彼女が受話器を下ろし

Nakazo

第1話

 君が見たのは彼女の背中だ。

 店の扉を開いた君が見たのは、古い電話機の受話器に耳を当て、何かぶつぶつつぶやいている彼女の背中だった。

 珍しく、ひとつにくくった髪を前にたらしている様だ。それ自体が普段と違っていて、彼女の背中は意外に小さかった。

 「あ、いらっしゃい」

 気配に気覚いた彼女が慌てて受話器をテーブルに置き、立ち上がる。

 「電話?」

 「うん」

 「珍しい」

 「そう?」

 「黒電話」

 「伊勢屋さんにずっとあったのよ」

 「へぇ。入ったことないよ」

 「そうなの?面白いのに。公衆電話とかもあるのよ」

 「古道具屋に?」

 「うん。いいなぁと思ってたんだけど」

 「そうかな」

 「ん?」

 「まぁ、コーヒー頂戴よ」

 「はぁい」

 彼女がカウンターの向こうの厨房に消えて、コーヒー豆をミルに入れるカラカラという音が聞こえる。豆を挽く音を期待したのに、その気配が感じられないまま、コーヒーの香りが漂ってきた。

 「ごめん。自分で飲もうと思って途中になってた」

 彼女が大きめのマグカップを二つ持って厨房から現れる。

 「お。ありがとう」

 「午前中、多分暇だし」

 「ああ」

 彼女がコーヒーをすすりながら束ねていた髪をほどく。

 「ええっとねぇ……」

 「ん?」

 「いや」

 何かを言いかけて、かぶりをふり、彼女は伝票の整理を始める。

 大学を卒業したばかりの彼女が彼女の叔母からこの喫茶店を引き継いで二年程経つ。君はずっとこの店の近所に事務所を借りて仕事をしている。昔から昼食といえば週に何度もこの店に来るし、ふらっと気晴らしにここに来れば、君と同じ様にこの近くの小さな商店街と市街地で仕事をしている連中となんでもない話しもできる。そんな店だ。

 ずっと喫茶店とは思えない盛りで食事を提供してくれていた彼女の叔母は、管理栄養士の資格を持ちながら結局何処にも就職しなかった彼女に、かなり強引に店を任せて引退してしまった。

 ふと電話が気になった君は、テーブルの方に振り返る。彼女が君の好奇心を察したかの様に、そそくさとカウンターから出て電話を片付けはじめる。

 「そうだった」

 黒電話から出て床に長くのばされた電話線は、店内の中途半端な位置にあるモジュラーコンセントまで伸びていた。かつてはその位置に公衆電話でもあったのか、当時の店内のレイアウトを知らない君にはわからない。しかしそれは、永く喫茶店をやっていて幾度か小改装を繰り返しているこの店の細部に見られる、座りの悪いもののひとつだった。

 「つながるの?」

 「え?」

 「電話」

 「ダメ」

 彼女が電話線の先を君に見せる。むき出しの導線が出ていた。

 「ふぅん」

 君は、彼女が何かをぶつぶつ喋っていたことを軽く冷やかそうとして口を開きかけたが、言葉が選べずに中途半端な発声をしてしまう。

 「背中」

 「背中?」

 聞きながら視線を寄越すわけでもなく、彼女が電話機を持って厨房の方に消える。

 背中がなんだろう。君は自問しかけてすぐに考える事をやめた。そこにたいした理由は無いが、君はコーヒーカップに視線を落として、とにかくさっきの彼女の背中については、それ以上意識しないことにした。

 「使えると思って買ったわけじゃないしね」

 厨房から出て来た彼女も改めて答えを求めず、そのままカウンターの中を片付け始めた。

 「そういえば、今月のホットサンドは?」

 「まだ」

 「あらら」

 「田中さんもリチャードも居なくて」

 「ああ」

 「ダメよね。お客さんが居ないと味が決まらないって」

 「いいよ。美味ければ」

 彼女が溜息をついて、マグカップを手に取る。

 「いつ戻るんだっけ」

 「田中さんはそろそろ。リチャードはわかんない」

 「そっか」

 「リチャード、戻ってくるかな」

 「どうだろ」

 「困っちゃダメよね」

 「困ったね」

 月替わりで中身が変わるホットサンドの最後の決め手になる一味は、この二人の意見の一致を見ないと何故かぼやけてしまう。他のメニューは、日替わりのランチも全く外さないにも関わらず、ホットサンドに限っては、彼女が考えるレシピはいつも何かが足りなかった。

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