第7話
下北沢駅の北口を出て銀行の角を右に折れる。
ここを真っ直ぐ行くと下北沢ガレージがある。俺は今日もキングダムハートのライブを観に行くのだ。ここ最近は全てのライブに顔を出していた。
東京に来て早くも2ヶ月が経った。その間、俺とコンはソータの家を拠点に毎日ウロウロしていた。ある日は神田へ古本を漁りに行ったり、またある日は昔の友達に会ったり、そしてまたある日はこうして下北沢ガレージに家主のライブを観に来たりと、とにかく毎日東京中をウロウロしていたのだ。
そんな訳で大阪を出る前に用意した軍資金はみるみるうちになくなっていった。当然この2ヶ月間、二人とも働いてなどいない。
俺は一度だけ原稿に向かい書きかけだった短編小説の続きを書こうとした。だが2、3行書いたところで思考が止まってしまい、考えた末に結局少し書いた文も消してしまった。
ゴールデンウイークを過ぎた頃、一度だけユリイカと会った。仕事の関係で東京に来る用事があったらしい。あまり時間がなかったので池袋の適当な喫茶店で少しだけ話をした。
「サヨちゃんはどうしてる? 心配してなかった?」
「いや、この前会ったけど特に何も言ってなかったよ」
「あ、そう」
向こうは向こうで俺たちがいようといまいと順調に時間は進んでいるようだ。けっこうなことである。
酒もご飯も旨く、知り合う人たちも話に聞いていたよりずっと優しかった。出口のようなものは見当たらなかったがここでの暮らしはそれなりに楽しかった。
下北沢ガレージが見えてきた。今日の対バンの相手はペトロールズらしい。昔好きで京都ミューズやら梅田クラブクアトロやらによく一人で足を運んだ。CDだって何枚か持っていた。
コンの奴は来るのだろうか? そういえばここ2、3日姿を見てない。そんなことを考えていたらコンから電話が入った。
「もしもし」
「おう、今日ガレージ行く?」
「行くよ。もう着くとこだよ」
「あっ、そうなの? 俺今ガレージの前にいるよ」
「じゃ合流しよ……」と言いかけたところでコンの姿を見つけた。向こうも俺を見つけたらしく手を振っている。
「久しぶり」
「うん、ここ数日何してたの?」
「あぁ、実は彼女ができてな」
「は?」ぬけぬけと言うもんだから俺は驚いた。
「一人暮らししてる子でさ。数日間泊めてもらってたんだよ」
「あ、そう」なんだコンの奴、意外と羽を伸ばしてるじゃないか。
「彼女は今日はライブには来ないの?」
「うん、なんか仕事らしい」
「へー」
「入ろうか。今日はキングダムハートが先行らしい」
「そうか」
俺たちは売店でビールを買って中に入った。
キングダムハートのライブは回を重ねる毎に良くなっていった。それは演奏技術はもちろん、ステージでの立ち振る舞いやオーディエンスの煽り方等全てにおいて成長しているのがよく分かった。
ソータの言っていた通り彼らは「デビューの次の目標」に向かって真っ直ぐ進んでいるのだろう。
キングダムハートのライブが終わった後、俺は一旦外の空気を吸いたくて外へ出た。ガードレールにもたれてビールを飲み、ライブの余韻に浸る。
音楽はやっぱりいいな。俺は多分ずっと覚えている。彼らの歌を、ソータのギターを、うねるようなベースラインを、気持ちのいいスネアの音を。
コンのギターにしてもそうだ。スピリットのギターの音色を俺はずっと覚えている。ユリイカの歌も。あの夜のセッションも。舞い込んできた桜吹雪にしてもそうだ。俺はずっと覚えている。もしかすると覚えていると言うより忘れられないという方が正しいのかもしれない。
「覚えているというより忘れられない」というフレーズが何となく気に入りポケットのメモ帳に書き記す。何か使える時に使おう。
そんな事をしていると、横に腰掛けていた女の子が俺の顔を覗き込んでいることに気づいた。どこかで見たことのある垂れ目の女の子だ。
「もしかして……にぃな?」俺はハッとした。
