CASE 4 老年夫婦の場合
「お父さん、朝ご飯が出来ましたよ。早く食べましょう」
「う、ん……まだ夜中じゃないか……」
恭平は布団をかぶり直し、嫌そうに眉間にしわを寄せる。
「何言ってるんですか。もう、毎回こうなんだから。さっさと起きて食べて下さいね」
困ったように言い、百合子は部屋を出た。
最近、こういうことが多くなってきた。認知症の影響なのか、恭平は時間も分からなくなっている。恭平と一つしか違わない自分も、いずれもそうなるのかと思うと、自分たちだけの生活に百合子は不安を抱いていた。
「やっぱり
溜息と共にぽつりと呟くが、息子にも息子たちの生活があると思えば、同居などという提案をするのも気が引けた。
しかし自分にも何があるか分からないため、恭平や自分のことは逐一報告するようにはしていた。
『考え過ぎだって。もう少し様子を見ても良いんじゃない?』
『母さん、毎回同じ相談してるよ。そんなに父さんといるのキツいの?』
電話越しの息子の声は、母親の相談に辟易したような口調で答える。それでも電話をすればちゃんと応対してくれる寛人に、百合子も甘えるような形で愚痴を零していた。
最近では寛人の嫁である
「今度はいつ会えるかしら? 次はお父さんも嫌われずに
以前、孫である
認知症の恭平の介護は大変であるが、百合子は恭平と過ごせる日々が嫌いではない。
恭平が仕事をしていた時は残業も頻繁にあり、帰ってきたらすぐ夕ご飯を食べ入浴して就寝という、日常会話もにないほどの日々を送っていた。体を壊してしまわないかと心配し、恭平に転職を勧めるほどだ。
だが、それ自体に不満があったわけではなかった。
仕事で疲れていた恭平のために内助の功を尽くせることが、百合子は嬉しかったのだ。それは百合子の献身的な性格がそう思わせるのかもしれない。だから会話がないことに寂しさを感じながらも、百合子は充実した日々を過ごしていた。
「あ、やだ。洗濯物忘れてた」
考え込んでいた百合子は洗濯をしていたことを思い出し、洗濯機のある洗面台へと向かった。
その時――。
「母さん。何をしてるんだ?」
眠い目をこすって起きてきた恭平が、真夜中に洗濯をしていた百合子を呼び止めた。
「何って…………あら? わたし……何をしようとしていたのかしら?」
自分が持っている洗濯かごを見つめ、不思議そうに呟く。
「まだ夜中の一時過ぎだから、取り敢えず今は休もう」
百合子の手から洗濯かごを取り洗面台に持っていくと、回っている洗濯機を一時停止し、まだ不思議そうに考え込んでいる百合子の手を引いて、恭平は寝室へと促した。
「わたし、どうしてあそこに立っていたのかしら?」
「朝になってから考えよう。さ、横になって」
困惑しながらも恭平の言う通り布団の中に入った百合子は、安心したように目を閉じた。
「……」
それを見届けた恭平は、そっと寝室を抜け出すと台所へと向かった。
確か、自分をゆすり起こしながら朝ご飯が出来たと百合子は言っていた。もしかしたらガスの元栓が開けっ放しになっているかもしれない。
気になって確認してみたものの、ガスの元栓は締められたままだった。鍋や包丁なども定位置に置いてあり、朝ご飯を作っていた形跡もない。
火を使っていなかったことに安心した恭平は、そのついでに玄関の戸締りも確認してから寝室へと戻ってきた。
【夜分に失礼致します。途中経過を確認しに参りました。百合子様のご様子は如何でしょう?】
「! なんだ……あんたかね」
突然寝室に現れた男性に一瞬驚きはしたものの、見慣れた男性にホッと安堵の息を吐く。
夜中だというのに男性の服装は、最初に会った時と相変わらずヨーロッパ貴族のような出で立ちだった。夜の闇に紛れるような漆黒の長髪もさらさらと艶やかに揺らめいている。
「少しずつ出始めてきたよ。認知症の症状が……」
【さようでございますか。百合子様にも途中経過のご確認をとりたいところですが……今は難しいですね】
