CASE 2  男子高校生の場合

「行ってきます」

 太陽も夏の陽に変わり、朝から汗を掻きそうな天気の良さに、有川昂平ありかわこうへいは学校へ向かいながら、重い溜息を吐いていた。

 もともと夏という季節が、あまり好きではなかったこともあるが、最近になり、ネガティブ要素がプラスされてしまった。

 夏は甲子園の季節。昂平は、野球部員……だった――。


 野球に出会ったのは、昂平が小学校の頃。

 最初は友達の誘いで入った野球少年団だったが、練習や試合をしていくうちに徐々にその魅力にハマり、中学に上がってからは学校の部活動として野球を続けていた。

 野球好きが高じてか上達も早く、打席では四番を任されることもあった。高校も甲子園の常連校である今のところを選び、見事合格。野球では有名な高校なので、野球部の入部試験も倍率が高かったが、上位の成績で通過することが出来た。

 やはり練習はそれなりに厳しく、休みという休みはほとんどが部活の練習。友達と遊ぶ暇もないほど、練習に明け暮れていた。それでも嫌にならずに続けられたのは、野球が好きだったからだろう。先輩にこき使われても、雑用ばかりの毎日でも、あの輝かしい甲子園の土の上を走れると思えば、全く苦に思わなかった。


 だが、そんな小学校から抱いていた昂平の夢は、今年の六月に無残にも粉々に打ち砕かれてしまった。

 練習中に右肘にボールを受け、野球を続けることが出来なくなったのだ。

 昂平は野球を続けたいと、医者に相談してみたが、医者の答えは変わらなかった。

「続けることは出来ますが、右肘には相当な負担が掛ります。これからの将来を考えれば、野球はしない方が良いでしょう。下手をすれば、生活に支障が出るかもしれませんので」

 医者の言葉を受け入れられず、昂平は診察室で人目も憚らず大泣きした。

「昂平……」

 息子の夢を知っている両親も、ひどく落ち込む昂平に、何の言葉も掛けられない。

「俺、野球したい」

 どうしても諦めきれない昂平は、家に帰ってからも両親と話し合った。

 しかし昂平の将来を思った両親から強く反対され、結局は退部届を提出するしかなかった。

 野球選手として将来を有望視されていたわけではない。だが、自分の中で野球は人生そのものだった。これからもずっとそうだと思っていた。それを奪われてしまったのだ。

 やり場のない怒りが昂平の心を支配し、自分を制御することが難しくなった。

 親に八つ当たりしたり、苛立ちを物にぶつけたり、無性に泣きたくなったり……。そのうち部屋に引き籠りがちになり、食事を摂るのも億劫になっていた。学校も不登校になり、部屋の隅で自分の人生を悲観し続ける日々が続く。その間も心配した両親や担任の先生が度々部屋を訪れていたと思うが、どうもあやふやでよく覚えていない。

 そんな昂平が部屋から出ようと思ったきっかけは、母親の言葉だった。

「何もしなくていい。お願いだから、顔を見せて」

 鍵が掛けられたドアの前で、そう哀願される。

 ドア越しの涙声に、自分がどれだけ母親を苦しめていたのか、昂平はこの時初めて知った。

 躊躇いながらも鍵を外し、ゆっくりとドアを開ける。

 約三週間ぶりの部屋の外は思っていたより眩しく、暗かった昂平の部屋をも明るく照らした。

 そして久し振りに見る母親の顔は、自分よりも痩せ細って見えた。

「……ごめん」

 その時に見せた、母親の心底安堵した笑みは、一生忘れられない。

 それから段階を踏みながら、二カ月後には学校へも行けるようになった昂平だったが、胸の内の靄は完全に消えてはくれなかった。

 それからというもの、夏は憂鬱な季節になってしまった。毎年欠かさず、楽しみ見ていた甲子園も、今年は見ることが出来なかった。

 諦めた……つもりなのだが、精神的なものが、未だ尾を引いていた。


「暑い」

 足取りが重くなるのを感じつつ、学校への歩を進めていると、蝉の声もちらほら聞こえ始めてきた。夏の暑さが倍増したように感じる。

 制服のシャツの胸元を掴み、パタパタさせながらじっとりとした体に風を送っていると、ふいに昂平の目の前に青い紙がヒラヒラと舞い落ちてきた。

 左右に揺れながら落ちる紙を目で追っていると、その青い紙は昂平の靴の上に着地した。

「?」

 視線を上げ周りの家を見回すが、その青い紙の落とし主らしき人物は見当たらない。

 どこから降ってきたのか、不思議に思いつつ、昂平はその青い紙を拾ってみた。

「何だ……?」

 どうせ大したものではないだろうと思っていた、名刺ほどの大きさのその青い紙には、昂平の目を引く内容が書かれてあった。



【~招待状~】

 あなた様の人生の分岐点。

 現在いまとは違う、そのもう一つの道の先を覗いてみたくはありませんか?】



「? 一体、どういう……」

 怪訝そうに眉根を寄せていると、青い紙の隅の方にQRコードが載っていることに気付いた。 不審には思ったが、その文面に興味が湧き、昂平はポケットから取り出した携帯で、そのQRコードにアクセスしてみた。



