CASE 3  犯罪者の場合

【相当、お悩みのようですね?】

 突然目の前に現れた男性に、宮本靖一みやもとせいいちは腰を抜かした。

 ここには自分一人だけだったはずだ。混乱していた頭が更に激しく混乱する。

【わたくしは、仮想空間管理人のシーカと申します。本来ならば招待状が先に送られるのですが、あなた様の後悔の念が生まれましたのがつい先程でしたので、取り急ぎ、今回はわたくしが招待状をお持ち致しました】

「…………」

 わけのわからないことを、否応なしにつらつらと語られる。

 小首を傾げる靖一が、唯一冷静に見ることが出来たのは、シーカの有り得ない格好だった。

 しかし黒の燕尾服や白の手袋、手に持っているステッキや頭の上のシルクハットも、似合っているから特に違和感を感じない。モノクル越しの薄く細められた漆黒の目に、靖一の目も釘付けになった。

【あなた様宛の招待状でございます。どうぞ、お手にとってご一読下さいませ】

 尻もちをついて凝視している靖一に、シーカが招待状を手渡す。

 靖一はボー然としながら招待状を受け取り、不審気に眉を顰めた。

 この状況を見れば、招待状とやらを読んでいる場合ではないことは一目瞭然なはずだ。

 だがシーカは動揺や緊張感など一切なく、普通に靖一と話をしている。

 その足元に、まだ生温かい死体が転がっているというのに――。

【今のあなた様にとって、これほど魅力的なものはないと思われますよ?】

 意味深な微笑を浮かべるシーカに、靖一は悪寒を感じた。

 この状況に動じていないところからして、並大抵の人間ではないことが分かる。いや、そもそも人間ではないだろう。シーカの足は、地に着くギリギリの位置で空中に浮いているのだから。

 そんな妖しげな男を見つめつつ、冷静さを取り戻してきていることに、靖一は内心驚いた。シーカの存在にしても、すぐに受け入れている自分がいることに気付く。

 何者なのか? という疑問は消えてはいないが、取り敢えずその招待状に目を落とした。



【~招待状~】

 あなた様の人生の分岐点。

 現在いまとは違う、そのもう一つの道の先を覗いてみたくはありませんか?】



「?」

 いまいち良く分からない招待状の内容に、目の前のシーカに視線を戻す。

【文章の通りでございます。あなた様の場合ですと、人生の分岐点は、ほんの二十分ほど前になると思われます。今、とても後悔しておいでですね?】

「!」

 まるで今までの一部始終を見ていたかのようなシーカの口調と微笑に、薄気味悪さを感じ、靖一は身震いした。

 死神とか悪魔の類なのか?

 靖一が微妙に顔を歪めていると、シーカがくすっと忍び笑いをした。

【死神、悪魔……当たらずとも遠からずでしょう。ある人にはそう映り、またある人には全く逆の解釈をされる。わたくしはそのような存在でございます】

 思考を読まれたことに、若干引いてしまった靖一だったが、死神ならば当然だろう、と少し違った感覚で納得する。

【簡単にご説明致します。体験して頂く仮想空間は、現実に起こり得る可能性のあったものに限ります。絶対に実現することの出来ないものは、体験して頂くことは出来ません。仮想空間を体験して頂いた後、あなた様の心境の変化に因って起こることに関し、当方は一切の責任を負いません。例え仮想空間の方が現実よりも良い結果だったとしても、必ず現実世界にお戻り頂きます。以上が、仮想空間を体験して頂くに当たっての、注意事項でございます】

 説明になっていない……。

 最初の時点で、掴み切れていない状態から説明されているので、靖一は取り残されるばかりである。

「……つまり一言で言うと、どういうことなんだ? 過去をやり直すことが出来る、ってことなのか?」

 やっとのことで出てきた第一声は、それだった。

 今、自分の中で渦巻いている後悔を消去出来るならば、喜んで頷く。

【申し訳ございませんが、過去をやり直すことは出来ません。仮想空間はあくまで仮想なので、体験して頂いた後は、今のこの状態にお戻り頂きます】

「……」

 それなら体験する意味など、全くないではないか。

 靖一は重く深い溜息を吐いた後、狂ったように髪の毛を掻きむしった。

 この惨状に至る前に戻れるのなら、全身が恐怖で震えるようなことには絶対ならないのに! まだ二十代という若さで、人殺しになんかならないのに!

