厨房にあったレシピで」
「あれはまだ」
「十分だよ」
「十分って」
健ちゃんも手元の皿に一切れ残っていて、彼女にそれを差し出した。
彼女は、そっと手を伸ばしてホットサンドを食べる。
「どう」
「うん」
「十分でしょ?」
「うん」
「いけてるよ。大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「なんで」
「私が作ったときは、こんな味じゃなかった」
彼女の目から涙がこぼれる。
「健ちゃんが作るからこうなるだけよ」
「作れるよイメージ通りなんじゃないの?」
「こんな感じだけど」
「できてるじゃん」
「でも……」
「俺、あんまり何回も食ったわけじゃないけど、リチャードも田中さんも補助する味を加えて仕上げに近づけるんだよね。本当はそうじゃなくてさ」
「健ちゃん」
彼女は顔を下げることもなく、ただ目から涙を流している。健ちゃんはそんなことを全く気にしていない様子で続ける。
「イメージできてるんだから、味なんか足してないで自分のイメージに近づければいいじゃないか。」
「できないよ」
「やってないだけだよ」
「そんなバカな」
「バカって、健ちゃんは料理だけしてれば済むかもしれないけど」
「ホットサンドだって料理だろ」
彼女が言葉を詰める。健ちゃんと彼女の平行線は、果たして収束するだろうか。彼女は泣いているというより、ただ目から涙を流しているだけの様で、表情からは怒りや悲しみの様なわかりやすい感情は見えない。
「いつもの感じなら、塩のしかたと混ぜるときの加減がイマイチなだけだよ。教えてやるからやってみろ」
「料理か」
「料理だよ」
「もういいよ」
「何が」
「ホットサンド作るのやめる」
「俺が気に食わないからメニュー減らすとか何考えてるんだ。教えてやるって言ってるだろ。ちょっとした加減で全然変わるんだから、教えるから。イメージできるのに単純にテクニックが追いつかないとか、勿体ないじゃないか」
彼女は大きく息を吸って。涙を拭った。それでも目からは次々を涙がこぼれて、呼吸を整えることに力を使っている様に見える。
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