CASE 5  女子中学生の場合

 今日は何日だっけ?

 ベッドに横になったまま、真っ白な病室の天井を眺めつつ、京崎光きょうざきひかりはぼんやりと考えた。

 いつもパジャマのままで、最近では外出着に着替えることもなくなった。おかげで美容室にも行けず、髪もだいぶ伸びている。だが、長い髪が嫌いじゃない光は特に気にすることなく、床頭台の引き出しから櫛を取り出した。寝たままでは髪に櫛を通せないので、上半身を少し起こしてみる。

「……っと。ちょっと、キツい、かな」

 全身の重だるい感じに、座るのは無理そうだと諦めると、光は起こしていた上半身を再びベッドに横にさせた。

 深い溜息を吐いて、目を閉じる。

 光が大部屋から個室に移動したのは、一週間ほど前だった。

 もともと四人部屋に入っていたのだが、採血をした次の日に、急遽、個室に移動となった。

 不思議に思いながらも、周りが年配の人ばかりの部屋で、退屈な日々を送っていた光にとっては願ったり叶ったりだった。

 しかし、不思議なのはそれだけではなかった。

 親は二人とも仕事をしており、土日以外は仕事帰りに病院に見舞いに来る。それが、個室になった途端、母親だけは平日の昼間にも来るようになったのだ。

 仕事は? と訊いた光に、母親は「仕事変えたの。だから心配しなくて大丈夫よ」と笑って答えていた。

 光を気遣った母親の言葉は、逆に不自然さを感じさせた。

 そして察する。

 そう、か……。だから、個室なのか……。

 光も中学二年生だ。そんなに鈍感ではない。入院している中で、そんなにも奇妙な不思議が続けば、気付かないわけがなかった。それに、自分の体のことなのだ。悟るのは早かった。

「哀しむ顔は見たくないな……」

 最近、同じ言葉を何回も言うようになった。もう口癖になっているようだ。

「朝は調子良かったんだけどな……」

 首を捻った光は、寝たままで何とか髪の毛を梳いた後、また床頭台の引き出しに櫛を戻した。

 コンコン。

「光ちゃん。お昼ご飯、置いとくね?」

 軽いノックの後、看護師が昼食の配膳に来た。

「体調はどう? 起きて食べられそう?」

「え……っと、大丈夫」

 心配気な看護師の質問に、光は笑って答える。先程から体調が悪かったことを、何故か隠してしまった。

「そう? じゃあ、少しずつでいいから食べててね? また後で見に来るから」

「はい」

 元気に頷いた光を見た看護師はにっこり微笑み、病室を後にした。

「大丈夫、かなぁ?」

 ぽつりと呟いた光は先程のように上半身を起こそうと試みるが、ベッドの柵を握る手にも力が入らない。

 それでも時間を掛けて何とか上半身を起こすことに成功した光は、一息吐いた後、目の前に置かれているお膳に手を伸ばした。

 蓋を開けると、おいしそうな匂いが光の鼻腔をくすぐる。しかしその途端、何故だか吐き気が込み上げてきた。

「……うっ」

 慌てて茶碗に蓋をし口を押さえるが、吐き気は治まらない。

「……むっ、ごふっ……ごはっ」

 そのうち我慢できなくなり、光は布団の上に吐いてしまった。

「はっ……はぁ……」

 あぁ、布団……汚し、ちゃった……。

 それでも吐き気は治まらず、出す物がなくなった胃は、今度は胃液を食道に送りこんできた。胃酸で喉が熱くなる。

 看護師を呼ぼうとナースコールに手を伸ばしたが、激しい倦怠感に襲われ、光はそのまま意識を失ってしまった。


 ……ちゃん! 光ちゃん……光!

 誰かが、呼んでる……?

「……」

 薄っすらと開いた目に最初に飛び込んできたのは、母親の泣きそうな顔だった。

「ひ、かり……」

「お……かあ、さん? どう、したの?」

 首を傾げた光が周りに視線を向けると、ベッドの周りに三人の看護師と光の担当医師の安堂あんどうが立っていた。

 腕には点滴、胸には何やらパッチのようなものが付いている。そのパッチの先から出ている赤や青、黒の線が、ベッドの横に置いてある機械に繋がっていた。

 この只事ではない雰囲気に、光は眉を顰める。

「光ちゃん。今日、具合悪くなかった?」

 ふいに看護師に言われ、光は気まずそうに目を伏せた。その態度は看護師の言葉を肯定していた。

 察した看護師は、困ったように溜息を吐いた。

「具合が悪い時はちゃんと言わないとダメよ? そしたら苦しい思いもしなくて良かったのに。今度からはちゃんと言うのよ?」

「……は、い。すみません」

 申し訳なさそうに謝った光に、看護師はホッと胸を撫で下ろす。

 すると今度は安堂が、光の顔を覗き込む形で腰を屈めてきた。

「光ちゃん。光ちゃんの体のことは、光ちゃんが一番知ってるんだよ? ちゃんと言ってくれなきゃ、僕たちはその痛さや苦しさが分からないんだ。だから、少しでも変わったことがあったら、ちゃんと僕たちに教えて欲しい。分かったね?」

 見た目は若いが、安堂は言うべきことはきちんと言う。しかしその口調はとても優しかった。

「すみません、でした」

 か細い声で謝る光に、安堂は一つ頷き、微笑みを見せた。

「じゃあ、先生はお母さんとお話があるから、ちゃんと寝とくんだよ?」

 光はこくりと頷き、病室を出ていく安堂と母親を見送った。


「……正直、状態が思わしくありません」

 相談室に通された母親・麻衣子まいこは目を見開き、安堂の言葉に息を呑んだ。

「内服薬や点滴などで悪化を遅らせてはいますが……それも、もう限界にきています」

「お薬を……お薬を増やすことは出来ないんですか!」

 麻衣子は縋るような気持ちで安堂に詰め寄ったが、安堂は苦い表情のまま首を横に振った。

「光ちゃんの年齢と体重では、これ以上の増薬は危険になります」

「!」

 麻衣子の頬に、堪え切れずに涙が伝い落ちる。

「まだ……十四歳なんです。これからなんです。退院したら、やりたいことがたくさんある、って言って……」

 声を詰まらせた麻衣子は、それ以上言葉を紡ぐことが出来なくなった。


 それから光は、日に日に衰弱していった。

 なかなか治らない全身の強い倦怠感、食欲の減退、黒や黄色などのカラフルで大きな点滴、ことあるごとに繰り返される検査、わけのわからない機械の装着――。

 自分の体が悪くなっていることが、如実に表れ始めてきた。

「哀しませたくないな」

 今日も無意識にぽつりと呟く。その時。

 ポトッ。

 ベッドの上に何かが落ちたような小さな音がした。それと同時に、点滴をしていない光の右手に何かが触れる。

「?」

 首を少し動かしたが、何が降ってきたのか分からず、光は手に触れている物をそのまま拾い上げてみた。

 感触としては紙のようだ。しかし病室のどこにも、紙が降ってくるような箇所は見当たらない。どこから落ちてきたのかも気になったが、光は目の前までその紙を持ち上げてみた。そしてその紙に書かれた文章を読む。