恭平は苦笑した。
「あんたが来た時は本当にタイミングが良かったんだよ。あんなにはっきりとした母さんの発言は久し振りだったから、おれも驚いた」
【仮想空間の管理人と致しましては、ご本人様の意識が不明瞭のままお話をさせて頂くことは出来ませんでしたので、その辺は考慮致しました】
つまりシーカは、百合子の様子をどこかで伺っており、認知症の症状が少し和らいだタイミングで招待状の説明に来たというわけなのだろう。
恭平は納得した。そしてベッドに眠る自分の妻を見つめる。
「最初は話が通じなくなったことに戸惑ってばかりで上手く接することが出来なかったが、二度目ともなると落ち着いて対応出来るようになるな」
当時のことを振り返っているのか、恭平がしみじみと言葉を零す。上手く出来なかったことを悔いていることが、その口調から感じ取れた。
【最初に歩く道はどれも未知の領域です。何も分からず無我夢中で歩いた結果、間違いだったと気付くことはよくあることでしょう】
最愛の妻が認知症になった時、接し方が分からずに戸惑ったり悩んだりしたのは無理もないことなのだと、シーカは言う。
【間違った道を歩いたのであれば、間違う前まで戻ればいい。ですが人生において後戻りという選択肢はありません。『人生は一度きり』。その道を選んで歩いてしまえば、途中で間違いに気付いたとしても、もう前に進むしかありません】
シーカのもっともな言葉に、恭平もただ頷くことしか出来ない。
【ただわたくしが思うに、生きていく中でいくつもの人生の岐路に立たされ、一度も間違えずに正解の道だけを歩ける方など、どこにもいないと思われます。再び同じ道を同じ状況で歩くのであれば、その間違いを正すことも出来ますが、そのようなチャンスはそうそう巡ってこないものです。間違いだったと気付かず、通り過ぎる方もいらっしゃるでしょう。ですがそれもまた正解なのかもしれません。どれを正解とし、どれを間違いとするのかはその方にしか決めることは出来ませんから】
「でも……その滅多にない珍しいチャンスを、私たちはあんたからもらったんだな」
顔を上げた恭平がシーカを見つめる。
シーカは恭平の視線を受けて、モノクル越しに目を細めた。
【恭平様もこの仮想空間でご自分が正解だと思われる道を歩いて下さい。それが百合子様のためにもなることでしょう】
静かなトーンで言うシーカを、恭平は黙って見つめ続けた。
百合子が認知症を発症し始めたのは今から一年前のこと。
最初はただの物忘れだった。買い物にきたのに財布を忘れてしまった、などという些細な物忘れ。だがそれは年齢からくるもので、自分もよくあることだと思っていた恭平は、百合子のその初期症状を見逃してしまった。気付いた時には症状が悪化し、徘徊はもちろん、被害妄想から幻覚・幻聴といった症状が次々と現れた。時に凄まじい叫び声を上げることもあり、恭平が慌てて近所に説明に回ったこともあった。
この頃既に仕事を定年退職していた恭平は、家事をこなしながら百合子の介護もしていたのだが、そのあまりの大変さにずっと続けることの限界を感じていた。精神的に疲れていたにも関わらず、百合子が徘徊したりするため夜も眠れない日々が続く。家にいても休んでいる暇がなかった。
それでもたまに百合子が正気に戻る時があり、そんな時は恭平との会話も成立していて、一緒に料理を作ったり洗濯をしたりすることもあった。
笑っている百合子は認知症であることを忘れさせるほど、しっかりとした妻だった。
シーカが現れたのは、そんな時だ。
【現代社会に沿った作りにしたはずですが……これは改善の余地がありますね】
ゴミ箱に捨てられた青い紙をまじまじと見つめ、白手袋をした手を顎に当てたシーカは何か考え事をしている。
およそ日本家屋にはそぐわない、燕尾服にシルクハットという英国貴族のような出で立ちで突如として家内に現れた長身で不審な男に、恭平は椅子を倒しながら勢いよく立ち上がった。