 目の前の現実に、靖一の後悔が増幅される。

 シーカはより一層、笑みを深めた。

【過去をやり直すことは出来ませんが、今お持ちの後悔が、少しは解消されるかもしれませんよ?】

 後悔と混乱と困惑が、膨らみ続ける。

 そんな靖一の思考にも遮られることなく、シーカの声は低く響くように浸透してきた。

【今の状態しか知らないから、後悔してしまうのです。あなた様がお選びにならなかった別の道を行けば、この状態より更に悪い状況になっていたかもしれません。どうです? そう考えれば、今の後悔も少しは晴れませんか?】

 悪い状態だったのなら、確かにそうだろう。だが――。

「良い状態だったら、後悔は今より大きくなる」

【良い状態だと思われますか?】

「!」

 即座に切り返された言葉に、靖一は訝しげに眉を寄せた。

【体験してみる価値はあると思いますよ? それに今を逃せば、この機会は二度とございませんので】

「……どういうことだ?」

【招待状は、お一人様に一通しか送られません。そして、招待状がなければ、仮想空間を体験して頂くことも出来ません。従って、仮想空間を体験して頂く機会も、この一回きりでございます。キャンセルなさる場合、わたくしのことも含め、仮想空間のことは記憶から消去させて頂きます】

 そう言われれば、揺らいでしまうのが人間の心理であるが、靖一はあまり魅力を感じなかった。

 結局はこの状況に戻ってくるのだから。

【体験して頂いても、後悔は持ち続けることになるかもしれません。ですが、その後悔を少しでも軽くすることは出来ると思われます】

 靖一の思考を読んだシーカが、言葉を続ける。

【今のままの重く苦しい後悔を持ち続け、一生を終えるか。仮想空間を体験し、その後悔を少しでも軽くなさるか。選ぶ権利は、あなた様にございます】

 体験したとしても後悔が軽くなるという保証はないはずだ。

 だがシーカの言葉に、確信めいたものが含まれているように感じ、靖一は半ば操られるように頷いていた。

「…………分かった。じゃあ、体験させてくれ」

【承知致しました】

 シーカは優美な微笑を浮かべながら、靖一の手を取った。

「! 何すっ……」

【これからあなた様を、人生の分岐点へご案内致します】

 戸惑う靖一を余所に、シーカはパチンと指を鳴らした。

「!」

 次の瞬間、靖一は家の玄関前に立っていた。

 本当に瞬間移動したことに、靖一は言葉も出ない。

【先程の時間より、二十分遡りました。では、仮想空間をご満喫下さい】

 靖一の耳元で囁いた後、再び意味深な微笑を浮かべたシーカは、そのまま靖一の前から姿を消した。

 本当に二十分前に戻ったのか? という疑問は、瞬間移動した時点でほとんど払拭されている。

 その途端、現実のことが思い出され、徐々に手が震え出してきた。緊張感も一気に増し、汗が滲み出てくる。

 靖一は大きく深呼吸を繰り返した。

 冷静でなければ、これから起こることに対し、自分を制御出来ない。同じことを繰り返してしまうかもしれない。

 しかし、それではここに来た意味がないのだ。現実の自分が抱いている後悔を、少しでも軽くしたい。そのためには、いつも以上に心を落ち着ける必要があった。

 一際大きく深呼吸をした靖一は、心の中で「よし」と小さく気合を入れ、玄関のドアノブを捻った。

 電気の点いていない暗い家の中は、不気味なほど静寂が広がっている。

「……落ち着け」

 自分に言い聞かせるように、小さく呟く。

 現実を知っているからそう思えるだけだ。知らなければ気付かずに、そのまま通り過ぎるだけの静けさだ。

 実際、そうだった。

 ただいま、と声を掛けても返ってくる声はなく、靖一はそのまま自分の部屋に行こうとしたのだから。

 これから何が起こるかが分かっているだけで、こんなにも違う景色が見えるものなのか……。

 ガタンッ。

「!」

 リビングから聞こえた突然の大きな物音に、靖一の体がビクッと震えた。

 始まった!