【~招待状~】

 あなた様の人生の分岐点。

 現在いまとは違う、そのもう一つの道の先を覗いてみたくはありませんか?】



「……えっ?」

 思わず声が漏れた。

 名刺ほどの大きさの青い紙に書かれている内容がよく分からず眉を顰める。

 その一番下にQRコードが載っていたが、ここは病室で機械がたくさんあるため、携帯電話を使用することが出来ない。

 少し興味を惹かれたが、重い脱力感とともに右手をパタリと下ろした。

 しかし――。

【状況が状況ですので、興味がお有りでしたら、わたくしがご説明致します】

「!」

 突然聞こえた声に、本当なら驚いて飛び起きたいところだったが、光の体調はそうさせてくれなかった。 

 ベッド上で身を竦ませた後、驚きに目を見開き男性を凝視する。 

 男性は漫画でよく出てくるような執事の格好をしていた。コスプレのようだが、その容姿も格好も完璧で、なにより男性によく似合っていた。 

 漫画でしか見たことのない服装につい気を取られてしまったが、ふと光は当然の疑問にぶつかった。

 いつのまに病室に入り込んだのだろう?

 光のいる個室はナースステーションのすぐ目の間に位置している。白昼堂々、こんなおかしな格好をしている男性が、誰にも見咎められずに病室に入り込むのは不可能ではないだろうか?

【わたくしは仮想空間管理人のシーカと申します。お察しの通り、わたくしは人ではございませんので、どうぞご安心を】

 人ではない時点で、安心など出来るはずがない。

 光はシーカを胡散臭げな目で見つめた。

【あなた様は過去に、何かやり残したことはございませんか?】

「?」

【心残りが、ございませんか?】

 ……心残り?

 何のことを言われているのかさっぱり分からず、光は力無くシーカを見つめ返していた。

【仮想空間では、あなた様がお選びにならなかった、もう一つの道を覗くことが出来ます。必ず現実世界にお戻り頂きますが、あなた様が今、胸に抱いておられる心残りは、取り除くことが出来るかと存じます】

「……夢だ」

 光はそう断定した。

「昼間っから、目を開けたまま夢見るなんて、どうかしてる」

 そう言い、右手で布団を頭まで掛ける。

 霊感なんて全然ないのに、初めて見た幽霊が変な男の人なんて……。

 光が心の中でそうぼやくと、シーカは気まずそうに顎をポリポリと掻いた。

【えっと……で、大変申し訳ありません】

「!」

 光は頭にかぶっていた布団を少しはぎ、そこからシーカを覗き見た。

【少しでもあなた様のお好みにあった格好で姿を現すのが礼儀かと存じますが、こればかりはわたくしの一存ではどうにもならないことでして……】

 シーカは申し訳なさそうに言葉を続ける。

 何で、考えてることが……?

 心の中を読まれていることに警戒しながら、光は怪訝そうにシーカを見つめた。

【しかしながら、わたくしは幽霊ではございません。ですので、あなた様はまだ幽霊をご覧になっていないことになります】

 妙なツッコミを入れるシーカに面食らった光は、不覚にもプッと吹き出してしまった。格好とのギャップがあり過ぎて面白い。

【少し元気になられたようで、ようございました】

 シーカは優美な微笑を光に向けた。

「どうして、あたしに心残りがあるって思うの?」

 優しげなシーカの柔らかい微笑に、布団から顔を出した光は、おずおずと訊ねた。

【その招待状が送られたことが、何よりの証拠でございます】

「招待状……ってコレ?」

 右手に持っていた招待状を、シーカに見せるように翳す。

【はい、さようでございます。招待状は、お一人様に一通しか送られません。そして、誰にでも送られるわけではございません。過去に強い思いを抱いておられる方にしか、送られないのです】

「……」

 シーカの言葉に、光は思考を巡らせた。

 過去に強い思い――。そうか……あたしにはそれがあるんだ。

 退院してから、一番しようと思っていたこと。それは、入院する前から思っていたことでもあった。だが、それはもう出来ないことになろうとしている。そしてもう出来ないことだと、光は覚悟している。だからこそ、それが自分の心残りになるのだ。

 納得したように、光は軽く頷いた。

「うん、ある。心残り……」

【その心残りを少しでも減らせるように、仮想空間を体験してみませんか?】

「で……でも、体験ってどうやって?」

 現実では有り得ないことに、光は眉を顰める。

 それに対し、シーカが笑みを深めた。

【これから、あなた様を過去にご案内致します。人生の分岐点であなた様がお選びにならなかった、もう一つの道へお進み下さい。そうすれば、場面は自ずと展開していきます】

「でもあたし今こんな状態だし、体力的に無理なんじゃ?」

【それはご心配なく。仮想空間では反映されませんので】

 それからシーカは、少し表情を硬くした。

【ですが、病気の進行は仮想空間でも止めることは出来ません。仮想空間は、現実に起こり得る可能性のあったものを、体験して頂く空間でございます。それはつまり、現在にも繋がることでございます。従って、仮想空間でもあなた様は必ず病に侵されてしまいます。それだけは決定事項でございますので、ご了承下さい】