「! だ、誰だ!」
驚きに声を上げ、隣にいた百合子を守るようにサッと後ろに隠しつつ、恭平はシーカから距離を取る。
そうしながら、どこかに殴る道具がないかキョロキョロと探してみた。しかし百合子が認知症になってから危険なものは全て押し入れに仕舞い込んだため、不審者に対抗するための術がなかった。
嫌な汗が背中を流れていく。
覚悟を決めなければならないかと思ったその時、シーカが恭平たちに優美な微笑を向けた。
【申し遅れました。わたくし仮想空間管理人のシーカと申します】
丁寧に腰を折り自己紹介するシーカに、怪しい雰囲気が一層増す。
【招待状に興味を持って頂いても、携帯電話等を所持されていない場合、QRコードを使ってのアクセスは出来ないようですね……。失念しておりました。こちらのミスでございます】
招待状? 一体何のことだ?
シーカの言っていることが分からず、恭平は眉間のしわを濃くした。
【先程ゴミ箱へお捨てになった、この青い紙のことでございます。一番下にある模様が分からず、ずっと見つめていらっしゃいましたよね?】
恭平の心の中の疑問に、ゴミ箱からくしゃくしゃの紙を取り出したシーカはすぐ答える。
「そ、それが一体何だっていうんだ! 早くここから出ていけ!」
混乱している恭平は心が読まれていることも気付かず、シーカに威嚇を続けた。ただでさえ大変な時なのに、飄々としている不審者に住居を不法侵入され、怒りも頂点に達する。
【申し訳ございません。ただご説明に伺っただけでございます。少しお時間を頂くことは出来ないでしょうか? 恭平様と百合子様にとってこの時間が徒労で終わることのないよう、丁寧にご説明させて頂きますので――】
「! お父さん……な、名前……」
百合子が怯えながら指摘する。
さすがの恭平もそこは気付いた。名乗ってもいない自分と百合子の名前を言い当てられたのだ。途端に怒りよりも怖さの方が増した。
【あまり警戒なさらないで下さい。わたくしの話はすぐに終わります。ご質問がお有りの際はきちんとお答え致しますので、どうかご安心下さい】
何をどう理解すればいいのか分からない。それよりもシーカが何か仕掛けてくるのではないかと、恭平と百合子はびくびくと体を寄せ合った。
シーカは微笑を浮かべたまま、恭平を見据えた。
【恭平様。今、後悔なさっていることがお有りではないですか?】
後悔……?
怪訝そうに眉根を寄せるが、混乱している恭平には思い当たる節を見つけることが出来なかった。
だがその答えを聞く前に、今度は恭平の後ろにいる百合子に、シーカは視線を移動させた。
【そして、百合子様。もう一度やり直したいと思われていることはございませんか?】
「……な、何? どういうこと?」
恭平の背中越しに怯えながら質問する。
【この招待状は、過去に強い思いを抱いていらっしゃる方にしか送られません。お一人様に一通だけ。今回は恭平様と百合子様に一通ずつ、招待状が送られました】
そう言ったシーカはくしゃくしゃだった二枚の招待状を、手品のように一瞬で捨てられる前の綺麗な状態に戻した。そしてそれを改めて恭平と百合子に手渡す。
【この招待状は仮想空間を体験なさるためのチケットでございます。ご利用なさるかなさらないかは、送られた方の自由。ただご利用になられない場合、わたくしのことも含め、このお話は全て記憶から消去させて頂きます】
恭平も百合子も全く理解出来ず、混乱が増すばかりである。目の前にいる男が自分たちに何をさせたいのかさっぱり分からない。
【恭平様】
睨みつけるようにシーカを凝視していた恭平の耳に、突如声が響いてきた。
低くてよく通るその声は、先程聞いたシーカの声に似ている。しかし目の前にいるシーカは唇を少しも動かしていなかった。
【毎日の家事と認知症の百合子様の介護。全て分からないことだらけで、大変だったことでしょう。肉体的にも精神的にも疲労困憊されていることは一目瞭然でございます。想像を絶するほどの根気と努力を要したことでしょう。認知症の介護の過酷さは、関わったことのある方にしか分かりませんから】