「そうよ。久しぶりね」そう言ってにぃなは笑顔を見せる。相変わらず垂れ目が素敵だった。
にぃなは木屋町の風俗嬢だった。もともとは俺が気に入ってよく指名をしていたのだが、いつからかビジネスの範疇を越え個人的な間柄になっていた。
しかしそんな関係が数年続いたある日、にぃなは唐突に姿を消した。店長に聞くと少し前に辞めたとのことだった。俺は少し寂しかったがにぃなの本名も知らず探しようもなかったので特に何もしなかった。それももう何年も前のことだ。
久しぶりに会ったにぃなは以前と何も変わっていなかった。チャームポイントだったその垂れ目はもちろん、髪の色も長さも、醸し出す雰囲気も全てあの頃のままだった。
「一人なの?」
「あ、いや中に連れが一人いるよ。にぃなは?」
「私は一人よ」
「目当ては? やっぱりペトロールズ?」
「ううん、目当てはキングダムハートよ。結構好きなのよ」
「そうなんだ。なんか意外だな」
「意外? だってあんたが勧めてくれたんじゃない。忘れちゃったの?」
「えっ、そうだっけ?」俺は飲みきったビールのコップを二つに曲げた。
「最後に会った日、あんたライブのチケットをくれたじゃない」
「ああ、そう言えば。まだ大阪でインディーズでやってる頃だよね?」
「そう」
思い出してきた。確かにたまたま持っていたチケットをにぃなにあげたことがある。そしてその日がにぃなに会った最後の日だった。
「良かったね」
「えっ?」
「いや、キングダムハートのライブ。俺最近ちょくちょく観に来てるんだけど今日のが一番良かったよ」
「そうね。いいライブだった。大阪で観てた頃より今の方がずっと好きよ」
「にぃな」
「ん?」
「飲みに行こうよ。もうペトロールズはすっぽかして」
「友達はいいの?」
「あぁ……いいんだ。行こう」
その後、俺とにぃなは場所を移して安居酒屋で安い酒を飲んだ。古惚けた造りの居酒屋は何だか東京ぽくなかった。俺のイメージしている東京はもっとスマートで、これではまるで新世界で飲んでるのと変わりがない。
ビールの味はなんだか薄かった。だから俺は早々にビールを切り上げ芋焼酎をロックで飲んだ。街は少しずつ暖かくなってきていた。だから最近はお湯割りは飲まない。ついこの前桜が散ったばかりなのに早いものだ。俺が芋焼酎を飲んでいる間、にぃなはちびちびとライムのチューハイを飲んでいた。
「お酒苦手だったっけ?」
「うーん、そんなにがぶがぶは飲めないかな」
「そっか」
「結構お酒飲めるのね」
「うん、お酒は好きだよ。思えばこうやって一緒にお酒を飲むのは初めてだね」
「そうね。いつも部屋で会ってただけだったからね」とにぃなはちょっと皮肉っぽく笑う。
さて、どうしたものか。久しぶりのにぃなは変わらず魅力的だった。それに、にぃなの本当の魅力は服を脱いでからだということも俺は重々承知していた。俺はにぃなと数え切れないくらい交わってきたのだ。
でも不思議だった。久しぶりのにぃなはこんなに魅力的なのに女性としてどうこうしようという考えが全く浮かばないのだ。
俺はなぜだか分からないが少しだけ泣きそうだった。多分涙は出ないだろうが泣きそうだった。冷たいコップを手に握ったまま無意識に向かいのにぃなを見つめていた。
「なーによ」
「ん? いや、何でもない」
「何よそれ」にぃなが笑う。
「何と言うか……また会えて良かったなって思って」
「私もよ」
その日俺はにぃなの部屋に泊まった。そしてその次の日も、またその次の日も俺はにぃなの部屋にいた。
こうして俺たちは一緒に暮らすようになった。
にぃなとの生活は不思議なものだった。
まず第一に俺達は男女の関係をまったくもたなかったのだ。どちらかが拒んだ訳ではない。お互いに一度もそういう話をしなかったのだ。数年前は身体の関係しかなかったのに俺自身も全くそのような気持ちにならなかった。