 難しい言葉を連ねられ、光は少し混乱してしまったが、頭の中で噛み砕いて考える。

「要するに、この現実ありきの過去に戻る、ってことね?」

【……はい、その通りでございます】

 光はしばらく考え込んだ後、意を決したようにシーカを見つめた。

「それって、今体験しなくちゃダメ?」

 光の質問に、モノクル越しにわずかに目を細めたシーカは【いいえ】と首を振った。

【あなた様のご都合に合わせます】

 そう言われ「じゃあ……九日後」と日にちを指定する。しかし、すぐに「あ、ううん、待って」と言い光は黙考した。

 ここは間違えちゃいけない。心残りを消去出来ても、その後に後悔が生まれてはならないのだから――。

 光は深慮した。

 その間もシーカは、黙って光の返事を待ち続けた。一点を見つめ、自分の人生をしっかりと考えている光に、ふわりと柔らかい頬笑みを向ける。

 どのくらい経ったか……ようやく光が視線を上げた。シーカをじっと見つめながら、「八日後でもいい?」と静かに訊ねる。

【…………】

 表情を改めたシーカは少し視線を逸らし、しばし黙考した後【はい、承知致しました】と微笑を浮かべた。

【では八日後の同じ時間、わたくしがお迎えに上がります】

 丁寧に頭を下げたシーカは、天井へと徐々に上昇しそのまま消えてしまった。

「! あの人、本当は幽霊なんじゃないの?」

 目の前で消えたことに光は表情を引きつらせ動揺した。

 途端に変なことに巻き込まれたような気がして、本当に大丈夫なのだろうかと不安になる。

 脱力したように深い溜息を吐く。体が重だるく感じるのは、それだけ緊張していたからだろうか?

 現実離れしたシーカの話を聞いていただけで疲れている。

 仮想空間というものを疑う要素がないわけではないが、シーカが煙のように消えてしまった時点で、自分の思っている常識とは掛け離れていることを光はすでに理解していた。だったら、過去に戻るということもあながち嘘ではないはずだ。たとえ嘘だったとしても、多少は落胆するだろうが、そこまで落ち込むようなことでもないと光は思った。

「目が綺麗だったな……」

 それよりも、シーカの目が嘘をつくような目ではなかったような気がする。

 最終的にシーカの言葉を信じたのは、それが一番の理由かもしれなかった。


 しかし、光の容態は悪化の一途を辿った。

 検査をする体力も奪われ、もう手を動かすことも出来ない。呼吸をするのも苦しくなり、今は酸素マスクを装着している。

「か、らだ……キツい……」

 光は、少し荒い息を吐きながら呟いた。

 母親は相変わらず毎日見舞いに来る。最近では病院にいる方が長くなった。父親も仕事が終わると、すぐに病院に駆け付けるような毎日だ。

 大丈夫だ、と母親に言うのだが、その心配顔が消えることはなかった。

 多分、光の前で我慢することも限界に来ているのだろう。強がる光を見て、泣かない事だけが、母親として唯一出来ることなのかもしれなかった。

「哀しませたく、ない」

 白い天井を見つめながら、ベッドの隣で定期的に鳴る電子音に耳を傾けるのも、だいぶ慣れてきた。

 最初はうるさいだけだったのだが、自分が生きていることを証明してくれているような規則的な電子音に、光は次第に心地良さを感じていた。


 そして、シーカが現れた日から八日後。

 その男はあの時と変わらず、おかしな格好で光の前に現れた。

【お約束の時間でございます。あなた様を、人生の分岐点へご案内致します】

「あたし見て……何の……コメントも、ないの」

 光の痩せこけた姿を、顎に手を当てながらまじまじと見つめる。

【コメント、でございますか? そうですね……八日前と比べて、だいぶお身体の具合がよろしくないご様子。それでも仮想空間を体験されるにあたって、全く差し障りございませんので、どうぞご安心下さい】

「……そ、っちの、心配?」

 論点がずれてるシーカに、光は力無く笑った。

 すると、シーカも柔らかい微笑を浮かべる。

【あなた様には、笑顔が一番お似合いでございます】

「…………」

【どんな時でも、笑顔をお忘れなく】

 もしかして、励ましてるの?

 シーカの表情からは、その心中を読み取ることが出来ないが、そう思うことにしようと、光も微笑み返した。

【それでは、分岐点までご案内致します】

 そして横たわったままの、痩せて細くなった光の手をそっと取ったシーカは、パチンと指を鳴らした。

「!」

 景色は一瞬で変化した。

 そこは光が通っていた中学校の教室で、いつの間にか自分の服装も、パジャマから制服に早変わりしている。

「……」

 光は絶句した。

 あんなにキツかったのに、こんなにも普通に立つことが出来ている。

 不思議そうに自分の体を見つめていた光は、シーカが繋いでいた手をクッと握り締めたことでその顔を上げた。

 見上げた光の目に優しげなシーカの微笑が映る。

 そしてその長身を屈ませたシーカは、光と同じ高さに目線を合わせた。

【良い旅立ちの日を迎えるための準備を致しましょう。あなた様には笑顔が必須でございます】

 その言葉に、光の目が大きく見開かれる。

「もしかして……知って、るの?」

 光の質問には答えることなく、笑みを深めたシーカはそのまま姿を消した。

「……も、もう! 状況説明してから帰ってよ」

 シーカの笑みにしばしボー然とした光だったが、すぐに我に返ると軽く憤慨した。そして、自分の状況を確かめるように辺りを見回す。

 多分、自分の教室だ。時間は四時半。いつもなら授業は終わり、部活や帰宅する生徒でごった返している時間なのだが、どういうわけだか、生徒が一人も見当たらない。

「光? あっ、こんなとこにいた。早く行くよ!」

 一人取り残され、どうしようかと思っていたが、突然呼ばれた声に助けられた。

美波みなみ?」

 光を呼んだのは、小学校からの友達で同じクラスの高岡美波たかおかみなみだった。

 美波は光の手を取ると、足早にどこかへ向かって歩き出した。

「もう、一緒にバスケの試合見るって言ってたでしょ? 大澤おおさわ先輩、見たくないの?」

 美波に言われ、ハッとした光は、ようやく状況を呑み込んだ。

 そっか。これ他校との親善試合があった日だ。確か日曜日で、美波と学校で待ち合わせしてたんだった。

 大澤とは、バスケ部に所属している、光が片想いしていた一つ上の先輩である。

「告ってやる! って勢い込んでたのに、怖気づいたの?」

 そう言えば、片想いして三カ月経ったから、勇気出して告ろうって思ってたんだっけ?

