第444話 或る美人の憂鬱
「え!?」
目の前に、滝蔵(たきぞう)がばったり倒れている。完全に白目をむいて、泡まで吹いていた。
「親分!?」
「大丈夫じゃ、生きとるよ」
素早く触手を伸ばしたぬらりひょんが答えた。
「疲れたのかものー。森のなかつっ走って、丸太ブン投げてまたここまで来たわけじゃし」
ざらざらした滝蔵の背中をさすりながら、巌(いわお)が言う。
「それにしても困ったな……まさかこの巨体、ここに置いていくわけにもいかないし」
朧(おぼろ)が頭をかく。ぬらりひょんもいい手が思いつかないのか、黙り込んでしまった。重い空気が漂う中、いきなり巌が手をうつ。
「よし、こいつはうちの捕虜にしよう」
言うが早いか、巌は滝蔵の巨体を軽々と抱え上げる。その豪快さに、小ガマたちが拍手を送った。
「いいよな、紫(ゆかり)」
「置いてくわけにいかないしね。でも、妖怪だから素直に従うかは微妙だけど」
「そんならそれでいいや」
巌は事もなげに言うと、空いている手で懐から無線を取り出し、なにやらしゃべり出す。
興味丸出しで巌の手元を見つめる小ガマたちを見ながら、紫は新しい生活が始まったことを実感していた。
☆☆☆
「……ようやく動き出した」
モニターを横目で見ながら、響(ひびき)はつぶやいた。
今回はハッキングではなく、行き交う情報の交通整理役。そのため、いつもに比べて雑事が多い。響にとって楽しい仕事ではなかった。
逆に生き生きしているのが、人の世話を焼くのが大好きな猛(たける)である。妖怪たちの会話を拾うため、猛の神虫たちは森の中に広く散っていた。彼らも主同様やる気で、次々と報告をあげてくる。
そのアナログな報告をデータにまとめて、各司令部へ送るのは意外と骨が折れた。
「……軍事衛星、ほしい」
お値段、いくらかしら。百億くらいじゃ無理だろうな。
響がそんなことを考えていると、急に呼び出しがかかった。
「……げ」
かけてきた相手を見て、響の喉から低い声が漏れる。紀伊の鬼、葛飾(かつしか)一佐からだった。
出たくない。しかし、出ないと後々もっと面倒なのは目に見えている。響は腹をくくって、通信に出た。
「……何か用」
「用がなければかけるか、阿呆」
やっぱり嫌いだ、この女。いきなり怒られた響は、ヘソを曲げた。
「こちらに神虫のデータが届いていないぞ。発信はどうなっている」
すごまれて、仕方無く響はシステムを見直した。ところが、どこを見てもエラーはない。
「ちゃんと送った。悪いのはそっち」
響は一歩も譲らず、そう主張した。すると葛飾一佐がしばし無言になる。しばらくしてから、また一佐が口を開いた。
「すまん。こちらの不手際で、きちんと受信できていなかったようだ」
「そう」
「引き続き頼む」
「うぃーす」
通信が切れる。響は指で、パソコン本体をせわしなく叩いた。
思ったより怒られなかったのはよかったが、すっきりしない。原因に心当たりがある分、余計に。
「響、通信なんだった?」
ちょうど戻ってきた猛が声をかけてきた。
「葛飾一佐。でも、もう解決」
「そうか。さっきから画面見てばっかだな、お前。なんか飲むか?」
「……ねえ、兄貴」
戻って早々オカン魂を発揮する猛に、響は聞いてみた。
「選ばれる事って、本当は厄介だよね」
響が長文を口にしたので、猛は一瞬口をすぼめた。しかし茶化すような真似はせず、ただ黙って横に腰掛ける。
「お前はその見た目だから、色々あったよな」
「うん。中でも一番厄介な奴と、ここで会うとは思わなかったけど」
響はため息をつく。昔から、自分は何故か同性にやたらつきまとわれた。
『響ちゃんは、こっちの班に入ってね』
『可愛い子はこのグループだから』
行きたくなどなかった。所詮五十歩百歩の、ブサイクに毛が生えた低脳集団のお飾りになるのが楽しいものか。
『響ちゃんのワンピースと同じのが着たいなあ』
『そのバッグ、どこの?』
『今度双子コーデしようよ』
顔も体型も全く違うのに、同じもの着てどうする気だ。そもそも自分の好みはどこへ置いてきた。
『ねえ、今度のお休みって何してるの?』
『おうちへ遊びに行ってもいい?』
『次に会えるのはいつですか? 返事、ずーっと待ってます』
うるさい、近づくな、鬱陶(うっとう)しい。お前は私じゃない、一緒になんかなれない。
その叫びを、同性との付き合いの中で何度も繰り返してきた。──今、和歌山支部の通信室にいるのは、そういう同性ストーカーの一人だった。
ある日突然「響ちゃんはそんな子じゃないと思ってた、もうさよならだね」という意味不明なポエムを残して去って行ったので、忘れようがない。それなのに再会したとき、妙に馴れ馴れしかった。
(ああ、こいつまたくっついてくるな)
響は依存の気配を感じ取って、どんより全身が重くなった。その気分のまま、今まで仕事をしていたのだ。
「そりゃ、厄介だな」
「葛飾一佐が怒ってたミスも、そいつのせい。向こうのシステム管理担当だから」
もちろん責任者は別にいるが、個々の作業を誰が担当しているかまで響は熟知している。
「話をしないわけには、いかないよな」
「同じ事を何回もされても困るし。きつく言わないと」
必要はある。わかっている。それは、十分すぎるほどに。
しかし、響は今まで自分の主張を押し通すということをほとんどしてこなかった。響の面倒くさがりは、人付き合いにおいても遺憾なく発揮されている。主張すれば、絶対にどこかがざらつくのが人間関係だ。
だったらできるだけ口をつぐんでいればいい。感情は隠せばいい。断定的なことはしないほうがいい。
そうやって、いつでもどこでも響は檻の中に閉じこもってきた。それを二十歳を超えて克服しようとすると、多大な努力を要する。
マイクを見つめたまま、響はしばらく猫背を保っていた。
「ほい」
目の前に、水滴のついたコップが置かれた。ワインに似た濃赤色の液体が入っている。
「クランベリージュース」
「ん」
反射的にコップを手にとって、一口飲む。甘みが口の中に広がると、響の気分がほぐれた。
「昔のお前なら無理でもな」
ジュースのボトルを片付けながら、猛がつぶやく。
「今のお前なら、大丈夫だろ。友達できたじゃねえか」
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