第2話
ホットサンドは元々、彼女の叔母が気まぐれで作っていた、あまり人気の無いメニューだった。彼女はいろいろと工夫を加えて中身を月替わりで出し始め、ある日、この店の客で食品会社に勤める田中さんと近所の英会話教室の講師リチャードが、味についてちょっとしたアドバイスをしたのをきっかけに、そのまま店の人気のメニューになっていった。
「アジアは全部行くんだっけ?」
「ツアー先の言葉は一通りできるとか言ってたから」
「へぇ」
「言ってくれればいいのにね」
「テレビにもちょっと出てたよ」
「笑える」
「そういえば知ってた?リチャード、アコーディオン凄く上手いのよ」
「え、なにそれ」
「全部ボタンのやつ。酔っぱらったリチャードが駅前で弾きまくってるの見たことある」
「なんだろそれ」
「わかんないね。人だかりができてた」
「ふぅん」
「メンバー全員、従兄とか友達だもんね」
「一緒にやってたのかな」
「聞いたことなかったね」
「そもそも知らなかったしね」
「それもそうか」
暇さえあればずっと漢字の書き取りばかりやっていたリチャードに楽器ができたこと自体、君には驚きだった。幾度か遊びに行ったリチャードの部屋には、音楽に関係するものは全く見当たらなかった様に思う。ひたすら本があるばかりで、ラジオすら無かった。今にして思えば、それは音楽を意図的に避ける生活だったかもしれない。
「英会話の先生なんて、バイトみたいなもんよね」
「まぁね」
彼女がコーヒーを飲み干して、厨房からコーヒーサーバーを持って来る。「おかわりどう?」と言いながら、自分の分を注いで、君のマグカップにもコーヒーを注ぎ足す。
「ありがとう」
「こんな日もあるわよ」
「うん」
「迎えが来た感じなのかな」
「リチャード?」
「うん」
「どうかな」
「リチャードには、どうだったんだろう。最初にここに来たのはなんで?」
「ああ。なんでだったかなぁ」
それは、随分昔の些細な事で、君にはすぐに思い出せなかった。
彼女が何か心にひっかかっていることは確かだが、それは君も同じかもしれない。
何気なく沈黙が続いて、外の音と店内の音がばらばらになっていく。彼女がカウンターの中の何かを整理している音が緩慢に沈黙の起点を作り、この静かで動きの取れない状態を続けなければならない呼吸になってしまう。
こんな場合にはよくあることだが、君はリチャードについて実はあまり多くを知らないことを改めて感じている。同じ喫茶店に出入りし、連れ立って飲みに出かけ、部屋にもあがったことはある。思えばそれだけのことだった。リチャードは凄まじい速度で上達した日本語で沢山のことを話したが、実際、それで全てを話したのかと問われれば、それはあり得ないことではないだろうか。
彼女が笑った。君は思わず大きな溜息をついてしまっていた。
「裏切られた?」
「違うけどね」
「そうよね」
「考えるよ」
「戻って来て欲しいね」
「まぁね」
それが本当に君の内心だったかはわからないが、彼女の顔を見て話しをしているとそんな気分にもなる。
しかし、君が彼女に聞きたかったのはもっと別のことだ。
店の扉が開く。
「おはようございます」
「シゲさん。おはよう」
振り返ると、近所で印刷屋をやっている重村さんが重たげな金属の箱を抱えていた。
「あ、直った?」
「直りましたよ」
「早い。ありがとうシゲさん」
「接続しますね」
「アンプ?」
「そうなの。一昨日、いきなり音が出なくなったのよ」
「え、シゲさん、直したんですか?」
「直しましたよ」
「凄い」
「いやいや、こういうものは、ダメなところをなんとかしてやるだけですから」
「簡単に言うなぁ」
「楽しかったですよ。いい機械でした。設置しますね」
「お願い」
小柄で物静かな職人風のシゲさんからは、いつも軽くインクの匂いがする。
「このアンプみたいな素直な回路ってのは、眺めているだけでもなかなかいいものなんですよ……」
シゲさんが鼻唄混じりでカウンターの正面の棚にあったオーディオ機器を次々に引っぱりだしてカウンターに置き、アンプを設置しはじめる。
「音が無かった」
「気覚いてなかった?」
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