第3話

 シゲさんは丁寧にオーディオ機器をつなぎなおしていく。彼女によれば、一昨日はその辺りにたまっていたホコリも全てシゲさんが掃除してくれたそうだ。

 「宗教みたいなものですが。動かさない前提で、全体的にそれなりに掃除しやすくしておくべきですね。これ、使ってください」

 シゲさんがズボンのベルトに挿していた細長いモップの様なものを彼女に手渡す。

 「なにこれ」

 「掃除道具ですよ。見えないまでも裏まで届く優れものです。ホコリは少ないうちにね」

 「はぁい」

 「ごめんなさい。お店はちゃんと奇麗です。ただ」

 「オーディオの周りね」

 「はい」

 「お願いします。いい機械ですから」

 「はぁい」

 設置を終えたシゲさんが満足げに電源を投入していく手つきの滑らかさを、君は暫く忘れないだろう。

 「リチャードのが、そのままだと思う」

恐る恐る彼女が言うと、シゲさんは小さくうなづいて再生ボタンを押す。リチャードがツアーに同行しているバンドの新譜が流れだす。

 「握手すればよかった」

 「そうだね」

 「実は、ずっと気になってたんですが……」

 シゲさんの声が帯びている奇妙な熱を感じて緊張しているのは、彼女だけではない。

 「スピーカーの向き。少しだけ直してもいいですか?」

 「はい」声がひっくり返って、彼女はすぐに言い直した。

 「はい」

 「うん」

 シゲさんは、少しだけ音楽のボリュームを上げて、幾度かスピーカーの角度を変えながら店内をうろうろした。君も、思わずそれにつられてしまう。

 「こんなもんですね」

 穏やかで満足げな表情というのは、何処か恐ろしいものだと君は初めて知った。シゲさんの確信は決定的で拘束力があった。

 「いい音に聞き惚れるお店じゃないにしても、機材は一流ですから。これで音の環境はかなりよくなりました」

 「へぇ。一流……」

 「機材はね」

 「ごめんなさい」

 「そんな意味じゃないです。ごめんなさい」

 「シゲさんオーディオマニアだったんですか?」

 シゲさんにつられて何気なく立って所在を無くしていた君の質問に、少し難しい表情がかえってくる。

 「オーディオというか、私はアンプを少しね」

 「アンプだけ?」

 「ええ。全部は流石に」

 「全部……」

 引き返すなら今だと、視界の隅に入った彼女はそんな顔をしている。確かにその勘は支持するべきだろうが、君は今、どうしたわけかシゲさんと真正面に対面して突っ立っている形だ。

 シゲさんは普段から静かで、とても落ち着いている人だ。どんなに忙しい時期にも無精髭を見た者は居らず、薄めの頭髪もさっぱりと短く整えていて、それらしい隙はあまり感じられないが、だからこそ、あまり記憶に残らないタイプに分類されるだろう。単に町ですれ違うだけなら、印象に残る以前に、視界に入ることすらないに違いない。

 しかし、君やこの喫茶店に出入りする皆にとって、シゲさんの言葉の端々に感じられる生真面目さや人柄の良さの様な何かから発される深み、インクの匂い。仕事の速さやちょっとしたデザインのセンスの良さは、到底忘れがたいものだ。

 日頃シゲさんから感じられる迫力というのは、シゲさん本人が直接発しているのではなく、シゲさんが何かをした結果から、ある意味で間接的に感じられると、君たちは皆一様にそう理解している。

 「所詮は宗教的なところになってしまって、突き詰めると、ただ私のイメージの世界になってしまうんですが……」

 シゲさんの控えめで注意深い前置きが、そのままシゲさんの熱烈な信仰の告白の枕詞になり、君と彼女はただそれに耳を傾けるしかなくなってしまった。

 シゲさんは静かに、力強く語る。美しい回路に入力される電気信号がいかに増幅されるのかを。大量の石の個体差をを全てチェックして組上げたハンドメイドのアンプに電源を投入し、全てが立ち上がったときの高揚感を。考え得る限りの簡素な回路で、丁寧に作ることだけに細心の注意を払った結果できてしまった、ただ音を拾う能力ばかりが高く、力強さの全く無いアンプに、どうにかして力を与えるための砂を噛む様な努力と、そもそも求めていた結果がこの音だったのではないかという絶え間ない自問を。

 君たちはコーヒーカップも持たず、ただシゲさんを見つめていた。

 シゲさんはどういうわけかスピーカーを憎んでいた。

 正確には、憎んでいるのはスピーカーではなく、スピーカーの愛好者かもしれない。同じジャンルのマニアと看做されている人々が、実際は各々の専門とする分野で更に細分化されて、互いをよく思わないという話しを、君は確かに聞いたことがある。しかし、君も彼女もオーディオマニアを、それと知って目の当たりにするのはこれが初めてのことで、シゲさんの語ることが概ね全てだ。

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