【ようこそ、仮想空間へ】

 最初に、この世界へご案内するにあたって、注意事項がいくつかございます。

 その全てに同意頂けた、あなた様だけを、夢のような世界へお連れ致します】



 携帯画面に映し出されたのは、薄い紫色の背景に丁寧な文章。更に面白くなってきた昂平は、画面を下へスクロールした。



【注意事項】

 体験して頂く仮想空間は、現実に起こり得る可能性のあったものに限ります。

 例えば、王子様になってみたいや、あのイケメン俳優になってみたい、などといった、絶対に実現することの出来ないものは、体験して頂くことは出来ません。

 仮想空間を体験して頂いた後、あなた様の心境の変化に因って起こることに関し、当方は一切の責任を負いません。

 例え仮想空間の方が、現実よりも良い結果だったとしても、必ず現実世界にお戻り頂きます

 以上の注意事項をご了承される方は、『同意する』を押して下さい。



「……」

 わけが分からない。

 昂平はさらに眉を顰めた。

 そこに書かれている文章全てが意味不明なことだらけで、全く理解出来ない。バーチャルな世界のような文章に、RPGが好きな昂平の心が多少くすぐられはしたが、怪しいことには関わらないという本来の性格が勝った。

 昂平はその青い紙を近くにあったゴミ捨て場へ放って捨て、また学校へと歩き出した。

 すると。

【おやおや。勿体ないことをなさいますね】

 昂平のすぐ後ろから、妙に耳に残る男性の低い声が聞こえてきた。

「!」

 驚いた反射で背後を振り返ると、ゴミ捨て場にしゃがんでいる男性の姿がそこにある。何やら残念そうな表情で、さっき昂平が捨てた青い紙を見つめていた。

【ご利用なさらないので?】

 青い紙を指差し、勿体ないを前面に押し出した表情で、今度は昂平を見上げる。

「だ、誰?」

【これは大変失礼致しました】

 そう言った男性は青い紙を拾い、しゃがんでいた腰を上げると、昂平の前まで歩み寄ってきた。

「……」

 今までしゃがんでいたから分からなかったが、意外と長身なことに昂平はたじろいでしまった。

 そして最近では……というか、日本では滅多に見掛けない男性の服装に、思わず目を丸くする。

 黒の燕尾服に黒髪の長髪、頭にはシルクハット、その手にステッキ、右目にモノクル。どこからどう見ても、アニメで出てくる執事のようなコスプレにしか見えない。

【少し場所を変えさせて頂きます】

 優美な微笑を浮かべた男性は、いきなり昂平の手を取った。

「!」

 驚いた昂平は手を払い除けようとしたが、男性の手は思ったよりもがっちりと昂平の手を掴んでおり、振り解くことが出来ない。

 そんな昂平を尻目に、男性は自分の右手を顔の位置まで上げると、パチンと指を鳴らした。

「! えっ?」

 その音と共に、瞬き一つした瞬間、昂平の目の前の景色が一変した。

 前後、左右、上下。見渡す限り空色の景色に、昂平のバランス感覚もおかしくなってくる。宙に浮いているような感覚に、立っているのが怖くなり、昂平はその場にへなへなと両膝を突いた。両手も突いてみるが、どうも地に触れている感触はない。それでも四つん這いの方がまだ安定感があり、昂平はそのままの態勢を維持することにした。

【申し訳ありません。最初からこちらの世界にお連れしたかったのですが、招待状が持ち主以外の現世に触れている状態では、お連れすることが出来ませんので、このような形を取らせて頂きました。わたくしは、仮想空間管理人のシーカと申します】

 自己紹介したシーカは、昂平に向かって深々と頭を下げた。

 自分の方が年下だと思われるのだが、シーカの丁寧な言葉遣いに、何だか一つ上の立場にでもなったかのような気分になる。

 そんな完璧に慣れている無駄のないシーカの一連の動作に、昂平は少し目を奪われてしまった。よく見ると端正な顔立ちをしており、その服装や黒の長髪、身につけている各アイテムも、シーカだからこそ、よく似合って見えた。

現在いまとは違う、そのもう一つの道。その分岐点までご案内するのが、わたくしの役目でございます。この招待状があなた様のお手元にあるということは、過去に相当な後悔がお有りなのでは?】

「……」

 昂平は黙り込んだ。

 第一印象では害のないように見えるが、ついさっき出会ったばかりの人間に、自分の胸の内を明かすことなど出来るわけがない。

【あなた様が警戒なさるのも無理ありません。この状態に混乱されているのも、よく分かります。その警戒心や不安感を解くのも、わたくしの役目でございます。ご不明な点がお有りでしたら、何なりとご質問下さい】

 昂平の思考を読んだのか、シーカは再度頭を下げた。

「っていうか、その前に、ここどこ? 俺、学校に行かなきゃならないんだけど」

【あぁ、ご心配なく。今、この瞬間の時間は止まっております。なにしろ、ゆっくりと時間を掛けて、ご考慮頂かなければならないことですので】

 そう言われても何の信憑性もない。それに何をどう考えろというのか?