空耳かと思ったが、再び聞こえてきた声に恭平は身震いした。
シーカは口を開くことなく、じっと恭平を見つめている。
【百合子様のことで、後悔なさっていることがお有りですね?】
「……」
耳元で囁くように響く声に、恭平は頷きそうになったがぐっと我慢した。
シーカの意図が掴めないまま、迂闊に話にのることは出来ない。それに後ろで百合子が聞いていると思えば、尚更口に出すことは出来なかった。
すると【この会話は百合子様には聞こえておりません】と、図ったようなタイミングでシーカが説明した。
【百合子様の声をお聞きになられてから、ご判断致しますか?】
恭平はハッとした。
百合子にも過去に何か思うことがあったのだろうか?
そしてゆっくりと後ろを振り返る。自分の背にいる百合子は、未だ体を震わせ怯えていた。
【百合子様】
今度は恭平にも聞こえるよう、シーカが口を開いて言葉を発した。
【過去に何か強い思い入れがございませんか? 百合子様の場合、やり直したいというより、もう一度体験したいと思われていることがお有りのような気が致しますが、どうでしょう?】
「……」
優しい微笑で問い掛けるシーカに、百合子の恐怖心が徐々に和らいできた。
相変わらず恭平の後ろに隠れてはいるが、シーカの言葉に少なからず興味を持ったようだ。
【百合子様が一番輝いていた日々を、もう一度体験したくはございませんか?】
「……もう一度、体験することが、出来るの?」
窺うように控え目に質問する百合子に、シーカの微笑が濃くなる。
【百合子様がそうお望みになるのならば、体験して頂くことは出来ます。ただ、これは仮想空間を体験されるにあたっての注意事項にもなりますが、体験して頂いた後は必ず現実世界にお戻り頂きます。その注意事項を了承して頂けるのであれば、わたくしがその時間までご案内致します】
「ほんとに? じゃあ、わたしお願いしたいわ」
あまりにも現実離れしている話だ。普通ならばそんな突飛な話を真に受けることなどないのだが、百合子はシーカの話にのめり込もうとしている。
そのことに不安感を抱いた恭平は、自分の後ろから前に出ようとした百合子を再び後ろへとかばった。
「どういうことだ? 何を言っている?」
詳細な説明をしろと凄む恭平に、シーカは湛えていた微笑を解いた。
【百合子様がもう一度体験したいと思われている先に何があるのか……恭平様は知りたいと思われませんか?】
「…………」
深く心に沁みるようなシーカの言葉に、恭平も動揺する。
何かを知っていそうな雰囲気を醸し出すシーカに、百合子の名を出され、頷かないわけにはいかなくなった。
「それが……分かるっていうのか?」
半信半疑ながら険しい表情でシーカに問う。
【はい。それと同時に恭平様が抱いておられる後悔の念も、払拭出来るのではないかと思われます】
「……」
どこか確信的なものを秘めているシーカに、恭平の心が揺らぐ。
その後ろで百合子はそわそわと落ち着かなくなった。過去を体験出来るというのが嬉しいのだろう。恭平とシーカを交互に見つめ、今か今かと待っている。認知症の症状と少しリンクしたかもしれない。
だが、待ちわびているような百合子の表情を見ると、自分の手にある招待状を先程のように捨てる気にはなれなかった。
散々頭の中で葛藤した後、恭平は目を閉じ深呼吸を一つした。
「……分かった。この招待状を使わせてもらう」
【かしこまりました。では、今からお二人を過去へとご案内致します】
そう言って恭平と百合子の前にシーカが手を差し出す。
そしてそれぞれ自分の前に差し出された手を取り、二人は過去へと誘われたのだった――。
「今は認知症の夫の介護をしていると思っているらしい」
苦笑して言う恭平には疲れなど一切見えない。