 更に早くなる鼓動を鎮めるように、胸に手を当てる。

 ここから先が、靖一にとっての正念場だった。

「チッ。何にもねぇのかよ」

 イラつくように呟く声は、あの時と全く同じだ。

 靖一は持っていたバッグを担ぎ直すと、リビングのドアノブに手を掛け、大きく息を吐いてから、ドアを開けた。

「何してるんだ?」

「! 何だ、兄貴かよ」

 靖一の弟・慧二けいじが、露骨に嫌な顔をして言い放つ。そしてけだるげに靖一の方に体を向けると、寄り掛るように流し台のところに腰を落ち着けた。

「母さんは?」

「……母さんに何の用だ?」

「か・ね。それ以外にここに来る理由はない」

 揶揄するように言う慧二に、ふつふつと怒りが沸き起こる。

「過労で入院してる。家を出てから一切連絡もしないで、一体どこで何してたんだ」

 問い詰める靖一に、慧二は、はぁ~とあからさまな溜息を吐いた。

「めんどくさ。俺さ、兄貴と話したくないんだよね。だから家出たんだけど」

「俺のことを嫌ってるなら、それでも良い。だが、母さんには心配掛けるな」

「だから、めんどくさいんだよね」

 そう言って慧二は首を回した。心底面倒臭そうだ。

「ま、いいや。あんたと話してる暇ないから。じゃあね」

「ちょっと待て。どこ行くんだ」

「病院だよ。入院してるとこって、希望ヶ丘きぼうがおか病院でしょ? 母さんずっとあそこだもんね」

 見抜かれていることに、靖一の表情が変わる。同時に息も荒れてきた。

「ダメだ。これ以上母さんに迷惑掛けるな」

「迷惑じゃないよ。子供が親に小遣い貰うのは当然の権利でしょ?」

「何が当然の権利だ。二十はたち越えてないからって、いつまでも子供気分でいるな」

「子供でしょ? 成人してないんだから」

「お前がそんなんだから、母さんが倒れるんだ!」

「兄貴がいつもうるさいからだよ。母さんも疲れたんだ」

 何を言っても慧二には伝わらない。面倒臭そうな態度も、全然変わらなかった。

「母さんが死んでも良いのか? 金の無心ばっかりで、母さんの体調を気遣うことも出来なくなったのか!」

「心配だよ? これからの俺の生活もままならなくなるしね。でもそうなったら、兄貴も同じでしょ? 人の心配ばっかりしてて良いわけ?」

 にやにやしながら言う慧二に、靖一の怒りも頂点に達しようとしたが、実際の時のことを思い出し、思わず身震いした。

 そうだ。俺はこれで頭にきて、慧二を刺したんだった。

 徐々に思い出される鮮明な映像に、汗が噴き出してくる。

 あの時、カッとした靖一は、慧二の背中を包丁で刺した。包丁は上手く骨を避け、肺にまで達していた。金魚のように口をぱくぱくと動かし、息が出来なくなった慧二の苦しそうに歪んだ顔が、靖一の頭から離れない。そしてそこから流れ出るドロッとした赤い血液が、ぬらぬらと包丁の柄を伝い、自分の手を濡らしたことで、靖一は我に返ったのだ。