 昂平は半ば不機嫌になりつつ、シーカを見つめた。

【今、あなた様がこの空間にいらっしゃることが、証拠でございます】

 だから、そう言われても何の説得力もないんだけど。この世界自体、意味分かんないし。

 昂平は心の中でツッこんだ……が、次の瞬間ハタッとし、額に手を当てた。

 こんな変な世界に連れて来られて、冷静にツッこむことができるなんて……。

 深い溜息を吐いた昂平は、自分自身の神経の図太さと順応の早さに、呆れ返ってしまった。

【すぐにご理解頂けないことは、重々承知致しております。それも時間が必要なのです】

 シーカは完全に思考を読んでいた。昂平の頭の中での質問に、器用に答えている。

 だが、昂平にとってはどうでも良いことだった。

「俺は、理解したいわけじゃない。元の場所に帰してもらいたいだけ」

 こいつは変質者。

 昂平の中でのシーカの評価が決まった。

 その格好からして、頭のねじが一本外れているようにしか思えない。さっきカッコ良く見えたのも……きっと目の錯覚だ。そうとなれば、こんなとこに長居したくはない。

「夢でも何でもいいから、さっさと元に戻してくれ」

 面倒臭そうに言い放つ昂平に、シーカは優美な微笑を浮かべた。

【過去の後悔を引き摺ったままだと、後に大きな影響を与えることがあります。

精算出来るなら早目の方がよろしいですよ?】

「……」

 シーカの言葉に、昂平は睨むような鋭い眼差しを投げた。

 一番触れられたくない心の奥底を、針で突かれているようで気分が悪い。

「あんたの言うように、人生の分岐点に行けば過去を精算出来るわけ?」

 昂平は少しイラつき気味に、シーカに言い返した。

 それでもシーカの笑みは消えず、逆に深みを増していった。

【あなた様の心の中に、猜疑心が見えます。過去の後悔……その中に、もっと違うものを抱えておられませんか?】

「!」

 昂平が、ピクリと微かな反応を示す。

 その反応を確認してから、シーカはそのまま話を続けた。

【後悔というよりは、そちらの猜疑心の方が濃く出ているご様子。疑念を抱いたまま、というのはとても疲れませんか? 過去に戻り、その疑念の真相を掴むことも出来ますよ?】

「……」

 昂平の表情が変わる。同時に心が大きく揺れた。

 優美な微笑を浮かべているシーカの言葉は、見事に昂平の心中の的を射ていた。

 確かに、野球が出来ないという事実は、昂平の中で辛く悔しい出来事であった。野球が続けられないという事実に打ちのめされ、立ち直れない日々も長く続いた。

 しかしそれ以上に、晴れない疑念がずっと心の中に渦を巻いているのだ。

 シーカは間違いなくそれを見抜いていた。

「俺は……俺は、知らないままでいい」

 揺れる心を表すかのように、ところどころ言葉が詰まる。何とか動揺を隠そうとするが、真っ直ぐに見つめてくるシーカの目に、何もかも見透かされているような心地がした。

 しかし、なぜか嫌な感じはしない。

 その目はどこか優し気で柔らかく、昂平の凝り固まった心を解きほぐすかのようだ。

「もう……掘り返したくない」

 シーカの纏う不思議な空気が、昂平の本音を引き出したのか、無意識にポロリと言葉が零れていた。

「世の中には、知らない方が良いこともたくさんあるはずだ」

【知った方が良いこともたくさんあります】

 優美な微笑のまま、シーカが即座に切り返す。

【逆に知らなければならないことだからこそ、この招待状があなた様に届けられたのかもしれません。わたくしの意思で招待状が送られるわけではないので、その真偽のほどは定かではありませんが――。ですが、そのチャンスが今、あなた様の手の中にある、ということだけは断言出来ます】

「…………」

 昂平は再び口を閉ざし、シーカから視線を逸らした。

 自分の心情をピンポイントで指摘され、思考は徐々に傾いていく。

【それに、このような機会は、今後二度と訪れることはありません】

 ハッとした表情で顔を上げた昂平は、そのままシーカに視線を投げた。

【招待状はお一人様に一通しか送られません。この招待状がなければ、仮想空間にお連れすることも出来ません。つまり仮想空間体験の機会は、一回切り、ということでございます】

「……」

 昂平は表情を険しくさせた。

 ぐらぐら揺れる自身の思考を、何とか固めようと努力する。

 しかし、信じる信じない云々を抜きにしても、今回しかチャンスがないと言われれば、揺さ振られてしまうのが、人の心理というものだろう。

【どちらになさるか、選ぶ権利はあなた様にございます。体験せず、このまま現実世界にお戻り頂くことも出来ますが、その場合、わたくしのことも含め、この世界のことは全て消去させて頂きます。そして招待状も放棄という形で処理させて頂きます。ですので、この機会を逃せば心中に渦巻いている疑念を、一生引き摺ったまま……ということになります】

 シーカの言葉は、さらに昂平を翻弄させた。

 知りたくない、という気持ちもある。今さらという思いもあるし、知ってもどうしようもないとも思うから――。

 だが、シーカが言うようにずっと疑念を抱いたままというのは、正直苦しい。今までがそうだったのだ。これからもきっと……そうだろう。

 それなら、どういう答えが待っていようと、ハッキリさせた方が良いのではないだろうか?

【真相を見極める勇気も、時には必要でございますよ】

 モノクルの中のシーカの目が、柔らかく細められる。

 最終的にはシーカのこの言葉で、心が決まってしまった。

「…………分かった。体験してみる」

【さようでございますか。あなた様が仮想空間を存分にご満喫頂けるよう、わたくしも精一杯務めさせて頂きます】

 そう言い、シーカが満足そうな微笑を浮かべる。そして昂平に近寄ってきたかと思うと、再び何も言わず昂平の手をすっと取った。

「えっ? な、何?」

【では、早速ご案内致します】

 シーカがパチンと指を鳴らす。

「?」

 わけの分からないままシーカを見つめていると、またしても昂平の目の前の景色が一変した。

「はっ? えっ?」

 昂平はいつの間にか、自宅の薄暗い自分の部屋に立っていた。

「?」

 だが、自分の部屋のようで少し違う。微妙に物の位置が違っているのだ。それに足の踏み場もないほど、いろんなものが散乱している。

 床には破られた紙くずや雑誌類、飲み物や食べ物も散らかり放題で、部屋の中は少し悪臭が漂っていた。窓に掛っているカーテンも乱暴に引き裂かれ、せっかくの遮光も意味をなさなくなっている。倒された三段ボックスからも教科書が投げ出され、学校カバンはその下敷きになり潰されていた。まるで暴れた後のような乱雑な光景が広がっている。