 その時は結局、土壇場で告白を回避した光に、美波の後押しも無駄になってしまったが――。

 徐々に過去のことを思い出し、光は自分が取らなければいけない行動が、段々分かってきた。

「うん、そうだった。美波。あたし頑張るから!」

 突然声を張り上げた光に、少し面食らった美波だったが、すぐににっこりと笑うと、「よし、その調子!」とガッツポーズを作った。


 親善試合は自校の圧勝だった。途中、逆転されそうになったが、そこからの攻撃がすごかった。

 もともと体育会系に力を入れている学校なため、負けられないというプライドもあったのだろうが、そのプレッシャーの中で勝てるというのもすごいことである。

「光。頑張れ!」

「……お、おう!」

 試合も終わり、光たちは体育館の入り口に立っていた。続々とバスケ部員たちが出てくる中、大澤が来るのを待つ。光の心臓は早鐘のように鳴り続けていた。

「あっ! 来た!」

「!」

 美波の声に、光はピクリと肩を震わせた。

「大丈夫、頑張れ」

 美波に励まされ、光は大きく深呼吸をする。そして意を決したように短く息を吐くと、その足で大澤の前まで駆け寄って行った。

「えっ?」

 突然目の前で止まった光に、大澤が不思議そうに瞬きをする。

「あ、あの……あたし、京崎と言います。先輩にお話があるんですが……」

「へぇ~、大澤も隅に置けねぇ~な」

 隣にいた大澤の友達が、雰囲気を察し、にやにやとからかってきた。

「わりぃ。ちょっと先に帰ってて」

 しかし大澤は真剣な表情で友達に告げると、「おいで」と言って、光の手を取って校舎の方へ歩き出した。

 わけが分からない光は、そのまま大澤の後を付いていくしかない。

 そして人通りの少ない校舎裏に来ると、大澤は光の手を離し、突然プッと吹き出した。

「? あの、先輩?」

 光は眉間に皺を寄せて、小首を傾げる。

「勇気あるね?」

「えっ?」

「普通、あんな形で男子の前に来ないでしょ?」

「あ、すみません」

 しまった。あんな出方したら、先輩も友達からからかわれて恥ずかしい思いするのに――。

 今さらながらに思ってしまった光は、申し訳ない気持ちで一杯になった。

 しかし大澤は特に気にするような素振りもなく、にっこり笑って首を横に振る。

「ううん、大丈夫だよ。で、話があるんだよね?」

「……は、い」

 頷き返した光はその場で、ゆっくりと息を整えた。

 ちゃんと告白しなきゃ。

 大澤に告白しなかったことを、光は一番後悔していた。

 まだ次がある、と思っていたあの頃の自分は、なんて愚かだったのだろう。病室の天井を見つめながら、そうずっと思っていた。その気持ちを心残りにしないように、ここは絶対に頑張らなければいけないのだ。