一度目は見逃してしまった認知症のサインも、今回は見逃さずに病院を受診させた。内服薬も処方され、ご近所にもちゃんと前もって説明することも出来た。これで一度目の時よりは認知症に早く対応出来たと恭平は思う。そして内服薬で症状を遅らせたことで、百合子はまだ自分らしさを保てている。まだらに認知症の症状が出るが、まだ軽い方だ。
「自分のことが、全ておれのことに置き換えられてる。きっとあんたの存在も忘れてるだろうな」
【それは少々悲しいですね】
それが本音かどうかは分からないが、シーカは困った表情をして見せた。
【ですが、百合子様もいきいきとなさっていて、仮想空間を存分に楽しんで頂けているのが分かり、わたくしと致しましても嬉しい限りでございます】
幸せそうに眠っている百合子を見やり、恭平は少し表情を暗くした。
「母さんがどの過去に戻りたいと思っていたのか全く分からなかったが、認知症を患う少し前に戻ってきたことは予想外だったよ」
恭平としては二十代くらいの若い頃に戻りたいのかと思っていた。一番輝いていた時期とは、青春時代のことを指す言葉のような気がしていたから。
だが実際に戻ったのは恭平が退職した後……百合子が認知症を患う二年ほど前だった。
【百合子様が本当に望まれた時間まで遡っています。それだけは断言出来ます。恭平様も同じ時間を望まれましたよね? では百合子様が何を輝かしいと思われていたのか、もうお分かりになったのではないですか?】
暗い色を残したまま、恭平は苦笑した。
その問いの答えに辿り着いていたから、シーカの言葉が重く響く。
「一度目は気付かなかったんだ。おれは退職してすることがなくなって、毎日をくさくさと退屈に過ごしていたから……。退職してからの過去をもう一度体験したいと思うほど、母さんがおれと過ごす日々を幸せに思っていたなんて」
仮想空間を体験して、百合子の気持ちに気付いてやれなかったという新たな後悔が生まれてしまったが、それでも百合子が幸せとするものを知ることが出来たのは一番の収穫だと恭平は思った。
「仕事をしていた時は残業続きで、夫婦としての会話もろくにしてなかった。そのことに母さんが寂しさを感じていたことも、この世界に来てようやく気付くことが出来たんだ」
恭平は百合子の眠るベッドの端に座り、左手で百合子の手を握った。
「あんたには感謝してる。この世界で母さんは幸せそうだった」
【恭平様はお幸せではなかったのですか?】
シーカの質問に、恭平は泣きそうに顔を歪めた。
「幸せなんだよ……おれも。母さんと同じくらい、幸せなんだ」
現実世界の一年間の介護生活の辛さを全て忘れるほど恭平は至福を感じていた。これほどまでに二人でいる時間を大切だと思ったことはなかった。
だからこそ、今、ここで……。
【恭平様のなさることを、わたくしはお止め致しません】
「!」
静かな声が、急に恭平の思考に割って入ってきた。
ハッとしたように顔を上げ、目の前に立っていたシーカを見上げる。
【現実世界でもこの仮想空間でも主役は恭平様であり百合子様です。従って、今手にされているものを使用するもしないも恭平様の自由でございます】
恭平の左手には眠っている百合子の温かい手が、そして右手には冷たい感触の包丁が握られていた。それは先程、台所から持ち出したものだ。
【この仮想空間でのことは現実世界に反映されません。そしてここを体験される前にお伝え致しました通り、この世界で何を選択なさったとしても必ず現実世界にお戻り頂きます。どう行動なさるかは恭平様次第でございます】
「…………」
殺そう、と……。
百合子がこの状態を幸せと感じているのなら、その幸せを抱いたまま死に逝くのが、最高の人生の幕引きなのではないだろうか? 今までずっと自分に尽くしてくれた妻を、生きて幸せにすることは出来なかったが、最期は幸せの中で逝かしてやりたいと強く思う。そして自分も一緒に死ねば、百合子の幸せもさらに増すのではないか?