「いっ!」

 ボー然と瞬きを繰り返していると、急に右腕に激痛が走った。不思議に思って視線を向けると、そこには痛々しいギブスが巻かれている。

【あなた様が怪我をなされてから、一週間経った過去でございます】

 昂平はギブスを見つめ、左手でそっと触れると、切な気に目を伏せた。

「どうせなら、怪我をする前に戻りたかった」

 ぽつりと呟かれた昂平の言葉に、シーカはモノクルの中の目を細める。

【あなた様が本当に望まれている過去まで遡ったはずでございます。もし、違うと仰られるなら、怪我をする前まで遡りますが?】

 シーカの申し出に、少しの沈黙の後、昂平はゆっくりと首を横に振った。

 先程の【注意事項】には、必ず現実世界に戻るというルールがあった。 

 ということは、怪我をする前まで遡って怪我を回避したとしても、それが現実世界に反映されるわけではない。

 現実に戻れば、怪我で野球を続けることが出来なくなった自分のままだ。

「いや。ここで、合ってる」

 それよりも、自分の本当の目的を果たそう。払拭出来ずにいる胸の中の靄を晴らすために――。

【それでは、わたくしはここで。終着点までお着きになりましたら、お迎えに上がります】

「終着点? 何、それ?」

 意味が分からず聞き返す昂平に、【その時になれば、自ずと分かります】と言い、頭を下げたままの態勢で、シーカは徐々に姿を消した。

「説明が足りないんだけど……」

 自分の置かれている状況が分からず、そうぼやいた昂平だったが、この惨状には微かに見覚えがあった。

 医者から野球をやめろと言われた後の自分の部屋だ、と。

 あの時は精神的に辛い状態が続いていて、周りを見る余裕が全くなかった。昂平に暴れた記憶はないが、暴れていてもおかしくない状態だったのだ。

「片手でよくこれだけ暴れられたもんだ」

 自嘲気味に苦笑し、昂平は自分の部屋を掃除し始めた。そうしながら、今回の目的を果たすための算段を頭の中で始める。

 取り敢えず、過去のように引き籠っている場合ではない。学校へ行き、確かめなければならないことがあるのだ。例えそれが、昂平の望まない真相だったとしても、今まで抱えていた疑念は晴れる。

 ただ、望まない真相だったとすると、その後の自分がどういう行動に出るかは、昂平自身すら分からないことだった。

 刺すように鋭く疼く右腕の痛みに表情を顰めながらも、掃除の手を進めた。

 倒れた三段ボックスを元に戻し、散乱した教科書を直す。破れている雑誌類はビニールテープで括り、一カ所にまとめた。悪臭を漂わせていた食べ残しなどもゴミ袋に入れ完璧に密封し、床はある程度綺麗になった。

「下はこれでいいか。あとは……」

 そう言って、今度は窓に垂れ下がっている、引き裂かれたカーテンに手を掛けた昂平だったが、ふいに溜息を吐いて物思うように目を伏せた。

 こんなに荒れながらも、その時の自分が真実を知ろうとしなかったのは何故なのだろう? 確かめようと思わなかったのは、何故なのだろう?

 そこまで考え、昂平はすくっと顔を上げた。

「そ……っか。俺、怖いんだ」

 真相を知るのが怖かった。だから、あいつから逃げていた――。

 唐突に理解した。

 そんな自分に、真相を知る勇気などあるのだろうか?