 退院したら、真っ先にしたいと思っていた事。どんな結果になろうが、自分の心の中に芽生えている気持ちは、ちゃんと伝えたい。

 光は、大澤を真っ直ぐに見つめた。

「ずっと前から先輩のことが、好きでした」

 光の真剣な眼差しに、大澤の表情も引き締まる。

「先輩には迷惑になるかもしれません。なので、ダメならちゃんと断って下さって構いません。自分の気持ちにけりをつけるために、告白してるので、それも覚悟の上です」

 一気に言い終えた光は、緊張で溜まっていた息を、はぁっと吐き出した。

 どんな答えが返ってきても絶対落ち込まない。

 光は、断られる覚悟を決めていた。

「えっと、どうして断るの?」

「……へっ?」

 思い掛けない言葉に、しばしの沈黙の後、間の抜けた声を出してしまった。

「断らないよ。自分が気になってた子が、せっかく告白してくれたのに」

「えっ?」

 聞き間違いかと思ったが、大澤の表情はどこか嬉しそうだ。何故か、光の方が戸惑ってしまった。

「覚えてるかな? 前にさ、すっごい雨の日に俺が傘忘れて……靴箱のところで止むの待ってたら、通り掛った君が傘を貸してくれたよね?」

「……は、い」

 覚えてくれてたんだ。

 光は正直、驚いた。

 確か、その時は、ちょうど予備の折りたたみの傘を持っていたため、大澤に一本貸すことが出来たのだ。

 その頃には光は大澤のことを好きだったので、傘を貸す時もかなりの勇気を要したが。

「それから、君のことがずっと気になっててさ。ほんとは俺が告白しようと思ってたんだ。ちょっとラッキーだったな」

「……」

 断られることばかり考えていた光は、空いた口が塞がらなかった。しばしボー然と大澤を凝視し続ける。

「あれ? 京崎さんは、あんまり嬉しくない?」

「は? あ、いえ。そんなことは……」

「っていうか、俺の方が驚いてるんだけど? だって、まさか告られるなんて思ってなかったし、俺から告ったらフラれるかもって思ってたんだから」

 微笑む大澤に、やっと実感がわいてきた光は、みるみる内に顔を赤くした。

「じゃあ、今度は俺が言うね? 俺と付き合ってもらえるかな?」

「!」

 逆告白され、赤くなっていた光の顔が、徐々に嬉しさで泣きそうに歪められる。

「えっ? もしかして、付き合うのは嫌?」

 光の潤んだ目に気付いた大澤は、自分が泣かしてしまったのかとうろたえた。

「す、すみません。……ちょっと嬉しくて」

 あたし、あの時もちゃんと頑張れば良かったんだ。

 ずっとフラれることしか頭になかったため、尻込みしてしまった自分を初めて悔いた。

「あたしで良ければ、お願いします」

 そして大澤に頭を下げる。

 光の返事に、安堵の息を吐いた大澤は、「良かったぁ」と胸を撫で下ろした。

「これから、よろしく」

 微笑んだ大澤が差し出した手に、緊張した面持ちで、光も手を差し出した。


「やったね! 光!」

 告白の成功を伝えた途端、開口一番に出てきた美波の言葉がこれだった。

 自分以上に喜んでくれている美波に、光も感謝の笑顔で「ありがとう」と礼を言う。

「でも……あれ? 一緒に帰らないの?」

「今日は、美波と帰るから」

「別に良いのに。せっかく付き合い始めたんだんだから、先輩と帰りなよ」

 気遣ってくれる美波に、光は笑って首を横に振った。

「ううん。美波にはちゃんと報告したかった。頑張れってあたしの背中を押してくれたから、今日、告白出来たんだもん。すっごく感謝してる」

 光の言葉に、美波は顔を赤くした。

「当然じゃん。だって、友達だもん」

 照れくさそうに言う美波に、光も微笑んで「ほんとに、ありがとう」ともう一度感謝の気持ちを伝えた。


「光、今日部活早く上がるから、一緒に帰ろう」

「あ、はい。じゃあ、図書室で待ってますね?」

「オッケー」

 放課後、教室に来た大澤に、光が笑って答える。

 あれから付き合うようになって一週間経った。少しずつ恋人らしくなってきたかなぁ? と思い始め、だいぶ大澤との距離も近くなったような気がする。

「今日は大澤先輩と一緒?」

 にこにこ顔で近付いてきたのは美波だ。

「うん、ごめんね?」

「いいよ。でも今度の土曜日は、モールに付き合ってね?」

「うん」

 光の返事にまたにっこりと微笑んだ美波は、そのまま手を振って教室を後にした。

 美波の姿を見送った光は机の中の教科書を学生カバンに詰め込むと、大澤と約束した図書室へと向かおうとした。

【失礼致します。仮想空間は如何でございましょう?】

 教室を一歩出たところで、ふいに聞こえた声に振り返ったと同時に、周りの景色も空色に一変する。

「シーカ?」

【突然申し訳ございません。途中経過を確認するのが決まりでして。体調の方は如何でございますか?】

「今の所は。でも、体のキツさはあるような気がする。もうすぐ、かな?」

 少し切な気に微笑み視線を落とした光に、シーカが顔を覗きこむように腰を屈めてきた。

【大丈夫です。時間はございます】

「!」

 優美な微笑と共に告げられた言葉に、伏せていた目が徐々に見開かれる。

【あなた様は、この仮想空間を存分に楽しむべきでございます。お体のことが気掛かりなのはお察し致しますが、それではこの空間を心から楽しむことは出来ません】

 そう言われても現実ありきの仮想空間なため、それを除いて考えるということはかなり難しい。現実に帰れば、また全身倦怠感と戦う日々だ。そのことを頭から排除することは出来なかった。

【幸せを感じることが、怖いとお思いではございませんか?】

「…………」

 図星を衝かれ、光はシーカに向けていた視線を宙に彷徨わせた。

 現実のことを考えれば、この世界で幸せを感じることが怖くなるのは当然だ。幸せを感じれば感じるほど、抜け出せなくなりそうで……怖い。

 このまま溺れてしまいたくなる気持ちを、幸せをなるべく感じないようにすることで光は制御していた。

【この世界は確かに仮想ではございますが、全く現実と異なるわけではございません】

「? どう、いうこと?」

 シーカの言葉の意味が分からず、光は眉根を寄せながら訊ねる。

【わたくしはあなた様を、人生の分岐点までご案内致しました。この空間は、あなた様がお選びにならなかったもう一つの道を体験して頂く空間でございます。つまりこの仮想空間も、もう一つのあなた様の人生なのです】

「もう一つの人生……」

 復唱する光に、シーカははっきりと頷き返した。

【この世界も真実なのです。光様の大切な人生の一つでございます。どうか大事になさって下さい。二度とはないこの世界を、悔いのないよう精一杯生きて下さい。迎える旅立ちの日に、笑顔を残せるように――】

 穏やかな微笑を浮かべるシーカを見つめつつ、光はふっと切な気に苦笑する。

「やっぱり分かってたのね? 八日後っていう時間をくれたのも?」

 小首を傾げ上目遣いで訊ねる光に、シーカは笑みを深めた。

【光様が仮想空間を存分にご満喫して頂けるよう、配慮した結果でございます】

 そう言うと丁寧に頭を下げ、シーカは再びその姿を煙のように消した。

「あたしに、目一杯幸せになれって言ってくれたのね?」

 もう姿の見えないシーカに訊ねるように呟くと、光は嬉しそうに微笑んだ。


 病気になることは確実。だけど、それまでの人生を無駄に生きはしない。未来が分かっていても、自分の人生を投げ出すような生き方はしない。少しでもあたしがあたしでいられるために――笑顔でいられるための準備を、この世界で整えよう。シーカがくれたこの世界を大事にしよう。

 光は心の中でそっと誓った。


「大澤先輩。すみません、ここ分からないんですけど」

「ん? どれ?」

 時々、授業で分からなかった数学の問題を先輩が丁寧に教えてくれる。数学が得意と言うだけあって、先輩の教え方はとても上手だった。お陰であたしの数学の成績は見違えるように上達した。

 勉強を教える時に掛ける眼鏡が、先輩をいつもより二割増しでカッコよく見せる。そのことにドキドキが止まらないのは言うまでもなかった。

 バスケをしている先輩も然りだ。

 ボール捌きは誰よりも上手い。(これはあたしの欲目かも?) シューティングガードのポジションで、スリーポイントシュートが得意。ボールがゴールポストに吸い込まれるように入る様は、見ていて溜息が出るほどだ。

 シュートが入った時、あたしに向かって笑ってガッツポーズをするのも、もう癖になっている。(ちょっと照れくさい、かも?)

「はい、半分こ」

「ありがとうございます」

 デートしてても優しさは変わらない。

 さり気なく車道側を歩いたり、荷物を持ってくれたり、こんなふうに食べ物を半分こしたり、そんなことが堪らなく嬉しかった。

「結構おいしいね」

 惜し気もなく嬉しそうな笑顔を見せてくれる。大事にしてくれてることが分かるから、あたしもすごく嬉しかった。

 先輩はいつでも優しい。

 そばにいてくれるだけで、あたしは幸せを感じられた。


「光。次、実験室!」

 美波はいつでもあたしに元気をくれる。

 小学校からの付き合いで、あたしが落ち込んでいる時や悩んでいる時、すぐ察して相談に乗ってくれるのが美波だった。いつも的確な答えをくれるので、あたしは何度も助けられた。

 明るくて素直で可愛くて――誰にでも好かれる性格をしている。

「明日、英語の小テストだよ……。あぁ、最悪」

 英語が苦手で、テストの前の日はあたしと猛勉強。眠い目を擦って小テストを頑張っても、他の教科で居眠りして怒られたり、問題を解かされたり、散々な目に遭う時もほとんど一緒だった。