これで自分の後悔も晴れる……恭平はそう思っていた。
【この世界の百合子様は幸せそうでございます】
そう。だから今しかないのだ。
自分に言い聞かせるように心の中で復唱する。
【そして現実世界の百合子様も幸せそうでございました】
「……!」
不意を突かれたシーカの言葉に、恭平は目を見開き息を呑んだ。
【百合子様の幸せの中には必ず恭平様がいらっしゃいます。それだけは仮想空間であっても現実世界であっても、揺るぎようのない事実でございます】
繋いでいる左手から百合子の温かな体温が伝わってくる。
恭平はその左手に視線を落とした。
【仮想空間で百合子様を手に掛けてしまっても、現実世界ではまたいつもの日常が待っています。百合子様を二度も手に掛けるおつもりですか? 生きていれば幸せを感じる機会などたくさんあります。その機会さえも自らの手で断ってしまうおつもりですか?】
百合子の幸せを何よりも願っているのに――?
言外に含まれるシーカの言葉に、恭平は堪え切れず涙を流した。
【これからの介護の辛さを思えば、マイナス思考に陥ってしまうのは仕方のないことです。どれだけ続くか分からない、そしてご自分もいつそうなるか分からないという大きな不安が、恭平様のお心を苛んでいることもよく分かります】
それは今でも根を上げそうになっている恭平にとって、もっとも苦しい道のりだ。
病気のせいと分かっていても耐えられない時がある。被害妄想で自分を批難したり、近所に悪口を言い振らされたりした時は、抵抗する百合子の手を引きながら自分の怒りを抑えることで必死だった。
息子たちにも、昼夜問わず頻回に電話するのを止めて欲しいと、苦い口調で言われたばかりだ。
【一日中お一人で介護をなさるのは、恭平様のお身体も壊してしまいます。ご自分の時間も大切にしなければ、百合子様の介護をし続けることは難しいでしょう。ご家族で話し合う良い機会なのではないですか?】
百合子を愛しているのに、幸せにしたいのに、殺したいと思ってしまう。恭平の中での限界は、本人が気付かないうちにとっくに超えていた。一緒に心中しようと思うほど、精神が崩壊していたのだ。
【お一人で無理だと思われたのなら、周囲に助けを求めることも大事でございます。百合子様をお幸せにしたいとまだ思っていらっしゃるならば、もう少し足掻いてみてもよろしいのではないですか?】
柔らかく諭すシーカの言葉に、恭平は涙に濡れた目をキツく閉じた。
認知症の症状が進めば、いずれ恭平のことも忘れてしまうだろう。何が幸せなのかも分からなくなるかもしれない。
だが百合子は、まだ恭平と過ごす日々を幸せだと思ってくれている。認知症の症状が出ている今も、こうしてもう一度体験したいと思うほどに――。
今まで尽くしてくれた百合子に、恭平はまだ何も返せていない。幸せの中で殺してあげるのが恩返しではなかった。
恭平が百合子のために、本当にしてあげなければならないこと――。
「母さんと一緒に、現実世界に戻してくれるか?」
新たな涙に濡れた目を開け、恭平はまっすぐにシーカを見つめそう告げた。
【もう、よろしいのですか?】
「ここも確かに良い所だが、母さんのことは今幸せにしてやりたい」
恭平の言葉にシーカが微笑を濃くする。
【本来ならば百合子様のご意思も伺わなければならないのですが、このような状況ですので、わたくしの独断でお二人を現実世界へご案内致します】
軽く頭を下げたシーカは、二人が繋いでいる手を上からそっと触れると、パチンと指を鳴らした。
「……!」
気付いた時には、恭平は仮想空間と同じようにベッドの端に腰を下ろしていた。百合子もベッドに横になった状態で戻ってきている。すやすやと寝息をたてているのも仮想空間にいる時と同じだ。唯一違っていたのは、恭平の右手に包丁が握られていないことだけだった。
壁に掛けてあるカレンダーの日付を見て、今いる場所が現実世界だとさらに確信する。
ほっと安堵の息を吐いた恭平は、涙で濡れていた頬を手の甲で拭った。泣いたのは何十年振りだろう?