 怖気づきそうになる気持ちを奮い立たせるようにかぶりを振ると、昂平は今一度、自分の部屋の中を見回した。

 最初の部屋の乱雑さを思えば、無意識だったとはいえ、自分がどれだけショックを受けていたのか容易に想像できる。

 その時の自分を客観的に見ているようで、不思議な気持ちになった。

 確かに真相を知るのは怖い。しかし、今回は逃げるわけにはいかない。

 壁に掛けてある時計を見つめ、時間を確認する。針は午後三時半を過ぎたところを指していた。

「行こう」

 裂かれたカーテンを窓から外し、燃えるゴミの袋に入れると、昂平は静かに部屋を出た。

 リビングには母親がいる。多分、夕食の支度をしているはずだ。

 なんとなく親にバレたくなかった昂平は、忍び足で廊下を歩いた。そして音をたてないように靴を履くと、そっと玄関のドアを開け、学校へと向かった。


 学校に着いたのは午後四時過ぎ。一日の授業は終わり、そろそろ部活が始まる時間である。

 部員が来る前に部室に入り込んだ昂平は、自分のロッカーの中に隠れ、じっと息を顰めていた。

「よっ。小松こまつ

 授業を終えた野球部員たちが続々と部室に入ってくる中、昂平の耳が聞き慣れた名前を拾う。

 小松悠司こまつゆうじ。昂平の同級生で友人だ。そして小学生の時、昂平を野球部に誘ったのが、この悠司だった。

「おい、お前ちょっと顔色悪くないか? 保健室行くか?」

「いや、大丈夫」

 悠司は苦笑して首を振った。

 実際、気分は最高に悪かった。指摘されたように表情も曇っている。それは自分でも分かっていた。

「もしかして、まだ気にしているのか? 有川のこと」

「………」

 悠司は黙り込み、目を伏せた。

「あんまり思い詰めるなよ? な?」

 ぽんぽんと悠司の肩を叩き、着替えを終えた友人は自分のグローブを持ち、そのままグラウンドへ向かって行った。

 他の部員たちも、いそいそと着替えをすませて、部室を出ていく。

 しかし悠司だけは着替えの手を止めたまま、辛そうに眉を顰めていた。

「ん? 悠司。今日はお前のクラスの方が早かったんだな」

 部室に入るなり、悠司に声を掛けてきたのは鮫島大地さめしまだいち。悠司と同じく、彼も昂平の友人である。

「どうした? 着替えないのか?」

 ロッカーに手を掛けたまま動かない悠司に、大地が怪訝そうに問い掛けた。

 だが、悠司は浮かない表情のまま、返事をしない。

「悠司? 具合悪いのか?」

 次第に心配になった大地が、悠司の顔を覗き込んできた。

「……あのさ、ちょっと話したいことがある、んだけど……」

「……」

 妙に思い詰めた様子の悠司に、大地も真剣な表情で見つめ返す。

「いや……やっぱ、俺、保健室行ってくる。今日は部活休むって先生に伝えといて?」

 無理矢理な笑顔を作り、悠司は話を切り上げた。

 ダメだ、やっぱり言えない……。大地には話したいけど、やっぱり無理だ。

 悠司は踵を返し、部室を出ようとした。

「!」

 しかし突然、大地の大きな手が、悠司の頭の上に乗せられた。

 驚いて振り返る悠司に構うことなく、大地は真剣な表情のまま、悠司の髪をクシャクシャと撫でる。

「分かった。練習が終わったら保健室行くから、そこで待ってろ。お前の悩み、聞いてやる」

「…………」

 悠司は無言で大地を凝視した。その優しい言葉に胸が詰まる。

 自分のことを真面目に心配してくれ、何も言わなくても察してくれる大地に、悠司は心底感謝した。


 部室から部員が去り、本格的な部活の時間となった。ここから先は、部員が部室に入ってくることはまずないだろう。

 昂平は隠れていた自分のロッカーから、静かに出てきた。

【守備は上々ですか?】

「!」

 誰もいないと思っていた昂平の耳に、男性の声が響く。

 驚いて振り返ると、相変わらずの格好をしたシーカが立っていた。頭にのせていた黒のシルクハットを軽く浮かせ、昂平に会釈をする。

「何だ、あんたか」

 部員でなかったことにホッと安堵の溜息を洩らした昂平は、「急に出てくるなよ」と眉間に皺を寄せながら抗議した。

【これは失礼致しました。案内役として、途中経過を確認するのが決まりでして】

「それよりも、取り敢えずここから離れなきゃ」

 誰が来るか分からないので、部室で長話は出来ない。

 昂平は誰もいないことを確認し、シーカと共に部室を後にした。

【真相は掴めそうですか?】

 昂平と並行して歩きながら、シーカが訊ねる。

 途中で生徒とすれ違っても驚かれないのは、シーカの姿が普通の人には見えていないからだろう。

 この時代、この場所に相応しくない変な格好を隣でされていても、昂平は堂々と校内を歩くことが出来た。

「さぁ、どうだろう? でも、この機会を無駄にしたくない」

【良い心掛けでございます】

 シーカが優美な微笑を昂平に向けた。そこに打算など微塵も感じさせない。

 でもそれが、逆に腑に落ちなかった。もしかしたら、その掌の上で踊らされているのかもしれない。そう勘繰ってしまい、昂平はシーカの微笑を素直に受け止められずにいた。

 自分は良いように転がされているのだろうか?