「ねぇ、このペンギン可愛くない?」

 美波はペンギンのグッズを集めるが好きだ。

「えぇ? ちょっとブサイク」

「うっそ可愛いじゃん。これ買っちゃおう、っと」

 ペンギンの拙い歩き方がツボにハマっているらしい。

 そうそう。先輩に告白しろと言ってくれたのも美波で、あたしは美波に頭が上がらない。

 何でも言い合えて、くだらないことで一緒に笑い合えるだけで、あたしは幸せを感じられた。


「光! 早く起きないと遅刻するわよ!」

「母さん。昨日の書類、どこに置いたか覚えてる?」

「お父さんのカバンの中に入れました。んもう、この間忘れて大変だったんだから、ちゃんと入れといて下さい」

 お父さんとお母さんには、ほんとに感謝の言葉しか見当たらない。あたしのことを大事に育ててくれた、かけがえのない両親である。

 そんな両親と一緒に囲む食卓が、あたしは一番好きだ。

 お父さんは仕事が終わるとすぐに帰宅し、お母さんの作った夕食をあたしと三人で必ず食べる。

「お父さん。これもちゃんと食べて下さい」

「……えぇ~」

 大人のくせにピーマンが嫌いという、子供みたいなところもあるが、それもお茶目に見えてあたしは好きだ。

「光。ピーマン好きだよな? お父さんのもあげよう」

「じゃあ、私のピーマンをお父さんに差し上げます」

 逆に増えたピーマンに、お父さんがっくりと肩を落とす。

「素直に食べないからそうなるんです。少しは光を見習って下さい」

 話の切り返しが早いお母さんのツッコミも、あたしは好きだ。

 いつも笑いの絶えない食卓に、穏やかな時間を過ごせる。

 一緒に買い物をしたり、テレビのチャンネルを取り合ったり、ゲームしたり。時には一緒に感動ものの洋画や邦画を見て、三人で涙したり――。

 天気のいい日にはドライブ、夏休みや冬休みには三人で旅行。

 お父さんとお母さんとの思い出は、春夏秋冬どの季節も欠けることなく、尽きないほどたくさんある。ケンカした思い出もあるが、それも大切な宝物だ。

 二人からの愛情をたくさんもらい、ここまで育ててくれたことに、あたしは大きな幸せを感じられた。


 周りの人からもらうたくさんの幸せに、光の胸は熱いものに満たされた。思い出されるものは全てがキラキラ輝いて、光の心までも笑顔にしてくれる。

 光は刻み込まれた大切な宝物を抱きしめるかのように、両手を重ねて握り締め、そっと胸に当てた。

「シーカ……。シーカのおかげで、あたしは人生を二倍楽しめたよ」

 勉強机の椅子に座ったまま、光はぽつりと呟く。

【呼ばれたのは初めてでございます】

 光の背後に現れ、その独り言に静かに返答したのはシーカだった。

「もう時間ないから……」

 椅子をくるりと回し、シーカの方に体を向けた光は柔らかく微笑んでいる。

【……そのようで、ございますね】

 素っ気ないようでいて、どこか寂し気な表情のシーカに、光は「ありがとう」と笑みを深めて礼を言った。

【少し、心配ではありました。仮想空間に溺れてしまわれないかと】

「? どうして?」

【大澤様と交際なさることが出来たからです。現実よりも、幸せな日々をお過ごしだったのでしょう?】

 シーカの質問に光は少し複雑な表情を作ったが、それでも微笑んだ。

「うん。幸せだった。いつでもすごく優しかったから。でもだからこそ、付き合えなかったことが現実で良かったって思える」

 光は椅子から立ち上がると、自室のカーテンを開けた。

 外は夜の帳が下りている。電気を点けていなかった部屋に、月明かりが差し込み、室内を薄暗く照らした。

「少しあたしの思い上がりになるけど……あたしがいなくなることで、これ以上哀しむ人を増やしたくない。それに先輩は優しいから、きっと重く引き摺ってしまうような気がする。そんなのは絶対嫌だもん」

 光は首を横に振った。

「先輩には、あたし以上に幸せになってもらいたいから、引き摺るような傷にはなりたくない」

【そうでございましょうか?】

 シーカは少し小首を傾げた。

【大澤様は、そう思われないのではないでしょうか?】

「えっ?」

 光は眉根を寄せて、瞬きをする。

【あの方は、あなた様と出会えたことを傷になんてしません。きっと、大切な思い出として心に留め置くでしょう。ご友人の高岡様も、です】

 優美な微笑を浮かべるシーカの言葉は、光をハッとさせた。

【思い上がってもよろしいのです。あなた様は、そのくらいがちょうどよろしいかと存じます。そして、ご自分を卑下なさらないで下さい。そうでなければ、あなた様のそばにいらっしゃる方々に――あなた様を愛して下さる方々に失礼でございます】

「…………」

【難しいかもしれませんが、ご自分を愛して差し上げて下さい】

 伏せていた目を上げた光は、シーカを見つめつつ、照れくさそうに苦笑した。

「そんなに、出来た子でもないんだけど。でも、ありがとう。そうだよね、みんなに失礼だ」

 自分では卑下していたつもりはないのだが、よくよく思い返すと、そうなのかもしれないと思った。

 病気になってからは、みんなに迷惑を掛けてると、ずっと負い目を感じていた。妙に遠慮したり、よそよそしくなったり、顔色を窺ったり。

 態度が変わったのは、両親だけではなかった。

【もっと素直になってもよろしかったのです。あなた様の周りにいらっしゃる方々は、あなた様に頼られるのを待っておられたはずですよ】

 シーカの言葉に、光は目を潤ませた。そして顔を伏せると、しばらくしてぽつりと話し始めた。

「あたし……怖かった。思うように動かなくなくなる体も、増えていく点滴も、検査の後の先生の沈んだ表情を見るのも。徐々に悪くなっていくことが目に見えるから、余計に怖さも増して。でもそれを知られたくなくて、見栄を張って強がってた。でも……やっぱり、怖い」