そしてお互いにプライベートな部分には足を踏み入れなかった。京都にいたにぃながなぜ東京に一人でいるのか、突然姿を消した理由は何なのか、今は何の仕事をしているのか(同居中、にぃなは毎日仕事に出ていた)聞きたいことはいくつもあったがなぜか聞き出せなかった。そしてにぃなも俺に何も聞いてこなかった。
それはいつ消えてもおかしくない儚い生活だった。ある日起きると隣で寝ていたはずのにぃながいなかった。俺は朝が早い。何をするわけでもないのだが早くに目が覚めてしまうのだ。にぃなの家に来てから俺が後に目を覚ますことなんて一度もなかった。
慌ててベッドを出てリビングに行くとにぃなは下着の上にTシャツを被っただけの姿でコーヒーを淹れていた。
「あっ、ごめん起こした?」
「いや……」
「何よそんな驚いて。私だってたまには早起きすることもあるわよ」
「何となくにぃなが消えてしまったんじゃないかと思ったんだ」
「まさか。ここ私の家よ。あんたが急に消えるなら分かるけど私はそんな簡単に消えないわ」そう言ってにぃなは笑った。
「にぃな」
「ん?」
俺はにぃなを抱きしめた。無我夢中だった。
「どうしたの?」
「怖いんだ。何か一つ一つ消えていってしまうんじゃないかと思って」
「コーヒー、溢れちゃう」
「あぁ、ごめん」
にぃなは両手に持っていたコーヒーカップを机に置き、改めて俺の身体を抱きしめた。
「あんたの気持ちは痛いくらい分かるわ。私だってそうよ。消えたくないし消えてほしくない。
でもいつか私はあんたの中から消える。そして同じように私の中からあんたも消える。悲しいことだけどね」
「分かってるよ。でもそんなこと考えてしまったら一緒にいられなくなるだろ」
「そんなことないわよ。一緒にいて楽しい。それはとても幸せなことよ。
でもその代わりに大切なものを手放してしまっては駄目だと思うの」
「結局選ぶということなんだね」
「そうよ。大切なものを選ぶ。そして決してそれを離してはいけない」
「にぃな、大人になったな」
「いろいろあったからね」
部屋の中には小さくノラジョーンズの歌が流れていた。優しい曲だった。
後日この曲の歌詞が知りたくて部屋のラックに並べられたCDから歌詞カードを取り出して開くと、中から一枚の写真が落ちた。
まだ小さな男の子とお父さんとお母さん、幸せそうな三人家族の写真だった。俺はそれをもう一度歌詞カードに挟んでラックに戻した。
全てにぃなの言う通りだった。もうそろそろ俺も自分にとって大切なものを選んで一つずつ先に進んで行かなければならない。俺にとって大切なもの、その答えはもうずっと前から出ていた。
誰もいないにぃなの部屋で俺は毎日原稿に向かった。毎日毎日必要最低限の時間以外の全てを書くことに費やした。
不思議なことに文章やストーリーは次々と生まれた。東京に来てすぐの頃はほんの一行も書けなかったのに。
もう迷いはなかった。ここ数ヶ月、自分では気づけなかったが俺はたくさんの人にたくさんの言葉をもらった。今度は俺がそれを書く番だ。
手法はもちろんいつもの手法だ。本当に言いたい事ははっきりと言わない。その周りを言葉でマークして大事な部分をぼんやりと描く。それしかなかった。
でもそれはそれしかないからと破れかぶれになっているのではなく、どうやってそういう手法を世間に受け入れさせるかということを意識した表現だった。厳密に言うといつもと全く同じというわけではない。だけど精神的にはかなり良い状態だった。
俺はそれから1月で長編を一つ、短編を二つ書いた。久しぶりに手ごたえのあるものが書けた。
それ以降も俺の創作意欲は消えず、また新しい長編を書き始めた。
「もう今日はそれくらいにしておいたら?」
にぃなにそう言われて初めてもう午前1時を回っていることに気づいた。
「もうこんな時間か」
「一言も話さず4時間は書きっぱなしだったわよ」
「うーん、もう少し区切りまで書こうかな」
「書きたい気持ちも分かるけど、あんまり無理すると身体に毒よ」
「それもそうだ。今日はもう寝るか」