【逃げることは簡単でございます。そしていつでも出来ます。しかし、立ち向かうことはその時にしか出来ません。そこから逃げてしまえば、それきりでございます】

 そして意味深な言葉を昂平に投げる。

【この機会を、あなた様がその手に掴んで下さったことを、とても嬉しく思っております。それでは、わたくしはこれで】

 言いたいことを言うだけ言って、シーカは再び姿を消した。

「……だから、何だったんだ?」

 一人にされた昂平は、小首を傾げながら、ポリポリと頭を掻いた。

 結局、褒められているのか、諭されているのか全然分からなかった。

 だが、シーカの言葉は、昂平の心にしっかりと刻み込まれたようだ。胸の中が不思議な気持ちで満たされている。

 途中経過の確認――そのついでに自分を叱咤激励に来たのだと、半ば誤魔化すように納得し、昂平は保健室へ向かった。


 部室から保健室までは、一度中庭を通って、校舎の反対側まで行かないといけないため、結構距離がある。

 悠司の方が昂平よりも先に部室を出たので、真っ直ぐに向かったのなら、すでに保健室に着いているはずだ。

 保健室の前で、昂平が思案顔をつくる。

 どうにかして中の様子が知りたい。

 昂平は周りに誰もいないことを確認してから、保健室のドアに耳を押し当ててみた。

 中から人の話し声は聞こえない。どうやら保健医もいないようである。

 もう少し中の様子を窺いたいところだが、いつまでもこの格好でいるのは通り掛かった生徒などに不審がられるので、昂平は一旦、保健室から離れた。

「中に入りたいけど……」

 小さく舌打ちをする。

 悠司がいると思えば、堂々と保健室に入るのは躊躇われた。ベッドで寝ていれば別だが、そうとも限らない。

「失礼します」

 どうしようかと再び思案していると、一人の女子生徒が保健室の中に入ろうとしていた。見た感じ、特に具合が悪いわけでもなさそうだ。

 ふと視線を下に向けると、その手にファイルや書類などを持っていた。きっと、委員会の仕事か何かで訪れたのだろう。

 しめた! と思った昂平は、女子生徒が出てくるのを廊下で待ってみた。保健医がいなければ、きっとすぐ出てくるはずだ。

 すると案の定、十秒も経たないうちに女子生徒が保健室から出てきた。先程持っていたファイルも手にはない。

「あのっ」

 昂平はすぐさまその女子生徒に声を掛けた。

「保健室の中って、今誰かいた?」

「あ、はい。一つカーテンで仕切られていたベッドがあったので、多分横になっている人はいると思います、けど……?」

 女子生徒は昂平に怪訝そうな眼差しを向けつつ、少し小首を傾げながら中の様子を教えてくれた。

「一人?」

「……だと、思いますけど?」

「ありがとう」

 怪訝な表情は残したまま、女子生徒は昂平の礼に小さな会釈を返し、その場を後にした。

 入り込むなら今だ。

 昂平はそう決心すると、気持ちを落ち着かせるように大きな深呼吸を一回してから、保健室のドアを少し開け、中の状況を覗き見した。

 昂平の思った通り、保健医は不在のようだ。そして、女子生徒が言っていた通り、三つあるベッドのうち、一つにだけカーテンがひかれていた。

 多分そこにいるのが、悠司だろう。

 昂平は手頃に隠れられる場所を探し出し、出来るだけ音をたてないように入室した後、その場所に滑り込んだ。

 入り口に一番近いベッドの下。そこには段ボールなどが置かれており、身を屈めてベッド下を覗きこまない限り、昂平の姿は見えない。絶好の隠れ場所だった。

 昂平が息を潜めていると、悠司が寝ているだろうベッドが軋む音が聞こえた。どうやら寝返りを打ったようだが、その音の中に、微かに呻き声のようなものが聞こえた。

「?」

 昂平が眉根を寄せ聞き耳を立てていると、その声の正体が分かってきた。

 ……泣いてる。

 それは嗚咽だった。

 毛布をかぶっているのか、少し籠っていて良く聞き取れないが、嗚咽であることは確かだった。

「……っく、んくっ」

 その嗚咽はしばらく続き、昂平の耳に纏わりつくように響いた。

 聞きながら、昂平の胸が微かに痛む。小学校からの付き合いだが、こんな悠司を見るのは初めてだった。

 その時。

「悠司? いるか?」

 大地が保健室に入って来た。しかし部活が終わるには、まだ時間が早いはずだ。

「悠司?」

 返事がないことを不思議に思った大地が、一つだけ閉まっているカーテンをゆっくりと開ける。

「…………部活は?」

 頭から毛布をかぶっている悠司の問い掛ける声は、少し震えていた。

 ……泣いていたのか。

 気付いた大地は、そのことには触れず、そっと隣のベッドに腰を掛けた。

「少し心配だったんでな。大丈夫、監督にはちゃんと言ってあるから。それに、監督も心配していた」

「……」

「お前が落ち込んでる原因、昂平のこと、だろ?」

 毛布がピクリと動く。

「監督も言っていた、前のせいじゃないって。でも、お前は自分を責めるんだよな? 多分、俺が悠司の立ち場でも、同じように自分を責めていたと思う」

 大地の言葉に悠司は毛布の中で、顔を歪めた。

 違う……そうじゃない。

 悠司はギュッと毛布を握り締めた。涙が溢れ出し、止まらなくなる。

「それにお前は俺よりも昂平との付き合いが長い。その分、余計に苦しいんだろ?」

 俺が、あいつを……。

「今度、見舞いに行ってみるか? 俺も一緒に行ってやるから」

 あいつの夢を……。

「悠司?」

 返答のない悠司を気遣うように大地が声を掛けると、かぶっていた毛布をゆっくりと取りながら、悠司が身を起こした。

「!」

 その顔に、大地が少し目を瞠る。

 悠司の鼻は赤く、その目からは止めどない涙が溢れていた。

「ち、がうんだ……大地」

「?」

 大地は更に心配色を濃くした表情で、悠司を見つめた。

「違うんだ……」

 涙声に掠れていたが、今度は、はっきりとした口調だ。

「何が違うって?」

「……」

 大地が話の先を促すが、悠司は言い辛そうに俯き口を噤んだ。その目から流れる涙が、次々と頬を伝い落ち、毛布を濡らす。

「ちゃんと言え」

 大地の声が、静かな保健室に響いた。

 その言葉に促されるかのように、悠司が顔を上げる。

「お前が抱えてるもの、ちゃんと言え。俺が聞いてやるから。友達だろ?」

「!」

 大地の言葉に悠司は再び涙を流し、「ごめん、ありがとう」と小さく呟いた。そして姿勢を正し、少し逡巡した後、おもむろに口を開いた。

「軽蔑……されるかも、って思って言えなかった。実際そうされてもしょうがないことを、俺はしてしまったんだ」

 悠司の涙声の言葉を聞きながら、昂平はベッドの下で辛そうに目を細める。

 聞きたくないという思いから、左手で耳を塞ごうとしたが、その手は耳まで届くことなく、右腕に巻かれているギブスにそっと置かれた。ズキズキと鋭い痛みが、増したように感じる。

「わざと、ボールを当てたんだ……。昂平の右腕に」

「!」

 大地は大きく目を見開いた。悠司の言葉は、全く思いもよらないもので、驚きと動揺を隠せない。

 同じ時、昂平はキツく目を瞑り、唇を噛みしめていた。

 やっぱり……そう、だったのか。

 知りたいと思っていた真相―――。昂平の心の中に渦を巻いていた疑念は、今、苦い答えと共に晴れた。

「醜い、嫉妬心だったんだ。一緒に野球を始めたのに、昂平だけがすぐ上達して、レギュラー入りして……でも俺はずっとベンチで」

 辛そうな表情で、まるで懺悔するかのように悠司は語り始めた。

「確かに野球センスはあったかもな……。あいつはエースじゃなかったけど、投手としての腕も期待されてたから、投球練習もかなりやってたし。それこそ野球肘になるんじゃないかって、俺も心配してた」