 胸の内を吐露する光の頭を、シーカが優しく撫でる。

 その優しい手に促されるかのように光の目から一つ、また一つと涙が零れた。

【怖いことを隠す必要はございません。あなた様は、もっと甘えても良かったのです。一人ではないのですから】

「……」

 光の目からは止めどなく涙が溢れてきた。止めようとしても止まらない。

 でもシーカの手は、涙を流せと促しているように撫でてくるから、無理に止めなくても良いんだと思わせてくれる。

 本当は怖くて、本当は逃げたくて、本当は叫びたくて。

 本当は……ずっとずっと、泣きたくて――。

「怖くないって暗示を掛けることで、自分を騙していた。そうしなきゃ、周りに当たってしまいそうで嫌だったの」

 何よりも自分が一番、受け入れられずにいたから――。

【当たっても良かったのです。周りの方々は、ちゃんとあなた様を受け止めて下さったはずですよ】

「……うん……うん、そうだった」

 光は少し微笑み、押し込めていた思いと共に涙を流し続けた。


【出し切りましたか?】

 しばらくして、光の目から流れていた涙が途切れた。

 それを見計らったシーカが、気遣うように訊ねる。

 シーカは光の涙が枯れるまでずっと待っていた。何も言うことなく、ただ黙って頭を撫で、ずっと待っていた。

「ありがとう……」

 目を腫らし鼻を赤くしながら、光は礼を言った。

 それに対し、シーカはゆっくりと首を左右に振る。

【涙は全てここに置いていって下さい。そして現実世界には、笑顔だけを連れて帰って下さい。あなた様には笑顔が一番お似合いでございます】

 優美な微笑と共に掛けられた言葉に、光は今までで一番綺麗な笑顔を見せた。


 ピ―――。

「光? 光! 返事をして! 光! ひかっ……!」

 泣き崩れる麻衣子を、父親・直斗なおとがしっかりと抱き止める。

「先生、心停止です!」

 看護師の言葉に、安堂が即座に心臓マッサージを開始する。

「光ちゃん! 戻っておいで! 光ちゃん」

 マッサージする度に反応する心電図モニターを、麻衣子も直斗も微かな期待を胸に凝視するが、心電図の波形はマッサージの間だけしか反応しない。

 光の心臓は、自分で動くことを忘れてしまった。

「光! 光!」

「……ひか……り」

 麻衣子を支えながら、一つの線となった心電図の波形を見つめている直斗も、堪え切れずに唇を噛みしめて涙を流した。

「光ちゃん!」

 安堂が懸命に心臓マッサージを繰り返すが、モニターの波形は同じ反応しかみせなかった。

「せんせ、い……もう」

 滂沱の汗を流しつつ、必死に心臓マッサージを続ける安堂を、直斗が力無く首を振って制する。

「もう……い……っ」

 声が詰まって上手く言葉が出ない。

「…………」

 安堂はキツく目を閉じた後、項垂れたままゆっくりと光から手を離した。

 光の瞳孔をペンライトで照らした後、聴診器で光の心臓の音を聴く。そしてしばらく一つの線となった心電図モニターを見つめてから、安堂は自分の腕時計を見た。

「午前四時二十三分……ご臨終です」

 安堂は、麻衣子と直斗に深く頭を下げると、看護師と共に病室を後にした。

「……っ、光!」

 病室に残された麻衣子と直斗は、まだ温かい光の体を抱き締めた。

 二人の涙で、光のパジャマが濡れていく。

 死んだと思えなくて……思いたくなくて、光の体をさらに力強く抱き締める。

 しかし、抱き締め返してくれることもない光の両腕は、脱力したように垂れ下がったままだった。



【これでよろしいのですか?】

 シーカの視線の先には、光を抱き締め号泣している両親がいる。その光景を俯瞰して見つつ、シーカは誰もいない宙に問い掛けた。

 しかしその返答はすぐに返ってきた。

〈大丈夫。ちゃんと気付いてくれる〉

 その言葉は揺るぎないものだった。必ず気付いてくれると信じている。

〈シーカからもらったんだもの。絶対に無駄にはしない〉

 姿の視えない相手は、はっきりとした口調で、そしてどこか軽やかなトーンで答える。

 その言葉に安心するかのように微笑むと、シーカは静かにその後の展開を見守った。



「光、ひかっ……」 

 光を失った麻衣子と直斗は絶望感に浸っていた。

 これから何を支えに生きていけば良いのか、何のために生きていけば良いのか見失いそうになる。

 二人を見つめ返してくれた目も大人びたような口調の声も、時折見せたあどけない笑顔も……二人は、光の全てを失ったのだ。

 脱力した体はさらに重みを増した。まだ離したくはなかったが、直斗に促される形で、麻衣子は光の体をベッドにそっと横たえた。涙で視界がぼやけ、光の顔がよく見えない。

 最初に異変に気付いたのは直斗だった。

「母さん……」

 溢れ続ける涙を拭う麻衣子に、驚きの色をにじませながら直斗が小さく名を呼ぶ。

 どうしたのかと、まだぼやける目で麻衣子が直斗を見やると、直斗は驚きの表情で光を見つめていた。

「光が……」

 直斗の言葉に、すぐさま麻衣子が光の顔を見る。

「! ……どう、して……」

 麻衣子も目を瞠った。

「……わ、らってる?」

 ベッドに横たえた光は、笑っていた。

 目を疑った。涙の影響かと思い、手の甲で乱暴に涙を拭ってから改めて見てみたが、拭った後も光の表情は変わらない。

 生き返ったのかとすら思った。それほど光は完璧に微笑んでいたのだ。

 どういうことなのかと戸惑う二人に、それは突然響いてきた。



〈お父さん、お母さん。ごめんね、先に逝っちゃって……。でも、あたしが生きた分だけの幸せは、ちゃんと掴んだよ。だから全然悔いはない〉


 姿なき光の声が、祈るような気持ちで伝える。


〈二人の自慢になるような子供じゃなかったかもしれないけど、あたしを愛してくれてありがとう〉


 二人の愛情は最期の最期まで、痛いほどずっと光に届いていた。

 だからこそ、この思いも絶対に届くと信じる。


〈お父さんとお母さんには、ありがとうをたくさん伝えたい。本当に……本当にありがとう。あたしは、ずっとずっと幸せだったよ〉


 光が一番伝えたい言葉は、しんしんと降る雪のように二人の心に優しく響いた。



「ひか、り……」

 ベッドの横に立ち尽くしていた麻衣子の目から次々と涙が零れる。

 何故かは分からない。ただ、心に何か温かいものが触れたような気がしたのだ。

 ふと隣を見ると、光を見つめたまま直斗も涙を流していた。お互いに同じものを感じていたのが分かる。

「なん、だろうな……。光が慰めてくれてるような、そんな気がしないか?」

 流れる涙を拭うこともせず鼻をすすりながら、直斗が少し笑ってそう言った。

 はっきりとした言葉を聞き取ったわけではない。二人には霊感などという能力もないため、今感じたものはただの思い違いである可能性もある。そうであったら良いなという、二人の願望が思わせたものかもしれない。