 そうだ。……ここで理性をなくすわけにはいかない。

 靖一は軽くかぶりを振った後、もう一度深呼吸をしてから口を開いた。

「もういい。お前に何を言っても、伝わらない」

 いつにない靖一の態度に、慧二が微かに眉根を寄せる。

「へぇ、珍しい。いつもなら怒ってどっかに行くくせに、今日は違うね?」

「お前に何も期待しない。どこへでも行けばいい」

「んじゃ、病院行ってこよ~っと」

 挑発するように言うが、靖一はのらなかった。

「入院してる母さんが、金持ってるわけないだろ? そうなったら単なる見舞いにしかならない。入院している手前、母さんに手も出せない」

 靖一の言葉に、慧二の表情が変わった。

「兄貴のその口調イライラする」

 靖一を睨みつけながら、脅すように低く呟く。

に行きたきゃ行けば良い。俺は止めはしない。お前に構ってられるほど暇じゃないし。じゃあな」

 これで良い。このまま自分の部屋に戻ろう。

 靖一はひどく落ち込んだ。

 すれ違う会話に、兄弟という繋がりは感じられない。行き交う会話はどこか浮いていて、お互いの溝を深めるばかりだった。

 たった二人の兄弟なのに、慧二とは一生分かり合えないんだ。

 落胆した気持ちを抱えながら、リビングを出ようとドアノブを掴む。

「そんなに忙しいなら、俺が楽にしてやるよ」

 吐き捨てるような言葉が聞こえたかと思うと、突然背中に鋭い痛みが走った。

「目障りなことばっかり言いやがって」

「……っ、ごふっ……かはっ」

 自分の口から、温かい血液が吐き出される。ドロドロした赤い液体は、靖一に慧二の血を思い出させた。

 これ……俺の血、か?

 立っていられなくなり、膝から崩れるように倒れ込む。

「いつでも殺したいと思ってたよ。やっと実現出来た」

 朦朧とする意識の中、かすかな視界に入り込んできたのは、自分を見下ろしながら薄ら笑いを浮かべる慧二だった。長年の願いをやっと達成出来たという喜びが、恍惚とした表情に表れている。

「……うっ、く」

 慧二の表情は、靖一には人間と思えないほど恐ろしい形相に見えた。

 あの時の俺も、こうだったのか?

 そう思った時、靖一の思考は心臓と共に停止した。


 俺……死んだ、のか?

 目を開けているのかも分からないほどの暗闇の中、自問するように呟く。

【ご安心下さいませ】

「!」

 突如聞こえた声に暗闇の中を見回すと、遠くの方に薄っすらと光が見えた。その光が少しずつ靖一の方に近付いてくる。よく見ると、その光の中に見覚えのある男性がいた。

【五感は全てリアルもなものになっておりますが、現実世界には反映されません。さて、仮想空間をご満喫して頂けているでしょうか?】

 光に包まれていたのは、シーカだった。

 そのシーカが纏う光に照らされ、靖一はやっと暗闇の中で自分の存在を確かめることが出来た。

「満喫どころじゃない。これじゃあ、殺さなかったら、俺が殺されていたってことだろ?」

【どうやらそのようですね】

 シーカは興味なさそうに相槌を打つ。

「でも殺すよりは、殺される方がマシ……なのかもしれない」

 靖一は切な気に目を伏せた。

 どちらも避けたいというのが正直な胸の内だが、現実世界でひどく苛まれていた後悔を考えれば、自分が死ぬ方がまだ良いと思った。実の弟を刺し殺すなんて重罪、自分には背負い切れない。

 しかし――。

【果たして、本当にそうでございましょうか?】

 シーカが笑みを深める。

 言葉の意味を図りかね、靖一は怪訝そうに小首を傾げた。

【まだ、途中経過でございます。もう少し続きがございますので、最後までしっかりとご覧下さい】

 丁寧に頭を下げたシーカは、再び煙のように姿を消した。


 続き? 俺が死んで終わり、というわけではないのか?

 どこが終わりなのだろう? と疑問に思っていると、暗闇だった周囲が、一瞬にして先程の自宅リビングに早変わりした。

 ただ先程と違うのは、自分が死んだ後の光景を客観的に俯瞰して見ているという状況だ。

 自分は背中に包丁を刺された状態で、うつ伏せになって倒れていた。明らかに息絶えていることが分かる。その光景は、自分が慧二を殺した後の状況と似通っていた。

 死んでいる慧二を前に、頭を抱えてしゃがみ込んだ靖一は、殺してしまった事実に全身が震え出した。ゆすっても叩いても反応のない慧二に、途端に凄まじい後悔に苛まれる。むせかえるような血の匂いに、胃の内容物が上がってくるような酸っぱさも感じ、我慢できずに台所でもどしてしまった。それでも起きてしまった事実は変えられない。