 昂平のことを思い出しつつ、大地が口を開く。

「妬ましかったんだ、野球のセンスがある昂平が。だから、練習の時……わざと右腕を狙ってボールを投げた」

「……悠司」

「でも、こんなことになるなんて思ってなかったんだ! ほんとに……ただ、ちょっとした怪我をするだけだと、思って……。でも間違ってた。こんなやり方、卑怯でしかない。そのことに、ボールを投げてから気付いたんだ。でも、もう……遅かった」

 悠司は自分の右腕に左手を添えた。

 昂平の右腕にボールが当たったところを思い出すかのように、そっと撫でる。

「倒れた昂平を見て、足が震えた。どうしようって手も震えた。小学校からの付き合いで一番の親友なのに……あいつの夢も知っているのに、甲子園に行きたいっていう夢を、俺が奪ってしまったんだ」

 左手の指に力が入り、添えていた右腕に強く食い込む。

「悠司」

 気付いた大地がその手に触れ、そっと力を解いた。小刻みに震える手から、後悔の念がひしひしと伝わってくる。

「昂平になんて言えば……何て言って詫びたらいいのか、全然分からなくて。大地にも軽蔑されそうで怖くて言えなくて。俺……自分ばっかり守っていた」

 再び流れ出す悠司の涙は、右腕に添えていた大地の手も濡らした。

「許してもらえるなんて思ってない。でも、昂平にちゃんと謝りたい。ちゃんと……謝りたんだ」

 そう言って悠司は体を丸めるように俯き、再び号泣した。

 その肩を大地が優しく支える。悠司が抱えていた事の大きさを知り、大地はその苦しさを理解した。

 昂平が入院してから一度も見舞いに行かなかった、いや、行けなかったのは、このためか。

 最初は、怪我をさせてしまった、という罪悪感からかと思っていた。もちろん、そうなのだが、見舞いに行けずにいる最大の理由は、わざと怪我をさせたという、もっと大きな自責の念に駆られていたからだったのだ。

「時間は掛るかもしれない。でも、ちゃんと和解出来る、って俺は信じてるから。昂平が学校に出てきたら、真っ先に謝りに行こう。俺も付き合う」

 大地の言葉に、小さく頷いた悠司は「ありがとう」と涙で掠れた声で、礼を言った。

「…………」

 悠司の告白をベッド下で聞きながら、昂平は膝を抱えた。

 本当に分かってなかったのは、俺の方かもしれない――。

 胸の内でぽつりと呟く。

 ずっと一緒にいたのに、悠司のことを見てなかった。無邪気にレギュラー入りを話したり、四番になったと喜んでいた横で、悠司はひどく傷付いていたに違いない。

 無神経だったのは、俺だった。それに……悠司だけが悪いわけじゃない。

 この時昂平は、今まで忘れていたことを一つ思い出していた。

 そのことにようやく気付き、さらに膝をギュッと抱え込むと、その中にクシャクシャに歪めた顔を埋めた。


【如何でございましたか?】

「どあっ!」

 気持ちが沈んでいた時に急に声を掛けられ、昂平は思わず声を上げてしまった。慌てて口を押さえるが、【時間は止まってますので、大丈夫ですよ】というシーカの言葉に、安堵の溜息を吐く。

「驚かせるなよ」

【驚かせるつもりはなかったのですが、申し訳ありませんでした】

「もう、帰るのか?」

【はい。お迎えに上がりました】

 終着点は自ずと分かる、とシーカは言った。確かにその通りだ。

 昂平は右腕を庇いながら、四つん這いでベッド下から這い出た。そして立ち上がると、時間が止まっている不思議な空間を見回した。

「悠司」

 その中で、ベッド上に蹲るようにして泣く悠司に、昂平は視線を止める。

 思わず、自分も辛そうに目を細めた。

 こんなに、苦しかったのか――。

 二人のいるベッドに近寄り、泣きじゃくっている悠司を見つめる。止まっている今でも、肩が震えているようだ。

 悠司の頬にある、今にも滑り落ちていきそうな涙の雫を、昂平は無意識にそっと拭った。

【それでは、現実世界へご案内致します】

「……あ、あぁ」

 昂平は我に返ると、そのままシーカをジッと見つめた。

 この男はどこまで視えていたんだろう?

 ふとそんなことを思ったが、何もかもが不可解な出来事ばかりで、それはきっと頭で理解することは不可能なのだろう。昂平は、シーカの真意を探るのを諦めた。

【失礼致します】

 相変わらずな微笑を浮かべ、昂平の手を取ったシーカは、右手の指をパチンと鳴らした。


 仮想空間に来た時と同じように周りの景色が一変する。

 保健室にいた昂平は、一瞬で現実世界、今朝学校へ向かっていた状態に戻ってきた。

【一応、朝の状態で時間を止めたまま、仮想空間を体験して頂きました】

 そんな妙な気遣いをされていたことに、昂平は「はぁ」と曖昧な返事を返す。

【真相は掴めましたでしょうか?】

「……そうだな。あんたの言った通りだった。知った方が良いことも、たくさんあったよ」

 シーカの質問に、少しの沈黙の後、昂平が苦笑する。

「引き籠るのをやめてから学校へ行けるようになっても、俺が悠司を避けていたから、きっと謝るタイミングが掴めなかったんだろうな。いや、俺が故意にそのきっかけを作らなかったんだ。でも、あいつはずっと苦しんでいた。それこそ、多分、俺と同じように――」