俺は洗面所に行って歯を磨いた。鏡に映った自分は少し痩せたみたいだった。それもそのはず、また小説を書き出してから一滴も酒を飲んでいない。
「あっ!」リビングから急ににぃなの声が聞こえた。
「何? 大きな声出してどうしたの?」
「ゴメンゴメン、コンタクトの洗浄液が無くなってて。しまったなぁ」
「なんだそんなことか。ひとっ走り買いに行ってくるよ」
「えー、悪いよ」
「転がり込んでる身だからね。それくらいは行くよ」
「ありがとう。じゃお願いするわ」
外に出ると夏の夜風が気持ち良かった。その気持ち良さは気候的な要素だけではないことは分かっていた。「良いものが書けている」という実感が身体の中にある。表現者としてこれ以上の至福はなかった。
コンビニの明かりが見える。俺は言われた通りのコンタクトの洗浄液とにぃなの好きな果物のジュースを買って店を出た。
すると、店の前に入る時にはなかったクラシックなオープンカーが停まっている事に気づいた。驚いた、この辺りではなかなか見ないオシャレな車だ。しかしその車に乗っていた男を見た時、俺は更に驚いた。
男は俺に気づきゆっくりと車を降りた。
「よう」
「うん」
「また久しぶりだな」
「うん」
「元気してたか?」
「あぁ」
「それは何よりだ」
月明かりに照らされてコンはにかっと笑った。
「どうしたの? この車」
「ん? まぁ、いろいろあったんだよ」
「らしいね」
「そっちはどうだ?」
「うん、また書き始めたよ」
「そうか! それは良かった!」
コンは少し驚き、そして嬉しそうだった。
「うん、やっといろいろなものがクリアになってきた気がするよ」
「良かった……」
何となくそこで会話が途切れた。お互いに次の一言を探っているような沈黙だった。
「……コン、今お前が言いたいことはだいたい分かるよ」
「あぁ」
「帰ろう」
「うん、そうしようか」
コンビニから帰るとにぃなはソファに座って待っていた。
「遅くなってゴメン」俺はコンビニのビニール袋をにぃなに渡した。
「ありがとう。あっ、ジュースも買ってきてくれたんだ」
「うん、これ好きだろ?」
「うん、好き。ありがとうね」
「にぃな」
「ん? どうしたの?」
「にぃなには本当に感謝してる。にぃなのお陰でぼんやりだけど答えみたいなものが見つかった気がするよ」
俺がそう言うとにぃなは少しだけ笑って言った。
「ううん、私の方こそ感謝してる。あんたともう一度会えて本当に良かったわ。あんたといると自分の肩に乗っていたもの達が少し軽くなった気がした。もう二度と消せないと思っていたことすらね」
俺はノラジョーンズの歌詞カードに挟まっていた家族写真を思い出した。だがもちろん何も言わなかった。
「帰ることにしたのね」
「うん、そろそろ行くよ」
「また会える?」
「きっと会えるよ。たとえ全部が消えてしまったとしてもきっと何処かでまた巡り会う」
「しばらくはその日の事を考えて夜を過ごすわ」にぃなが少し皮肉っぽい言い方をして溜息をついた。
「突然ですまない」
「いいのよ。あんたの突然には慣れっこなんだから。昔からいつもそう。ふらっと現れてはふらっと消える」
「勝手でゴメンな」
「いいの、いいの。私達の関係はそれくらいがちょうどいいわ。イメージは濹東綺譚なんでしょ?」
「よく覚えてるなそんなこと」
「小説楽しみにしてるわ」
「うん、ありがとう」
コンはオープンカーの運転席で煙草を吸っていたが、俺の姿を見つけると車の灰皿に煙草を押し付けてシートベルトを締めた。
「終わった?」
「うん、一応ね」俺は助手席に乗り込んだ。
「じゃあ行こうか」
「うん」
オープンカーはそのクラシックな風貌通りゆったりとしたスピードで走り出した。もう夜中なこともあり道は空いていた。早々に高速道路に乗り東京を後にする。思っていたより早くオープンカーは雑踏を抜けた。
「不思議な数ヶ月だったね」来た時と同じで俺はほとんど何も持っていなかった。