 きっと慧二も同じような状態になるだろう……。

 そう思っていた靖一の耳に、予想だにしなかった言葉が入ってきた。

「ちゃんと死んだかな?」

「……!」

 靖一は大きく目を見開き、耳を疑った。聞き間違いだと思った。いや、そう思いたかった。

「あぁ、めんどくさっ」

 しかし、靖一の死体を冷めた目で見下ろす慧二の態度に、後悔の二文字は微塵も感じられない。

「でも、これで生き返られると余計めんどうだな」

 そう言った慧二は、靖一の背中に刺さっている包丁を抜き、再びその体に突き刺した。

「!」

 それは先程より、深く刺さっているように見える。

 何なんだ、これ……。

 自分が殺される現場を目の当たりにし、靖一は激しく混乱した。

 どういうことだ? 実の兄を殺しておいて、慧二は何にも思わないのか?

「あぁ、ダメだ。心臓刺さなきゃ」

「!」

 混乱している靖一の耳に、更に衝撃的な言葉が入ってくる。

 靖一は両手で頭を抱えるようにしながら、耳を覆った。

 もういい。もう嫌だ!

 そんな靖一の気持ちとは裏腹に、慧二はうつ伏せになっている靖一の体を、重たそうに仰向けにする。

 次に何をされるか分かっていても、靖一は目を逸らせなかった。それと共に、破裂しそうなほど早いスピードで鼓動が跳ねる。

 そして慧二は迷うことなく、靖一の心臓目掛けて包丁を突き立てた。

「…………」

 眼下で繰り広げられる残酷な光景に、靖一は失望した。

 これは弟なのだ。自分と血が繋がっている、兄弟なのだ――。

 自分に言い聞かすが、この一連の出来事に靖一の精神も破壊されそうだった。

 包丁が刺さっている個所から血が噴き出し、慧二の顔や両手を赤く染め上げる。それでも構うことなく、慧二は薄ら笑いを浮かべていた。

「良かった。ちゃんと死んでくれたみたい」

 立ち上がった慧二は、血まみれの靖一を見下ろしながら、フッと鼻で笑った。

 人間を殺してしまったという、自責の念などは全くない。人として一番大切な倫理観が、慧二には欠けていた。

 もう……ダメだ……。

 靖一は宙に浮かびながら、脱力したように膝を折った。

 子供の頃から喧嘩ばかりだった。一年前に家出をしてからは、顔を合わすこともなかった。それでも兄弟だと思っていたのだ。連絡のない慧二の身を、母親と同じように案じていたのだ。それがこんな形で裏切られるとは、思ってもみなかった。

 ショックが大き過ぎて、立ち直れない。


【如何でございましたか?】

 激しい虚脱感に襲われている靖一のそばに、微笑を浮かべたシーカが腰を下ろし訊ねてきた。

 自分の周りの景色が、リビングから空色に一変していても、もう驚くことすら出来ない。

 だが、この悪夢から解放されると思ったら、早く現実世界に帰りたかった。

「も、いい……。早く……帰しっ……く、れ」

 口の中が乾いて、上手く言葉が紡げない。

 だが、シーカはちゃんと聞き取ったようだ。

【承知致しました】

 快諾したシーカは、靖一の手を取ると、パチンと指を鳴らした。


「…………」

 現実世界に戻ってきたはずなのだが、場所が仮想空間と同じリビングなため、本当に帰って来たのか、靖一にはしばらく分からなかった。

 リビング中にむせかえるほどの鉄の匂いも、周りを染める血の赤も、仮想空間と全く同じだ。

 現実世界に戻ってきたのだと認識できたのは、足元に転がっている慧二の死体を見てからだった。

【大変、衝撃的なもので、わたくしも正直驚いてしまいました。さて、如何でしたでしょうか? 抱いていた後悔は軽くなりましたでしょうか?】

 シーカが質問するが、答えることはもちろん、考えることさえ出来ない。仮想空間でのことが頭の中で回想され、上手く気持ちを切り替えられずにいた。

「裏切られた……。俺の……こ、心を、踏み躙られた……」

 虚ろなまま、ぽつりと言葉を零す。

【あなた様の後悔は、弟さんを殺してしまったという事実でございました。やり直すことが出来るなら、弟さんを殺すことなどしなかったと。今の心境はどうでしょう? 弟さんの本心を知った今、あなた様はどのような思いを抱かれますか?】

 止まったままの思考にも、シーカの言葉は難なく入り込んでくる。

 後悔? ……俺の後悔って……何だったっけ?