 それでも光の笑顔が、ちゃんと伝えてくれていた。

 体のキツさに耐えられなくなっていたはずなのに、最期はこんな笑顔を見せてくれた。

 まるで幸せな夢でも見ているかのような、そんな笑顔を――。

「……」

 光を失った深い哀しみは胸のうちに渦巻いているが、それとは違う温かな気持ちに二人は涙した。

「確かに光と過ごした日々は短過ぎたけど、俺たちの方がたくさん幸せをもらっていたな……」

 麻衣子と直斗は、微笑む光にそっと触れる。

 徐々に失われる温かな体温が、光が死んでしまったことを二人に実感させた。

 立ち直るには相当な時間が掛かりそうだが、それでも立ち直る努力をしなければ光に怒られそうな気がした。

「でも……今日だけは許してくれ、な……」

 今日だけは最愛の娘を失ってしまった深い哀しみの中にいさせてくれ――。

 直斗が堪え切れず、嗚咽を漏らす。

 覚悟はしていたつもりだった。こうなる日がくることは医者から告知されていたのだから……。

 でも……やはり早過ぎる死を悔まずにはいられなかった。

 もっと光の笑顔を見ていたかった。もっと幸せにしてやりたかった――。

 その思いは決して尽きることはない。

 これから二人に、光を失った深い深い哀しみに暮れる日々が訪れる。それは、とても苦しく深い闇である。

 だが、二人はその闇に溺れてはいけないのだ。

 光が残してくれたこの笑顔を無駄にしてはいけない。光の想いを裏切ってはいけない。

 それだけは心に固く誓い、麻衣子と直斗は溢れ出る涙を流し続けた。



〈何かしたの?〉

 二人の様子を見つめていたシーカに姿なき声が問い掛ける。

【いいえ。今のわたくしには何もすることは出来ません。光様の想いの強さが、ご両親に素敵な笑顔を見せたのです】

 胡散臭げな微笑を見せるシーカに、どこか腑に落ちない気がしたが、光は素直に受け止めることにした。

【それにしても……よろしかったのですか?】

 今度は不思議そうにシーカが訊ねる。

【仮想空間を体験なさっている間、現実世界の時間を止めることも出来ました。そうすればご自分の声で、ご両親を見つめながら最期のお別れも出来たでしょう。ですが、光様はそれをお望みになりませんでした。何故だかお聞きしてもよろしいですか?】

 シーカの質問にさほど時間を置かず、答えが返ってきた。

〈……あの時のあたしの体力じゃ、声を出すのもやっとだったの〉

 囁くようなトーンで声が響く。

〈ほんとはね、あたしもお父さんとお母さんを見ながら、ちゃんと笑ってお別れしたかった。でもあの時のあたしには、その気力もほとんどなかった。笑顔が……作れなくなってたの〉

 残念そうな光の声に、シーカは微かに目を細めた。

【ご病気の進行が、それほど光様の笑顔に悪影響を与えていたのですね】

〈シーカがくれた時間を無駄にしたくなかった。最期の最期に心に影を落とすような別れ方はしたくなかったから〉

 それは二人が光の死から早く立ち直って欲しいという願いも込められていた。

 光の優しい想いが切々と伝わってくる。

〈シーカ。本当にありがとう。あたしの願いを聞いてくれて〉

 姿や表情が見えなくても、満面の笑みを浮かべていることが手に取るように分かった。

【良い旅立ちの日を迎えられましたか?】

〈うん〉

 即答した光に、シーカは優美な微笑を浮かべた。

【それでは、わたくしはこれで失礼致します。光様と出会えたこと、とても嬉しく思っております。ご両親のお心が少しでも早く癒えますよう、わたくしも心よりお祈り致しております。光様もご両親の『光』となって、これからも見守って差し上げて下さいね】

〈うん。ありがとう……シーカ〉

 光の言葉に笑みを深め、胸に温かな想いを抱きながら、シーカはその場から姿を消した。

〈あたしも、もう逝かなきゃ……〉 

 自分の想いは、二人に確実に届いた。

 ちゃんとした言葉で伝えることは出来なかったが、それでも光は満足だった。

 悔いのない人生を送れたこと、そしてシーカにもう一つの人生を体験させてもらったことを幸せに思いながら、光はその気配を静かに消した。



 皆さま、如何でしたでしょうか?

 光様の場合、とても特殊なものでございました。


 時に人は、迫りくるご自分の死期を悟れる方がいらっしゃいます。

 光様もそのタイプのお方でした。そしてとても利発な方でいらっしゃいました。


 人は死に向き合う時、自分の本当の姿が視えると申します。

 死を前にすると、無意識に本性を現すのです。それがどんなに醜いものでも、それと知らずに出してしまうものなのです。

 しかし心優しい光様には、笑顔が一番お似合いでした。

 その手助けが少しでも出来ましたことは、わたくしと致しましても、とても心嬉しいことでございました。


 あとは、ご両親がこの深い哀しみを乗り越えて下さることを、心から祈るばかりでございます。


 さて、皆さまにもご家族がいらっしゃるかと存じますが、そのご家族に感謝の言葉を送ったことはございますか?


 いつも反抗ばかりで、ご両親にご迷惑を掛けておいでではないですか?

 苛立つからといって、悪態をついてはいらっしゃいませんか?

 いつもそこにいてくれるからと、甘えてはいらっしゃいませんか?


 そのような時は、一度、ご両親を亡くされた時のことを想像してみて下さい。

 きっととても後悔なさるはずでございます。そして、ご自分を責めるはずでございます。


 当り前に過ぎていく日常と、同じように考えていてはいけないのです。

 明日にはご両親が亡くなるかもしれない。

 いえ、もしかしたら交通事故などで、ご自分が命を落とされるかもしれない。


 そんな時、悔いのない最期を迎えるために、いつでも感謝の気持ちを忘れてはいけないのだと、わたくしは思います。


 そして出来れば恥ずかしがらずに伝えてみましょう。


 あなた様のことを、いつでも一番に考えて下さる大切なご家族に「ありがとう」という感謝の言葉を。

 あなた様の照れくさい笑顔と共に―――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る