「うん。でも楽しかったな」コンは行先から目を外さず言った。
「サヨのことだけど」
「サヨちゃん?」
「ずっと離婚しそうだったんだ。お前が来る直前が一番酷かった」
「嘘だろ? あんなに仲良いのに?」
「サヨは子供ができない身体なんだ。なかなか子供ができないから病院で調べてもらったらそう言われた。
最初は受け入れようとしてた。でも二人とも本当に子供が欲しかったから。辛かったんだ。
どんな瞬間にもそのことは頭から消えなかった。幸せで笑ってる時も、酒飲んでバカ話してる時も。だからお互い辛く当たってしまった」
「そうだったのか。だから俺を家に受け入れてくれたの?」
「うん、それもあるかもな。あの頃、二人きりでいるのは相当辛かった。
お前が来てからも揉めることは何度かあったよ。不意に二人になると駄目なんだ。深夜にあいつが飛び出していったこともあったよ」
そう言われて俺はサヨちゃんが深夜にベスパに乗ってどこかへ行った日の事を思い出した。コンは更に続ける。
「東京でできた彼女に結婚しようって言われたんだ」
「本当かよ」俺は驚いた。
「うん、正直かなり迷ったよ。彼女の親にも会った。彼女の親、会社の社長かなんかでもの凄い金持ちなんだよ。初めて会った日にこの車をくれた。そんなこと普通あり得るか?」
「すごいね」
「この人について行けば一生安泰だと思ったよ」コンは苦笑いを浮かべた。
「でも止めたんだね?」
「うん、止めた」
コンが煙草を吸いたそうだったのでくわえさせて火をつけてやった。煙を吐き出して話を続ける。
「でも本当に迷ってたんだ。この先サヨと一緒にいても子供はできないし、関係はギスギスする一方だ。そんなのお互いに辛いし、東京の彼女と結婚して全部やり直した方が楽だと思った。
だけどその選択を目の前にした時、俺はどうしてもサヨを捨てられなかったんだ。それはもう理屈じゃなかったよ。何故? とかどうして? とかそんな簡単な質問に回答できるような話じゃない。
多分俺は自分で気づいていなかっただけでサヨの事、本当に大事に思ってたんだよ。どんなに喧嘩しても関係が悪くなってもそれは変わらなかった」
「うん」
「だから全部断ったよ。彼女にも彼女の親にも。殴られる覚悟だったけど殴られなかった。それどころかこの車はやるって言って今後の事、応援されたよ。
まったく俺がいつまでもウジウジしてるからたくさんの人に迷惑かけちまった」
「俺も同じだよ」俺は笑った。
「あっちに帰ったらサヨと一からやり直す。結局それしかなかったんだ」
「うん、それがいいよ」
「そっちはどうなんだよ? あの子、もう良かったのか?」
「いいんだ。お互い納得のうえの結論だよ。でもあいつには本当に感謝してる」
「これからどうするんだ?」
「小説を書くよ。やっぱり俺にはそれしかない。営業の仕事を辞めて本気で文章と向き合ってみる。
それで家にも帰るよ。1年以上こんな状態で許してくれるかは分からない。だけど家族にちゃんと謝ってみる。
時間はかかったけど自分にとって本当に大事なものは何なのか分かった。だから今度は真剣にそれと向き合ってみるよ」
「うん、そうか。あぁ、なんだか二人ともすっきりしたな。
俺さ東京での生活の中で何回かもう元の暮らしには帰れないかもしれないなって考えたよ」
「大事なものがなかったら或いは二人ともそうなってたかもね」
「これで良かったんだよな?」
「うん、これで良かったんだよ。俺達は帰るんだ」
オープンカーは高速を快調に行く。一瞬遠くの空を龍みたいな生物が横切った気がしたが、ただの流れ星だったかもしれない。空はいたって透明だ。
俺はオープンカーの助手席で腕を頭の後ろに回しそっと目を閉じた。風に揺れて煙草の匂いがかすかにする。
高速道路の向こう、帰るべき場所が待っている。夜明けはもう近い。
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