 自分がひどく苛まれていた後悔も、すぐに思い出せない。

【あなた様は弟さんの死体を前に、全身を震わせていました。なんてことをしてしまったんだと自分を恨まれました。ですが、弟さんはどうでしたか? あなた様の死体を前に、同じ思いを抱かれておりましたか?】

「……」

 シーカの声に解されるように、止まっていた靖一の思考が再び動き出した。

 そして考える。

 慧二の本音は、靖一にとってショック以外の何物でもなかった。自分が目の当たりにした慧二の異常行動も、そのショックに輪を掛けている。最後は、確実に靖一を仕留めようとしていた。死体となった靖一の体に更に刃を突き立て、薄ら笑いさえ浮かべていた。

 俺が抱えていた後悔は一体何だったんだ。

 次第に靖一の胸の中に、怒りが湧き上がってくる。

「……あんたの言う通りだった」

 靖一は無表情でぽつりと呟いた後、ゆっくりと口角を上げた。

「後悔なんてするほどのことじゃない。自分が殺された方が良かったなんて、馬鹿な考えだったんだ」

 そして、ふふっと肩を震わせて笑った。

「現実の方が全然良かったよ。仮想空間を体験して本当に良かった。俺が抱いていた後悔は、たった今、完全に消え去った」

 慧二がそのつもりだったなら、俺も同じことをやり返してやる。

「これで、こいつを殺したことを後悔せずにすむ」

 靖一は蔑視するように、慧二の死体を見下ろした。

【それは……ようございました】

 シーカの目が、モノクル越しに伏せられる。

 靖一の表情は、仮想空間で見た慧二の表情と非常に良く似ていた。それはこれから靖一がどう動くかをも簡単に予測させた。

 そして靖一はその通り動く。

 慧二の背中に突き刺さっている包丁を引き抜き、靖一は死体を仰向けにさせた。

【あなた様の後悔が解消されたのでしたら、わたくしは本望でございます】

 丁寧に頭を下げたシーカだったが、靖一の耳にはもう届かなかった。

 仰向けにした慧二の死体に、馬乗りになった靖一は、気違えたように笑いながら、その胸に数回包丁を突き刺した。リビング中が更に血に染まり、辺りに新しい鉄の匂いが充満する。

 まるで仮想空間がまだ続いているかのような光景に、シーカは思わず表情を歪めた。

【それでは、わたくしはこれで失礼致します。今回のことがあなた様の心の奥底に、新たな後悔として刻み込まれないことを、わたくしも心より祈っております】

 靖一の耳に届かないことを承知の上で言ったシーカは、再び深々と頭を下げ、その姿を消した――。



 改めまして、シーカでございます。

 今回のお話は、少し衝撃が強過ぎたかも知れません。

 靖一様の後悔が解消されたのは良いことですが、それと共に大事な想いまでも消し去ってしまったような気が致します。


 さて、皆さまには靖一様のように、ご兄弟やご姉妹などがおられるでしょうか?

 兄弟や姉妹だから分かり合えること、兄弟や姉妹だから信じ合えること、兄弟や姉妹だから許し合えること。

 理由などなくとも、素直にそうすることが出来る――。

 血の繋がりは、それだけ濃いものです。


 ですが、同じ場所で生まれ、同じ環境で育ってきた者同士であっても、一個人であることを忘れてはいけません。

 自分と同じように思ってくれるのが当然だ、などと傲慢な考えを持っていてはいけないのです。


 兄弟や姉妹だからこそ、他人よりも絆が深い。


 その大切な絆を繋ぎ留めておくには、お互いの心身を成長させ、敬う心、思い遣る心を磨かなければなりません。


 それは、どんなに親しい間柄であっても、怠ってはいけないことなのです。

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