だが仮想空間を体験したことによって、心の荷が軽くなったような気がした。これまで悩んでいた胸のつかえが取れている。
【お二人の幸せが永く続きますよう、わたくしも心よりお祈り致しております】
「!」
百合子と恭平以外誰もいない部屋に、突然声がこだました。柔らかい口調からは優しさが感じられる。キョロキョロと辺りを見回してみたが、声の主を捉えることは出来なかった。
「……」
不思議な感覚に恭平もしばしボー然としてしまう。
すると眠っていた百合子が急にふふっと声を上げて笑った。
我に返った恭平が百合子を見やると、眠っていると思っていた百合子が恭平を見つめていた。
「お父さん……わたしも幸せです」
そう言って笑う。
「とっても、幸せです」
「……」
先程拭った涙がまた次々と零れた。
それが正気の言葉であろうと認知症の症状であろうと、もうどっちでも良かった。その言葉だけで恭平はあの時自分を止めて良かったと思える。
自分のそばにいることが百合子の幸せに繋がるのなら、自分がやるべきことはその幸せを壊さないこと――。いつまでやれるか分からないが、百合子が永く幸せを感じられるようにその日々を守ろうと恭平は痛切に思った。
「しかし、結局あの男は何者だったんだろうか……」
ひとしきり泣いた後、恭平は改めて最初の疑問を考えた。
怪しげな不法侵入者。胡散臭げな格好をしていたシーカが何者だったのか、結局最後まで分からなかった。
だが仮想空間でシーカが発した言葉は恭平にも全て得心出来るものだった。心が顕れた心地がするのは、シーカが人間ではないからだろうか?
自分の考えに苦笑する。
仮想空間を体験したことで恭平は自分を見つめ直すことが出来た。そして自分が本当にしなければならないことにも気付かせてもらった。おかげで、これからの恭平の人生も充実した日々を過ごせる気がする。
シーカが何者でも良い。仮想空間を体験させてもらうチャンスを与えてもらったことに恭平は深く感謝した。
「母さん。今日は何が食べたい?」
横になっている百合子に夕ご飯のリクエストを訪ねる。
「じゃあ……お父さんが得意な親子丼が食べたいわ」
「よし。分かった」
自分のそばで幸せを感じてくれる最愛の妻と共に、少しでも長生き出来るようにと願いながら、恭平は微笑んでいる百合子の左手を包み込むように両手でぎゅっと握り締めた。
改めまして、シーカでございます。
今回は二通の招待状が同時にご夫婦の元に届けられました。
どのように利用して下さるのか楽しみにしておりましたが、再び同じ時間をお二人で体験されたのは、わたくしと致しましても初めてのことで、少し驚かせて頂きました。
『健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?』
宗派などによって多少の違いはあるそうですが、神前で誓うこの言葉の意味深さにわたくしは大変感銘を受けました。
どのような状態・状況になっても、お互いを想い合える心。
恭平様も百合子様も、お二人が結ばれる時に誓われたこの約束を違えることはございませんでした。
生きていく中でいくつもの様々な困難にぶつかった時、この言葉を思い出される方は果たしてどのくらいいらっしゃるでしょうか?
人と人との絆が試されている今、この言葉の意味深さを忘れてはいけないのではないかと、わたくしは思います。
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