【そのようですね】

 気持ちのこもっていないようなシーカの相槌に、昂平は再び苦笑した。

「俺、分かってたんだ。悠司がわざと当てたんじゃないかって」

【何故でございますか?】

「……ボールを投げた時の、悠司の顔が辛そうだったから」

 目を伏せながら、昂平が言葉を続ける。

「すごく、泣きそうなくらいに辛そうな顔してたんだよ。恨んでるのでもなく、憎んでいるのでもなく……ただ辛そうだったんだ」

 投げる一瞬見えた悠司の表情に、昂平は動けなかった。だから、ボールを避けることが出来なかったのかもしれない。

「それに、悠司だけが悪いんじゃないって、思い出した」

【――と言いますと?】

「野球が出来なくなるってことで頭が一杯で忘れてたけどさ……俺、ボール当てられる前から肘関節を悪くしてたんだ。さっき大地が言ってた、投球練習のしすぎで。そこにちょうど悠司のボールが当たった……。だから悠司だけのせいじゃない。あいつにそのこと、ちゃんと伝えなくちゃ」

 成長期の骨の発達に以上をきたしそうなほど、昂平は野球にのめり込んでしまっていた。ドクターストップにそんな理由もあったことを、昂平は思い出したのだった。

「さっきのこと……もしかしたら、あんたが俺の望むものを見せてくれたのかもしれない、って思った。あいつは本当は俺を恨んでて、野球が出来なくなったことを嬉しく思っているんじゃないかって。でも……そう思ったところで、自分が情けなくなった。小学校からの親友を疑っている自分に、心底嫌気がさした」

 昂平が表情を曇らせる。

【では、真相を知った今、あなた様はどうなさるおつもりですか?】

 シーカのモノクル越しの真剣な眼差しを受け、昂平は少し視線を逸らしたが、そんなに考える時間はいらなかった。

 確かにこの右腕の怪我のせいで、野球が出来なくなったことは、すごく悔しい。甲子園の土の上を走ることが出来なくなったことに、憤りがないわけでもない。

 だが、昂平に謝りたいと言って泣いた悠司の声が、未だに鼓膜を震わせているような気がした。泣きじゃくっていた悠司の嗚咽が、ずっと響いている。

 あの怪我で辛い思いをしたのは……苦しい思いをしたのは、俺だけじゃない。

 昂平は視線を上げ、シーカを見つめた。

「俺が夢を叶えるためには、悠司の力が必要不可欠なんだ。甲子園に行くっていう俺の夢は、悠司が必ず叶えてくれる。今はベンチかもしれないけど、あいつの負けず嫌いは俺が良く知ってるから、来年には絶対レギュラーになってるはずだ。そしたら今度は、俺がスタンドからあいつを応援するんだ」

 昂平の答えに、シーカは優美な微笑を浮かべる。まるで、その答えが正解とでも言わんばかりの優し気な微笑だ。

【選手としてではなく、応援として甲子園に行かれるわけですね?】

 シーカの言葉に、昂平は一つ頷き返した。

「今、あんたが来てくれて良かった。怪我をした直後だったら、こんな気持ちにはなれなかった。……悠司を、責めてたと思う」

 あの荒れた部屋を見れば分かる。自分がどれだけ精神を病んでいたのか。

 昂平の言葉に、シーカは微笑みだけを返す。

「ありがとう。今日、俺から悠司に話し掛けてみる。あいつが抱えている苦しみを取り除いてやれるのは、俺だけだし。きっとそこから、また新しく始まる気がする」

 晴れやかな昂平の心は、かかっていた靄も消え去り、思っていた以上にすっきりとしていた。

【逃げの心は、人を迷わせ臆病にさせます。ですが立ち向かう心は、勇気と、人生の苦難を乗り越える力を与えてくれます】

 またしても、シーカが意味深な言葉を吐いた。

 しかし仮想空間を体験した後だからか、余計にシーカの言葉が胸に沁みる。

【あなた様のお心がご友人に届くことを、心よりお祈り致しております。それでは、わたくしはこれで。失礼致します】

 優美な微笑を残したまま、シーカは昂平の前から姿を消した。

 もう二度と会うことはないだろう。

「もう少し、話してみたかった……かも」

 少し複雑な気分になりながらも、小さく苦笑した昂平は、再び学校へと歩き出した。


 今年の夏は、県大会で準優勝だったため、甲子園には行けない。でも来年の夏は、きっと一番の親友と共に甲子園へ行けるはずだ。

 昂平の胸は不思議なほど澄み渡り、憂鬱に感じていた夏の季節も待ち遠しい季節へと変わっていた。

 怪我をしてから見ることが出来なかったテレビの甲子園中継も、また少し違った気持ちで観戦することが出来そうだ。

 八時のチャイムが鳴り響く中、学校の正門をくぐった昂平は、真っ先に悠司のいるクラスへと足を走らせていた―――。



 改めまして、シーカでございます。

 今回は友情のお話でした。

 昂平様も仮想空間を体験されたことによって、大切なご友人をなくさずにすんだようです。


 さて、皆さまは周りにいらっしゃるご友人のことを、どれほど知っておられるでしょうか?

 外見・性格・学歴・家族構成――。

 付き合いが長ければ長いほど、ご友人のことを知る時間も自ずと増えます。

 しかし、長い時間一緒にいたご友人でも、その心の中までは分からないものでございます。

 かくいうわたくしも、今までいろいろな方々と出会う機会がございましたが、人の心の中は複雑で、未だに掴めないことばかりでございます。


 友達と呼べる人はたくさんいるが、親友と呼べる人は一人もいない……。


 もしかしたら、そんな方もいらっしゃるかもしれません。

 それでも相手のことを思いやる気持ち、知ろうとする気持ちがあれば、友情という絆を深めることが出来るはずでございます。


 昂平様のように、絆の深いご友人が一人でもいらっしゃるなら、あなた様もとても幸せな方なのではないでしょうか?

 そして、かけがえのないその絆を、どうか大切になさって下さい。

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